2013年12月26日木曜日

47年ぶりに出合った「第9」の名演

(「第9」を指揮した77才の巨匠、エリアフ・インバル)

24日(火)、インバル指揮/東京都交響楽団の「第9」にでかけた。

家内を誘ってみたら、付き合ってくれた。
コンサートの前、上野駅のガード下にある「聚楽」で夕食。
コンサートの時くらい、もっと上品なところで、食事をしては?と思うかもしれないが、家内も私も秋田の農村生まれ。しかも年金生活。「聚楽」で充分なのである。
「好きな物、なんでも頼んで。俺払うから」。家内はニコニコ笑って、”ラーメン”を注文した。

「第9」の生演奏は国内外のオーケストラで20回以上、聴いている。
その中で記憶に残っているものといえば、まず1965年カイルベルト指揮・N響。ドイツ訛りのある素朴な「第9」だった。次が1966年マタチッチ指揮・N響。スラブ風の巨大な「第9」だった。第2楽章でさえ、抉るようにリズムを刻み、強烈だった。両方ともNHKホールやサントリーホールができる前で、会場は東京文化会館(上野)だった。

24日インバル指揮・都響の会場も東京文化会館である。席は1階23列中央で申し分ない。
インバルの指揮する「第9」はオーソドックスで明快。しかも重厚で力強い。(第1、2楽章)第3楽章が見事だった。魂が天国に吸い寄せられるような陶酔感。高校時代、兄と聴いたワルター・コロムビア響(1959年録音)のLPレコードを思いだした。
 第4楽章、右側前方のチェロ・コントラバス群が喜びの旋律を奏ではじめる。美しい。
合唱は二期会のメンバー約70名。プロの集団だけあって、その純度の高さに驚く。オーケストラによる嵐のようなクライマックスでもアンサンブルの乱れはなく「第9」は幕を閉じる。
 私にとって47年ぶりに出会った素晴らしい「第9」だった。

年末、全国で「第9」は演奏されるが、このような素晴らしい「第9」を一人でも多くの人に聴いていただきたい。「第9」は凄い、それを作ったベートーヴェンは凄い、音楽の力は凄いということを再認識した一夜だった。

2013年12月23日月曜日

名演奏に救われた手作りコンサート


なんとも常識破りのコンサートだった。
私が理事の末席を怪我す「NPO法人・龍ケ崎ゲヴァントハウス」主催のコンサートが22日、つくば市の会場で開催された。

 若手中心に進めていたコンサートであり、70過ぎの小生は一歩引いて、コンサートの成り行きを見ていた。
 1時間前、コンサート近くの駐車場に車を止める。駐車場からコンサート会場まで400メートル近くある。雨でなくて本当に良かった。
 会場について驚いた、入口は一般家庭と変わらないような玄関。ここで靴を脱ぎ、スリッパに履き替えるのだという。2階のコンサート会場には椅子が並べられており、100名近く収容できるようだ。天井も高いので、音は良さそう。しかし、車の走行音は聴こえる。

 コンサートが終わってからが大変、主催者であるゲヴァントハウスのメンバー7,8名で椅子やピアノの片付けをする。この会場はバレーの教室の会場であり、コンサート会場ではないとのこと。私の予期しない事が次々と発生したのである。

 さて、肝心のコンサートの方はアメリカの名門オーケストラ、クリーブランド管弦楽団ヴァイオリニスト、白上 冴さんによる「ヴァイオリンリサイタル」。名演だった。会場を埋めた80名の聴衆を感動の渦に巻き込んだ。(会場を埋めた聴衆の半分は龍ケ崎に住む、白上さんのお母さんのお知り合いだった。東京からいらした方も多かった。)

 ゲヴァントハウスの若手が進めたコンサートは感動の拍手で幕を閉じたが成功の要因は白上冴さんの名演とお母様の人脈に負うところが大きい。また天気が良かったのも幸いした。足のご不自由なお客様が駐車場から歩かれる姿は痛々しかった。


2013年12月18日水曜日

夫婦円満のコツは?


現役の頃は家内が食事を作って、洗濯をするのは当たり前と感じていた。
それは自分が働いて給料を運んでいたからである。

ところが、定年になってから11年、年金生活である。
自分は給料を運ばなくなったのに、家内は相変わらず毎日食事を作り、洗濯をしている。
申し訳けないと思う。

それに応えるためには、自分も仕事を見つけるとか、社会貢献をするとかの活動が必要だと思う。
そのような気持ちで日々を送っている。

ところで、14日の日本経済新聞「プラス1」、なんでもランキングに「夫婦円満のコツは?」という記事が掲載されていた。全国の20~60代の既婚男女に対するアンケート結果だという。

”けんかしたら”の問いに男女とも「自分が悪い場合はすぐに謝る」が上位にきていた。納得。”今年一番の感謝”の問いに、男性のトップは「そばにいてくれるだけでうれしい」。小生も同感である。

70才を超えると友人知人の訃報が相次ぐ。妻には長生きしてもらいたいというのが人情だと思う。夫婦は「人間浴」の最少単位である。

2013年12月7日土曜日

外国人が作った大スぺクタル「赤穂浪士」

昨日(6日)はアメリカ映画「47RONIN」の封きり日だった。
たまたま東京へ出かけていたので、昔の日劇後にある有楽町マリオン「東宝シネマズ・日劇」でこの映画を観た。

 単に映画のポスターを見ただけでは「47RONIN」(原題:47Ronin)とあり、主役のキアス・リーブスが大きく写っているので、この映画のストーリーが「赤穂浪士」を原型にしたものとは思えない。

 6日付けの日経・夕刊はこの映画を「主君のあだ討ちに立ち上がった四十七士、といえばおなじみの忠臣蔵。だが異端児のカイ(キアヌ・リーブス)、謎の妖女(菊池凜子)らが加わり、驚きのスぺクタル作品に大変貌。」とある。

 異端児や妖女が加わり、背景や城下町も、幻想的であり、音楽も謎めいている。登場人物はキアヌ・リーブスを除いて、全て日本人だが、監督、脚本、音楽等の製作スタッフは全て外国人である。

 日本の「赤穂浪士」を原作にして、外人スタッフが「ファンタジー・アドヴェンチャー映画」に仕上げたのである。「ロード・オブ・ザ・リング」のファンタジー要素に「グラディエータ―」の戦闘シーンを交えたというこの映画、最初から最後まで息つく暇がない。子供から大人まで楽しめる内容に仕上がっている。

 銀座東宝では3Dで上映していたが、3Dでなくとも十分楽しめると思う。
 シルバー料金千円。千円でこのような空想と最新映像技術を駆使した映画を楽しめる。観て良かったというか、刺激になった。製作費175億円。

2013年12月2日月曜日

あっぱれ!稀勢の里

 
稀勢の里は我が牛久市出身の力士である。
当然、毎場所応援している。ただ、肝心なところで、コロリと負けるのが彼である。
 しかし、11月九州場所は、長年の鬱積を吹き飛ばしてくれた。

 14日、横綱白鵬との対戦は平成の相撲史に残るような名勝負だった。
仕切りをする事に両者の長い睨み合いが続く。そして稀勢の里の見事な立会い。白鵬は土俵際に迫るが逆転の投げを打つ、稀勢の里がこれに耐え、投げを打ち返す。両者重なって土俵際に倒れるが白鵬の体が倒れるのが一瞬早い。場内が万歳!万歳!で沸く。お客さんが立ち上がって万歳を叫んでんいる。我もTV桟敷で「ウォー」と声を上げていた。
 7秒余りの大勝負だった。
 稀勢の里は13日、全勝の日馬富士を破り、14日、やはり全勝の白鵬を破り、千秋楽は鶴竜を破った。3人ともモンゴル出身である。

 モンゴル出身の力士には敬意を表するが、万歳コールは日本人力士に勝って欲しいという相撲ファンの偽らざる気持ちだったと思う。
 稀勢の里は13勝2敗の好成績で来年の1月場所、横綱を目指す。

 このような見事な相撲をとってくれた稀勢の里に同じ牛久に住む者として恩返しがしたいと思った。ということで後援会に入会することにした。
 後援会窓口のある牛久市役所に行き、入会金3千円を支払った。後援会の会員は現在8百名ほどとのことだった。

