2019年12月31日火曜日

2019年、私のハイライト


2月 ギリシャ生まれの指揮者クルレンツィス初来日。血が逆流するような演奏で業界に新旋風(写真、公演の行われた錦糸町トリフォニーホールで) 3月 東京ベイ幕張で金婚式。喜寿でもある。6人の孫も参加 4月 1966年カラヤン・ベルリンフィル来日ライヴCD化事業、お手伝い 5月 90才、外山雄三指揮「第9」を大阪で聴く。自然体の「第9」 6月 痛風。「痛風はビールを飲みながらでも治る」という本購入 7月 4K対応テレビ購入。大型なのに安い。家電業界の苦境が偲ばれる 8月 「昭和40年男」という本、小生のインタヴュー記事再録「究極のカセットテープを作りだしたTDKの
技術力」。40年前の話である 10月 中学の同期会で秋田へ。102才の母がいる施設へ。「ウチの子供達は皆ハゲで・・・」と介護の方に母語る(写真・左) 12月 高校同窓ゴルフ。159ヤードパー3。打球は2段グリーンを駆け上がりピンそばへ。奇跡のバーディ。来年もがんばろう/TDK六代目社長・澤部肇さん(東京出身)、日経「私の履歴書」登場。「生涯のふるさとと出会う」と秋田(創業者・斎藤憲三の出身地)を語る

鷹農は永遠!②同窓会会長あいさつ


第43回(平成30年度) 東京伊勢堂会懇親会に寄せて
秋田県立鷹巣農林高等学校 同窓会会長 石岡 保(昭和36年・林業科卒業)

わが母校鷹巣農林高校が統合され秋田北鷹高校が誕生してから、この4月で8年目に入りました。わが同窓会も8年前の統合時にこれからのあり方について検討し、当面10年くらいを目途に存続させ頑張っていこうということで今日に至っております。秋田北鷹高校も10年経過したら同校同窓会にも具体的な動きが出てくるだろうと考えたからであります。
 早いもので、その10年も2年後に迫りましたので、本年度の本部総会において「間もなく発足10年を迎える同校の学校行事や同窓会の具体的動向などを踏まえた上で今後の対応を検討する」ということで了解をいただきました。
同窓会の将来については当時もいろいろな意見がありました。最近では全国高校駅伝競技大会出場の寄付を依頼した際に「私どもは鷹巣農林高校同窓会であって秋田北鷹高校への寄付などについて協力できない」という一支部の意見もあったところであります。まだ時間もありますから各方面からの意向をお聞きしたいと考えておりますので、東京伊勢堂会の皆様からもよろしくお願いします。
 私こと、7月の本部総会において会長に選出され3期目に入りました。これからもご指導をよろしくお願い申し上げますとともに、東京伊勢堂会の旗のもと、伊勢堂健児の心意気を発揮されるよう祈念いたします。
<令和2年度「東京伊勢堂会」9月6日(日)銀座で開催します>

鷹農は永遠!①鷹農とは


鷹農は「人間浴」管理者の母校です。正式名称は秋田県立鷹巣農林高等学校。すでに母校は閉校になりました。しかし、母校に対する郷愁は去らず、母校の思い出を永遠に引き継いでいきたいという思いがあります。
 その一環として同窓生向けのホーム頁が考えられますが、閉校になった今日、その開設と運営には多くの課題があります。とりあえず、「人間浴」で母校に関する情報を発信してまいります。

「秋田県立鷹巣農林高等学校」 創立:1909年(明治42)秋田県の基幹産業である農林業の普及発展と指導者養成を目的に、北秋田郡七日市村に郡立農林高校として創設。912年(大正2)県立農林学校として認可され、伊勢堂の杜に囲まれた鷹巣町に新校舎が完成。名実ともに県立農林高校の歩みをはじめる。
 2009年(平成21)創立100年を迎える。しかし、翌2010年(平成22)少子化と生徒の進路希望の多様化に対応するため、北秋田地区4校(鷹農、鷹巣、合川、米内沢)統合の方針が示され閉校となる。した。
2011年(平成23)秋田県立北鷹(ほくよう)高校として再スタート
鷹農の卒業生は1万6,350名。同窓会は1928年(昭和3)設立。
 令和2年度の東京地区同窓会「東京伊勢堂会」は9月6日、銀座で開催される。

2019年12月28日土曜日

忘年会7回

12月を迎える時、スケジュールを見て身構えてしまった。忘年会が7回入ってる。体力持つかな?先立つお小遣いは・・・。
1日(日)12時~高校同窓・東京伊勢堂会忘年会。待ち合わせは上野駅「翼の像」。「翼の像」といわれてもピンとこない。上野駅自体が地盤沈下している昨今である。案の状、集合時間に遅れた同窓生が数人でて幹事大慌て。会場は駅前のカラオケ喫茶。郷土の民謡もでる。閉めの挨拶を指名される。(写真・上)
10日(火)12時~TDK・OB有志の忘年会。幹事は小生。銀座・三笠会館。サービス料、部屋代もとられが、たま落ち着いたところも良い。さすが銀座。(写真・中上)帰り眼が不自由という先輩の手をとってJRへ。17時~TDKパソコンクラブ忘年会。秋葉原ビヤホール。痛風の前科があるので酒量に配慮。
12日(木)11時~地元ベテランズ(老人)クラブ忘年
会。場所は徒歩5分の集会所。地元で飲む昼酒は回りが早い。2次会で一番頼りにしているAさん酔いつぶれる。
(写真・中下)
14日(土)17時~龍ケ崎ゲヴァントハウス忘年会。講演会の講師をつとめられたオーディオ評論の先生も交えて、音楽・オーディオ談義に華が咲く(写真・下)
16日(月)12時~グランドゴルフ忘年会。平均年齢80才のジイさん、バアさん。カラオケで大いに盛り上がる。出る幕がなく途中退散。
20日(金)18時~兄弟会忘年会。つくばホテルオークラ「山水亭」。
*毎年開催されるオーディオ業界の忘年会の案内がなかった。業界不況?それとも名簿から外されたのかな?

