2016年12月29日木曜日

上流階級の忘年会

 
(日比谷公園の向かいに聳える、「帝国ホテル」)
 
 12月8日、会社の後輩OB、Nさんからメールが入った。
「28日、3人の忘年会の件ですが、会場、帝国ホテル、東京三田倶楽部を予約しました。慶応の後輩(日銀・OB)の紹介です。」

 3人とは、幹事のNさん、慶応OB。TDK現役時代、ファイナンスを含む経理を担当。本社、海外子会社の金庫番として会社の発展期を支えた。沈着、冷静、温厚、趣味は音楽(クラシック&ジャズ)オーディオ。熱海の別荘には4千枚、LPレコード収容の棚あり。本宅、別荘にはJBL、オルトフォン等の名機が鎮座する。ピアノ演奏もプロ並み。
 もう一人はKさん。やはり慶応OB。米国シラキュース大学院。MBA取得。TDK時代、TDKアメリカを立ち上げ、社長に就任。TDK退社後はカナダで住宅会社等を設立し、社長に就任。現在ジャーナリストとして活躍。並外れた情報量と国際感覚。常にアクティブ。趣味は音楽(クラシック)鑑賞。軽井沢に別荘所有。今年、喜寿。
 残りの一人は小生。

 28日の忘年会は帝国ホテルのプライベートルームで11:30~3時間にわたって行なわれた。近況からはじまり、音楽・オーディオの話へと移り、世界の政治・経済情勢と展開。充実した一時となった。Nさん、Kさん「こんどはうちの別荘で・・・」と誘いあう。
 
 家内の独り言「高校しかでてない貴方が、そんな上流階級の方たちとお付き合いできるんだから。幸せね」

 ところで、今年は高齢化現象が顕著に表れた。11月、千葉で行われたゴルフコンペに出かけたが、感ナビが狂い、大幅遅刻。先週末(24日)、布団の上でバランスを崩し、家具に背中を強打。まだ痛みが取れない。強打した当日、高齢者運転講習。なんとか合格。


2016年12月26日月曜日

電通「鬼十則」に共感


昨年12月、電通の新入社員、高橋まつりさんが過労自殺し、厚生労働省が強制捜査を行うなど、社会問題となっている。
 長時間労働の実態を隠ぺいするような事があったら、労基法違反であり、天下の電通らしくないし、厳しく糾弾されて当然である。
 
 この電通の過酷な労働条件の元凶が広告の鬼と呼ばれた4代目社長故吉田社長の遺訓である「鬼十則」にあるという。この「鬼十則」を読んで、私は共感する部分が多かった。その「鬼十則」とは次のようなものである。
①仕事は自ら「創る」べきで与えられるものではない②仕事とは先手で「働き掛け」ていくもので、受け身でやるものではない③「大きな仕事」と取り組め、小さな仕事はおのれを小さくする④「難しい仕事」を狙え、それをなしとげるところに進歩がある⑤取り組んだら「放すな」、殺されても放すな⑥周囲を引きずりまわせ⑦「計画」を持て⑧「自信」を持て⑨頭は常に「全回転」⑩摩擦を恐れるな
 
 マスコミは⑤の殺されても放すなの部分を強調して、記事にしているが、全体を見ると、立派な処世術である。これに沿った活躍をしてるのが誰あろう、東京都の小池知事ではないか。小池知事は今年、日本中を引きずりまわした。鬼の十則の⑥そのものだ。
 小池知事を追いまわし、電通を糾弾する報道陣は多分、過酷な取材活動をしてるに違いない。
 スポーツ選手や芸術家、自営業はどうだろう。彼等だって、命がけで目標達成のために精進している。彼らは健康管理は他人のせいにしない。自己責任だと考えている方がほとんとだと思う。

 「働き方改革」は必要な部分があるかもしれない。しかし、社会全体の活力を奪うような改革はご免だ。
 小生、74才。年金生活。「ピンピンコロリが目標」。「鬼の十則」をお手本に積極的に生きたい。図書館に居眠りをしにいくような高齢者にはなりたくない。命が大事というが、その為に一番大事なのはゆとりよりも「目指す目標」があることではないか。夢や目標がある方が人間生き生きと輝く。


2016年12月18日日曜日

忘年会、途中退席

(写真は母校自慢の見本林)

 今日、池袋で母校(秋田県立鷹巣農林高校、今は合併して秋田県立北鷹高校)OB忘年会があった。忘年会の案内に「東京伊勢堂会大忘年会」とある。伊勢堂は高校に隣接する壮大な森の名称である。
この森から16,000名以上の生徒が巣立って行った。

”大”忘年会とあるところから、幹事の意気込みが感じられる。場所は池袋の「コート・ダジュール」、会費は5,500円。昼の時間なので、それなりの料理もでてくると想定した。
 ところが、店に入って驚いた。どうみてもカラオケ店である。コの字に配置された座席の正面にTVモニターが鎮座している。幹事から「3時間飲み放題です」との説明・・・。

待って下さい。
私の一番の目的は「参加者の近況や学校時代の想い出話をうかがう」事であり、カラオケはその次にして欲しい・・・。しかし、乾杯の音頭から30分もしないのに、「好きな曲を入れて下さい」ときた。私はこれでは、近況や思い出話はないなと思った。これから3時間近く、カラオケにつき合わされたらたまったものではない。勝手だと思ったが退席して帰路についた。

その後、反省。愛校、奉仕精神に燃えた後輩が幹事をやっている忘年会を途中退席するなど、なんと非礼なのだろう。思えば、高校時代、私は傍流だった。専攻である林業の勉強はせず、文芸・音楽の部活動に熱をあげていた。今日に至っても、本流の方達が行っている忘年会の席を中退してしまった。残りの人生も好きな文芸・音楽中心に生きている。

今年の忘年会の〆は28日、「帝国ホテル」。幹事は音楽好きの慶応OBである。

2016年12月11日日曜日

アナログかデジタルか?音はどっちがいいの?

新先生(後列、右から3番目)とゲヴァントハウスのメンバー
 
 10月以降、カセットテープに関連したイベントがあった事もあり、音について、どう説明していいか迷っていた。周波数特性、ダイナミックレンジともカセットテープに比較してCD等のデジタルの特性は優れている。なのに「カセットの音は暖かい」「カセットの音の方が聴きやすい」という声が聞こえる。

 昨日(10日)、オーディオ界の第1人者である新忠篤先生(宮内庁の依頼で昭和天皇の玉音放送の原盤を再生)の講演があった。(私も理事を務めるNPO法人・龍ヶ崎ゲヴァントハウス主催)
 講演のテーマは「蘇る往年の名演奏」。なんと1920年代~1950年代に録音されたSPレコードを復刻したコンサートである。ノイズはあったが、SPの音は中低音が充実していて実にリアルである。音場感も十分。
 先生に質問した。「先生、これモノ―ラルですよね。先生はモノ―ラルとステレオをどう考えておられますか」。先生は待ってましたとばかり、こう答えられた。「ステレオは平面的に音が広がりますが、モノ―ラルの方が音に奥行きがあります」。単純にモノ―ラルよりステレオの方が音が良いと思っていた私には意外だった。
 先生の話によると、SPにはとてつもない情報量が記録されているのだという。(30センチ盤で片面4分しか記録されてないという状況を考えれば想像がつく。それだけ、ゆとりを持った記録がされているのだろう)蓄音機では再生できなかったが、デジタル技術により、再生できるようになったのだという。
 アナログとデジタルのどちらが音が良いかでなはい。両方の機器を使いこなして本物の音を録音、再生できるかである。結局、それに携わる人間の知恵と感性が音を決める。

 カセットはメタルポジションを使用しても1万5千ヘルツ以上の超高音域の音の録音は難しい。「カセットの音が聴きやすい」理由は超高音域特性が減衰しているために、逆に人間の声とか、音楽にとって一番重要な中低音が充実したバランスになる為ではないかと推察する。
 

2016年12月9日金曜日

カセットテープのレガシー、「MA-R」&「黒のAD」

  <大ヒットした「黒のAD」と、最高峰「MA-R」>

カセットテープは私の人生に光を当てた。今でも、それは続いている。
TDKで、33才の時にカセットテープの商品企画担当となった。その年、企画した「黒のAD」(ミュージック・リファレンス AD)がいきなり大ヒット!「社長表彰」に輝く。
37才の時にはハーフにダイキャストフレームを使用したメタルテープ、「MA-R」を企画。C-60、¥1,750という高価格にも拘わらず、月1万本も売れた。

私が商品企画に当たって、最も重視したのは音質だった。
これに磁性材料開発チーム、ハーフ等の機構設計チーム、デザインチームは見事に応えてくれた。「MA-R」の開発の時は採算を度外視して最高のものを作ろうと燃えた。「MA-R」は手に持つとズシリと重い。それによって、テープがスムースに走行し、変調ノイズが減少した。ハーフはデッキの一部、カセットメカニズムというポリシーが最高の形で実現した。

70才を過ぎた今、隠れたカセットテープブームだという。
「黒のAD」「MA-R」はカセットテープのレガシーと呼ばれている。
生みの親という事で、昨年から情報誌、オーディオ専門誌の取材を受けた。11月には「TDK歴史みらい館」で行われた「カセット発売50年イベント」にも呼んでいただいた。
カセットテープに育てられた私は、定年から15年経った今でもカセットテープの恩恵を受けている。
カセットテープ、ありがとう。

<商品開発メンバー>ポリシー&音質評価・畠山俊三/デザイン・浜崎宏/ネーミング・内野森一/テープ設計・畔上仁/ハーフ設計・芝晴男/特性評価・船越正次

2016年12月1日木曜日

農業政策への怒り・・・未来はあるのか!