2013年11月25日月曜日

「ADカセットの会」「ソニー、Iさん退職祝」


19日、”池の端”で飲んだのに20日、21日と連日のお出掛けとなった。

20日は午後、川崎のNさん宅にお邪魔する。Nさんはフルトヴェングラー(1954年死去した大指揮者)のステレオ録音を研究しており、是非音を聴いて欲しいとのこと。小生はモノかステレオかよりもLPレコードを光ピックアップで再生した現代風の音が興味深かった。
 Nさん宅の後、自由ヶ丘でニューヨークでジャーナリストとして活躍しているSさんと会う。
 6時~浅草橋で「ADカセットの会」。当時経営企画のTさん、商品企画の小生、デザイナーのUさん等、Sさんも含め6名参加。Tさんの話によると、売上計画前年比5%だったのが、30%になってしまい、お金を使うのに困ったとの事。小生もオーディオ・音楽評論家等の皆さんと銀座で良く飲んだ。

 21日はそのカセットブームで親しくなった、同業の方々との飲み会。
今回の飲み会の名目はソニーを定年退職されるIさんのお祝い。Iさんはビジネスライクな方の多い一流企業の幹部には珍しく人間味豊かな方である。定年後のご活躍に期待したい。会の冒頭、10月に亡くなられた富士フィルムのKさんに献杯。Kさんは敬虔なクリスチャンで笑顔を絶やさない方だった・・・。
 二次会はTさんの特別の計らい(OB特別価格)でクラブに足を運ぶ・・・。私は連日の飲み会に疲れ、9時頃退散。
   (ソニー、I さんの定年退職祝い。一次会。銀座・寿司店)



                                     

2013年11月22日金曜日

清流の贈り物&池の端料亭

19日朝、階下から家内の声がする。
「宅急便よ!」
差出人を見たら「古矢」とある。開けると”わさび”である。
古矢さんといえば9月、那須で一緒にゴルフを回った方である。私の目の前で500ヤード、2オン。
プロでもなかなかできない技である。
その古矢さん、「わさび職人」とうかがっていた。
わさびが青々としている。獲れたてのわさびはこんな色をしているんだ!さっそく”わさび海苔”を賞味する。海苔がわさびと溶け合って、新鮮である。これは酒のつまみに絶好。家内はなんと食パンに塗りはじめた・・・。産地は奥多摩とある。眼の前に清流に満たされたわさび畑が浮かんだ。

夕方、出かける。KレコードメーカーのOさんから企画中のCDの進捗状況を報告したいので6時に上野・池の端にある「亀屋」に来るようにとのこと。私はこの件では口をきいただけなのに、義理固い。
 早目に着いたので、メニューを見ると「鰻」の専門店でコース料理が8千円~2万円とある。地方の年金生活者には目が飛び出るような値段である。6時に関係者5名が集まる。上座でご馳走になる。
 同席されたGレコードメーカーOBのOさんの話が面白かった。亡くなられたソニーの大賀会長に会長ご自身が運転するヘリコプターに乗って仙台に行かないかと誘われた話など・・・。
 肝心の企画中のCDだが、来年には発売する予定とのことだった。

2013年11月17日日曜日

満喫!人生、第4コーナー

 
(上記の写真を来春号「いしぶみ」の表紙にしたい)

 昨日(16日)は音楽同好会、ゲヴァントハウスの例会があった。CDの再生であるが、まるで生のコンサートを聴いているような臨場感があった。
その後、理事が集まり、12月に開催するコンサートの打合せがあった。ゲヴァントハウスはCDコンサートの開催が事業の中心だが、今年NPO法人化されたのを記念して、米国クリーヴランド管弦楽団の奏者である白上冴さんのヴァイオリンリサイタルをやる事になったのである。
 初めての経験であり、会場探し、プログラムの製作と若手中心に頑張っている。

 昨夜も快眠だった。家内が頻繁に布団を干してくれる。ありがたい。

 今週はスケジュールが建て込んでいる。
18日(月) 8:00~11:00 スーパーマーケットの掃除(週2~3回の掃除が生活のリズムの基本)
19日(火) 13:00 市内歌謡コンサートの音だし 18:00上野でレコードメーカーの方と会食
20日(水) 11:00 米国から一時帰国しているS氏と会食 14:30 川崎・N氏宅訪問 
18:00 浅草橋「ADカセットの会」昔の仕事仲間集合
21日(木) 13:30 地元・自分史の会、定例会。来春号「いしぶみ」の表紙は牛久沼の河童の像をアレンジしたものにしたい。 17:00銀座、ソニーI氏・定年祝い。二次回は富士フィルムT氏行きつけのクラブ
22日(金) 8:30 地元・グランドゴルフ参加(最近ストライクがでるんです。)

71才、人生第4コーナー。結構忙しい・・・。 

 


2013年11月11日月曜日

生誕200年ワーグナー書籍の決定版

図書館に行き、この本を発見した時は驚いた。
手にとって更に驚いた。全頁、人物、舞台、楽譜の写真(ほとんどカラー)が散りばめられている。
読んでみて更に驚いた。平易で読みやく、内容が充実している。
 この本を読むとワーグナーの生涯、作品の全貌がわかる。

 著者はイギリスの著名な音楽評論家、バリー・ミリントン。「ロンドン・イブニング・スタンダード」紙の音楽時評主筆であり、「ワーグナージャーナル」の編者。バイロイト音楽祭その他での上演顧問もつとめてきた。
 「本書最大の長所は、歴史の客観的評価にある。ワーグナーの生涯と作品について、互いに矛盾する証言をバランスよく付き合わせ、ある時は明確な結論に導き、またあるときには問題の解決を先送りにする。このあたりにも歴史的記述に長けたイギリスの伝統を垣間見ることができよう。」
(三宅幸夫、和泉 香)

 ワーグナーの音楽は聴く者を想像もできない恍惚の世界に引き込む。ワーグナーの音楽を聴く時、この本を手元におき、その秘密を探求したい。

 「バイロイトの魔術師 ワーグナー」 B5版 320頁
 バリー・ミリントン(著) 三宅幸夫(監訳) 和泉 香(訳)
 2013年7月22日発刊
 悠書館  電話03-3812-6504  FAX03-3812-7504
  定価:本体9,500+税

2013年11月4日月曜日

横田ご夫妻(拉致被害者)講演会


 4日、「拉致問題を考える牛久市民の会」主催で、横田滋さん、早紀江さんご夫妻の講演会が牛久駅西口のエスカードビルで開催された。
  横田ご夫妻に先だって、荒木和博(特定失踪者問題調査会代表)さんが講演。 テレビでお見かけする3人、生で拝見すると迫力が違う。3人のお話を伺って、①拉致問題は過去の話ではなく現在進行形であり、われわれの孫も注意しなくてはならない。②30年前は拉致問題を信じる人が少なかった。それだけ日本は平和なのだ。③国家として拉致をする北朝鮮を侮ってはいけない。④平和ボケした日本は侮られている。と、感じた。
  3人は拉致問題を解決する為には国民がこの問題に関心を持ち続けることが一番大切だと提言する。 横田ご夫妻は拉致問題を風化させないために、国内で400回の講演を行い、欧米、国連等も訪ねている。
 愛娘めぐみさんが拉致されたのは13才の時、それから36年。もう間もなく50才になるという。北朝鮮はめぐみさんは死んだといって遺骨を送ってきた。横田夫妻は毅然として対応。DNA鑑定に持ち込んだ。北朝鮮というのは偽の遺骨まで作って騙す非常識で残酷な国である。早紀江さんは安倍政権でこの問題を解決して欲しい、解決してくれると信じている、と結んだ。

2013年10月27日日曜日

コンペ終了、深夜バスで秋田へ

 
(24日、宍戸カントリー。左から阿部君、簾内君、吉田さん、小生)

10月は遊びが忙しい。ゴルフ、音楽シーズン、さらに農繁期が終わり、秋田の中学同級会と続く。
 24日、秋田の母校(高校)のコンペ「鷹農35会」開催。場所は日本ゴルフツアー選手権開催の名門「宍戸カントリークラブ」。秋田から阿部秀夫君、近藤實君もかけつける。(幹事・成田敬吾君)くるぞ、くるぞとマスコミが報じた台風27号の余波で雨に見舞われたが無事終了。小生57、55の最下位。名門だけあってキャデー付。キャデーの吉田さん、お嬢さんが秋田の国際情報大学の学生さんとの事。キャデーをやりながらお嬢さんの学費を稼いでいるのである。
 修了後、愛宕山(笠間市)の山荘で親睦会。私は18時30分に宴会会場を辞して牛久の自宅に向かう。