2019年12月18日水曜日

奇跡のバーディ


17日は高校同窓ゴルフコンペだった。10月開催の予定だったが豪雨で流れ、仕切り直しの開催だった。また雨で流れると悪いので秋田の同窓生には声をかけなかった。
幹事は川越市在住の簾内君。彼が選んだのは意外にも小生の隣町にある「ザ・ゴルフクラブ竜ケ崎」だった。わが家から車で30分。クラブハウスに着いて驚いた。この近辺には江戸崎カントリー、龍ケ崎カントリーという名門があるが、大木に囲まれたクラブハウスの威容はそれらを凌ぐ。(写真)名匠・加藤俊輔氏の設計。
 天気予報は生憎の雨だったが、小雨模様であり、ホッとする。クラブハウスも豪華ならコースも立派。多分接待用に作ったのであろう。お大臣気分でプレーに臨む。
 簾内君、成田君、斎藤君のドライバーは190ヤードくらい飛ぶが小生は150ヤードしか飛ばない。スタート前、簾内君からドライバーを頂戴した。このドライバー、軽くて非力な小生にピッタリ。ドライバーの調子が良いと2打、3打も調子に乗る。この日100ヤード以内になると7番ウッドで転がした。これがピタリとピンに寄る。飛距離は出るがアプローチで苦労している3人と大差ないスコアがでる。
12番池越えショートホール、パー3。159ヤード(写真)で奇跡が起こる。ドライバーで打ったボールは池を超え、グリーン手前に落ち、2段グリーンを駆け上り、ピンそば2メートルへ。無我の境地でパットを打つ。やった!バーディである。バーディなんて何年ぶり、いや数十年ぶりである。トータルスコアはイン54、アウト50で104。定年後は120も叩いている小生。夢のようである。創意工夫しだいで100が切れるかもしれない。来年の課題である。

2019年12月15日日曜日

中古オーディオコンポ買替体験

今年に入ってCDプレーヤーが故障した。春頃だったかなあ。
予想外、なんとか毎月のお小遣いの範囲で・・・。というわけでアマゾンにアクセス。まさかと思ったが、アマゾンにはオーディオコンポもあった。パイオニア製のプレーヤーを¥15,000でゲット。使用感は快適である。
2~3ヶ月前からこんどはプリメインアンプ(PMA-2000)の調子が悪い。チューナ部の再生音が出なくなった。しょうがないので、ラインアウトを使用して凌いでいた。ところが、今月に入ってCD、フォノ、ラインすべての出力がダメになった。万事休止。アマゾンで中古品を捜す。デノンの普及品(PMA-390)が目に留まった。今使用中のアンプもデノンである。早速購入した。ところが、これがとんでもない代物。左チャンネルの再生音が極端に低い。私からいわせたら不良品である。アマゾンに対する信頼も一挙に崩れた。安物買いのなんとやら・・・。オーディオメーカーOBの知人に頼んで修理してもらおうかと思った。が、待てよ、まずはアマゾンに現状を訴えよう。ということで「返品したい」と申し入れた。驚いたことに即座にメールで返品扱いの要領がメールで送信されてきた。返品送料もアマゾンが持ってくれるという。さすがアマゾン!そこまでやるか・・・。
 アマゾンの対応に満足した私は再び検索。ヤマハのプリメインアンプ(A-S301)¥21,500。2015年製を購入。商品を見て驚いたピッカピカ、新品同様である。(写真上・リモコン、取説付)
今回の件で新旧のアンプを見ることになったのだが、驚いたのは重量。デノンの2000は重量が24キロと持つのがやっとだが、デノンとヤマハの普及品は7キロ~9キロ。ヤマハのアンプの原産地はマレーシアとある。(写真下・上が390、下が2000。大きさの違いは歴然)
 肝心の音であるが、デノンの2000と比較するとヤマハの301は重低音が不足。ただし、音の透明度は抜群である。新しいアンプで聴きなれたCDを聴き直すのが楽しみである。
 デノンの2000は地元のHARD-OFFに引き取って貰った。再生系の基板が破損しているのではないかという見立てだった。引取価格¥6000.予想以上。2000は名器だったようである。

2019年12月5日木曜日

澤部肇さん、日経「私の履歴書」登場


日本経済新聞最終面に掲載されている「私の履歴書」に登場するのは一流の政治家、文化人、経営者である。つまり、経営者にとっての″夢″である。
 TDK六代目社長、澤部肇さんが12月1日から登場している。1日、東京へ向かう電車の中で記事を読みスッカリ魅了されてしまった。澤部さんの笑顔がいい。無垢の少年のようである。
 