 
「TDK歴史みらい館」で私を迎えてくれたロボットのペッパー君と受付の金子さん。
 
 秋田にある「TDK歴史みらい館」で行われた”カセットテープ発売50周年イベント”を終えて帰宅。29日と30日の読売新聞を見て、実家が秋田の農家である私は愕然とした。
 「経済の現場2016」”農業の再生”という記事である。
60ヘクタール近い農業法人の2015の決算書を見ると、主力のコメの売上高は約2、800万、農協から買っている肥料や農薬、農機具の原価償却費、従業員の賃金等は4,500万。経営は国からもらう約2,100万の補助金がないと成り立たないという。さらに驚いたの農水省が行ったコメ生産における日韓比較。10アール当たり生産費は韓国が7万円代なのに、日本は14万円代とある。倍のコストである。そんな窮状なのに全農改革の期限は見送られた。
 民間企業で育った私はこの記事を見て怒りさえ感じた。
 民間企業の場合、期限のつかない改革目標では従業員のやる気が損なわれる。目標は達成されない。農業がここまで窮地にいたったのは、全農の責任であり、補助金をいつまでも続ける政府の責任ではないか・・・。現場で働く実家の為にもシッカリやって欲しい。
 
 TDKはカセットテープをやっていた1980年頃、全社の売上は4,000億、その半分をテープ事業が占めていた。しかし、テープ事業は衰退し、無くなってしまった。現在、そのテープ事業が無くなっても、売上げ1兆円を超える大企業に成長した。民間企業は国の支援などない。自分で長期戦略を考え、みらい図を描き期限を決めて挑戦しなくてはならない。
 
 「TDK歴史みらい館」はロボットのペッパー君が私を迎えてくれた。
 このロボットは同館長、嵯峨さんのこの館、およびTDKの将来に対する”思い”だという。

2016年11月28日月曜日

カセット発売50周年イベント

(27日、秋田魁新報朝刊。一面右下と22面に掲載された)

26日(土)、27日(日)の2日間、秋田県にかほ市にある「TDK歴史みらい館」で、”カセットテープ誕生50周年記念企画「カセットって何だ?」”というイベントがあり、講師として参加した。
このイベントを企画したのはTDK・広報部長の小暮和利さん。小暮さんがTDKに入社したのは1980年代前半、この頃、私はカセットテープの商品企画責任者だった。
 小暮さんの企画を見て驚いた。2日間で同じイベントを5回行う。イベントの時間は45分。そのプログラムを見ると「カセットテープとは」「カセットの音を聴いてみよう」「開発者の秘話」「70~80年代オーディオ体験」「これからのアナログ、デジタル音楽の楽しみ方」と盛沢山。大丈夫かな・・・。
「先輩は私が聞いた事に答えて下さい。それだけで結構です」と小暮さん。大船に乗ったつもりで秋田に出かけた。会場に着くと、オーディオセットが2組、カセットテープとLPレコードがズラリと並んでいる。よくぞ、ここまで準備したものだ。
一番心配だったのは「お客様にいらしていただけるか」である。座席数は30席。ありがたい事に27日の2回はほぼ満席。28日は3回とも満席。
私は1979年、開発したダイキャストフレームハーフ搭載メタルカセット「MA-R」の開発秘話で締めくくった。「MA-R」はカセットファンの間で”カセットテープの最高峰”と語り継がれている。「MA‐Rは一巻¥1,750でしたが、月1万巻売れました」というと、会場から「ホーッ」という溜息が漏れた。
 小暮さんが最後を締めくくった。「秋田にかほ市に誕生したTDKは、カセットのお陰で世界ブランドになりました。地元の皆さま、これからもTDKをよろしくお願いします」
 マスコミの方々には感謝したい。26日、地元秋田魁新報が見えられた。27日の新聞にイベントの模様が大きく掲載された。記事の内容は見事。27日は、なんと、テレビ局が2社と毎日新聞さん。ありがとうございます。

2016年11月21日月曜日

湯田中、善光寺、真田丸、旅行

<私が尊敬する刈谷ベテランズクラブ酒井会長(右)信州・上田城にて>

今年の秋は紅葉の旅を満喫した。
10月20日は会社の先輩と秋田に旅した。田沢湖の乙女の像に魅せられた。近くの乳頭温泉郷に一泊。取柄といえば静寂と豊かな自然。秋田駒ヶ岳の麓は紅葉、山頂は雪の冠。
11月9日~10日は家内と那須塩原温泉へ。「もみじ谷大吊橋」周辺は紅葉真っ盛り。ホテルは秋田とは対照的なワンダーランド。200名が一緒に食事するヴァイキングは凄かった。

11月15~16日はわが町、牛久市刈谷地区ベテランズ(老人)クラブの一泊研修旅行。
(10月3日の日帰り鮎旅行に続いてのベテランズ旅行である。その時、私は美酒に酔い、記憶喪失になってしまった。バスで転んだらしい。帰り弁当を買って忘れたらしい・・・)
 午前8時、参加者25名を乗せ、バス出発。10月3日と同様、右は酒井俊子さん、左は民生委員の芝田さん。高速に乗ると、芝田さんがキンキンに冷えた菊正宗をすすめる。酒井さんは手作りのつまみ・・・。これこそ、刈谷ベテランズバス旅行の醍醐味。後はどうでもいい・・・。
イヤイヤ、研修旅行の中身も良かった。信州上田城見学。長野市を通過して、妙高高原の麓にある湯田中温泉へ。熱い源泉に浸り、温泉気分を満喫。翌朝、長野電鉄の終着駅、「ゆだなか」駅周辺を散策。長野に来て驚いたのは交通信号等の地名表示に英語が並記されている事。海外の旅行客に配慮してるのだろう。わが茨城県は・・・。
 2日目は善光寺詣り。309年前に再建された国宝・善光寺本堂の威容に圧倒される。抹香の煙りで頭を撫でる・・・。もう遅い。
 天気にも恵まれ、紅葉に巡り会い、今年を締めくくる最高の旅となった。
 16日、午後4時30分、バスは無事牛久に帰着。小生も今回は記憶がシッカリしていた。

 今回の旅で、刈谷地区住民の親睦も深みを増した。「世界の平和も、まず足元からである。」

2016年11月13日日曜日

那須塩原、ワンダーランドの旅

(ホテルの部屋から見た温泉街)

9日~10日、那須塩原に旅をした。久しぶりに家内と一緒である。
天気は幸いにして晴れ。9時、自宅(牛久)出発。牛久から那須方面は東北道と常磐道の中央を北上する。つまり一般道を走る。下妻等の「道の駅」で地産の名産品などを眺め、「もみじ谷大吊橋」「千本松牧場」を見学して午後3時、「ホテル ニュー塩原」に到着した。

フロントでチェックインして驚いたのは食事時間である。
「第一部のバイキングは満席になりましたので、お客様は第二部、7時からのバイキングになります」。今まで旅行をして夕食が7時からなんて聞いたことがない。だんだん分かってくるのだが、このホテル、巨大ホテルなのである。鬼怒川を挟んで、本館、別館、西館と3つのビルからなる。部屋数200。400名以上が宿泊していると予想される。夕食が遅いといっても、温泉の種類は豊富、カラオケ、卓球、ゲーム、ボーリング場と時間潰しは容易である。
午後7時、いよいよ食事、レストランは体育館のように広い、100名くらいの客が既に席についている。これらの客を捌くのに若者達がテキパキと働く。調理人たちの手さばきも見事である。料理を味わうというより、この大ホテルの経営手法に感心した。
 帰りは、日塩(日光塩原)もみじラインを通リ、東武ワールドスクウェアで世界の名所を鑑賞。帰路についた。

先月行った、秋田、田沢湖、乳頭温泉郷は「自然と静寂に包まれた」ところだったが、那須塩原は「温泉ワンダーランド」だった。地方と首都圏の違い、そのものを象徴していた。
明後日(15日~16日)は町内のベテランズ(老人会)のバス旅行で信州にでかける。湯田中温泉に泊まる。どんなところだろう。飲みすぎて、同行の方達や家内に心配をかけないよう自重します。

2016年11月7日月曜日

下野・東京シティフィル、ありがとう

 
昨日、東京・初台にある東京オペラシティコンサートホールに出かけた。
東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団、第301回定期演奏会である。
維持会員Aさんからチケットを2枚いただいた。山北(神奈川県)に住んでいる弟を誘った。
ナマのコンサートは久しぶり、期待に胸膨らんだ。
曲目はベルリオーズの幻想交響曲。オーケストラの実力がリアルにでる難曲である。
東京シティフィルは1975年の設立、NHK交響楽団(1925)、読売日本交響楽団(1962)等と比較すると歴史は浅い、この新星ともいえるオケの実力は・・・。興味深々である。
 席は2階一列、指揮者と第1ヴァイオリン群が眼下に見える。相撲でいうマス席である。

 結果、舞台上で演奏された「悪夢に苦しむ男・幻想交響曲」に完全に打ちのめされた。
指揮者、下野竜也の指揮が凄かった。第1楽章「夢と情熱」、指揮棒を降ろす前に下野が深く息を吸い込む、その音が聞こえた。第2楽章「舞踏会」。第3楽章「野の風景」、ここでの木管楽器群は美しかった。第4楽章「断頭台への行進」、第5楽章「サバトの夜の夢」、下野は悪魔に取りつかれたように指揮台で狂乱。これにオケが呼応。大ホールに大音響が響きわたる。
 聴衆の熱狂した拍手に下野はオケの各パートを立たせる。最後に下野はベルリオーズの楽譜を指揮棒で指し示す。ベルリオーズありがとう!

 感動の余韻に包まれたまま、弟と新宿西口「思い出横丁へ」。広島の獺祭(だっさい)で祝杯を挙げる。
下野竜也、東京シティ・フィルありがとう。維持会員のAさん、ありがとう。
(胃のポリープを切除した弟も元気で良かった・・・)
 

2016年11月3日木曜日

カセットテープブームは本物か

(オーディオ誌に掲載されたカセットテープ)

先週、TBSテレビでカセットテープブームの再燃についての放送があった。

カセットテープは1962年、オランダのフィリップスが開発した。
日本での発売は1966年である。今年がちょうど50年目である。

私はTDKでカセットテープの商品企画に長年携わってきた。
しかし、カセットテープ、デッキは処分してしまった。
今、音楽の録音はCD-Rである。

と、いうか、最近は音楽そのものを聴かなくなった。
家にいるときは、パソコンに向かう時間が圧倒的に多い。

音楽を聴かなくなったのは、ヒョットしたらデジタルになったからかもしれない。
もし、カセットが今後も生き残るとしたら、カセットがアナログだからかもしれない。
アナログの音は暖かい。

確かにカセットはCDに比較して音の帯域が狭い。
ただ、音楽の感動を伝える力はあるのかもしれない。

オーディオでも音楽でも「感心」させられるものと「感動」させられるものの2つがある。
デジタルは「感心」する方であり、「アナログ」は感動する方という分類もできる。

昨年、今年と、「オーディオ誌」がカセットテープの企画をした。
会社の依頼で、小生がその取材に対応した。

2016年10月25日火曜日

秋田の旅(下)象潟と田沢湖

(日本海に沈む太陽。夕陽の右側に飛島が見える)
 
 「TDK歴史みらい館」の見学が終わったら、3時過ぎだった。
私は淡路島ご出身の上田さんを象潟に案内した。
 今から320年以上前、松尾芭蕉は松島に次いで、象潟を旅している。この頃、象潟は潟であり、九十九島が浮かんでいた。芭蕉は「おくの細道」に『松島は笑うが如く、象潟は憾(うら)むが如し』と記している。その百年後、地震で隆起して潟はなくなったが、田圃に島が点在し、昔の面影を偲ぶことができる。
 道の駅「ねむの丘」6階展望室に昇る。東側に鳥海山を背景に九十九島が広がる。西側を見ると日本海、ちょうど日本海に夕陽が沈むところである。私は急いで展望室をでて、海辺でシャッターを切った。

 翌日、田沢湖に車を走らせた。車は15年乗り続けている、三菱の「エアトレック」(走行距離10万キロ)。今回の旅に合わせてタイヤを交換した。快調である。
 田沢湖は水深423メートル、日本一の深さである。湖畔に昭和43年、高村光太郎の弟子、舟越保武作による「たつこ像」が建つ。金色の像で実に美しい。たつこは田沢湖の水を飲んで龍になったという。観光バスから中国人のご婦人達が降りてきて賑やかである。
 秋田駒ヶ岳を望む高原のホテルに泊まる。夜の静寂は格別である。音といえば「シーン」という音・・・。朝起きると、駒ヶ岳山頂が雪で白い。麓の紅葉と見事なコントラストを描いていた。

 上田さんと過ごした2泊3日の旅行だった。上田さんは慶応ボーイで国際ビジネスマン。年は小生より2歳年上。知識の豊富なのに驚く。2人の共通の話題は音楽だった。

2016年10月24日月曜日

秋田の旅(中)80年の歴史と未来「TDK歴史みらい館」

 
 (写真、右上から、みらい館入口、ゲストハウス入口、ハウスでご馳走になった昼食)