 自宅で着替えをし、20:00牛久駅に向う。東京発22:00発の深夜バスに乗り、秋田へ行くのである。深夜バス、東京から秋田まで¥5,500で行けるので助かる。乗客は若者ばかり、バスは老人には体力的にムリなのである。(つくづく自分はケチだと思う)
 25日6:30分、横手着。7:15分横手発、本荘行きのバスに乗る。8時40分、実家のある石沢に到着。久しぶりに母と兄夫婦に会い、元気な顔を確認し合う。母96才だが、私の孫達の年齢まで良くご存じ。タジタジである。
 10時50分、中学同級生の佐藤新市君が迎えにくる。母から栗の土産をもらい、実家を出発。(牛久に着いてから、栗の粒の大きさに家内と驚く)
 今回ムリなスケジュールながら秋田に向かったのは13:00からの中学の同級会に参加する為である。と同時に母と兄夫婦に会えるからである。
 12:40分、会場の「鳥海荘」に到着。「鳥海荘」は初めてだが、想像以上に素晴らしい。開演前に急いで温泉に入る。湯がヌルヌルして独特。玄関から温泉に向かう廊下に鳥海山に関する写真が
ビッシリと貼られている。外は台風の影響でガスがかかり景色はなにも見えないが、これらの写真が鳥海山の素晴らしを物語ってくれる。
 同級会には男女18名が参加。人数は年々減ってきているが、人数が少ない方がコミュニケーションが密にとれて嬉しい。
 同級会は16:00終了。私は大場恵二君の車に乗って秋田市に直行。秋田発21時の深夜バスに乗る。このバス、27日(土)早朝、東京着とあって、土日東京で過ごす若者で満席。助かったのは満席の中で良く寝れた事。やはり深夜バスのトンボ返りは疲労がたまるようだ。
 6時過ぎに新宿駅に到着。新宿界隈のビル街を観て、改めて東京の巨大さを認識。
この大東京ができたのも我々日本人の汗の結晶なのだ。2020年東京オリンピック。東京はどう変貌するのか期待に胸が膨らむ。

2013年10月23日水曜日

秋の軽井沢バス旅行

(軽井沢の手前、安中市にある「めがね橋」)

 家内にバス旅行に誘われた。秋の軽井沢バス旅行である。
牛久駅前を7:10出発。
軽井沢の前に旧信越本線、横川駅(峠の釜めしで有名)と軽井沢駅間にかけられた「めがね橋」を観る。明治25年竣工。実に美しい(写真・上)
 12時30分、軽井沢プリンスホテルに到着。ここで昼食。洋食のコース料理。さすがどの料理も上品な味がする。束の間のセレブ気分。ついつい、生ビールを2杯も飲んでしまった。

 昼食の後、旧軽井沢に行く。避暑地の商店街だけあって食品を中心に名店がひしめいている。雨だというのにアジア系の観光客も含めて賑やか。
 その後、「白糸の滝」を観る(写真下)。軽井沢プリンス近辺は紅葉はこれからという感じだったが、浅間山の中腹にある滝周辺は紅葉真っ盛りである。
 軽井沢は現役の頃、勤務していた会社の千曲川工場(磁気テープ生産)、テクニカルセンターがあったので数十回訪れたが、「めがね橋」「旧軽井沢」「白糸の滝」は初めてである。やはり観光地をゆっくり堪能するにはリタイアしてからである。

秋の別荘地を堪能して21時帰宅。奥様、ありがとうございました。

2013年10月13日日曜日

90才、世界最高齢指揮者の名演!

 

 11日、町内の吉野さんから電話をいただいた。「明日のコンサートのチケット2枚ありますが行きませんか」という内容だった。吉野さんご自身は当日ゴルフの予定が入り、そちらへ行かれるとのこと。音楽好きの横浜在住、吉原さんに電話したところ、是非とのことだった。12日、サントリーホールにでかけた。
 ホール入口で音楽評論家・東条碩夫先生にお目にかかる。でがけに先生のブログを見た私は「先生、ニューヨークだったんじゃないですか?」「夕べ帰ってきたんです」とのこと。(ブログには9日のメトロポリタン歌劇場のリポートが掲載されていた)東条先生、安倍総理並み。欧米を股にかけてお忙しい。我々の座席は二階正面、1列目。後ろをみると、前日銀総裁・白川さんがいらっしゃる。

 今日の出し物であるが、スクロヴァチェフスキー指揮・読売日本交響楽団によるブルックナー交響曲第4番「ロマンティック」。スクロヴァチェフスキーは1923年10月3日ポーランド生まれ。来日中に90才を迎えた世界最高齢の名指揮者である。
 この演奏が素晴らしかった。高齢になると音楽そのものが円熟した味になるのだが、スクロヴァのブルックナーは新鮮で活き活きしている。ブルックナーについてはバーンスタイン、マタチッチ、朝比奈隆といった定評のあるブルックナーを聴いてきた。それらはいずれも重厚でうねるような演奏だったが、スクロヴァのブルックナーは透明感があり、色彩豊か、メリハリがある。定評ある三者のブルックナーをアナログサウンド、スクロヴァはデジタルサウンドといってもよいかもしれない。スクロヴァは若い時フランスで学び、その後アメリカで活躍した。そういったグローバルな活動が彼のブルックナー演奏に反映しているのかもしれない。
 ブルックナーの演奏時間は70分を超える大曲だが、スクロヴァは立ちっぱなしで指揮をした。使命感に溢れた人間は身体も強靭であることを舞台で実証し、会場を興奮のるつぼにした。

2013年10月10日木曜日

ブーニンと佐藤卓史

ブーニンってピアニストだよね、ところで佐藤卓史って誰?実は佐藤卓史もピアニストなんです。
ブーニンは1966年モスクワ生まれ、17才でロンティボーコンクール・グランプリ受賞。19才で国際ショパンコンクール優勝の天才である。
佐藤卓史は1983年秋田市生まれ、2006年ミュンヘンARD国際コンクール特別賞、2007年シューベルト国際コンクール第一位。

 昨日(9日)、東京文化会館小ホールで佐藤卓史のデビュー10周年記念リサイタルがあった。曲目はベートーヴェンの4大ソナタ「悲愴」「ワルトシュタイン」「月光」「熱情」。開演前、文化会館の資料室でブーニンが演奏した同4曲を聴く。これがベートーヴェンかと思えるような流麗な演奏である。それにしても各曲の終楽章は迫力満点。この4曲を一晩で演奏するなんてとんでもないと思った。

 佐藤卓史の演奏を聴く。最初の「悲愴」がはじまった途端、ベートーヴェンの響がした、ベートーヴェンと真っ向勝負の演奏である。この分だと「熱情」ではどうなるうだろうとワクワクした。
 
会場で配布されたプログラムを見ると、佐藤卓史自身が曲目の解説をしている。恐らく音楽評論家などに任しておけないという思いが彼にあったのであろう。その解説を読むと、ピアノ曲こそベートーヴェンの創作の原点だという。また、第一主題を終楽章まで展開して全曲を統一していく構造には驚くと書いている。
 楽曲の透徹した解釈による佐藤のベートーヴェンは一瞬の揺るぎもなく「熱情」が終わると会場は熱い拍手とブラボーの声に包まれた。

 知情意でいうと、ブーニンの演奏は情が勝り、佐藤卓史のベートーヴェンは知、意が勝っているといえよう。いずれにしろ、これからの佐藤卓史は楽しみである。

2013年10月4日金曜日

グランドゴルフ、590名参加

グランドゴルフをはじめたのは2006年、もう8年にもなる。
動機は一緒にシルバーセンターでスーパーの掃除をやっている先輩のすすめだった。
クラブ、ボールは先輩が譲ってくれた。今もその道具を使っている。
毎日、なにかと忙しいので、コースにでるのは月2~3回ほど。それも練習がほとんどで、試合にでるのは年1~2回である。

先日、百人委員会(百人とは百歳までという意味かな?)のコンペが隣の茎崎町(つくば市)であるから参加しないかと誘われた。その大会が昨日(3日)行なわれた。
会場に行って参加者名簿(写真・下)を見て驚いた。6頁にわたってギッシリ書かれている。数えてみると、590名である。大会のサブタイトルをみると、(県南大会)とある。所属クラブの地域名をみると、牛久、つくば、土浦、霞ヶ浦、千代田、取手、龍ケ崎、守谷・・・と県南全域にわたっている。