アルバムを見ると、澤部さんと一緒の写真がある。左が澤部さん、真ん中が小泉カリフォルニア工場長、右が私である。1984年とある。当時、私はカセットテープの商品企画を担当しており、新製品のプレゼンテーションのために海外出張した。
 この後、澤部さんはカセットテープなど記録メディア事業部の責任者になる。私の仕事ぶりをみて、記録メディア事業をリサーチするとともに、私の評価もしていたに違いない。その後、私は記録メディアの広報、工業会業務等を担当。好きだった音楽・オーディオ部門で十分に能力を発揮することができた。その時培った経験が定年後の今でも役立っている。
 澤部さんは1942年生まれ。77才。私と同じ年である。TDK社長の後、会長、相談役を歴任。その傍ら旭硝子、帝人、野村証券、荏原製作所等の社外役員を歴任。母校、早稲田大学評議委員会・会長、ルクセンブルグ大公国名誉総領事である。幅広いキャリアの中からどんな話が飛び出すか・・・。今後の「私の履歴書」が楽しみである。
 私の澤部観、それは一口でいうと「澤部砲!」である。早口で矢継ぎ早に鋭い舌鋒を浴びせる。しかし、全く私心がない。爽やかである。少年のような無垢な笑顔がそれを証明している。笑顔の写真の下段に「最近の筆者(秋田県の鳥海山で)」とある。
 TDKの創業者・斎藤憲三氏は鳥海山の麓、秋田県にかほ市出身である。

2019年11月24日日曜日

切手の無い絵葉書とどく

市川市に住む友人Aさんから素敵な絵葉書が届いた。普通に考えれば、絵の素材になりにくい東京外環道の絵葉書である。
この絵葉書を見て、現役の頃を思いだした。
銀座で飲んだ帰り、タクシーに乗って高速を利用して帰宅した。
営業の責任者だったAさんもそうだった。高度経済成長の真っただ中だった。

それはそうとして、宛名面を見ると、切手が貼ってない。
貼ってある切手がはがれたのであれば、消印の一角が欠けているはずである。
しかし、真ん丸だ。
Aさん、70代後半、さてはボケて切手を貼り忘れたのだろうか?
郵便局のホーム頁をみると「料金不足の場合は差出人に戻る。万が一受取人のもとに届いた時は、受取人に請求」とある。
差出人を見ると「市川市・A」としか書いてない。
市川の郵便局は差出人に請求しようにもできなかったのかも。
牛久の郵便局は切手を貼ってないのを見落としたのかもしれない。
分っていたが自局の責任ではないということで、配達したのかもしれない。たかが、63円の切手の話だが、楽しいミニドラマが浮かんできた。

いずれにしろハガキが届いてよかった。Aさん、そして郵便局の皆さんありがとう。

2019年11月15日金曜日

キッシンジャーにインタビューした佐藤則男さん


You Tubeに「キッシンジャー、佐藤則男」と入力すると、キッシンジャーにインタビューする佐藤則男さんの映像を見ることができる。(写真・上、中)
キッシンジャー(1923生)とは1971年、ニクソン大統領の密使として、当時中ソ対立でソ連と緊張関係にあった中華人民共和国を極秘に2度訪問。周恩来と直接会談を行い、米中和
解への道筋をつけた大統領補佐官である。
 そのキッシンジャーにニューヨーク在住のジャーナリストである佐藤則男さんがインタビューした。1988年のことである。1時間の予定だったがキッシンジャーは佐藤さんに「もっと続けよう。君はベストインタヴュアー」だといい、1時間40分におよんだという。
佐藤則男さん、コロムビア大学ビジネススクール卒。ジャー
ナリストとして独立する前はTDKに勤務していた。1976年、小生、初の海外出張の時、アテンドしてくれたのが佐藤則男さんだった。出張の目的は新開発のSAカセットのプレゼンテーション。ニューヨーク、ボストン、ワシントン、シカゴ、クリーヴランド、サンフランシスコ、ロスアンゼルスのオーディオ店を佐藤さんと一緒に廻った。ニューヨークではオーディオ誌、オーディオ評論家ともデイスカッションした。どこでも大きな反響を呼んだ。商品が良かったのは勿論だが、佐藤さんの語学力でお様達を圧倒した。畠山34才、佐藤さんは後輩だった。2人は若かった。(写真下。佐藤さん、右端小生)
 当時、佐藤さんがキッシンジャーにインタヴューするような著名ジャーナリストになるとは夢にも思わなかった。