 TDKは1935年、日本で発明された磁性材料「フェライト」を工業化する為に誕生した。創業したのは秋田県にかほ市出身の斎藤憲三氏。そのTDKは今年創業80周年を迎える。売上1兆円。従業員9万名(全世界)の大企業に成長した。
 創立70周年を記念して創設された「TDK歴史館」が80周年を迎える今年、TDK Museum「TDK歴史みらい館」として10月7日、リニューアルオープンした。この館をオープンするに当たっては、TDK秋田ОB、千崎さん、本社・広報部長、小暮さんの並々ならぬ努力があった。
 資料の収集等については、磁気テープ事業部ОBの私、海外資料の収集については元・TDKアメリカの社長、上田さんが協力した。そんなご縁もあって、今回、小生と上田さんは秋田の旅を行った。秋田県南、日本海岸の国道7号線を走って驚くのは、にかほ市、由利本荘市に展開するTDKの工場群である。その数9拠点。従業員数5,000名。
 「TDK歴史みらい館」(入場無料・月曜日休館)では、TDKの80年の歴史と未来を体感できる。TDKの名前を全世界に広げた、カセットテープの全商品も展示されている。「フェライト」から端を発した磁性材料関連商品が、テレビ、ラジオ、パソコン、自動車等にどう役立ち、今後、どう貢献していくかも体感できる。一度では見切れない。
 「TDK歴史みらい館」のある場所はTDK創業の頃からある平沢工場の跡地である。私は高校を卒業して1960年(昭和35年)TDKに入社した。配属されたのは平沢工場の総務課だった。1961年秋田国体が開催された。その時三笠宮妃殿下が来工された。当時の山﨑社長、小松工場長と並んで、妃殿下と共に、私も記念写真に収まった。
 本荘の実家から平沢のTDKに羽越線で通勤した。鳥海山の北側にある日住山から昇る朝日、日本海に沈む真っ赤な夕日。そんな朝日と夕日を見ながら3年間、TDKに通勤した。
 

秋田の旅(上)月産40億個、本荘産、積層チップコンデンサ

 
TDK-МCC・本荘工場と積層チップコンデンサ(右上)

 10月19日~20日、秋田を訪れた。
由利本荘市にある巨大な工場(TDK-MCC・本荘工場)からレポートしよう。この工場、私の生まれた鮎瀬部落の隣にある。実家で農業をやっている兄が「TDK、随分大きな工場作ったな」と感嘆の声をあげていた。TDKのご厚意で見学することができた。
 敷地面積7万5千坪(東京ドーム2棟分)、工場面積1万7千坪、工場の大きさは幅110m、長さ352m、従業員1,400名。工場の中に入ると、廊下の長い事、ながいこと、向こうから歩いてくる社員が豆粒のよう。元気な時で良かった。
 この工場で作っているのは積層チップコンデンサ。コンデンサは電圧を安定させ、ノイズを取り除き、電気信号を取り出す電子機器に不可欠な電子部品、スマホには500個、パソコンには1,200個、TVゲームには700個のチップコンが使用されるている。
 この積層チップコン、大きさは米粒ほど、最近は砂粒ほどに極小化されている。この微小なチップが300層~700層になっているというから驚く。月産生産量40億個というのにも驚いたが、この砂粒の特性、外観すべて全数検査しているというから驚きを超えて呆れてしまった。(お米は一粒づつ検査しませんよね)
 生産は一貫方式。2ミクロン(1/1000)の誘電体ペーストと電極ペーストを交互にコーティングし、焼成、切断、加工し、検査する。極微の世界だけにその製造設備、方法はノウハウの塊である。検査時間も1個、1秒以下の高速スピードだった。
  廊下で行きかう社員は故郷の後輩達である。すれ違う社員が私達に丁寧に頭を下る、その姿に胸が熱くなった。私が少年の頃「江戸で相撲とる本荘米」という言葉があった。工場を見て「世界で相撲をとる本荘産チップコン」という言葉を連想した。本荘米も斜陽の傾向にあるが、この工場によって本荘米が再起する事を願う。
 
 

2016年10月15日土曜日

ゴルフコンペで優勝!「桜林館」「君の名は」

(「柴塚ゴルフ倶楽部」のホテル)
 
 春と秋、高校時代の同級生とゴルフコンペを行っている。
13日のコンペで初優勝!恐らく小生の生涯で最初で最後の記録になるであろう。
 スコアは116。3桁で優勝なんてありえない。つまり、私は過大なハンディキャップをいただいていた、という事である。今年の5月のコンペでは123も叩いて最下位だったので同級生が気を使ったのである。
 それにしても前半のプレーは信じられない。最盛期の頃と変わらない好ショットが続いた。特に2番ホール、235ヤード、パー3では2オン、10メートルのパーパットをねじ込んだ。ひょっとしたら、最近続けているグランドゴルフの成果かもしれない。
 ゴルフ場は杤木県さくら市にある「柴塚ゴルフ倶楽部」。コースも良いが、隣接するホテルが素晴らしい。リゾートホテル顔負けである。豪華な温泉付き、食事も美味しかった。
 翌日はさくら市から、笠間市へのドライブを楽しむ。山間を走りながら、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を聴く。至福の一時である。
 笠間市にある「出雲大社」による。境内にある「桜林館」で展示会が行われている。今注目されている画家の代表作を集めたものだ。その見事さに圧倒される。(11月27日まで。入場無料)
 その後、イオンモール水戸内原店による。ここの映画館で上映されている「君の名は」を観る。「君の名は」といっても岸恵子と佐田啓二のリバイバルではない。アニメ映画である。最後のシーン、魅かれあった若者同志が「君の名は」と尋ねるシーンは74才の私でも胸が詰まった。
 ところで、「桜林館」で見た絵画と「君の名は」に共通点を感じた。それは私には想像できない現代の作家(制作者)達の発想であり、精緻で美しい表現力である。

2016年10月5日水曜日

美酒に負け、記憶喪失!

(観光やな「ひのきや」で一杯)
 
 10月4日(火)6時前、目が覚めた。
なんだか、おかしい。着ているものを見ると下着のままである。どうしてだろう?顔を洗っていると、家内が起きてきた。「あなた大丈夫?芝田さん弁当届けてくれたわよ」
 なんの事をいっているんだろうと思った。家内の話によると、昨日の夕方、芝田さんの奥様がバスに私が下妻で買った弁当を忘れたので届けて下さったのだという。
 私は下妻の「道の駅」に止まったのは記憶しているが、以降、今朝までの事が全く記憶にない。バスが下妻を出発したのは夕方4時頃、牛久には5時頃到着したのだが、4時以降の記憶が全くないのである。今朝までの約14時間である。

 10月3日(月)、私が住む、牛久市刈谷地区ベテランズクラブ(老人会)恒例の「鮎研究会」が行われた。昨年から私は幹事を仰せつかっている。行先は栃木県那須烏山市の観光やな「ひのきや」。牛久から100キロ、休憩を入れて約3時間の行程である。
 8時、刈谷町出発。幹事席は一番前。私は民生委員の芝田さん、OGの酒井さんに挟まれた席。社会的にも信頼できる方を両翼に於いた最高の席。これがオットドッコイだったのである。
 バスが刈谷をでて、6号線に入ると、芝田さんが左の方からどうぞとキンキンに冷えた缶酒を出す。右手から酒井さんが「おつまみも必要ね」と柿の種を差し出す。私は朝からアルコールをいただくという習慣がない。ましてや日本酒はほとんど飲まない。しかし、冷たさに汗をかいた「菊正宗」の缶はいかにも美味しそう。「いただきます」やはり美味しい。日本酒もいいもんだ。1缶目が無くなると、芝田さんが冷凍庫から取り出す。
 「ひのきや」では、鮎を肴にビールをいただく。塩焼きの鮎は頭から丸ごと食べても柔らかく、実に美味しい。帰りのバス。また、芝田さんに缶酒をすすめられる。そして遂にノックダウンとなったのである。私にとっても家内にとっても、今回の記憶喪失は初めての経験だった。
 芝田さん、酒井さん、酒に負けないよう体と心を鍛えますので、これからもよろしく。


2016年10月2日日曜日

遺された勲章と日記

(勲4等旭日小綬章と日記帳)

TDKの役員をされていたAさんのお孫さんからメールをいただいた。

「実は祖父の遺品があります。処分しようと思っているんですが、もしかしたら貴重なものかもしれません。一度見ていただけないでしょうか」という趣旨のメールだった。

お孫さんにお目にかかり遺品をお預かりした。日記、勲章、表彰状など、数点である。
博文館の日記帳を取り出してみた。日々の出来事が一日一頁全面にわたって綺麗な文字で書かれている。驚きである。

Aさんは、TDKの役員のかたわら、業界のトップを務めておられた。
当時の会社の状況、業界の状況が手にとるようにわかる。
私は当時30代前半だった。Aさんは雲の上の方だったが、われわれ一般社員にも笑顔で接して下さった。「そうか、あの時はそうだったのか」とうなずきながら拝見した。

それにしても、Aさんの交際範囲の広いのには驚いた。会社、業界のみならず、芸能・文化関係まで及ぶ。

Aさんが叙勲された勲章は「勲4等旭日小綬章」だった。
この勲章は国や公共に対して特に顕著な功績のあった方に贈られる。

このような勲章を叙勲された役員の遺品については会社に判断してもらうのが妥当だと私は思った。幸い、TDKには「TDK歴史みらい館」がある。

2016年9月27日火曜日

TDK、石黒新社長にお目にかかる(後編)

    
   TDK新社長、石黒成直さん(左)と私
 
 ただいま、ご紹介いただきました畠山です。
TDKの歴代社長の中から3人の方について、お話しいたします。
 一人目は初代社長、斎藤憲三さんです。斎藤さんは地元秋田では「ホラ憲」と呼ばれていました。「ホラ吹き憲三」という事です。しかし、斎藤さんは有言実行の方でした。昭和10年、鐘紡の津田信吾社長を訪ね、こう言います。「津田社長、これからは工業の時代です。私は日本人が発明した磁性材料フェライトを工業化したい。ついては会社の設立資金として10万円貸して下さい。ただし、事業が失敗した時は返却しなくて良いという条件で・・・」当時の10万円は現在の貨幣価値でいうと3億円くらいです。津田社長は目の前で10万円の小切手を斎藤さんに渡しました。斎藤さんの情熱が天下の津田社長の心を打ったのです。TDK誕生秘話です。
 二人目はここにいらっしゃる6代目社長、澤部肇さんです。澤部さんの時代は激動の時代でした。TDKの売上の半分を占めていたカセット、VHSビデオといった記録メディア事業が衰退し、ゼロになりました。また、リーマンショックで、600億円の赤字が発生しました。この逆境を乗り越えるため、断腸の思いで、リストラを敢行。秋田魁新聞にはこう書かれました。「TDKの大規模人員削減計画”海外1万人、国内1千人”」。このリストラでTDKは見事に立ち直りました。澤部さんはTDKの永遠の発展を祈って秋田に「歴史館」を作りました。来月「歴史館」は「TDK歴史みらい館」として蘇ります。
 三人目は8代目、石黒新社長です。石黒さんは1982年の入社ですが、入社の動機は音楽が趣味だったからだそうです。私は当時、カセットテープの商品企画を担当しており、ADカセットのヒットで社長表彰されました。ご縁を感じます。石黒さんは学生時代、札幌交響楽団とベートーヴェンの第9「合唱付」を歌っており、第9は暗唱されているとの事。第9の合唱はバリトンの「おお、友よ、この旋律ではない、もっと心に響く調べを・・・」の呼びかけではじまります。石黒さんは社員に「おお友よ・・・」と呼びかけたところです。9万名の社員とともに”歓喜の歌”を声高らかに歌って下さい。石黒さん、これからのTDK、よろしくお願いします。