試合は3コースを回るというもので、パープレーだと72。私は63。入賞は1位から20位まであったが、入賞者のスコアは全員50台だった。
グランドゴルフはゴルフほどのダイナミックさはないが、いつでも気軽にできるのが良い。この日の参加費もわずか¥300で、一日楽しんだ。私は幸いホールインワンがでて、テッシュペーパーをいただいた。

ところで、グランドゴルフは1982年(昭和57年)鳥取県泊町で誕生したという。ヒョットすると、このスポーツ、海外でも普及するかもしれない。



2013年9月22日日曜日

那須の麓でゴルフをやりました。

(ヨーロッパの城を彷彿とさせる、「那須ハイランドゴルフ」のクラブハウス)

最近はメッキリゴルフの回数が減った。理由は3つ。
 ①ゴルフ好きだった川上先輩が昨年亡くなられた。
 ②体力の低下とともに、ゴルフの腕が衰えた。
 ③付き合いの範囲が増え、金のかかるゴルフに金がまわらない。

そんな状況下、9月は2回ゴルフをやるハメになった。

 6日、茨城県知事選挙不在者投票の事務所に詰めていた所、携帯に電話。O社の社長から”8日どうしても俺に付き合えとの事。不幸でもあったのかと思って、了解したら、ゴルフをやろうとの事だった。さすが社長、プレー代・食事代、全てオゴリだった。
 
 この日はなんという日だろう。T社の相談役からもお電話をいただいた。昨晩の飲み会のお礼の電話だった。さすが、偉くなる人は気遣いが違う。

 18日はかねてから予定していた「和会」コンペ。会社本社スタッフOB会のコンペである。大荒れの3連休が嘘のような快晴。那須高原に向かう。会社とは関係ない「わさび栽培」職人の古矢さんが私の組に入った。古矢さん、500ヤード2オンという飛ばし屋。私の飛距離は古矢さんの半分だった。
 このコースのショートホールに120ヤードのところが2ヶ所あった。8日の経験からして、7番ウッドだと丁度良いと思った。予想がピタリと当たり、2ヶ所ともニアピン賞ゲット。その他に馬券も当たり、大枚が入ってきた。アリガタヤ、アリガタヤ・・・。皆さんに申し訳けない。
(ゴルフコースから黒磯方面を望む)

2013年9月15日日曜日

肛門をこする春野の法悦や

「肛門をこする春野の法悦や」
この歌は俳句同人誌「らん」56号に掲載されていた丑丸敬史さんの作品である。
実に野趣豊かおおらかである。子供の頃、我慢できなくて、藪に入って一息ついた事を思い出した。

恐ろしい歌もある。
「ただ一枚賜る賀状母とあり」「抱かれると思う仏の膝寒し」「綱(つな)よごすまじく首拭く寒の水」
この三首、死刑の宣告を受けた死刑囚の歌である。

そして、
「叫びたし寒満月(かんまんげつ)の割れるほど」
この句は冤罪の可能性のある方の絶句とある。

こんな官能的な歌もある。
「やるせなきところに触るる苦うるか」嵯峨根鈴子

最後にこのような含蓄のある句集を紹介して下さった、高野射手男さんの作品。
「バスが来て花野色めくバスは去る」
このバスには誰が乗っていたのだろう。青春を乗せたバスが来て去っていったというのだろうか?


高野さんは71才の小生よりご高齢である。

2013年9月10日火曜日

会社への遺言

(5日午後、西宮さんの案内で阿佐ヶ谷のジャズカフェ”エリントン”訪問)

牛久には私と同じTDK・OBの吉野宏さんが住んでいる。吉野さんは昨年の秋、定年退職をした。
吉野さんがTDKの澤部相談役に定年の挨拶に行ったところ、「そうか、関係者で一杯やろうか」という事になったという。吉野さんから、この会に参加しないかという誘いがあった。会には現職の役員も数人参加されるという。 私はTDKを定年退職してから11年。在職中は中間管理職に過ぎなかった。その私が、そんな偉い方の集まる会に参加していいものか迷ったが、これもなにかのご縁。参加することにした。

”澤部相談役を囲む会”は5日(木)午後6時からTDK柳橋倶楽部で開かれた。私は会社のトップの方々に今後お目にかかることがないと思ったので、日頃、思っている事を”遺言”だと思って申し上げた。その要旨は「創業の精神を忘れないで欲しい」というものだった。

 TDKは昭和10年、東京工業大学の加藤与五郎、武井武両博士が発明した磁性材料「フェライト」を工業化するために創立された。創立したのは、秋田県出身の斎藤憲三(衆議院議員・科学技術庁政務次官)である。二代目社長は東京工業大学出身の山﨑貞一(静岡)である。
 私はTDKで一時期社内報を担当していたので、加藤先生、武井先生、斎藤初代社長、山﨑二代目社長を身近で拝見し、原稿を頂戴したり、対談のテープ起しをした。創業者の方々の思考は森羅万象であり、行動はダイナミックだった。

「パナソニックショック」を執筆された立石泰則は同書の中でこう述べている。”創業者精神こそが、その企業誕生の源泉であり、成長の源泉であり、生存の源泉である”と。澤部肇相談役は社長時代「TDK歴史館」を作った。創業者の思いを後継者に伝えたいという一念だった。

TDKの社是は「創造によって世界の文化産業に貢献しよう」である。

2013年9月3日火曜日

放っておくと癌になりますよ!

(43年前住んでいた西荻窪のマンション。9月5日撮影)

8月13日のブログ”人間浴”に「酩酊!全治二週間」という記事を書いた。
8月9日、秋葉原で飲んで、帰りに転んで、左肘を怪我したという内容である。怪我した場所がカサブタになったので、二週間もあればカサブタもとれるだろうと思っていたのである。

ところが、である。肘というのは曲げ伸ばしするので、固まった”カサブタ”が崩れてしまう。
21日、ついに総合病院の整形外科に行った。
レントゲン検査をしたところ骨には異常はなかったということで、お医者さんいわく「カサブタが崩れないように大判の絆創膏でも貼っておけば自然に治りますよ」

ところが、である。絆創膏をしたところで、皮膚を固定したわけではないので、カサブタの崩れはとまらない。今月の下旬には久しぶりにゴルフコンペもあるし、早目に治したい。

昨日(2日)、午後、総合病院に行って状況を説明しようと思って電話したら、「午後は休診です」とのこと。それならば、R整形外科へ。ということででかけた。R病院に着いたのは3時頃。待っている人は4~5人なので、1時間も待てば順番がくるだろうと思っていたが、いっこうに名前を呼ばれない。おかしいと思って受付けてもらった事務員に「何時頃になりますかね?」「お名前は?」ときた。顔も名前も記憶にないらしい。これはダメだ。「時間がないので、帰ります」。

帰りがけに以前行った事のあるU皮膚科に寄った。皮膚科に寄る予定はなかったので診察券は持っていない。事情を話たら、すぐに対応してくれた。
お医者さん、傷を見るなり、「旦那さん、この傷放っておくと皮膚癌になりますよ!絆創膏を貼るなんてとんでもない」。殺菌した後、化膿止めの軟膏を塗ったガーゼを傷口にあて、ネット包帯で包んでくれた。
私はU皮膚科に救われた気がした。総合病院が午後休みでよかった!R整形外科の記憶喪失の事務員さん、ありがとう!