2019年11月8日金曜日

富士シニアゴルフ&大腸内視鏡

今日(8日)隣町にある江戸崎カントリーで開催されている「富士フィルムシニアチャンピオンシップ(ゴルフ)」にでかけた。
 入場料¥1000。10月に行われ、タイガーウッズが出場したZOZOオープンは¥12,000だったからエライ違い。優勝賞金もシニアは¥1,400万に対し、ZOZOオープンは約2億円だった。
 1番スタート、パー5で各選手のドライバーショットを真後から見る。シニアとはいえ打球は早い。ウッカリすると球を見失ってしまう。尾崎健夫(65)、水巻善典(61)、渡辺司(62)、室田淳(64)、川岸良兼(52)、倉本昌弘(64)、尾崎直道(63)と懐かしい選手が次々登場。予選初日トップの深堀圭一郎(51)の時は「深堀さん優勝して~!」の声援が飛んだ。
 選手達のクラブ、ゴルフバックはいずれもピカピカ、ズボンにはキッチリと折り目が入り、靴も真新しい。プロとなればやはり役者である。競技は3日間、明日の決勝ラウンドはテレビ中継される。土産付き(写真)富士フィルムさんありがとう。
4日、大腸の内視鏡検査を受けた。検査は2時からなのに、9時には受付を済ませるようにとある。9時から14時までの5時間、なにをやるのだろうと思った。9時受付を済ませると血圧検査。「血圧高いですね」と看護婦さん、150代のようだ。ベットで休んで下さい。小一時間休憩してから再検査。「まだ高いですけど148ですから進めましょう」とのこと。ホッとした。それからが大変だった。下剤による前処理。下剤と水を交互に飲む。3時間以上かかって2リットル飲む。拷問である。やっと便がオシッコのようになる。内視鏡の検査結果は「憩室があるが問題ない」とうことだった。下腹部の膨れが気になっていたが、これは腸壁ヘルニアで、悪性のものではないとのことだった。

2019年11月4日月曜日

牛久シャトーを5千万(年間)で賃貸借。市主導で復興目指す。


 牛久市が牛久シャトー(国指定・重要文化財)を年間5544万円(月額462万円)で賃貸借することでオエノンHDと合意した。同社は市に対し、管理費の一部として年額1200万(年額100万円)を支払う。賃貸借契約期間は20年間。
 牛久シャトーは牛久駅から徒歩10分足らず。神谷伝兵衛が1903年(明治36年)「牛久醸造場」の名前で創設した。日本初の本格的ワイン醸造所である。2万坪の広大な敷地にワイン醸造所、レンガ造りの事務棟、ミュージアム、レストランが配置され、多くの観光客が訪れる。牛久市のシンボルである。
 だが、昨年12月、同所を所有するオエノンHDが経営上の観点からレストラン、売店を閉鎖。観光客は激減した。これに対し、牛久市民はシャトーの再興を市に要請。今回の賃貸借に至った。
 牛久市は市の主導で新会社(第3セクター)を設立し、シャトーの復興に取り組む。レストラン等のテナントの誘致・運営や土産物店等には民間の人材を登用し、早期の採算ベース達成に取り組む。
 
 小生はシルバーセンターの紹介で2015年からシャトーの清掃をしている。週3~4日、8時~2時間である。(清掃は体を使うので運動にもなる)朝レストランに行くと、白い制服を着た調理師の方々が既に働いている。「おはようございます」というと「お願いします」という返事が返ってくる。が、昨年末からレストランが閉鎖。広大で豊かな自然が息づくシャトーには誰もいない。清掃の場もミュージアムだけになってしまった。
 牛久シャトーの復活が待ち遠しい。
 

2019年10月25日金曜日

仙台牛たん、ミンスクの台所、秋田・中学同期会

23日、24日は超過密スケジュールだった。
23日、13時牛久発 東京へ向かう。上野駅の書店で「ステレオ」「レコード芸術」最
新号購入。15時、丸の内郵便局があるビルのB1、仙台牛たんの店へ。現役時代の同僚、中西君、藤井君と会う。両君60才後半。中西君はパナソニックの関連会社で活躍中。藤井君から新鋭ギタリスト・木村眞一朗君のCDいただく。
 18時、港区麻布台にあるレストラン「ミンスクの台所」(ロシア大使館向)へ。ミンスクは1991年、ソビエト連邦から独立宣言したべラルーシュの首都である。民族衣装のヴィクトリアさんが暖かく迎えてくれる。日刊電気通信・田村社長(62才)と電気業界の今昔について語り合う。その後、ヴィクトリアさんを交えてオペラ談義。(写真)田村さんはワーグナーを聴きながら原稿を書くという。ヴィクトリアさんはチャイコフスキーの「エフギニー・オネーギン」について熱っぽく語った。22時40分、東京八重洲発、酒田行きの深夜バスに乗車。
 24日、6時30分、終点、酒田港に到着。ここで自転車を借り、明け方の酒田の町を散歩、コンビニで弁当を買う。昨夕、ミンスクの料理だけだったので鮭弁が美味しかった。7時55分発、酒田発の電車に乗る。9時、本荘着。兄の車で施設にいる母に会い行
く。102才。77才で母に会える。幸せである。(写真)9時56分本荘発の電車で「にかほ」へ。千崎さんの車で「TDK歴史みらい館」に向かう。千崎さんが中心になり収集してくれた歴史資料を拝見。アーカイブスはTDKの企業文化を後世に語り継いでいく上で重要。企業の自分史である。千崎さんと「清吉そば」(たかしょう)を味わう。
 14時、本荘市内・安楽温泉で開かれた「石沢中学校同期会」に参加。卒業生75名、物故者18名、当日参加者18名。税理士をしている小松往夫君も浜松から駆け付けた。幹事の猪股君、大場君等の秋田組の皆さん、ありがとう。秋田発19時10分発、新幹線「こまち」に乗車。上野着23時58分。牛久着0時06分。