畠山家32代目、上京

(左から兄・洋三、弟・幸三、右、妹・友子とご主人、高橋正宣)

23日、TDK石黒新社長を囲む会、大いに盛り上がった。時計を見たら21時30分、「やばい!」。21時58分上野着「こまち」で兄貴が上野駅に到着する。囲む会の集合写真撮影をスキップして上野駅に向かう。なんとか間に会う。上野発22時15分発の常磐線特急に乗り、兄貴を牛久のわが家へ案内する。
 畠山家32代目、兄洋三は次男、泰彦君の奥さんの1周忌の法事に参加する為、上京したのである。泰彦君は日立製作所の社員、常陸太田市の塙家のお嬢さんと結婚したが、奥さんが1年前亡くなられた。法事は常陸太田市瑞龍霊園で24日、12時から行われる。
 24日、9時30分、わが家を出発。幸い前夜の宴会の疲れはなく常磐高速を快走。高速を降りて、瑞龍霊園にいくのに戸惑ったが、11時30分、無事到着。泰彦君が笑顔で迎えてくれた。
 その笑顔を一安心。私以上に兄はホッとしたに違いない。
 13時、お墓の前で行われた法事が終わり、兄はお斎(とき)には参加せずに私の車に乗った。車がスタートするやいなや大雨である。法事の時に雨が降らず本当に良かった。
 牛久のわが家で小休止して、電車で東京駅へ向かう。東京駅北口の「あべや」(秋田純米酒処)に18時前に到着した。弟、幸三(山北在住)妹、友子夫妻(笠間在住)が集合。兄弟会が行われた。兄の希望だった。兄弟会、大いに盛り上がり、アッという間にに3時間が経過した。兄は南口から21時20分に出発する秋田行の深夜バスに乗車。バスは翌朝、由利本荘市に到着する。
 郷里、秋田で兄を待っているのは黄金色に実った秋田米である。
 私が子供の頃は家に”めらし”(住み込みの若い娘)が2人おり、農作業の手伝いをしていたが、今は当主である75才の兄が一人で2町5反の稲刈りをしている。機械化が進んでいるとはいえ、高齢者にはきつい。

2016年9月25日日曜日

TDK、石黒新社長にお目にかかる(前編)

(右から、私、石黒新社長、水野さん)

 私はTDKに勤めていた。2002年、60才で定年を迎えた。
退職時のTDKの売上は5,600億、社員は32,000名(海外も含む)。
今年の売上は11、520億、遂に一兆円を超えた。社員はなんと91,600名。10万名、目前である。
 TDKの社長が今年の6月交代した。新社長(8代目)は石黒成直さん、58才である。中間管理職で定年退職した私にとっては雲の上の人である。8月(だったかな)、驚いた事に、この雲の上の方が参加される飲み会に誘われた。さらに驚いた事に幹事の方からこう言われた。「畠山さん、新社長にお祝いの言葉をお願いします」。その時から眠れない日々が続いた。
 23日、遂にその日がやってきた。会場に着くと、TDK・OBの方を中心に20数名の方々が顔を揃えていた。席は指定席になっていた。私の席はなんと、石黒新社長の隣である。6時近く、拍手に迎えられて新社長登場。6代目社長、澤部肇さんも一緒だった。
 乾杯の音頭に続いて会食をしながらの懇談。驚いた事に石黒さんがサラダ盛りから、サラダを小分けして同じテーブルの参加者に配りはじめた。その手際は見事だった。私にはこのような気配りはできない。
 いよいよお祝いのスピーチが始まった。60代のOBの方々3~4名が続く。司会の幹事の方の説明によると、いずれも社長の座を目指した優秀なTDKマンだったという。さすがに皆さんうまい。
 そして、最後、私の番となった、司会者は私をこう紹介した。「無欲で謙虚な方です。ただ、TDKに対する愛社精神の強さはナンバーワンです」
 私は立ち上がった。ありがたい事に冷静な精神状態である。これならば、準備した3分間スピーチは語れそうである。

2016年9月19日月曜日

「芸の肥やし」、老後編

(おばさんとペアで掃除をしている、牛久シャトー・ミュージアム)

定年後、市の人材シルバーセンターの紹介で掃除のバイトを続けている。
月に7日、2~3時間である。その中で2日、おばさんと一緒に牛久シャトー・ミュージアムの掃除をする。
〇月〇日
私「今日は私が掃除機で、いいですか?」
Aさん「いいわよ。じゃ、私は拭き掃除ね」
私「昨日、家内といしじまにそばを食べに行きましたよ」
Aさん「夫婦そろって、いいわね。私のところは今年の4月に主人が亡くなってね、葬儀だなんだと出費が多くて、大変!今は墓をどうするかで悩んでいるの。皆さんと掃除をして、世間話をするのが隋一の楽しみなの」
〇月〇日
私「昨日、娘が孫娘を連れてきてね、家内に一緒に食事に行こうといわれたんだけど、遠慮しましたよ」
Bさん「女同志3人での食事。奥さんも楽しかったでしょうね。女同志でなといと関心のない話って、結構多いのよね。ところで、お孫さん、幾つ」

ベテランズクラブ(老人会)役員にも女性の方がいる。
〇月〇日、夜8時
突然、電話のベルが鳴る。
「畠山です」
「Cです。夜分済みません。鮎のバス旅行、参加者何人になりました。明朝、市役所に報告しなくてはいけないの」
今、仕事から帰ったところなのだろう。部屋中にガンガン響くような甲高い声、息遣いまで伝わってくる。Cさん、家族を抱え、仕事をしている、その一方で老人会の役員も引き受ける頑張り屋である。

小生がお世話になっているご婦人たちは70才前後と高齢、人生経験豊富。皆さん頑張っている。僕も負けてはいられない。

2016年9月12日月曜日

中山道20日間の輪行

(工野さんの本に掲載された”中山道の旅”のルート)

定年後、家にいる時はほとんどパソコンと睨めっこである。本を読むのは東京へでかける時の電車。
先日、6年前(2010年)に友人の工野さんからいただいた「中山道を小型の折たたみ自転車で行く」という本を読みだした。凄い!20日間を費やして歩くような速度で見聞した中山道の様子が700枚の写真と、12万字(原稿用紙300枚)の活字で詳細に表現されている。見聞した様子とともに、その土地の文化・歴史も深堀りされている。工野さん、工野正樹さんはただ者ではない。
 不思議な事に小生のブログ(2011、11、30)を見ると、「バルカン半島千キロ(自転車)」という記事が掲載されている。これは10年かけて奈良からローマへ(2万キロ)行こうというとてつもない冒険旅行の序章のようだ。この冒険旅行を始めたのは友人の髙山さん、髙山了さんである。髙山さんもただ者ではない。
 工野さん、髙山さんはどういう友人かと言うと、現役時代カセットテープの開発で凌ぎを削ったライバル関係である。工野さんは日立マクセルでUDカセットを企画、髙山さんは富士写真フィルムでAXIAカセットを企画、私はTDKでADカセットを企画した。
 カセットテープはオランダのフィリップスが開発した。当初カセットテープメーカーというとドイツのバスフとアメリカのスコッチが先行していた。ところが数年後、日本のメーカーが商品力で巻き返す。開発当初、会話録音用と思われていたカセットテープは日本メーカーの参入によって、商品力が向上。音楽用としての用途が広がり、日本製のカセットテープが世界を席捲する。その後3人はVHSビデオテープの企画でも凌ぎを削る。
 その立役者が日立マクセルの工野さん、富士写真フィルムの髙山さんである。2人の凄さは定年後の自転車旅行が物語っている。定年後もこのように前向きに生きる2人は凄い!TDKの畠山はどうだろう?畠山には自転車旅行をする体力も気力もない。あるとすれば、ブログ「人間浴」を綴るくらいである。

2016年9月6日火曜日

ピアニスト、中村紘子論(本場主義の小生)

3日、いつも素晴らしい音楽体験をさせてくれる隣町のNPO法人・龍ヶ崎ゲヴァントハウスにでかけた。この会はクラシック音楽の放送ライブを音源として使用し、素晴らしい音で再生。選曲と解説も一級である。
 この日は前半、7月に亡くなられた、ピアニスト・中村紘子さん(写真)の演奏が披露された。コンサート、終了後、中村紘子は一流かどうかで、解説に当ったFさんのご意見をうかがった。Fさんは一流だというご意見だったが、小生は見方が違っていた。「東洋人としては一流だが、世界的に見た場合、やはり本場ヨーロッパの演奏家より劣る。ただ、ショパンコンクールで4位に入賞し、その後、日本のクラシック業界発展に貢献した業績は認める」というものだった。2人の見方は食い違ったまま飲み会に流れた。
 私の経験からすると、クラシック音楽の本場はヨーロッパであり、演奏もヨーロッパ人に日本人はかなわないと思う。それは天下の小澤征爾にしても同じである。楽譜も読めない、楽器も演奏しない小生が、そんな事をいい、ブログにまで書く。(聴者である小生の特権である)
 Fさんと中村紘子談義をして、自分も「老害」の分野に入ってきたと感じた。最近はどの会合にでても一番年上の方である。小生が自説を語りはじめると、皆さん遠慮する。これは注意しないといけない。「ボケ」と「頑固」。まさに「老害」である。
 中村紘子さんの演奏をほとんど聴いていない小生だが、1969年作曲された矢代秋雄のピアノ協奏曲は中村さんが初演し、私も聴いた。日本人でもこんな素晴らしい曲が書けるんだと、認識を新たするとともに、演奏にも満足した。作品も演奏者も日本人、血の通った音楽になる。小生の本場主義はこの頃(小生27才)から既に固まっていたようだ。

2016年8月29日月曜日

インク、バッテリー、勘違い(老化は進む♪♪♪)

(「371+370」と間違って「351+350」を購入。6千円の損失)

●プリンターのインクが無くなった。
私のプリンターはキャノン製、インクの品番は「371+370」(6色)である。先日、電気店に行った時、6色1パック買っておいたので安心である。早速、新品の封を切って交換した。無事セットできた。ところがインクのランプがつかない。プリンタの表示器に「このインクは違います」という表示がでた。不良品のインクかも知れない。電気店に向かう。
 インク売り場に行って原因がわかった。 「371+370」と似たデザインと同じ大きさのパッケージで「351+350」という商品がある。私は品番を良く確認しないで「351+350」を購入していたのである。店員さんに「商品を交換してくれないか」と聞いたところ、「6色の内、一色でも封を切ったものがあれば交換はできません」という。つまり、私は再度6千円を払って「371+370」を購入した。