2013年8月30日金曜日

ジェジェ!ホロヴィッツ変奏曲

(ホロヴィッツ夫妻”奥様は大指揮者トスカニーニの末娘”)

26日、昼食の後、昼寝。眼を覚ますと時計は2時を回っている。
FMラジオのスイッチを入れる。ジェジェ!なんだ、なんだ、とんでもないピアノの音が聴こえてきた。あの世で鳴っているような音である。アナウンスが流れる。「ただいまのはリスト作曲、パガニーニによる大練習曲から第2番。ピアノはウラデミール・ホロヴィッツ、1930年の録音でした。」
 あわてて、番組表を見ると、ホロヴィッツ変奏曲~名盤を通して知る大芸術家~。今日はその第一日目。第1変奏、奇跡のピアニスト、ホロヴィッツ~その魔性のピアニズムに迫る~とある。この番組、今日が初日で29日まで4日間続いたのである。スッカリ、ホロヴィッツの魔性にとりつかれてしまった。番組にゲスト出演したピアニスト、伊藤恵のコメントが良かった。曲が終わるごとに、感想を述べる。それが実に的確。
 ホロヴィッツというと、1983年初来日の時、体調が悪く、「ひびわれた骨董品」と吉田秀和に評された。また、公演のチケットがS席5万円(平均4万)”NHKホール”と破格だった。今回の放送を聴いて破格な値段の理由も理解できた。是非、再放送して欲しい番組である。

 ホロヴィッツの放送を聴いてルービンシュタインを思いだした。彼はホロヴィッツより7才年上。1887年の生まれである。1966年2回目の来日をした。この年、ビートルズも来日。彼等が武道館で公演した一週間後、同じ武道館で公演した。1万5千人が詰めかけた。私も秋田から来た阿部君と一緒に聴いた。広い会場をものともせず、ルービンシュタインの悠然たる演奏が鳴り響いた。
 
 1960年、ルービンシュタインはショパン国際ピアノコンクールの審査委員長を務める。この時優勝したのがポリー二。ルービンシュタインは「ここにいる誰よりもうまい」とポリー二を評した。ポリー二は私と同じ1942年の生まれ。1974年初来日。グラモフォンレコードの土橋さんの招待でポリー二を聴く。私の体は硬直してしまった。息もできなかった。理詰めの凄い演奏だった。

2013年8月22日木曜日

世界陸連から感謝された私

「世界陸上・男子選手ゼッケンには”TDK”のロゴが付いている」
 (8月19日付、朝日新聞より転載)

子供の頃、運動会で母親に「シュン、ビリにはなるなよ!」と言われた。兄はいつもトップグループ、私はいつもビリだった。大人になってもスポーツは全くダメ。
 なぜか、その私が世界陸上を主催している世界陸連から、感謝のレリーフを頂戴している。

世界陸上モスクワ大会は18日、9日間の幕を閉じた。10日、女子マラソンでは福士加代子が銅メダル、木崎良子が4位に入賞した。男子マラソンでは中本健太郎がアフリカ勢と競って堂々5位入賞。男子4×100mリレーでは日本がジャマイカ、アメリカ、カナダ、ドイツ、オランダに次いで6位となった。
 ところで、男子選手の胸に『TDK』のゼッケンが着いているのにお気づきだろうか?世界陸上は1983年、ヘルシンキで第1回大会が行なわれた。それ以来、モスクワ大会まで、TDKは世界陸上のゼッケンスポンサーを続けている。
 実は私は元・TDKに勤務しており、87年のローマ大会、91年の東京大会、93年のシュトットガルト大会、95年のイエテボリ大会、97年のアテネ大会、99年のセビリア大会、の6大会を担当した。そのお陰で87年にはローマでカールルイスとベンジョンソンの百メートルの一騎打ちを観戦。解説者として大会にいらしていた長嶋茂雄氏にもお目にかかった。
 スポーツ音痴、語学音痴の私が世界陸上にこんなに長い間お世話になったのは運命の悪戯だったと思う。

 1999年、私は世界陸上の仕事から離れるが、世界陸上のマーケティング会社会長から私はセビリア大会100m、200m、400mリレーで3つの金メダルをとったモーリス・グリーンの写真パネルを頂いた。そのパネルには「陸上スポーツの継続に貢献した貴方に感謝します」という英文のレリーフがセットされていた。(リレーフ下のロゴは左から世界陸連、マーケティング会社、電通)

2013年8月18日日曜日

綱渡り、盆踊り放送担当

(盆踊りを盛り上げる「刈谷和太鼓クラブ」の少年、少女達)

私が住んでいる牛久市刈谷団地は自治会の主催で毎年盆踊りを実施している。
私は平成20年から盆踊りの放送を担当。今年で5年目である。盆踊りは17日と18日の2日間行なわれる。

盆踊りは、櫓(やぐら)などの会場設営、ゲストも交えての踊りのプログラム編成、屋台の設営など自治会を中心に町内総力を挙げてのイベントである。刈谷地区の少年少女で編成された和太鼓クラブの出演等もあり、老若男女の交流の場でもある。

放送担当の酒井さん、五十嵐さんには平成20年からお世話になっている。状況に応じて適切に対応していただけるので任せて安心。しかし、放送担当はうまくいって当たり前。綱渡りである。
 主催者側の開会の挨拶が終わり、市長、国会・県会議員・小中学校校長等の挨拶が続いたが、なんと、冒頭の市長の挨拶で「キーン~」という音、事務局サイドの視線が放送担当の私に注がれる。ハウリングである。櫓の上のマイクがスピーカの音を拾ったらしい。なんとか対応。
 終盤、こんどは肝心なところで、五十嵐さんが「音がでません」。機材を見たら、アンプの電源が切れている。電源コンセントを強く押したらアンプのランプが着く。危ないところだった。

 盆踊りの1日目がなんとか無事に終了し、帰宅すると、世界陸上マラソンの放送中。アフリカの強豪勢と競って中本健太郎が5位入賞。立派!
 今(18日)高校野球を観戦しながらブログ作成中。隣町土浦市の常総学院が3回戦で福井商業を9対1で圧倒。監督は木内さんから佐々木さんに変わったが常総マジック健在である。
 今日は盆踊りの2日目、盆踊りの放送担当は71才である私にとっては若人にとっての高校野球と同じである。ミスがでないよう万全を期したい。
 

2013年8月13日火曜日

酩酊!全治二週間


 こんな経験、リタイア後はじめてである。酩酊!全治二週間の擦過傷である。

 8月9日(金)現役時代お世話になった電気業界新聞社長、田村さん、長谷川さんに何年ぶりかにお目にかかる約束をした。
 約束の時間は6時から秋葉原の居酒屋「赤津加」である。
その前に上野の東京文化会館・音楽資料室に寄り、調べものをしよう。ところが、文化会館に着くとなんと臨時休館である。会館の周囲を見回すと、西洋美術館の手前の野外休憩所のテーブルが空いている。ここに陣取って本を読むことにした。木陰になっており、暑さをしのいで休憩するには絶好の場所だった。(写真)
 5時40分頃、「赤津加」に着く。テーブル席が丁度空いていた。「お揃いになってからにしますか?」「いや、生ビールお願いします」ここらへんからまずかった。6時丁度、長谷川さん到着。長谷川さんとビールで乾杯。「田村さん、遅れるそうだから日本酒でもやりますか」「冷を徳利で頼みましょう」。6時30分頃、田村さんが見えたのは記憶があるが、その後の記憶といえば、「大丈夫ですか」と長谷川さんに腕を抱えられている光景。降りた駅は牛久の次「ひたちの牛久」だった。幸い上りの最終電車があったのでそれに乗り、牛久駅に着く。駅前に自転車を置いていたので、自転車を駐車場から引き出そうとして、横転。なんとか家にたどり着いた。
 朝起きてシーツを見てアレッ、シーツに赤い模様が着いている。良く見ると血痕である。腕を見ると、肘が真っ赤。かなりの擦り傷である。5日たった今でも、腕や胸が痛い。寝返りを打つのが不自由である。しかし、この程度で済んで良かった。

 こんな経験、リタイア後はじめててある。なんて書きはじめたが、数年前も似たような事があったような気がしてきた。「人間浴」を見返してみたら2010、11、3、八潮市在住の岩崎邸(高校時代の同級生)でご馳走になり、この時も乗り越し。この時は帰りの電車がなく。一駅歩き、午前2時に自宅に戻ったとある。そう言えば、亡くなった親父も酔っ払いだったな。その内、親父のように訳のわからない事をわめくようになるのかな・・・。

2013年8月7日水曜日

圧巻!霧島国際音楽祭・東京公演

(圧巻!霧島国際音楽祭出演メンバー。その1部)

 昨日(6日)、東京オペラシティコンサートホールで行なわれた「霧島国際音楽祭・東京公演」にでかけた。
 18時40分、ホールの座席につくと、誘い合わせた弟(神奈川・山北)が既に席に着いていた。席は1階5列目中央。指揮者の真後ろ、カブリツキである。
 オーケストラ団員が席に着くと、あわててメンバー表を確認した。
 NHK交響楽団や読売日本交響楽団の首席奏者がズラリと並んでいる。それだけではない。メンバー表をみると、ベルリン国立歌劇場のコンサートマスター、アムステルダム・コンセルトヘボウの首席奏者も名を連ねている。キリシマ祝祭管弦楽団の中身は国際選抜管弦楽団なのだ。実に壮観である。女性奏者は皆美人揃いであり、これにも驚いた。

