2018年7月31日火曜日

ADカセットに記録されていたオーム・麻原の肉声

 
26日、平成という時代に暗い影を落としたオウム事件の死刑囚全員が処刑された。
NHKは同日の夜「クローズアップ現代」で「オウム死刑囚″最後の手紙″」とう番組を放送した。この中で麻原彰晃(本名・松本智津夫)の肉声が流れた。この時、テレビ画面にTDKのADカセットが映しだされた。現役時代、ADカセットの商品企画を担当していた私の心境は複雑だった。冷静に考えてみると、紙であれ、テープであれ、嬉しいことにも、忌まわしいことにも使用される。これが記録媒体の使命であり、宿命である。
 ところで、麻原は何を語ったのか・・・。再現してみよう。
 「このAさんを殺したという事実を他の人たちがみたならば、人間界の人がみたならば、これは単なる殺人と。いいかな。客観的に見れば、これは殺生です。しかし、『ヴァジラヤーナ』の考えが背景にあるならば、これは立派な『ポア』です。」
 *「ヴァジラヤーナ」とはインドの密教であり、「ポア」とは悪業を積んだ人を救済(天界でうまれかわる)すること。(畠山注釈)

 早稲田大学理工学部で物理学を学んだような優秀な若者がなぜ、麻原の語る非現実的で独善的な言葉を信じたのか。生きづらさを感じている若者に麻原はこう語りかけた。再びカセットに残された麻原の肉声である。
 「ここにいるあなた方はほとんどそうなんじゃないか。ほとんど今の世の中で違和感を感じている。あるいはまわりの人からおかしいと思われている人じゃないかと思う。それは数が多いから正しいのか。そんなばかな話はない。だから私はあなたたちの苦しみがよくわかる。」
 若者たちは麻原のこの言葉に救われ、やがて洗脳され、犯罪に手を染めてしまった。

2018年7月22日日曜日

牛久初代市長も参加、グランドゴルフ大会


 第7回牛久市内グランドゴルフ大会が7月13日開催された。
牛久GG、栄町広場、つくし、かっぱの4チームが参加。参加人数は男子67名、女子38名、計105名。私は牛久GGに所属している。
大会事務局は参加者の募集、会場の設定、賞品の準備と大変である。特に今回は6日開催(予備日9日)に決まっていたが2回とも雨で流会。商品、資料等が水浸しになった。
大会の結果は表の通りだが、小生、7位に入賞した。特に今大会では初代牛久市長の大野正雄氏が参加して選手に勇気を与えた。大野さんは昭和5年生まれ。今年88才。スコアは81で25位となった。なお、今大会の最高齢者は92才だったという。
 私がGGをはじめたのは5年前から。週2回ほど練習に参加。今年の1月15日、はじめて牛久GGの大会に参加した。その大会で67打というスコアで優勝。信じられなかった。こんなことは2度とないだろうと思っていたが3月28日の大会で71打で3位。
今大会もホールインワンが2回でて74打で7位。″本番に強い畠山”が実証されたかたちである。
 が、そんな世の中甘くない・・・。
 なにしろ、私には腕力がない。ゴルフではドライバーショットがフェアウエイに届かない。GGでも50メートルがなかなか届かない。

 GGをやっていると、プロスポーツを見る観点が深まる。ゴルフにしろ、サッカーにしろ、相撲にしろ、選手の気持ちが、自分がGGやっている時と重なる。ベテランになると、出だしは悪くとも、後半、修正し、実力を発揮する。GGも出だしが悪くとも、それを修正できる時は良いスコアがでる。これは実力の範囲だが、GGの場合ホールインワンという予測不能なケースがある。これは運である。GGで入賞するには運4割、実力6割というのが現在の実感である。

2018年7月20日金曜日

東京芸術劇場散歩&母校後輩の相談ごと


19日、うだるような暑さ。母校(鷹巣農林高校)の後輩が相談したいことがあるから、池袋に出て来いという。
 
 12時、場所は西口、東京芸術劇場の近く。早く着いたので、久しぶりに劇場をのぞいてみた。この劇場、平成2年(1990)開場。コンサートホールに入らなくとも観るところが沢山ある。
まず、玄関ホールが素晴らしい。冷房が効いているので、
ホールのベンチで休んでいる人が多い。(写真・上)
エレベータで2階に上がると、天井画がある。日本のフレスコ画の第一人者、絹谷幸二氏が書いた天地人。実に鮮やかである。(写真・中)
2階のギャラリーに行くと、″20世紀の書″「第24回 新和洋・漢字造形書作家協会選抜展」が開催されている。入場無料。この協会「書道界にあって伝統書道の復興と国語の伝統
表記を目指している唯一の研究団体」とある。数ある作品の中から「西郷どん」を紹介しよう。
今宵はここらでよかろうかい。