●デジカメの電池(バッテリー)切れである。
デジカメのバッテリーを懐に入れて、同じ品番のものを購入しようとしたが、バッテリー売り場には同じような形状と品番のものが置いてない。
ベテランズクラブの会合の時、会合でいつも写真を撮られている芝田さん(民生委員)に「やあ、2~3電気店を回ったんですが、バッテリーを売ってないんですよ」と言ったところ、芝田さんに開口一番こう言われた。「畠山さん、そのバッテリー、充電式ではないんですか?電源コードをつけるやつですよ」
 そうか、そうだった。ボケの私もピンときた。デジカメ等のバッテリーはほとんどが、充電式なのだ。家に帰って探すと、すぐに電源コードが見つかった。ちなみに、私が電気店でバッテリーを探していた場所はメモリーカード売り場だった。バッテリーとメモリーカードは大きさ、形状が似ているため勘違いしていたのである。

 それにしても老化(ボケ)は進む。最近はお目にかかる方々のお名前をスグに忘れる。まさに「振り向けば・・・」である。

2016年8月23日火曜日

孫接待。「盆玉」他


(子供は遊びの天才。ちゃぶ台が卓球台に早変わり)

 私には6人の孫がいる。
長女の方は娘3人で、上の孫は社会人、下の孫2人も高校生。スッカリ女性らしくなって、ジジイが近寄る場面がほとんとない。そこで、家内から「お父さん、盆玉どうするの?」ときた。
 最近は、正月の「お年玉」に対して「盆玉」というのがあるらしい。家内の一言に乗って、なんとか祖父としての面目を果たした。(8・15来宅)

 長男の方は男3人である。上の2人の孫は小学生、下の孫は幼稚園である。こちらにも「盆玉」を上げた。この年齢だと、ジジィとも付き合ってくれるので、「映画」と「ワンワンランド」で十分楽しんだ。(8・18~19来宅)
 彼等がまた遊びに来るという。「盆玉」「ワンワンランド」はもう2番煎じ。そこで思いついたのが、「読書」である。図書館に行って、彼等の年齢に会いそうな本を借りてきた。これらの本にどういう関心を示すか、楽しみである。
 
 23日、3人兄弟再来宅。図書にも興味を示したが、ちゃぶ台を卓球台にし、団扇をラケット変わりにして卓球を始めたのには驚いた。子供は遊びの天才である。24日は、小学生兄弟の希望で「ひたちの牛久」駅前バッティングセンターへ。駅前をウロウロしていると、長男の純成君が「じいちゃん、あすこだよ」と道案内。昨年も小生と行ったそうだ。小生はそのことをスッカリ忘れていた。本当ボケた。世代はかわりつつある。家内が心配するのもムリはない。(24日、夕方追記)

2016年8月17日水曜日

ゴーギャン、モーム、マーラー

(ゴーギャン作「われわれはどこから来たのか われわれは何者か 
 われわれはどこへ行くのか・1897~8」の一部)

拝啓  飯澤 正様
サマセット・モーム著「月と6ペンス」、あまりにも面白いので再読しました。再読して、70才を過ぎて読んで良かったと思いました。若い時、この本を読んでいたら勘違いして自分を芸術家と思い、違った人生を歩んでいたかもしれません。それだけ、この本から受ける印象は強烈でした。
 この本のモデルは画家ゴーギャンだそうですね。
 私は最近、本を読む時、クラシック音楽を聴きながら読むのが習慣になっております。この本を読んでいる時、聴く音楽はマーラーの交響曲がピッタリでした。モーツアルト、ベートーヴェン、ブラームスのように形式の整っている音楽は合いません。その点、天上の音楽のように連綿と続くマーラーの交響曲を聴きまがらこの本を読むと、別世界にいるような気分になりました。

 ところで、さて、ゴーギャン、モーム、マーラーはいつ頃の人間だろうと思い、生年を調べたところ、ゴーギャン1848~1903年、モーム1874~1965年、マーラー1960~1911年でした。この3人、どこかでお互いの作品に触れているかもしれません。
 モームを読みながら、マーラーを聴くなど、私の感性もなかなか?勘違いかな・・・。

 それにしても、翻訳を担当された中野好夫さんは大したものですね。単に語学が堪能だけでは、「月と6ペンス」のように人間の繊細な心理が入り組んだ小説の翻訳はできないと思います。

飯澤さん、素晴らしい本をご紹介下さり、ありがとうございました。   敬具

2016年8月12日金曜日

内村、奇跡の着地(慶子おばさん)

11日早朝、テレビを付けたら、リオ・オリンピック体操男子個人総合の決勝戦がライブで放送されていた。残す競技は鉄棒のみ。内村は残念ながら、ウクライナのベルニャエフに0,099離されている。鉄棒は内村がやってから、ベルニャエフが行う。内村が鉄棒に飛びつく。G難度の技も無事に通過。いよいよ着地。凄い!両足がマットに着き、両手を前方に着きだして微動だにしない。奇跡だ!神業だ!この地点で内村の逆転を確信した。こんな着地、できる選手はいない。(写真:12日、読売新聞)
 オリンピックのモットーは「より早く、より髙く、より強く」であるが、内村の演技を見て「より美しく」を追加しても良いのではないかと思った。

 それにしてもオリンピックは凄い!スポーツの素晴らしさを再認識させられた。また、それが世界の平和にも結び付くとも実感した。2020年、東京オリンピックの使命は思い。

 オリンピックが開催されてから公私ともに重要な出来事が重なった。

●8日、天皇陛下がお言葉を表明→生前退位の意向が滲む。
●9日、山北に住む弟と、尻手(横浜市)に住む慶子おばさんのお宅を訪ねる。何年ぶりだろう。慶子おばさんは(88才)はお元気だった。東京近辺に親戚というと慶子おばさんのお宅しかなかった。秋田に生まれたわれわれ兄弟は昭和時代、学校、就職、旅行といっては慶子おばさんにお世話になった。慶子おばさんのお宅は我が畠山家の関東における出先機関のようだった。慶子おばさん、ありがとう。われわれが今日あるのはおばさんのお陰です。
●サマセット・モームの「月と6ペンス」再読書中。(オリンピックより面白い?)現役時代お世話になった電通の飯澤さんに進められた。老後の楽しみに音楽、グランドゴルフの他に読書も加わりそう。勿論「飲み会」が一番である事に変わりはない。

2016年8月8日月曜日

やった!グランドゴルフ、スコア73

(「牛久GGクラブ」の仲間たち)
 
 グランドゴルフ(GG)を初めて10年ほどになる。
 GGは昭和57年、島根県で考案された。GGのコースは8ホール(30m、50m、30m、50m、25m、15m、25m、15m)ある。このコースを全て3打で入れる。一回廻ると24、これを4回繰り返す。トータル96であるが、打数が少ないほど良い。70代の前半で回ると大会で優勝できる。パターはゴルフのパターとほぼ同じ、ボールは直径6センチ。ワンラウンド2時間30分ほどかかる。9時スタートして11時30分終了。老人でもできるので、まさに生涯スポーツである。(場所は市内のグランド等を使用するのでプレー代等の会費も数百円)

 小生、もともと運動神経が鈍く、ゴルフも下手。GGも同じ。いつも80代である。大会に参加すると、下位の方に名を連ねる。
 ところが、今日(8日)、練習ではあるが、とんでもない好スコアがでた。1回目20、2回目14(一打で入ったホールが一つあり-3)、3回目20、4回目19。合計73打である。このスコアだったら大会でも優勝できる可能性がある。
 なぜ、こんな好スコアがでたのか、それは①ホールに向かって真っすぐパターを振る。(ゴールポストを見ないでボールを正しく打つ事に集中)②第2打目はゴールポストに近くなるが、ポストをオーバーしないように弱めに距離を合わせる。の2点だった。この結果、32ホールの内、約半分の15ホールを2打で、1打で入ったホールも一つあった。パートナーが良かったからかもしれない。

 ところで、GGをはじめるキッカケはシルバーセンターで一緒に掃除のバイトをしていた福島先輩の紹介だった。現在使用しているパターとボールは福島さんからいただいたものである。福島さん、ありがとう。

2016年8月5日金曜日

お付き合いが一杯(ご縁は大切)


もう70代も半ばだが、秋はお付き合いのスケジュールが一杯。
ディスクの横の壁は、ゴルフ等の案内状で埋まっている。(写真・上)

ゴルフは年金生活の小生には経済的な負担にもなるし、下手だし、できるだけお断りしている。
ただ、春、秋のシーズンは学校関係、会社関係でお断りできないコンペが目白押しである。
(最近はゴルフといえばグランドゴルフ。こちらは毎週楽しんでいる)

秋から年末にかけては、飲み会も盛ん。今回は会社(TDK)の新役員が参加される飲み会への案内もいただき恐縮している。

さらに今年の秋は、TDKの発祥の地、秋田にある「TDK歴史みらい館」にも行かなくてはならない。TDKは1961年~72年にかけてNASA(アメリカ航空宇宙局)が行った人類初の宇宙飛行計画に電子部品を提供している。その関連資料がリニューアルして「歴史館」に展示されるという。関連資料を提供した当時のTDKアメリカの社長が、その展示物を見に行かれるという。「畠山さん、秋田出身だろう。」社長から同行するよう要請があった。これも光栄な事である。

実はTDKは秋田出身の斎藤憲三氏(衆議院議員)が作った会社である。父が斎藤先生の支援者であり、そんなご縁で農林高校出身(畑違い)の私もTDKに入社する事ができたのである。
ご縁は大切である。


2016年7月28日木曜日

わが畠山家32代当主

今朝(26日、7時頃)実家(秋田)の兄、洋三から電話があった。
 なにかと思ったら、読売新聞・秋田版の取材があって、その記事が掲載されたという。新聞の企画は「子吉川の四季」というシリーズもので、秋田県の南部を流れる子吉川(鳥海山を水源とし、日本海の由利本荘市に流れる)近辺の風物・文化を訪ねるというものである。
 私の実家は本荘市から約4キロ内陸に入った農村地帯。鮎瀬部落といい、近くを子吉川の支流である石沢川が流れる。畠山家は関東の武士、畠山重忠一族の流れを汲むと言われている地主。祖父は本荘市と合併になる前の石沢村の村長をしていた。兄、洋三は、私より一才年上、地主の長男として大事に育てられ、東京農業短大卒業の後、家を継いだ。今回の取材は余程嬉しかったとみえ、次男の私に電話をしてきたのである。早速、新聞をFAXしてもらった。
 新聞には実家で太鼓を叩く、兄の写真が掲載されている。(上)以下、記事の一部である。
 「境内の石段を下りて鮎瀬の集落へ向かう。石沢川のせせらぎが聞こえる一角に八幡神社があった。畠山さんが別当を務める畠山家先祖伝来の守り神だった。家系図を見せてくれた。開祖はあの畠山重忠とある。義経率いる鵯越(ひよどりごえ)の逆落としで、馬を背負って崖を下り、”坂東武士の鑑(かがみ)”とたたえられた知勇兼備の将だ。北条氏に討たれた後、一族の末流が落ち延びた先が鮎瀬だった。32代当主には心残りがある。郷土芸能・鮎瀬番楽の復活が果たせないでいることだ。”子供の頃に聞いた独特の節回しや拍子が忘れられない”。今も折に触れては太鼓を叩く。ばちさばきを見せてもらった。ドン、ドン、ドドン。腹に響く重低音が座敷から外へ飛び出し、石沢川の水面を駆け抜ける。ふるさとの来し方を見つめ、行く末を励ます、温かくも頼もしい太鼓の響きだった。」