 指揮者は鹿児島出身の下野竜也。前半のベートーヴェンの交響曲第1番。彼がまだ幸福だった頃の作品。彼にもこういう希望に満ちた時期があったということを実感させる若々しく力強い演奏。
 後半は生誕200年を記念してワーグナーの楽劇「ワルキューレ」第1幕。ソリストはマリンスキー歌劇場(ロシア)のソリストが出演。同歌劇場の音楽監督ゲルギエフの推薦した歌手達。カブリツキで聴く一流歌劇場の歌手陣の声は五臓六腑に沁み込んだ。下野が最後の指揮棒を振りきると、ブラボーの声とともにホール全体が拍手に揺れた。

  終演後は53階にある”北の味紀行と地酒「北海道」”で弟と食事。刺身と地酒が美味しい。スッカリ弟にご馳走になる。

*霧島国際音楽祭→1975年、来日中のゲルハルト・ボッセ(東独ゲヴァントハウス管弦楽団員)が提唱。今年34回目に当たる。今年は7月17日~8月4日まで鹿児島市を中心にコンサート&講習会を実施。締めくくりに東京公演が行なわれた。

2013年8月5日月曜日

燦々!人間浴。この一週間

7月30日から8月5日までの一週間、いろいろなことがあった。
 まず、孫である。31日、小1と小3の孫を連れて東京ドームのナイターに行った。いつもは8時30分には床に着くという2人だが、9時30分まで飽きずに観ていた。ドームをでて水道橋から上野までの電車のラッシュは凄い。2人をなんとか大人達の隙間に潜り込ませた。野球もそうであるが、ラッシュも彼等の幼少の記憶として刻まれることだろう。2日、孫達を佐倉市の自宅へ送り届ける。
 熊谷市の曽根さんという方からお手紙をいただいた。元大蔵省勤務で、現在は自治会、長寿会と八面六臂のご活躍。曽根さんの知人に小生の母校の元校長がいらっしゃるという。たどっていけば、日本人はみな仲間であり、親族だと思った。
 音楽仲間の吉原さんが、1942年、44年録音されたフルトヴェングラーのCDを送ってきた。1942年といえば小生の生まれた年である。思いの他音は良く、演奏はさすがに凄い。44年録音のベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を弾いているのはエーリッヒ・レーンというはじめて名前を聴く奏者。音も演奏も瑞々しい。
 4日、横須賀に住む松蔵叔父さんの葬儀。18才で秋田から東京へでてきて57年。75年の生涯だった。仙台から義兄の憲さん、ひたちなか市から義弟の猛さんもかけつける。
 帰宅したら、現役時代の大恩人のOさんからお電話。声が弱々しい。「実は水頭症にかかってね。手紙も書けないので電話した・・・」。心からOさんの全快を祈る。
 牛久から横須賀までは2時間30分。ジックリ本が読める。
 磯田道史著「無私の日本人」。貧困にあえぐ仙台藩吉岡宿。武士にお金を貸し、利息でこの吉岡藩を救うという奇想天外なお話。作者は1970年生まれ。「武士の家計簿」の作者でもある。
 植村攻「巨匠たちの音、巨匠たちの姿」(1950年代・欧米コンサート風景)。筆者は1928年、東京生まれ、東大卒業後、富士銀行入行。「当時のヨーロッパの音楽祭、日本人はおろか東洋人らしい顔は見当たらなかった」「銀行とはいったいそんなに暇なのか」。故・音楽評論家(文化勲章受章)吉田秀和の音楽体験記を上回る体験記である。クラシックファン必読。
 

2013年7月31日水曜日

孫来宅、キャッチボール

昨日、夏休みということで、息子の方の孫が来宅した。
息子の子供は3人、3人とも男の子、2才、7才、9才である。
 嫁と2才の子は昨夕、夕食の後、帰宅した。

 今朝、6時30分、朝食。
「パパはこの時間、もういないだろう?」
「うん、5時30分にでかける事もあるよ」と長男。
「おじいさんと同じね」と家内。
 現役の頃を思い出す。日本橋の会社に7時頃出勤。新聞を読んだり、仕事の段取りをするのが日課だった。夜は夜で連日、残業か、付き合い。

 朝食後、7才と9才の孫と近くの公園でキャッチボールをした。
 2人ともクラブ活動は野球だという。
 私はもともとスポーツは苦手。キャッチボールの腕前は7才の次男並みだった。9才の長男はさすがにうまい。
 息子が小さい時は、仕事漬けであまり一緒に遊んだ事がない。
 子供よりも孫の方が成長を身近に感じられのかもしれない。

 今晩は彼等と東京ドームへ行く。巨人・ヤクルト戦である。

2013年7月25日木曜日

オリンピックを動かす巨大組織「IOC」

オリンピックを動かす巨大組織「IOC」という本が新潮社から出版された。著者はIOC名誉委員の猪谷千春氏である。(IOC→INTERNATIONAL OLYMPIC COMMITTEE”国際オリンピック委員会”)
 オリンピックというと、2020年夏のオリンピック開催地に東京が立候補しており、9月には開催地が決まる。この開催地を決めるのがIOCであり、票を投じるのがIOC委員である。猪谷氏はこのIOC委員を1982年から2011年まで務めた。
 IOC委員になった経緯、IOC委員とはなにをやるのか、サマランチ革命(オリンピックの商業化の功罪)、冬季長野オリンピックの内幕(猪谷氏は長野を訪れたIOC委員を自宅に招待した。その回数60回。全部自費だった)etc。猪谷氏は自分の体験をリアルにしかも平易に語る。
 オリンピックというとドーピング問題とか、IOC委員に対する賄賂問題、肥大化などの諸問題が頭を掠めるが、猪谷氏のように真にスポーツ文化を愛し、しかも誠実な委員がいたから、オリンピックが継続しているのではないかと思った。

 私事で恐縮だが、現役の頃、会社が世界陸上(IAAF)のゼッケンスポンサーになり、87ローマ大会、91東京大会、97アテネ大会等の事務局を仰せつかった。パーティでは長嶋茂雄さん、有森裕子さんとカメラに収まった。夢のような時期だった。なお、世界陸上の大会会長はサマランチと盟友だったネビオロさん。当社のパーティでは奥様とダンス披露して下さった。
 世界陸上、オリンピックの陰の立役者は日本の電通である。電通の方々には大変お世話になった。

2013年7月18日木曜日

東北勢、初戦突破!都市対抗野球

(”なまはげ”も登場した、にかほ市・TDKの応援席)

 私は電子部品メーカーであるTDKの元社員である。
TDKは秋田県に主力工場があり、ここに硬式野球部がある。
 この野球部が東北第2代表として、全国大会に出場。昨日、東京ドームで試合が行われた。(TDKは2006年全国優勝し、東北に初の黒獅子旗を持ち帰った。その功績が認められ、秋田県県民栄誉章を受章した。)
 所用を終え、東京ドームに着いたのは13時30分頃。試合は10時30分からはじまっていたので終わっているのではないかと思っていたが、延長戦に入っていた。相手は東広島市代表の伯和ビクトリーズ。強豪を相手によくぞ延長戦まで持ちこたえたものだと思う。延長12回、TDKは阿部の二塁打でなんと2点を奪う。これが決勝点になり、2対0で勝利した。

 このところ、TDKは業績も冴えず、秋田地区では工場の閉鎖が続いた。その閉塞感を打ち破るような見事な勝利だった。秋田からはバス15台を連ねて大応援団がかけつけた。今回の勝利を切っ掛けに、業績もV字回復の軌道に乗るよう祈りたい。
 夜はTDK時代、独身寮で一緒だった柏倉先輩、同僚の今野君(秋田から応援にかけつけた)と3人で祝杯をあげた。

 第2試合は東北第1代表の石巻市・日本製紙と、長野市・信越硬式野球クラブが激突。石巻市は先行されたが、3回表、見事な集中打で6点をあげ、7対3で勝利した。石巻市の応援団は外野席まで溢れ(写真・下)、震災の悲劇をこの一戦で吹き飛ばそうという気概を感じさせた。