12時、かわいい後輩たちとの飲み会がはじまる。
相談ごととは、9月の東京伊勢堂会(東京地区の同窓会)で話をしてくれという。(鷹巣農林は2011年に北鷹高校に統合されてしまったが、母校を愛する有志によって同窓会は継続している)
農林高校を卒業しながら、農林の道に進まなかった、変わり種の小生の話を聞きたいという。“実は進まなかったのではなく、進めなかった”のだが・・・。まあ、いいか・・・。
「畠山先輩は”ええふりこき”でねがら、オレら好きなんだ!」後輩の口車にスッカリ載せられてしまった。

2018年7月15日日曜日

司馬遼太郎「街道を行く」はやはり面白い!

「街道を行く」の面白さは自分が生まれた県の部を読むと良くわかる。え!と驚くような視点が次からつぎへと現れる。″寒風山の下″を読んでみよう。(要約)

 狂言ふうにいえば「これは、はるか遠国(おんごく)方の旅の者でござる。寒風山に登らばやと思い立ってござる」ということになるだろう。
 標高354,7メートルといった小さな山にすぎないが、平地に立ちはだかって、元気よく空を画(かく)している。木という衣装をまとっておらず、日本海の荒風をうけてふるえている。この山の大いなる長所は、東方をむいたときに感ずる。八郎潟の美田が眼下に見下ろせるのである。
 八郎潟は水ばかりの潟(海跡湖)だったのに、うずめられてしまったのである。
 秋田市に農林省干拓調査事務所がおかれたのは昭和27年だった。たれもが、飢えの記憶をもっていたし、米はタカラものだという伝統の信仰をもっていた。(しかし)昭和40年代になると政府も米をもてあますようになった。(でき上った)大潟村という大農場は、米がだぶつき、政府が″食管赤字″になやむ時代になって完成され、その後五次にわたる入植者を迎えつづけたのである。
 (大農場は)私ども子供のころの農村風景からみれば外国としか言いようがない。理非曲直を超えて、頼もしく思い、誇らしく思う気持ちを抑えらきれない。「もうこれで日本(米)は、大丈夫だ」という理性を超えた気持ちといっていい。
 この感動は、過去のなにかの情景と似ている。たとえば、むかし建造中の戦艦「大和」をみたひとも、私が大潟村で感じたような感動をもったのではないか。「大和」の建造は、たしかに寓行だった。海軍の先覚者には当時からわかっていた。八郎潟の干拓が計画された昭和20年代には、たれもが寓行とは思わなかった。
 
 旅をする時は事前に「街道を行く」を読もう!と決めた。

2018年7月9日月曜日

無垢の名演!白上冴のバッハ無伴奏パルテータ第2番


6月15日(金)、成田方面に向かう。午後2時から稲敷市あずま生涯学習センターで「ふれあいコンサート」があるという。主催は精神保健ボランティア「 さくら会」。会場には精神障害のある青少年もいる。演奏中、歩き回ったり、時には奇声も上がる。
 演奏するのは白上冴(しらかみさえ)さんを中心にした5人のクラシック室内アンサンブル。障害者の青少年にもナマの音楽を聴かせたいというのが「さくら会」の願いなのだろう。
 白上冴さんが演奏したのは、バッハの無伴奏パルテータ第2番。演奏が始まった瞬間、私はただごとではない、と思った。その演奏レベルは一級である。白上さんはアメリカの五大オーケストラ、クリーブランド管弦楽団のヴァイオリン奏者である。同楽団は今年創立100年。6月サントリーホールでベートーベンの全交響曲を演奏。天皇皇后両陛下も鑑賞された。
 音楽に素人の私は「ソリストになる実力のない奏者がオーケストラの楽員になる」と考えていたがそれは間違いだった。クリーブランド管の指揮台には世界の巨匠達が立つ。彼らは多様で厳しい要求を突きつける。楽員にはそれに応えられる教養と技術が必要となる。
 牛久の隣町にある「龍ヶ崎ゲヴァントハウス」。ここのCDコンサートに、いつも上品な顔立ちのご婦人がいらっしゃる。このご婦人が冴さんのお母様である。7月7日のゲヴァントハウスのコンサートの時「冴のCDです」とお母様からCDをいただいた。
 CDでバッハ無伴奏パルテータ第2番を聴いた。特にシャコンヌでは無垢の音と気持ちでひたすら真理を追い続ける冴さんを感じた。手元に世界的な名手といわれるギドン・クレメルの演奏したCDがあった。比較してみたが、芝居がかったクレメルより無垢な冴さんの方がいい。
(写真はCDのジャケットから冴さんとピアノ伴奏の菊池真弓さん。CDにはバッハの無伴奏パルテータ第2番の他にR・シュトラウスのヴァイオリンソナタ、M・ラヴェルのツガーヌ等が収録されている。菊池さんのピアノ伴奏も素晴らしい)