2016年7月27日水曜日

百花繚乱の日々


7月22日(金)高校時代の恩師、高橋彰三郎先生から本をいただいた。吉川幸次郎著「西東聞記」(写真上右)マーラーの「大地の歌」の事が書いてある。久しぶりに「大地の歌」を聴く。その素晴らしさに仰天。大地の讃歌であるとともに、辞世の歌である。マーラーは音楽によって詩に込められた諦観を永遠のものにした。
 7月23日(土)土浦市に住む髙山了さんのエッセー「半了のささやき」(写真右下)を、1966年、カラヤン・ベルリンフィルが指揮したブルックナー、交響曲第9番を聴きながら読む。好きな音楽を聴きながら、本を読むのは至福の時間である。良識に溢れた、このエッセー、乱暴な言動が続くアメリカ大統領候補トランプにも読ませたい。
 7月23日(土)大相撲名古屋場所、牛久出身の稀勢の里が白鵬を土俵際で捨て身の打っちゃり(写真上)。13勝2敗2場所、名古屋は12勝3敗。3場所続けての準優勝は立派。後援会の一員として満足。
 7月24日(日)家内の誕生月を祝って、牛久市民ホールで行われた「由紀さおり、安田祥子ファミリーコンサート」(写真下)にでかける。このコンビのコンサート、30周年だそうである。また同コンビの牛久講演は今回で8回目だという。同コンビが唄う日本の歌の数々は本当に美しい。終演後、ロビーで来場者を見送るファンサービスにも感心した。
 7月26日(火)小生が住む牛久市刈谷地区ベテランズクラブ(老人会)の日帰りバス旅行。8時、出発と同時に会長から冷たいコップ酒のプレゼント。五臓六腑に沁みわたる。メインは江戸東京博物館(写真上、中央)、帰途キリンビール取手工場へ寄る。できたてのプレミアムビール、これも美味しかったなあ・・・。
 百花繚乱の一週間でした。

2016年7月23日土曜日

車検見積、25万円でボケ覚醒

 
先月、10年以上お世話になっている、販売店から車検の見積もりをいただいた。その金額が25万円。10万円代と予想していたので、「これはなんだ!」と思った。(中古車買えるじゃない)
 小生の乗っている車は初年度登録が平成13年、もう15年も乗車している。(写真)10年くらい前は毎月やっていたゴルフも半減。その影響もあって、年8千キロくらい乗っていた走行距離が最近は5千キロになっている。年5千キロしか乗らない車の車検代に25万も払うのか?友人に聞いたり、調べた結果、車検について以下のような事がわかってきた。
 
 ①販売店でやる場合、マニュアル通りなので一般的に割高
 ②車検専門店は車検を重点に作業するので①より安い
 ③ガソリンスタンドでやる車検。従業員が少ないので、その分、従業員の負担は思いが、見積りは安くなる
 ④業者に頼まないで、自分でやる。知識が必要だが一番安くできる
 
 今回は③に車を持ちこんだら、いきなり車をジャッキで上げ、「ここは直さないと車検通リません」「2年乗るのですからこの部品は取り替えて下さい」という事で見積もりは15万。作業員の対応が気にいってここに頼むことにした。

販売店から高額な見積もりがでた為、私のボケも覚醒し、車に対する知識も増えた。今の車は今回の車検で終了とし、その後は軽の中古車に変えるかもしれない。2年もすればゴルフの回数はもっと減り、中型車でなくてもよくなるだろう。体調によっては車そのものから卒業するかもしれない。

2016年7月15日金曜日

TDK独身寮時代の仲間

(左から柏倉さん、平田さん、栗林さん)

13日(水)東京へ出かけた。
主目的は夕方6時~のTDK独身寮時代の仲間との飲み会である。
牛久から東京までは約50分。電車賃、片道970円ということで、主目的に合わせてスケジュールは満載となる。

10:30 銀座で元・広告代理店Nさんと面会。現役の頃、小生、FM東京で放送されたクラシック音楽番組「TDKオリジナルコンサート」担当。その時お世話になった。Nさんは81才だが現役。現場で地道に働く各社の社員との付き合いを大切にする。今も若手社員に慕われ、仕事が途切れないという。
13:30 田町に行き、TDK広報部長と面会。定年後、13年も経つのに現役の方にお会いできるのは嬉しい。TDK誕生の地ともいえる秋田県に「TDK歴史みらい館」がある。そのリニューアルの仕事で忙しいとのことだった。
14:30 銀座に戻り、映画「ペレ、伝説の誕生」観る。息つく暇もない面白さだった。
18:00 独身寮時代の仲間との飲み会「教養クラブ」。会場は「TDK柳橋クラブ」。浅草橋駅から徒歩10分。クラブは鉄筋6階建てだが、料亭風の和食レストランがある。定年後も使えるのは誠に有難い。メンバーは柏倉、平田、栗林、私の4名。50年に及ぶお付き合いである。柏倉さんはTDKの後、建設関連の会社へ転進、平田さんはコンピュータメーカーへ転進、栗林さんはTDK関連の会社の社長になる・・・。いろいろあったが、4人の飲み会「教養クラブ」は続いているのである。
   

2016年7月12日火曜日

バイトは牛久シャトーの清掃

 
   (牛久シャトー<重要文化財>正面。この奥に森に囲まれたミュージアム、レストランがある)
 
 74才。私の今の生きがいの一つは週2回の牛久シャトーの掃除である。シャトーの掃除といっても庭木の剪定からレストランのトイレの掃除までいろいろ・・・。私の担当はミュージアムとレストラン(オエノン、キャノン)の床とトイレの掃除。時間は8時~10時or11時。2時間の時は一人、3時間の時はおばさんと2人。

 なんで掃除のバイトと、思われるかもしれないが、この時間が今の私にとっては宝物である。

 牛久シャトーは牛久駅から徒歩10分、わが家からは自転車で15分。シャトーというように、広い庭にレンガ造りの建物が数棟建っている。7時30分わが家を出て、8時前にシャトーに着く。そこは別世界である。森に囲まれたお城なのである。社員の方々が出勤前の8時~掃除をはじめる。おばさんと一緒の時は、掃除の手ほどきを受ける。
 74才の私にとって、朝2時間~3時間の掃除は、運動としても最適。おばさんとの世間話からは思いがけない世界が広がる。そのような充実した時間を送った他に、月1万5千円ほどのバイト料をいただく・・・。本当にありがとう。

 この牛久シャトー、合同酒精を母体とする「オエノンホールディングス株式会社」の王宮である。同社は一部上場企業であり、社員のみなさんも品格に溢れている。お酒は文化・芸術作品だという印象を受ける。

 

2016年7月7日木曜日

七夕、朝から飲み、唄い・・・。

 
(刈谷自治会館前の花壇)
 
 今日(7月7日)はベテランズクラブ(老人クラブ)の定例会(毎週火曜日)である。今月は小生住まいの5丁目の当番である。当番って何するの?、要は早目にでて、会場の準備をし、会が終わったら後始末をする。
 会は9:30~であるが、9時には200mほど離れた刈谷自治会館に行き、雨戸を開け、40人分のテーブルを並べ、座布団を敷く。さらに女性陣が準備したお湯とお茶をテーブルに並べる。9:30ラジオ体操が始まる。体操が終わると,お茶菓子をいただきながら会員の方々と懇談。
 一段落すると開会。酒井会長の連絡事項。「今日は特別ありません」との事。隣家の柳田さんが手を上げ、「今日はカラオケがあります。飲み物もあります。ご都合のよろしい方はどうぞ別室へ」と発言。小生カラオケは現役の頃は付き合いで止むなく歌ったが、定年後はほとんど歌った事がない。孫達がきた時、合唱したくらいである。ただ、燐家の柳田さんのお誘いである、「たまには覗いてみようか」という気になった。
 カラオケの部屋に行くと、なんとテーブルにビールと日本酒の一升瓶が並んでいる。「これはたまらん」。時々、株の情報交換をする君嶋さんの隣に座り、缶ビールを空ける。幹事の柳田さんに「会費は?」と聞くと、「カラオケ部として会費をいただいてますので遠慮なく」との事。こういう事態になると、柳田さんへの儀礼上、歌わざるを得ない。歌詞カードをめくると東海林太郎の名前が目に入った。「それでは郷里の出身であります東海林太郎の”赤城の小守歌”を歌います」しどろもどろに歌い終わる。
 会長から「東海林太郎は秋田の出身なの?」「はい」。自宅に帰ってパソコンで調べると、”東海林太郎、秋田市出身”とある。良かったよかった。東海林太郎は紅白歌合戦に7回出場し、レコード大賞も受賞している。
 今日は7月7日、七夕。朝から飲み、唄い、愉快な日だった。これで株が高かったらなあ・・・。安倍さん、頼みますよ!
 

2016年7月1日金曜日

世界を震撼させる大英国の離脱

<オランダのコンセルトヘボウ(左上)、カラヤンが率いたベルリン・フィル(右上)、ワルツで有名なウィーン・フィル(下左)第一次大戦の頃、イギリスは世界の大陸を制服した。(下右)>
 第一次世界大戦(1935・大正3年~1918・大正7年)の頃、イギリスは世界の大陸のほとんどに植民地を所有し、世界史上最大の面積を有する、まさに大英帝国だったという。今回のEU離脱の国民投票の結果には「夢よもう一度」というイギリス国民の願望が込められているように思う。
 イギリスは第一次世界大戦終結後、ドイツ、アメリカの追い上げに会い、第二世界大戦ではアメリカ、ソビエト連邦が超大国となり、イギリスは超大国の地位から陥落する。

 私は歴史に詳しくないので、クラシック音楽の世界から現在のイギリス国を展望してみた。数年前、イギリスのグラモフォン誌が「世界トップオーケストラのランキング」を発表した。そのランキングは次の通りである。1位ロイヤルコンセルトヘボウ(オランダ)2位ベルリン・フィル(ドイツ)3位ウィーン・フィル(オーストリア)4位ロンドン交響楽団(イギリス)5位シカゴ交響楽団(米国)・・・。
イギリスの音楽誌のランキングにもかかわらず、ロンドン交響楽団は4位なのである。
 さらに興味深いのは好楽家のロンドン交響楽団評である。「あらゆる国のあらゆる作曲家のあらゆる曲を器用にこなす」。小生のランキングされたオーケストラについての感想を付加すると、オランダ、ドイツ、オーストリア、アメリカのオーケストラはそれぞれ独自性を有するのだが、イギリスのオーケストラは器用ではあるが、他のオケのような個性が無い。
 今回のイギリスのEU離脱騒動を見て、離脱はしてみたものの、「何をすべきか」についてイギリスは展望を持っていないように思うのである。

 それにしてもイギリスEU離脱の衝撃は大きい。全世界に悪影響を与えている。株価が暴落すると我が国の年金制度にも影響を与えるという。他人事ではない。大英帝国のプライドが保たれるような形での収束を祈る。

2016年6月27日月曜日

しのびよる加齢現象(体調不良)