2019年10月18日金曜日

千年前に書かれた「源氏物語」


文藝評論家だけでなく音楽評論家としても名高いドナルド・キーン氏。キーン氏は日本が大好きだった。今年亡くなる前、日本国籍まで取得していた。そのキーン氏を日本の虜(とりこ)にしたのが「源氏物語」だった。
 キーン氏は18歳の時、ニューヨークのマンハッタンの書店で「源氏物語」に遭遇したという。アーサー・ウェイリーによる英訳版だった。
 ブログは書くがほとんど本を読まない小生だが、音楽評論家として尊敬していた米国生まれのキーン氏が「源氏物語」によって日本に目覚めたとあって、日本人である小生としても「源氏物語」とはどんなものか興味が沸いた。
 書店に行くと、豪華な装丁(クリムトの”接吻”をアレンジ?)の「源氏物語」が目に入った。(左右社・刊)ウェイリーの英訳版を和訳したものである。和→英→和である。これなら小生でも読めると思った。
 予想通りだった。平易である。面白い。男女間の心理描写、筋立ても見事である。ここで見落としてならないのは、登場人物の立ち振る舞いの繊細さであり、しなやかさである。キーン氏が魅了されたのはこの部分だった。西欧人であれば男女の間の会話もストレートであるが、源氏物語に登場する人物はどれも奥ゆかしい。
 能、歌舞伎、茶道等という日本の文化は1千年前に書かれた「源氏物語」、さらに「万葉集」時代から脈々と継承されたものだということが理解できる。
 「源氏物語」は紫式部が書いた。400字詰の原稿用紙で約2,400枚におよぶ長編。800首弱の和歌を含む王朝絵巻である。「世界最古の長編小説」とも言われている。全集を読み、味わうのは至難の業である。
 幸い時間はある。漫然とテレビのワイドショーに時間を費やすよりは先人の残した遺産に目配りをしたい。

2019年10月12日土曜日

「ノーベル賞」「世界陸上」「TDK」


「ノーベル賞」「世界陸上」「TDK」これ、関係ないようで関係があるようだ。
世界陸上ドーハ大会初日(9月27日)、TBSテレビを見ていて驚いたことがあった。TDKの石黒社長が「世界陸上を2029年までサポートします」と宣言したのである。TDK・OBとしては「そんな先のことまで契約して大丈夫な
の」と心配。米中貿易摩擦は収まりそうもないし、世界経済は下り坂、円高基調・・・。世界経済は不安一杯である。石黒社長が10年先まで約束するということは業績に自信があるということだろう。
 
 10月10日、ノーベル化学賞が発表された。受賞したのは旭化成名誉フェローの吉野彰(あきら)氏(写真・朝日新聞)。受賞理由は「リチウムイオン電池開発」である。
11日の読売新聞によると、同電池の開発は日本企業が先べんをつけた。ソニーが1991年、世界で初めて量産化に成功(2017、村田に事業譲渡)。同電池の世界の市場規模は2019年、4兆7800億、22年には7兆3900億が見込まれるという。同電池の部材、製品のメーカーは表の通りである。スマートフォン用でTDKの名前が記載されている。中国にあるTDK子会社が電池の生産を行っており、TDKはこの分野で世界トップシェアを占めている。
 
10年先の世界陸上をサポートするという宣言の背景にはリチウム電池をはじめとする事業に対する自信があるということだろう。
 
 写真下は世界陸上・ドーハ大会で銅メダルを獲った日本チーム。次回、世界陸上は2021年、アメリカ・ユージーン(オレゴン州)で開催される。
 

2019年10月2日水曜日

世界陸上とTDK

ドーハで世界陸上が開催されている。私は現役時代、世界陸上ローマ&東京大会を担当した。
当時、私はカセットテープ等の記録メディアの商品企画を担当していたが、業界はデジタル時代を迎えていた。アナログ指向だった私はお役御免を言い渡された。1987年の時である。
TDKは1983年の第1回ヘルシンキ大会からオフィシャルスポンサーとして世界陸上に協賛していた。第2回世界陸上は1987年ローマで開催される。TDKヨーロッパの責任者が私の上司に要請。「ローマ大会には会長も参加されますね。ついては東京本社からどなたか派遣してくれませんか?」「英語はできないが畠山君ではどうかな?」「結構で
す」といった経緯もあり、私はローマ大会&東京大会(1991)を担当することになった。ローマ大会では長嶋茂雄氏(TV番組ゲスト)、カール・ルイス選手等、著名人にお近づきになる栄誉に恵まれた。
 TDKは世界陸上のオフィシャルパートナーを継続している。私が担当している当時、TDKはカセット・ビデオテープメーカーとして世界市場を相手にしていたので、世界陸上のスポンサーになることはビジネス上もメリットがあった。
が、現在のTDKは記録メディア等のコンシューマー事業からほぼ撤退し、電子部品事業に特化している。現在でも世界陸上を継続してる理由として、TDKは①スポーツ文化事業への貢献②世界30ヶ国以上に製造・販売拠点を有し、105,000名の社員が働いている。を挙げている。走る、跳ぶ、投げるという陸上はスポーツの原点である。テレビ中継されるトップアスリートの美しさに連日圧倒されている。(写真下はローマ大会のセキュリティカード)

2019年10月1日火曜日

リーチマイケル&稀勢の里/牛久インスタ映え

 
牛久駅東口から300mのところに牛久シャトー(国重要文化財)がある。シャトーは日本で最初にワインを醸造した神谷伝兵衛氏が作ったものである。浅草には神谷が作った「神谷バー」がある。
 シャトーのいっかくに神谷氏の時代から今の時代(合同酒精)にいたる歴史や商品を展示した『ミュージアム』がある。
小生、月に7回『ミュージアム』の清掃を行っている。昨日、『ミュージアム』の清掃に行ったところ、なんとラグビー日本代表の主将をつとめるリーチマイケルとツーショットの写真が
とれる看板が設置されている。その隣にはマイケルのサイン入りの靴とラグビーボール。(写真)清掃が終わってから、マイケルとのツーショット写真を撮影した。(写真)リーチマイケル(31才)は合同酒精が発売している焼酎「ビックマン」のイメージキャラクターをつとめているのである。