2013年7月10日水曜日

パナソニック&スパイ、ショック

 私の家は1階の居間のテレビも、2階のテレビも「パナソニック」(松下電器)である。
そのパナソニックが平成25年3月決算で、7,650億という巨額の赤字を出した。前年度も同額の赤字であり、合わせると1兆5千億となる。
 そのパナソニックの歴代経営者の功罪を描いた本が発刊された。立石泰則著「パナソニックショック」(文藝春秋社)である。松下電器はいわずと知れたあの松下幸之助が作った会社である。パナソニックを経営危機に陥れたのは平成12年、6代目の社長に就任した中村邦夫と平成18年7代目となった大坪文雄の失政に根本原因があると語る。中村は社長就任と同時に「経営理念以外は全て破壊の対象とした」。大規模な人員削減も行われた。その過程でノーベル賞級の技術者も流失したという。”幸之助は社員を価値を生み出す資産(戦力)とみていたが、中村は社員を数字でしか理解できない。”流失した技術者は韓国のサムスン電子やLG電子等にも流れた。
 巨額赤字の原因は2つ。薄型テレビ(プラズマへの偏重)などデジタル家電製品の不調と、「技術への無理解」が生んだ三洋電機の買収だという。
 立石は”企業の生存にとって最も大切なものは、その生まれ育ち、氏素性であり、それがどのように継承・発展されているかという点だ。なぜなら「創業者精神」こそが、その企業誕生の源泉であり、成長の源泉であり、、生存の源泉であるから”と力説する。6代目中村社長は松下電器の力の源泉まで埋めてしまったと語る。

 6月、アメリカの友人から電話が入った。「今年、日本に行った時に中国の京胡奏者の演奏を聴いて、素晴らしいと思った。その京胡奏者がアメリカにデビューしたいといっているが、どう思いますか?」。京胡とは中国の京劇で使用される弦楽器である。私はこう答えた。「京胡はいわば民族楽器ですよね。日本でいえば、津軽三味線です。津軽三味線のコンサートをやってお客さんが入ると思いますか・・・」「そうですね・・・」。
 「週刊文春」7月11日号をみて驚いた。「鳩山由紀夫、安倍昭恵を操る中国人スパイ」そのスパイは京胡奏者。名前を見るとアメリカの友人が語っていた京胡奏者と同じではないか・・・。オットト。


 

2013年7月5日金曜日

法人化された音楽同好会「ゲヴァントハウス」

(バッハ演奏の深淵を語る、新先生)

 私の住んでいる牛久の隣町、龍ケ崎市に音楽同好会「ゲヴァントハウス」という会がある。
この会、30年前に地元のクラシック音楽愛好家が作った会である。
 私は地元情報紙でこの会の存在を知り、7年前から毎月2回行われるCDコンサートを楽しんでいる。CDコンサートといっても会場は旧映画館である。世の中には名器といわれるステレオ装置が数多くあるが、小ホールと同程度の広い会場で聴く音は生演奏に近い。
 2008年からは、この会のお役に立てばと思い、現役時代、私がお世話になった放送局、レコード会社、出版社の方々を毎年講師にお招きし、特別講演&コンサートを開催している。皆さん手弁当でおいで下さるのには頭が下がる。そして、音楽・音のプロの皆さんがこの会場の再生音を高く評価して下さる。

 この会が今年の6月、「NPO法人・龍ケ崎ゲヴァントハウス」として新たにスタートを切ることになった。(光栄なことに私も理事として名前を連ねることになった。)

 6月29日(土)、法人化を記念してオーディオ研究家/元・フィリップスレコード・オランダ本社副社長、新 忠篤(あたらし ただあつ)先生の講演が行われた。「歴代の名手による”シャコンヌ”を通してバッハ演奏の深淵に迫る」という通ごのみの内容にもかかわらず、80席の客席は超満員。法人化は幸先の良いスタートを切った。
 
 講演&コンサート終了後、龍ケ崎市内にある井原理事長の隠れ家「洋風食卓”れべる”」で法人化記念祝賀会が開かれた。会には新先生の他、常磐 清さん(霧島国際音楽祭録音プロデューサ)、岩崎和夫さん(元・ステレオ誌編集長)も参加された。参加者全員の自己紹介はどれも含蓄が深く時の経つのを忘れた。
(左から常磐さん、新先生、岩崎さん)

 

2013年6月27日木曜日

54年ぶりの平泉(世界遺産)

(金色堂を覆う鞘堂。五百年以上、金色に輝く浄土の世界を守る)

23日(日)、兄弟会の翌日、横手市内(坂部)にある家内の実家に寄った。義兄ご夫妻とも元気。お土産に粽(ちまき)をいただく。その後、岩手県の平泉による。家内の希望だった。
 私は54年ぶりの平泉である。1959年、高校三年の夏休み、文芸部の仲間と訪れたのであった。その3年後1962年、金色堂の覆堂(鞘堂)は今のものに建て替えられた。さらに下って2011年には世界遺産に認定された。
 高校時代はどちらかといえば松尾芭蕉の足跡の一旦としての平泉だった。「夏草や兵どもが夢の跡」「五月雨の振り残してや光堂」の二句はあまりにも有名。
 今回の平泉は違った。辺境の地である東北に都の雅を彷彿とさせる神社・仏閣・庭園・能舞台が展開されているのに驚く。また、中尊寺の高台から広がる田園と街並みが美しい。そして極めつけは浄土の世界を具現化した金色堂と浄土庭園である。
 千年前に百年にわたって実行された陸奥の豪族・藤原三代の偉業は、エジプトのピラミットにも匹敵するものであろう。

 家内は平泉は初めてとのこと。中尊寺に通じる月見坂の急坂を見て、やや恐れをなし、浄土庭園では疲れきっていた。しかし、その荘厳さには感動した様子だった。
 いずれにしろ、これからの旅行は家内の体力を考慮し、ムリはいけない。

 夕方、仙台の秋保温泉・ホテル・瑞鳳に到着。妹夫妻と合流。最上階の部屋に案内されたのは幸運だった。部屋に通じるアプローチに茶室があり、平泉の延長のような気分を味わった。

 

 
 

2013年6月25日火曜日

兄弟会。96才、母の応援メッセージ

(雄川荘から観た横手盆地。ヨーロッパの風景を彷彿とさせる)

 私は5人兄弟である。
姉は昭和12年生まれ76才、兄は15年生まれ73才、私は17年生まれ71才、弟は23年生まれ65才、妹は26年生まれ62才である。

 6月22日(土)、初の兄弟会を雄川荘(秋田・横手市)で行った。幹事は次男である私が引き受けた。(弟がやるのが筋のような気もするが、弟は今も現職の教員ということで、私にお鉢が回ってきた。)
 
 当日のスターはなんといっても96才の母である。
 宴会での母のハーモニーカ演奏には参加者全員が度肝を抜かれた。一緒に住んでいる兄嫁の話によると30数名いる孫、曾孫の名前も全部暗記しているというから恐れ入る。
 
 私は母には随分世話になった。高校を卒業して、TDKの平沢工場(秋田県)に勤務した。自宅から4キロ離れている羽後本荘駅で朝一番電車に乗らないと出勤に間に合わない。母は4時起きで私の朝ごはんと弁当を作ってくれた。妻を世話してくれたのも母だった。
 
 宴会も半ば、その母が「来年も兄弟会をやろう」と言う。これは、子供達に対する母の応援メッセージのように感じた。        
(ハーモニカを演奏する96才の母)


 

2013年6月18日火曜日

「父の日」、プレゼント

 15日、娘夫婦から、16日、息子夫婦から「父の日」のプレゼントが届いた。2人とも3人の子持ちであり、日々の生活も大変なのにと恐縮してしまった。
 無事の便りで十分、いや便りがなくとも、子供を信じている・・・。
 15年前に亡くなった親父は「お前を信じる」が口癖だったが、自分も親父と同じ心境である。

 娘夫婦が贈ってきたのはゴルフウェア、バーバーリーブランドである。
 定年後はゴルフウェアは自分で買った記憶がない。娘夫婦が「父の日」プレゼントで買ってくれたもので十分である。(昨年のゴルフウェアは石川遼君が着ていたものと同じデザインのウェアだった。)このところ、プレーの回数もメッキリ減ったが、新しいゴルフウェアを着て、今年も頑張ろう。

 息子夫婦が贈ってきてくれたのは、ichiro’s molt ウィスキーである。ichiroといっても、ヤンキースのichiroではない。肥土伊知郎氏が作った国産シングルモルトウィスキーである。このウィスキー実に美味い。問題は美味過ぎて飲み過ぎてしまうことである。大事にチビリチビリと楽しみたい。

 松山英樹が全米プロ選手権で10位に入賞した。凄い!20日より国内メジャー選手権が開催される。この試合での石川遼との対決が見ものである。2人とも21歳である。切磋琢磨して世界に羽ばたいて欲しい。

2013年6月8日土曜日

映画「奇跡のリンゴ」に感動!