 
今朝(27日)、8時過ぎ、3ヶ月前に予約していた病院に向かった。病院までは車で15分、病院に到着して、診察カードを機械に差し込んだところ、「正しく入れて下さい」という表示がでた。カードを確認したところ、違う病院のカード(左下)である。こんな事もあろうと、カードは確認したはずであったが・・・。
 予約時間は9時、あわてて、家に帰ってカードを探す。あった!あった!何しろ、最近の病院のカードは全部横文字。これでは70半ばの爺さんは間違ってしまう。昔のように「畠山医院」とか「牛久病院」というように日本語で書いてもらえばいいのだが・・・。
  今、通院している体調不良現象は次の4つである。
 ①もの忘れが激しい。(特に人の名前はほとんど覚えることができない。これでは自治会理事落弟である。身内については家内がフォローしてくれるので助かる)
 ②排尿障害(寝ている時、5~6回トイレに起きる。ただ、就寝9時、起床5時30分なので寝不足という事はない)
 ③手の震え。(文字が書けない時もある。ただ、文章は99%、パソコン入力なので、実害はない。ただ、この先、パソコンのキーを叩けなくなれば大問題である)
 ④1年ほど前から、テレビの音声が聞きとれない時がある。パソコンで調べると、”さしすせそ”の音がかすれるのだという。そういえばそういう気がする。
  
 最初に病院に行ったのは2015年1月である。総合診療科の向井先生が「アロチノロール錠」という薬をだして下さった。2015年2月担当の先生が神経内科の保坂先生に代わられた。保坂先生は2015年8月から薬を「リポトリール錠」に変えられた。
 向井先生も保坂先生も、とても診療は適格だと思う。①~④の症状は全快はしないが、悪化する事はない。加齢現象を考慮すれば、悪化しないという事で満足すべきだと思う。ただ気分がたまにハイになるのはやや気になる。保坂先生ご懸念のように血圧が高めかもしれない。

2016年6月21日火曜日

母、白寿祭。父との愛は永遠。

(「白寿の祝い」に25名の子、孫、曾孫がかけつけた)
 
 母99才「白寿の祝い」
6月18日(土)、故郷・秋田「にかほ市温泉保養センター」(はまなす)に子供、孫、曾孫の代表25名が集合、盛大に行われた。家・家族のつながりが薄くなっている現在、これは珍しい。さすが、私が生まれた畠山又右エ門家である。(小さいが地主であり、祖父は石澤村々長をやっていた。)
 母の子供は5名。長男が農業を継ぎ、農協組合長。長女は近隣農家の嫁になる。次男の私はTDKに勤務。16年前定年。三男は小田原私立高校教頭を今年で退任。次女は笠間市出雲大社会長夫人として頑張っている。
 母、板垣チヨミは大正6年(1917)、石澤村の生まれ。実家は農家だが100ヘクタールの山持ち。父初吉は郵便局長を務めていた。手先が器用で尋常小学校の時の作品「尾形人形、筏流し」は全国大会に出品され、天皇陛下にもご覧いただいた。
 昭和11年(1936)、畠山一男と結婚。戦争、敗戦、農地解放と激動の中を生き抜いた。5名の子供に恵まれ、孫は30名を超えているが、名前を全て記憶している。今朝の食事のメニューも忘れる次男の私とは大違いである。母は宴会の後半、大正琴を披露した。姉の「仮面踊り」も素晴らしかった。
 今回の幹事役は3男、幸三。私に「閉会の辞」をやれという。「母は今でもほぼ毎日父の夢を見るそうです。夫婦は永遠であるという事を実感しました。」これが私の挨拶の趣旨だった。父は平成11年(1999)、86才で亡くなった。あれから17年、母は夢で父に会っているという。これは宴会開始前に母との雑談の中で聞いた話だが、私の胸を強く打った。私達夫婦をはじめ、ここに集まった方々が母のように、片方が先に死んでも、永遠に相思相愛であって欲しい。
 それが「白寿の母」の願いであるとも思った。



 
 

2016年6月16日木曜日

「父の日」前後の人間模様

 
14日(木)、東京で会社OBによるパソコン勉強会があり、その後飲み会があった。昔の話で盛り上がった。「銀座に良く飲みに行ったな」「帰りはハイヤーの時もあったな」。それがエネルギーとなって会社は発展した。舛添さん、われわれは民間会社だからそれでも良かった。しかし、官庁はそうは行かない。納税者の目が光っている。東大卒でなくとも立派な都民が多い。(舛添さん、15日退任決意)
 夜遅く帰宅すると、机の上に荷物が上っていた。翌朝、差出人をみると息子である。中を開けると「スコッチウィスキー」が入っている。家内が言う。「貴方、19日は秋田へ行くから早く送ってくれたんじゃない」。そういえば、「父の日というのがあったなあ・・・」調べてみると6月の第3日曜日が「父の日」なのだという。息子も3人も子供を抱えて大変なのに・・・。
 ウィスキーはラガヴァ―リン(Lagavulin)というブランドだった。息子からメールが入っていた。「かなりスモーキーなアイラモルトウィスキーとのことなので好き嫌いがあるかも。でも、なんとなくお父さんは好きそうな気がしたんだよね。」ビンの蓋を開けると、凄いスモーキーな臭いである。おちょこに垂らして、口に含む。このウィスキー、飲むというより、口に含んで楽しむウィスキーである。このウィスキーの産地であるアイラ島はスコットランドにあり、「ウィスキーの聖地」と呼ばれているという。
 そのイギリス、来週EU離脱を問う国民投票をやるんだって。勘弁してよ・・・。虎の子の株が円高の影響もあり、瀕死の状態ではないか。
 昨夜、10時近く布団に入ったら、枕元にある携帯のベルが鳴った。女性の声である。「主人の病状(脳卒中)はまずまずなんですが、私が看病疲れで、近い内に手術をします。その間は施設に入れようと思っております」そのご主人Sさんは私の結婚の仲人をやって下さったKさんの部下で、80才半ばである。Sさんも奥さんに病気になられては大変である。私でできる事があれば、なにかしてやりたい。自分もそのような年齢が近づいている。他人事ではない。
 その自分に驚いた。18日(土)母の白寿の祝いで実家にある秋田に行くのであるが、ANAに電話して、羽田飛行場に行くにはJRであればどこの駅から行くのが便利ですかね」と聞いていた。電話をしながら浜松町からモノレールがでている事を思いだした・・・。家内が私の車を敬遠、飛行機で行く事にした事に納得。(小生74歳)

2016年6月10日金曜日

74才にしてサマセット・モームに出会う

 
現役の頃、TDKは世界陸上のゼッケンスポンサーとなった。
1987年のローマ大会の時は、「お世話になります」という事で日本大使館を訪ね西田大使にご挨拶におうかがいした。広告代理店は「電通」さんである。営業の方にもお世話になったが、スポーツ・文化事業局の飯澤正さんにもお世話になった。
 退職後も飯澤さんにはお世話になっている。小生が自分史を進呈したのに対して、毎年「日本モーム協会会誌"CAP FERRAT"」を送っていただいている。この協会は英国の作家サマセット・モーム(1874-1965)を記念して作られた協会である。
 先日、飯澤さんに「恥ずかしいんだけど、私、モームの作品まだ読んだことないんだけど」と正直に打ち明けたところ「まず、”月と6ペンス”を読みなさい」という返事が返ってきた。
 早速、牛久図書館に行き、同本を借り、読み始めた。実に面白い。翻訳者は中野好夫(1903-1985)だが、文章表現が巧みで翻訳物という事を忘れてしまう。この本に登場するのは画家であるが、私の想像を超えた画家の破天荒な生き方が描かれている。
 今年74才になった私は、比較的恵まれた人生を送っていると思う。だが、最近、「人間の生きがいってなんだろう?」と迷いが生じる時もある。
 モームの作品はこの迷いに示唆を与えてくれそうである。訳者の中野好夫は解説の中でこう述べている。「人間は彼自身にさえどうにも出来ない、複雑極まる矛盾の塊である。-略ーいわば永遠の謎なるものとして人間の魂を描くこと、これが彼の一生を通じて歌いつづけている唯一の主題であるといってよい」。
 こう書くとモームの小説は哲学書のようだが、とんでもない。読みだしたら止められない面白い本なのである。 飯澤さん、ありがとう。

2016年6月5日日曜日

カラヤンの秘書・眞鍋圭子さんと7年ぶり再会

 昨日(6月4日)は、夢のような一日だった。
小生、隣町にあるNPO法人「龍ヶ崎ゲヴァントハウス」(音楽愛好会)の理事を務めている。10周年記念行事として、講師を招聘して欲しいと会から依頼があった。4月、ダメモトでサントリーホール、エグゼクティブプロデューサーである眞鍋圭子さんにメールを入れた。意外にも「喜んで」という返事をいただいた。会としても、私としても夢のような話である。
 眞鍋さんに最近お目にかかったのは7年前である。ホテルニューオータ二で眞鍋さんのパーティがあった。眞鍋さんがオーストリアから勲章を受章、さらに「素顔のカラヤン」という本を出版された。これを祝ってのパーティだった。川口順子・元文部大臣、作曲家・三枝成影、作家・なかにし礼、ソニー相談役・大賀典雄、サントリー佐治会長・夫人といった錚々たるメンバーが参加された。司会は湯川れい子だった。そんなパーティに年金生活者の小生が招待されたのだった。
 昨日の講演会で、眞鍋さんが小生との関係について触れられた。「私が学生時代の音楽仲間の一人です。畠山さんはTDK、グラモフォンの乙黒さん、大阪国際フェステバルの中山さん・・・」。それから約40数年である。
 龍ヶ崎市の講演会会場は座席数80であるが、満席となった。今年はサントリーホール設立30周年。眞鍋さんの話にも熱がこもる。講演会には北海道、名古屋、福島からも熱烈な眞鍋ファンがかけつけ喝采を送った。
 講演会終了後、近くの市の会館で「食事会」。これがまた凄かった。ゲヴァントハウスの役員10名が参加。サントリービールと牛久ワインを飲みながらケンケンガクガク。私は勿体なくも、眞鍋さん、秘書の中村恵さんとともにひな壇に座らされた。
 眞鍋さん、小生の顔を見ながら「お互い年とったわね」。こんなザックバランなところが、眞鍋さんの魅力であり、カラヤン、ベーム、メータ、ティーレマン等、世界の巨匠に愛される理由なのではないかと思った。

2016年5月26日木曜日

甥の立派な長女に驚く(世代交代)



 山北(神奈川県)に住む弟から、「Mさんが、東京の大学に入学したから、歓迎会をしないか」という電話をもらった。その歓迎会が20日(金)新宿小田急デパート、12階のレストランで開催された。参加したのは、私と弟、妹夫妻(笠間)、姉の義弟・工藤光春さん(市川)の6名だった。Mさんには悪いが、Mさんを肴に、東京近郊の親族が集まったという感じである。
 それにしてもMさんの立派なのには驚いた。もう、立派な都会のお嬢様である。Mさんの父である甥のO君も、奥様のWさんも存じ上げているが、ご両親のイメージを超えた気品が漂っている。
 「世代交代」という事を実感した一時だった。これからは、Mさん達の時代なのである。(そういえば、小生の孫のSも、今、21才である)
 Mさんのお父さんH君も東京の大学だった。H君は音楽好きだったので、在学中にバーンスタイン指揮イスラエルフィルのコンサートに誘った事がある。1985年9月、今から31年前の事である。この時の演奏曲目はマーラーの交響曲第9番。音楽評論家に「空前絶後」の名演といわれたコンサートだった。
 Mさんは未成年という事でお酒を召し上がらなかった。次回、お目にかかる時はお酒でも召し上がりながら、実家の事でも語り合いたいものである。もう、自分の時代は終わった。若い方々の前で「一人言」をいうだけである。その中に次代を担う方々の参考になる一言があれば幸いである。
 このような機会を作ってくれた、弟、幸三には感謝である。