 牛久駅東口には牛久市出身の稀勢の里(第72代横綱)の石碑がある。石碑には稀勢の里の手形が刻印されている。
 稀勢の里は平成29年初場所後、19年ぶりに誕生した国内出身横綱だった。牛久市では横綱昇進祝賀パレードが行われ、5万名の市民が沿道を埋めた。(写真)しかし、その後ケガで休場が続いた。
元横綱稀勢の里の荒磯親方(33才)は9月29日、両国国技館で断髪式を行った。
好敵手だった白鵬、日馬富士等300名がハサミを入れ、師匠の田子の浦親方が止めハサミで大銀杏を切り落とし、17年間の力士生活に別れを告げた。

2019年9月22日日曜日

日本文化&オペラの本質/ドナルド・キーン


今年の4月出版された「ドナルド・キーンのオペラへようこそ」(文藝春秋)に”日本文化とオペラの本質”を指す表現がある。
〇わたしが18歳だった。ニューヨークのタイムズスクエアの本屋でアーサー・ウェイリー訳の『源氏物語』に出会ったのがきっかけで、日本の文学・文化の研究へと導かれたのです。『源氏物語』に描かれた世界は、わたしの住んでいた世界とは全く違っていました。戦争も殺人もなく、登場人物が何のために生きていたかといえば”愛”と”美”を追求するためだったのです。-略ー(手紙は)『源氏物語』では、女性はどのような紙がふさわしいか考えたうえで、
墨の濃淡を選び、さらに書体を決定します。(それに対し)名作オペラ<エフゲーニイ・オネーギン>のタチャーナの場合、用紙等は不明です。ロシア人にとって「わたしはあなたを愛しています」ということが伝われば十分だったのです。
〇<ボリース・ゴドゥーノフ>を言語ロシア語で上演することに大賛成です。ロシア語独特の響きがなければ、きわめて物足りなく感じることでしょう。わたしはこの名作オペラを、英語、仏語、伊語、日本語でも聴いたことがありますが、ロシア語でなければ強い違和感を感じます。例えば皇帝ボリースが登場するとき、民衆が「スラ―ヴァ(栄光)」と歌いますが、日本語訳では「ばんざい」となっていますから音楽と合いません。英語も日本語もオペラにあいません。どういうわけか英語はポピュラー・ソングに日本語は軽い音楽に向いていると思われます。
〇メトロポリタン歌劇場におけるニルソン(ソプラノ歌手)とカラヤンの確執は、ニルソンの勝ちに終わりました。歌手を音楽の一部を受け持つ楽器として扱うカラヤンのやり方が、二ルソンの肌に合わなかったものと察せられます。二ルソンにとって、オーケストラは、人間の声によって歌われることばの伴奏者なのです。オペラの魅力はひとえにその歌声にあるといっても過言ではないでしょう。
*ドナルド・キーン(1922-2019)日本文学研究者、文芸評論家、コロムビア大学名誉教授、同大学に日本文化センター設立、文化勲章受章(2008)。

2019年9月19日木曜日

母校・創立110年/東京伊勢堂会

母校、秋田県立鷹巣農林高校の東京地区同窓会「東京伊勢堂会」が9月1日行われた。場所は東京・ライオン銀座クラシックホールである。(写真・尺八をバックに相撲呼出を披露する石岡会長)
 
今年は母校創立110周年である。鷹農の卒業生は16,000名。東京伊勢堂会の登録会員は千名。秋田からでてきて、首都圏に在住し、母校に愛着を持っている方々である。今回の参加者は52名。最高齢は昭和23年卒業の工藤祐男氏、武田運蔵氏。89才である。地元秋田から同窓会長の石岡保氏も参加された。
 懇親会は12時からはじまり3時間、この短い時間に母校
の歴史や、思い出を語り合うことはムリである。しかし、校旗を眺め、校歌を歌うことで心は一つになり、青春時代が蘇る。会場のクラシックホールに秋田訛りが飛び交い、厳寒の厳しさと、燃える新緑に包まれた母校が浮かびあがった。
 私は今回、鷹農同窓会の今後の発展のために「ホーム頁」の開設を提案した。後輩達はスマホの時代に育っている。「ホーム頁」で母校の歴史や同窓生の動向を伝えるようにしたら、どうか?と思ったしだいである。
 若い人たちは秋田の「金農」は知っていても「鷹農」は知らない!「鷹農」はスキーで全国優勝している。相撲も強い!美人も多いんですよ(写真・中)石岡会長にエールを送る岩崎準志郎・東京伊勢堂会会長(写真・下)

2019年9月17日火曜日

敬老祝賀会/老後は教養(”今”日も”用”事がある)