2018年7月6日金曜日

眺めるお酒


お中元をいただいた。開けてみると、ビールとお蕎麦の詰め合わせセットである。
栞が入っている。〝美味と美術の贈り物<E-ZWY JAPAN>匠技の競演×東京国立博物館 限定ギフト″とある。ビールの缶に葛飾北斎の冨嶽三十六景がプリントされている。
「もったいない!」缶ビールを開ける時、手が震えそうだ。中身はサントリーのザ・プレミアム・モルツとアサヒのジャパンスペシャル。
 <E-ZWY JAPAN>(イーゼイ ジャパン)とは、〝日本の知られざる魅力を発見し、新たな日本らしさを形づくり、世界に発信する″のがテーマだという。日本が誇る食材や技術、生産者に注目し、新しい美味しさを開発したとある。因みに、同梱されていた蕎麦は北海道産小麦を使用した信州戸隠そばと、秋田・湯沢産の手延べ干し麺だった。
 先月、「父の日」に息子からウィスキー、娘からビールの味比べセットが贈られてきた。子供からのプレゼントは嬉しいけど心苦しくもある。子供達はそれぞれ3人の孫を抱えて一番大変な時期である。「父の日」があるのをうらめしく思う。
 ところで、サントリーのウィスキー「響」は中々入手できない貴重品である。原酒不足のため、サントリーが今年の6月から主力商品の一部販売停止をしたのである。「響」は私の住む牛久の酒屋、スーパーではまず見かけない。
 私が現役の頃はウィスキーといえばスコッチだった。中でも「オールド・パー」は滅多に飲めなかった。今は「オールド・パー」より「響」の方が高い。「父の日」の「響」は眺めているだけでまだ封を切ってない。メモリアルな日までスコッチの「バランタイン」で我慢しよう。

2018年7月1日日曜日

日本モーム協会会誌

 
先月、飯澤さんから日本モーム協会の会誌「CAPFERRAT」をいただいた。同協会は行方昭夫氏(元・東大教授)が会長。行方氏は「人間の絆」「月と六ペンス」等モームの作品の訳者である。会誌「CAPFERRAT」には会員の方々のサマセットモームに関する論文、エッセイが掲載されている。

 13号に行方氏が特別寄稿した「モームと私、最初から今まで」が文学に素人の私にも興味深い。
 1951年、氏が東大に入学した頃はモームの名前も著書も知らなかったという。それが読書会でモームの原書(「人間の絆」)を読んだとき、最初のページから引き込まれ、英語で読んでいるのに、情景が目に浮かぶではないか!「自分はこの洋書を読めるのだ」と気づいた。物語が面白いので、知らない単語や熟語があっても、辞書で調べる時間が惜しくて、前後関係からだいたいの見当をつけて、先へ先へと読み進んだ。自力で読んだ経験が自分の英語力で洋書が読めるとの自信になった。
 1975年、劇団民藝がモームの「聖火」を宇野重吉演出で上演。好評を博しいくつかの演劇賞を受賞。しかし、原文を熟知していた行方氏はいい加減な訳に呆れ、劇を楽しめなかったという。1959年モーム来日。丸善で開催された「モーム展」は警官が整理にでるほどの混雑。氏はちらっと小柄な老人を目撃。愛読し、研究している作家の生身の姿をみることができ嬉しかったという。

 飯澤さんは14号に「ウィリー・モームは日本料理を喰らったか?」というエッセイを載せている。宿泊先の帝国ホテルの近くには有楽町ガード下の飲食街がある。そこで焼き鳥をほうばったり、熱燗を呑んだりしたのだろうか?海外駐在の経験があり、来日した数多くの外人のアテンドをした飯澤さんは、モームが来日時にどんな食事をしたのか、エンジョイしたのか?興味津々。「来日時の立ち振る舞いに詳しい人、教えて」。