2016年5月25日水曜日

郷土の名大関「稀勢の里」


 私の第1の故郷は「秋田」(0才~20才)。第2の故郷は牛久(31才~74才・現在)。そんな訳で牛久出身の「稀勢の里」を応援してきた。
 稀勢の里の四股名の由来は2004年、「稀な勢いで駆け上がる」という意味を込めて鳴戸師匠が提案。本人も納得した。
 大関に昇進する(2012年1月場所)までの稀勢の里は四股名の通リ、破竹の勢いだった。ただ、これから残念な取り口が展開。前半でいつもポロリと敗れるのである。モンゴル出身の「鶴竜」が2012年5月場所で大関に昇進。少なくとも鶴竜より先に横綱に昇進すると思っていたが、鶴竜の方が2014年5月、横綱になってしまった。
 その後も前半でポロリと負ける稀勢の里、同じ郷里ということで後援会にも入ったが、いつも苦渋を飲まされた。ところが、今年の5月場所はどうだろう。仕草、取り口とも堂々としており、勝ち星を続ける。特に10日目の琴奨菊との一戦は真正面からぶっつかり合う死闘。テレビ桟敷にいても血が逆流するようだった。その点、大横綱、白鵬の強引な取り口はいただけない。(まるで格闘技である)
 稀勢の里の活躍で両国国技館は連日満員、テレビの視聴率も連日15%である。それを象徴したのが、5月23日(月)の新聞(写真・読売新聞)。全勝優勝の白鵬よりも、日馬富士に勝った稀勢の里の扱いの方が大きいのである。
 稀勢の里が横綱になれるかどうかは分からない。しかし、私は今場所のような堂々たる相撲を稀勢の里がとってくれれば、満足だし、郷土の誇りだと思う。
 25日の新聞(読売)で横綱審議会の守屋秀繁委員長(75才)はこう語っている。「相撲にはスポーツ、神事、興行の3要素」がある。神様に無礼がないよう『わきまえる精神』が大切だ。わきまえる精神があれば、かち上げや張り手は横綱らしくない・・・それが相撲道であり、歴代の横綱は道を外さなかった。

2016年5月19日木曜日

難行苦行、東京スカイツリー詣で

 
(隅田川、手前・桜橋、北千住・日光方面望む)

 昨日(18日)、東京へ出かけた。
11時に、81才でまだ現役の野原さんと銀座でお会いし、19時~サントリーホールで東京都交響楽団のコンサートを聴くためである。野原さんとの会食が終わってから夜のコンサートまで、大分時間がある。
 「そうだ、予ねて一度は行ってみたいと思っていた東京スカイツリーに行ってみよう・・・」1時半頃、東京スカイツリーに向かう。久しぶりの東京である。地下鉄で東京スカイツリーまでたどり着くのが大変。地下鉄の乗り換えに300mも歩く。2時過ぎには着いたが、オットドッコイ!当日券売り場に行くと、2時間待ちとのこと。幸い本を持参していたので読み始める。
 ところで、東京スカイツリー、できたのは2012年、高さ634メートル、世界一である。近年高層ビルが建ちはじめ、東京タワーでは電波障害が起きるので、その対策の為に建てたという。総工費650億円。
 2時間待ちでやっとチケット売り場へ。350mにある第一展望台のチケットを買う。料金¥2060。エレベーターに乗って驚いたのは、その静寂さ。高速で上がっているのに、揺れもしないし、騒音もしない。350mから見る大東京。それはタワーから見るというより、飛行機から見ると表現した方が良い。大パノラマである。残念ながら富士山は見えなかった。東京スカイツリー、確かに一見の価値はあるが、入場までの苦労を考えると、老人にはムリである。高齢者は若干、チケットの価格は高くなるが、時間指定のチケットを事前に購入した方が良い。
 
 スカイツリーの見学が終わったのは5時頃、夕食をとってサントリーホールでコンサートを聴くにはちょうど良い時間だった。久しぶりのサントリーホール。実に素晴らしいホールだ。曲目はエストニアとアメリカの現代音楽だったが、十分楽しめた。

 

2016年5月17日火曜日

出雲大社、春の大祭(日本の伝統文化)

 
(黒い装束に身を包み、祝詞を上げる神官)
 
 私は秋田の農家の生まれである。
幼少の頃、新年になると「どどさま」と呼ばれる神官がわが家を訪れ、神棚に向かって祝詞を上げ、お祓いをし、家族一同、神棚に頭を下げた記憶がある。
 次男である私はサラリーマンとなり、定年を迎え、今は茨城県の牛久市に住んでいる。細々と年金生活を送っている。
 縁とは不思議なもので、今春、出雲大社常陸教会から「春の大祭」の案内をいただいた。15日(日)11時から挙行するとある。勉強も兼ねてうかがう事にした。
 常陸教会は笠間市にある。わが家から50キロほどである。笠間といえば「笠間稲荷」が有名。笠間稲荷は街の中心部にあるが、出雲大社は街の北西の端にある。急峻な階段を登ると立派な社殿が現れる。天を突くようである。社殿はすでに100名を超える参拝者で埋まっている。
 11時、ドーンドーンという太鼓の音が社殿の中に響き渡る。黒い装束に身を包んだ宮司が登場。
宮司が奥にある神殿に一礼して祝詞がはじまる。抑揚に溢れ、リンとした宮司の声が社殿に響きわたる。祝詞は数百年の時を超え、大地の氏神「大国主の大神」に届くようである。このような祝詞を奏上するまでの宮司の修行は私のようなサラリーマンの想定を超える。式は一時間にもおよび、その中で、参列者一同、国歌「君が代」を斉唱。国家を歌うなど久しぶりである。
 出雲大社の「春の大祭」に参加し、私が感じたのは、自分が日本人だという事である。国際化が進んでいる今だからこそ、日本人は日本の伝統文化に触れるべきだと思った。

 笠間からの帰り、秋田で呼んでいた「どどさま」とはどういう意味だろうかと思った。「殿様」と書いて「どどさま」と呼んでいたのではないだろうか?「どどさま」は品のある顔だちで農民に慕われ、尊敬されていた。

2016年5月16日月曜日

同級生(鷹農)ゴルフ123、最下位。

 
(左から畠山、齋藤、佐藤宣男、阿部、佐藤昭次、簾内)
 
 先週(12日)今年2回目のゴルフコンペに参加しました。結果は123の大叩きで最下位。でも楽しかったなあ。
 コンペ名は「鷹農ゴルフコンペ」。昔、秋田県立鷹巣農林高校(2013年閉校)というのがあったんです。私、そこの卒業なんです。この高校、今はありません。農業とか、林業とか学ぶ若者が今は少ないんでしょう。隣の2高校と合併して、今は北鷹高校といいます。

 当日の参加者(住所)とスコアは以下の通りです。優勝 齋藤拓治(上尾)94、準優勝 簾内隆一(川越)97、阿部秀夫(秋田・大湯)110、佐藤宣男(宇都宮)113、佐藤昭次(龍ヶ崎)118、畠山俊三(牛久)123。<幹事は佐藤宣男君>

 開催場所は栃木県さくら市の紫塚ゴルフ倶楽部。ゴルフ場に着いて驚いたのは、車を駐車させたところ、キャディさんがカートを引いて迎えに来てくれた事。今までの常識では、ゴルフバックは自分でバック置き場まで持っていくのが当たり前。当然、コースもキャディ付き。プレーした全員がこれには満足。「やっぱし、キャディがいないとダメだね」。つまり、皆高齢になったという事です。
 この紫塚ゴルフ倶楽部、コースもキレイ。さらに驚いたのは、宿泊するクラブハウスの立派なこと。楽しかったなあ。優勝して次回幹事になった斎藤君。秋もここでやろう!

 夜の宴会には村上君(山形)、成田君(石岡)、田口君(桶川)も参加。楽しかったなあ!この会いつまで続くやら・・・。昨年まで参加していた黒澤君は、今年亡くなってしまったし・・・。
(宿泊できるクラブハウス)

2016年5月5日木曜日

東京農大、田植え体験


 私が住んでいる住宅団地(刈谷町)は高台(写真・奧)である。南側はJR牛久駅であるが、北側は田圃になっている。中央を牛久沼に注ぐ稲荷川が流れている。田圃の周囲を一周すると、6キロほど、散歩に丁度良い。
 昨日に続いて、今朝も10時頃、田圃に降りてみた。田圃には水が張られ、田植えが始まっている。私が子供の頃は手植えだったが、今は機械が田植えを行う。便利になったものである。今朝は昨日見えなかった、人の集団が見えた。「あの人たちは何をしているのだろう」集団に近づくと、幟旗(のぼりはた)が見える。「東京農業大学・教育講習会」と書いてある。幟旗のある田圃に大人と子供達が並んでいる。東京農大の学生さん達が地元の子供達に昔ながらの手植えによる田植えを経験させているのである。 夢中でシャッターを切った。


  4月29日から始まった5月の連休は今までの連休と比較するとノンビリできた。これは自分史「刈谷いしぶみの会」を休会にした効果である。文字通り、毎日が日曜日。日々楽しい。

2016年4月29日金曜日

凄い愛憎劇!オペラ「カルメン」

 
凄いオペラのDVDが発売された。
 
 有名なビゼーの「カルメン」だが、この「カルメン」だったらオペラを知らない人でも虜になってしまう。そして終幕、嫉妬に狂ったホセがカルメンを刺殺、その悲惨さにやり場がなくなってしまうだろう。私も思わず画面から目をそらしてしまった。これを救ってくれたのが、カルメンを演じたライスとホセを演じたイメルが手をつないで、笑顔でアンコールに応えるために舞台に登場した場面だった。この場面がなかったら、その後の食事も進まなかったと思う。
 
 私がオペラに興味を持ったのは中学生の頃、NHKが招聘したイタリアオペラだった。モナコ(テノール)、テバルディ(ソプラノ)など、世紀の名歌手が登場した。「カルメン」もストーリーよりもこれら名歌手のアリアに圧倒された。(中学生では男女の愛憎は理解できなかった事もある)

 今回、観たオペラは2010年、ロンドンのコヴェント・ガーデン王立歌劇場で収録されたものである。登場する歌手も粒ぞろいだが、ザンペッロの演出が素晴らしい。彼は映画監督でもある。だから、「カルメン」が名曲の集合として展開するのではなく、男女の「情熱と嫉妬」として迫ってくる。ザンペッロの要求でもあろう。舞台が実にリアルで美しい。撮影に当たったネイピアは、鬼才と呼ばれるこの世界の実力者だという。

 万雷の拍手に迎えられ、指揮者カリーディスが登場。指揮棒が振り下ろされると、タンタタ、タンタンと序曲が始まる。それから2時間40分、誰もが画面から目を離す事ができないだろう。

 日本語字幕付。輸入・販売:ナクソス・ジャパン株式会社