昨日(16日)は刈谷行政区の敬老祝賀会。
 あいにく朝から大雨。8時~9時まで牛久シャトー・ミュージアムの掃除。終わってから会場(自治会館)にかけつける。入口で「畠山」と名前を書いた傘入れと下足れのビニール袋を渡された。参加者は75才以上の老人、しかも酔いがまわると、下足を捜すのも大変。事務方の用意周到に頭が下がる。
 刈谷行政区は5千名。75才以上は790名。今日の参加者は200名だという。
9時30分から開会。自治会長、市長、県議会議長のお祝いの挨拶が続き、ベテランズ会長の乾杯で祝賀会の幕が開いた。

1昨年、敬老会の案内が来た時は「オレに敬老とは失礼な!」と欠席したが、今年は素直に参加する気持ちになった。牛久市からの案内状に心を動かされた。
 ”敬老の日を迎えられ、心よりお喜び申しあげます。今日の平和で豊かな社会を築きあげてこられた皆様方に改めて感謝を申し上げます。皆様方がいつまでもご壮健で心豊かな人生を過ごされますよう祈念いたします。

ところで、刈谷行政区の場合、3年後75才以上が1,400名と今年と比較して40%になるという、今後は敬老会祝賀会の年齢を80才からにしようという案もでているという。賛成である!
 県議会議長の挨拶から・・・。老後は教育と教養。心は「”今”日も”行く”ところがある」「”今”日も”用”事がある」

2019年9月12日木曜日

ザルツブルグ音楽祭・4K生中継(下)「永遠の祈り」


ザルツブルグ(オーストリア)はモーツアルト(1756-1791)の生地。音楽祭はモーツアルトに因んだもので1920年スタート。今年が100年目に当たる。この記念すべき年、オランダ生まれのベルナルト・ハイティンク(1929生)がウィーン・フィルを指揮した。ハイティンクはオペラ「フィガロの結婚」を指揮して(1991)音楽祭に初登場。今回が1
4回目となる。
 演奏曲目はブルックナー(1824-1896)の交響曲第7番。演奏時間70分の大曲である。ブルックナーは作曲家であるとともにパイプオルガン奏者でもあった。同交響曲からは壮大なオーストリアの大自然とオルガンの響が聴こえる。記念すべきコンサートをTシャツ姿、ワインを飲みながら鑑賞す
る。鎌倉千秋アナウンサー、原沙知絵さん(俳優)、奥田佳道氏(音楽評論家)が現地の模様を伝える。ハイティンク&ウィーンフィルの演奏は壮大で美しく「永遠の祈り」を感じさせた。演奏終了後、沈黙が訪れた。
7月4Kテレビを購入したが、その威力を発揮できるような番組がなく、失望していたがザルツブルグ音楽祭の生中継がその渇きをいやしてくれた。なお、音楽番組の場合、画質が良くとも音が伴っていなと本当の感動を味わうことはできない・・・と、いう事を今回再確認した。4Kテレビには光デジタル音声出力が装備されていると思うので、それを外部オーディオ装置とつないで鑑賞すべきである。

2019年9月7日土曜日

ザルツブルグ音楽祭・4K生中継(上)ハイティンク語る。日本の聴衆は素晴らしい


8月31日(土)NHK・BS4Kでザルツブルグ音楽祭の最終日の公演が生中継された。この日の演奏曲目はブルックナーの交響曲第7番。指揮は引退宣言したハイティンク(90才)。オケはウィーンフィル。以下、当番組で放送されたイティンクのインタヴュー

 先ほどウィーンフィルから名誉団員の称号を贈られました。とても光栄です。これまで100回以上も共演したといわれて驚きました。時の経つのは早いものです。
(ザルツブルグ)音楽祭の思い出は学生のころまでさかのぼります。戦後まもなく聴いた演奏は忘れられません。フルトヴェングラー指揮ウィーンフィル、ブルックナー第8番でした。演奏会の後、その衝撃に浸りながら1時間以上も歩き回りました。カラヤンの第9にも感動しました。でも私はあの8番で魔法にかかったのです。
 ウィーンフィルは特別です。音色とその方向性がすばらしく大好きなんです。
引退の決心まで)長い道のりでした。まだ決心がつきません。指揮者仲間には年齢を重ねても活動を続けている人もいます。でも私は「彼は良い指揮者だったけれどもう年だね」とは言われたくないのです。最初は勉強のため休暇を取ると発表しました。お別れのパーティは感傷的で私には似合わないと思ったのです。もし曲目と場所が整えば可能性の扉は開けておきたいのです。ロンドンの王立音楽大学から1日だけ講師に招かれました。午前中にハイドンの交響曲第101番、午後はマーラーの1番です。もっと時間があれば良いのですが、今のところはこんな予定です。
初来日の思い出)1962年、私はとても若くオイゲン・ヨッフムが一緒でした。コンセルトヘボウ管弦楽団にとっても初来日で最高の演奏を聴かせたかった。よく覚えているのは街中に喫茶店がたくさんあったことです。おいしいコーヒーだけでなく美しい音楽が流れていて通りに響いていました。それが日本の思い出です。
 日本の聴衆は素晴らしい。他の音楽家も必ずそういいます。「ありがとう心から」これが私からの日本へのメッセージです。