たまには家内とデート・・・というわけで映画に出かけた。

家内にどんな映画が観たいか聞いてみた。
話題の「図書館戦争」「県庁おもてなし課」はお好みに合わないらしい。「奇跡のリンゴ」は?
と聞いたら「阿部サダヲがでる映画でしょう」ということで、これに決めた。二人とも秋田の農家の出身だし、家内は弘前の学校にも行っていたから、その点でも興味が沸いた。

面白かった!感動した!
絶対不可能といわれていた無農薬リンゴに挑んだ家族の感動の実話物語。冒頭シーンで「なぜ、動物は笑わないのに、人間は笑うのだろう。それが人間の特性だから・・・」と笑顔を絶やさなかった主人公の阿部サダヲ、しかし、想像を絶する苦難に笑顔が消える。

阿部サダヲを支える布陣が素晴らしい。
妻を演じる菅野美穂、3人の娘、義父の山﨑努、実父の伊武雅刀・・・。

朝、映画にでかける時、家の玄関の外が汚れていた。
ツバメが軒に巣づくりをしていたのだ。家に帰っての会話「玄関が汚れちゃって、どうしよう」「巣立つまで、われわれは裏から出入りしよう」「ツバメに玄関をとられたわね」
「奇跡のリンゴ」を観たためか、われわれの気持ちも自然に従順な気持ちになっていた。

ところで、この映画の監督誰だっけ?
原作:石川拓治「奇跡のリンゴ」(幻冬舎文庫)、監督:中村義洋、音楽:久石譲
6月8日(土)全国東宝系ロードショー

2013年6月7日金曜日

料亭・霞月楼と人間魚雷「回天」

”刈谷いしぶみの会”の機関紙「いしぶみ」7号の発刊を記念して、土浦市の料亭「霞月楼」で食事会を開いた。土浦市在住の会員、高山さんが幹事である。
 高山さんのお気遣いで、女将さんが秘蔵の屏風を披露して下さった。屏風には「回天」「死生」「不滅」「春駒」「梅太郎」などの文字が踊る。「回天」とは人間魚雷「回天」である。ここ土浦は霞ヶ浦に面しており、隣町・阿見町には海軍の予科練があった。屏風に文字や絵を書いた主人公は人間魚雷の乗組員。数多くの若者が魚雷とともに米国の軍艦に体当たりして落命した。今日の平和な日本は彼等の犠牲の上にあるのである。
 料亭の玄関には資料室があり、山本五十六の直筆の手紙、東郷平八郎の書、1929年、霞ヶ浦に寄港したツェッペリンの資料等が展示されている。さすが120年続いた料亭の威容である。
 ところで、今回の食事会に2人の新会員が参加された。豊橋市ご出身の西郷さん(昭和23年生)、山口市ご出身の金谷さん(昭和4年生)である。この会の会員は出身地、年齢とも多彩。来年発刊の8号にどんな作品が並ぶのか楽しみである。

2013年5月31日金曜日

「ナブッコ」他、連日のコンサート

(正装した紳士淑女で賑わう、新国立劇場のロビー)
元・大手広告代理店モスクワ支店長I氏からの誘いで、28日、ソビエトの新人ピアニスト、ニコライ・トカレフのピアノリサイタルに行く予定をしていた。そこへ、新潟の楽友Iさんから電話である。「体調が悪いので29日ヴェルディ”ナブッコ”に行ってくれ。切符は速達で送る」とのこと。

ということで28日、29日のスケジュールは過密なものになった。

28日 10:30 銀座でN氏と会い情報交換。 12:00 東京・八重洲ホテルで社友会総会。15:00 東京文化会館・資料室でヴェルディ「ナブッコ」のLDを観る。(予習) 19:00 東京文化会館・小ホールでトカレフ・ピアノリサイタル (パワーとテクニックには驚いた。ドイツ物はテクニック先行のきらいがあったが、後半のロシア物は心技体のバランスがとれて良かった。I氏にワインをご馳走になる)

29日 12:00 自宅をでて東京・初台にある新国立劇場に向かう。同劇場に行くのは実に9年ぶりである。(2004年、準・メルクル指揮でワーグナーの指輪を観た。) 13:40 新国立劇場到着。平日の昼というのに着飾った紳士淑女が多く、ここは別世界。席に着くと、開演前から幕が開いていた。「ナブッコ」は紀元前6~7世紀に実在したバビロニアの王なのだが、舞台は現在のショッピングセンター。エレベーターも付いている。演出はともかく、歌手陣も充実しており、熱気溢れる舞台だった。楽友Iさんに感謝。 15:30 オペラの休憩時間に新国立劇場を後にして牛久へ。 17:00 地元有志(3月、一緒にシンガポールに旅した仲間等)による、飲み会に参加。飲み会は16:00からはじまっていたのだった。

2日続けての東京行きとなったが、体調は快調。身心とも刺激があった方が良いようである。


          

2013年5月28日火曜日

アベノミクス、稀勢の里、足踏み状態

 
26日(日)、郷土・牛久市出身の稀勢の里、琴奨菊に完敗。13勝2敗。優勝、綱取りとも足踏み状態。真っ向勝負は良いが負けっぷりもあっけない。彼、綱に届くかな?

 そういえば23日(木)はいろいろあった。まずアベノミクスで急騰した株価が千円以上暴落した。これを期に安倍内閣には、成長戦略を明確にすると同時に、財政再建策も明確にして欲しい。
 登山家の三浦雄一郎が80歳という最高齢でエベレストを征服した。高齢者に勇気を与えてくれた。
 自分はといえば、この日、茨城のザ・ロイヤルカントリーで高校時代の同期生とゴルフコンペ。54、49トータル103で回り、準優勝。久しぶりにキャディー付のゴルフで贅沢な気分。グランドゴルフで鍛えたパットの腕がゴルフでも生きた。

 遡って14日(火)も特別な日だった。
 1975年来日、ムーティ指揮・ウィーンフィルのコンサートがCD化されたのを記念して、関係者による食事会を開催した。サントリーホール・エグゼクティブプロデューサーの真鍋圭子さん、元・日本グラモフォンの乙黒正昭さん、元・大阪国際フェスエバル協会の中山実さん、キングインターナショナルの大川健さん、アルトゥス代表・斎藤啓介さんが集合。実に楽しい会だった。
 元気でいると70歳を過ぎても楽しいことがあるものだ・・・。

2013年5月16日木曜日

75ムーティ・ウィーンフィル来日。驚嘆!「鮮世界」

 
1975年ウィーンフィル来日公演といえば、クラシックファンにとって、伝説の公演であり、珠玉の思い出である。
 それは何故かというと、指揮界の帝王、ヘルベルト・フォン・カラヤンと人気を2分するカール・ベーム(当時80才)が同行したからである。この公演のチケットを購入するためには郵便ハガキで申込みを行い抽選するという方式を採用したが、主催者側のNHKに17万通のハガキが殺到したというから驚く。
 ベーム・ウィ―ンフィルは期待にたがわぬ名演奏を繰り広げ、その模様はDVD、CDで発売されベストセラーになっている。

 ところで、この時、もう一人の指揮者が同行していた。リッカルド・ムーティである。
今や巨匠の域にあるムーティだが、この時ムーティは弱冠34歳。イタリアが生んだ期待の若手指揮者だった。
 この時、ムーティがウィーンフィルを指揮した公演のCDが今月20日、発売されることになった。巨匠ベームに対し、ムーティはどんな演奏をしていたのであろう。幸運にもサンプルCDが手に入った。
 収録されていたのは1975年4月3日、NHKホール。プログラムの後半、ドボルザークの「新世界」を聴く。音が出た瞬間、驚く。なんと解放的な音なのだろう。そして新鮮なのだろう。38年前の収録とはとても思えない。確かに最近のデジタル録音と違って、わずかにヒスノイズも聴こえる。ただし、音の鮮度、解放感はただごとではない。NHKホール2階席最前列で聴いているような生ナマしさである。
 演奏の方もこれと呼応するように小細工をせず、情熱的。手垢に塗れた「新世界」が新鮮に聴こえる。そして、なによりもウィーンフィルの底知れない名人芸が郷愁の旋律を豊かに謳う。
 アンコールのヴェルディ「運命の力」序曲は火を吹くような凄演!

 解説書の最期。光栄なことにSpecial thanks to:としてウィーンフィルとともに、小生の名前が記されていた。冥途の土産である。