2019年9月4日水曜日

家訓「修身斎家治国平天下」


村長だった祖父は「修身斎家治国平天下」という言葉を良く口にした。三十代以上続く畠山家の「家訓」である。実家(秋田)の大広間・床の間にはこの掛け軸がある。(左は牛久・畠山家所有。真言宗西明寺住職・加藤宥真氏揮毫)
 NHK”街道をゆく”プロジエクト「司馬遼太郎の風景」にこんな下りがある。
『日新館(会津藩)が教える朱子学は、儒(孔子)の教えの中でも、ひときわ身を律することにきびしい学問である。前に、四書五経の一つ「大学」を引いて、●其の国を治めんと欲する者は先ず其の家を斉(とと
の)う。と書いたが、朱子学はさらにそれを発展させ、●修身、斉家、治国、平天下。としている。天下を平(たいら)にして、国を治めるためには、家内をととのえ、その上にまだ、わが身を律して学を修めなければならないという。くりかえすことになるが、儒教とは、精神の高揚をひたすらうたった学問なのである。儒教は、学問、ないしは思想の類(たぐい)であって、政治の理想には寄与しても、生(なま)の政治の舞台では役に立たない。そういう意味において、容保(たかもり)”会津藩主・松平容保(写真)”は精神の潔癖な学者肌の人間だったといっていい』
 この下りを読んで、われわれ三兄弟を連想した。兄は農家の長男であるが、国会議員の弁士を務めるなど弁もたった。周囲からは政治家になるのではといわれたが、農業一筋で人生を終わろうとしている。自分はサラリーマンになったが「頑固で保守的だ」と評された、弟は教育者になった。容貌も含め一途なところは容保に似ている。
 明治維新は革命に近い国家的変革だった。西郷隆盛は徳川慶喜の首をはねるのが目標だったが、慶喜の方が役者が上だった。勝海舟に全権を与え江戸城を開城。その犠牲になったのが会津藩。会津藩は儒学の呪縛に拘束され「最後まで宗家(徳川)に忠義をつくす」。藩士だけでなく、婦女子までが弓・薙(なぎ)刀を持って戦い、武器をもたない女子どもは自害した。 
 乱世の時代の一途さは悲劇を生むこともある。

2019年8月23日金曜日

カセット文化をリードしたソニーとTDK


8月20日、「昭和40年男」(音楽モノ大全)が発売された。
「昭和40年男」というタイトルは”オタック”っぽい。この本のコンセプトは昭和40年(1965)生まれの男性の青春時代にスポットを当てたもので、彼らが胸をときめかせた映画、車、アイドル等にスポットを当てて編集されている。(隔月発行)2009年の創刊というから10年続いているわけで立派という他ない。
 「音楽モノ大全」を開くと、中心はラジカセ(&カセットテープ)とウォークマン。当時発売された各社のラジカセ、ウォークマンが写真入りで紹介されている。その編集の多彩さと緻密さに驚く。まさに”オタク”である。ここまで徹底すると、SNSでは得られない満足感がある。商品の開発者のインタヴュー記事も掲載されている。ラジカセではパイオニア、CDプレーヤではソニー、カセットテープでは光栄にも小生。
 当時を振り返ってみると、「昭和40年男」は家ではラジカセで、外ではウォークマンで音楽を楽しむという時代だった。それは現在のスマホに匹敵する。「カセット文化」ともいえる時代だった。当時、音楽の録音対象はCDと並んでFM放送だった。エアチェックという言葉が流行。FM番組誌が4種類も発行され、どれも数十万部の売り上げがあったというから驚く。
 TDKはFM東京で「TDKオリジナルコンサート」というクラシックのナマ収録番組を放送。「昭和40年男」に愛され、オジサンになった彼らは今でもそのライヴ音源を楽しんでいる。
 「カセット文化」をリードしたソニーは今年間売上8兆6千憶円、TDKは1兆3千憶円、両社とも日本を代表する優良国際企業として活躍している。

2019年8月20日火曜日

第40回刈谷(団地)ふるさとづくり盆踊り大会

 
16日(土)、17日(日)、私の住む刈谷団地の盆踊り大会が開催された。題して「第40回刈谷ふるさとづくり盆踊り大会」。
 私が東京(杉並)から牛久に転居したのは1973年(31才)。刈谷団地に転居したのは1980年(38才)。刈谷団地の盆踊り大会は私が転居する1年前にスタートしたことになる。刈谷は約2千世帯、住民5千名の大団地である。ほとんどが東京からの転居者。当初は子供達も沢山おり、盆踊りも賑やかだった。
 しかし、時代は変わった。子供達は成長して独立。子供や孫と同居している家族は減少した。お盆に子供や孫が遊びにきても、今はスマホ時代。各世代の楽しみ方もいろいろである。盆踊りに足を運ぶ家族は少なくなってきた。
 17日(日)、夕方になるとわが家にも祭り太鼓の音が響く。会場まで300メートル。わくわくしながら会場に向かう。八木節、ズンドコ節が流れ、幼少の頃を思いだす。昭和初期は娯楽が少なく、故郷秋田の村では盆踊が最大のイベントだった。
 牛久音頭がはじまり、盆踊りは最高潮!だが、やはり参加者が少ない。取り巻きの観衆も含めて200名くらいだろうか・・・。つまり住民の1割弱である。2日間通しても2割までいかないのではないだろうか・・・。
 盆踊り大会の準備は大変である。櫓(やぐら)を組み、和太鼓グループ、民謡歌手、来賓との交渉、抽選会、踊り手の手配、等々・・・。(100万以上の費用がかかっているという)
 費用対効果を考えると黄信号ではあるが、住民同士のナマの触れ合いは大事である。その核となるイベントが盆踊り大会である。役員の方々には今後も頑張って欲しい!