2012年11月29日木曜日

東京国立博物館と茨城の秋

21日、東京へ出かけたついでに、東京国立博物館に行った。
 この日展示されていた「古事記1300年、出雲大社大遷宮特別展」は古事記の世界が事実であることを実感させる素晴らしいものだった。同時に博物館の前庭にあるユリの木(写真・上)に目を奪われた。中庭にある日本庭園は特別展見学の疲れを癒してくれた。(写真・下)

 22日はツーリズム旅行の「茨城バスの旅」に家内と参加した。
 コースは袋田の滝、竜神大橋、花貫渓谷、那珂湊というお馴染みのコース。
 この中で花貫渓谷ははじめてだったが、渓流に沿っての遊歩道は平坦で広く、シニア向き。散策を楽しんだ。
(花貫渓谷の不動の滝。大きくはないが風情がある。)
 

2012年11月26日月曜日

NHKラジオ、テレビのステレオ秘話

(NHKのスタジオで番組制作中の辻本さん)

 17日(土)隣町・竜ヶ崎市の音楽愛好会「ゲヴァントハウス」で、同会の五周年を記念してNHK音楽プロデューサー、辻本廉さんの講演会が開催された。

 講演テーマは「秘蔵音源でたどるNHKクラシック番組収録技術の変遷」
 
 ラジオのステレオ放送というとFM放送が一般的だが、FM放送がなかった頃、なんとAMの2波を使用してステレオ放送が行われた。1950年~60年代の話である。当時は「立体放送」と呼ばれていた。(そういえば、私は実家の秋田で中学生の頃、この立体放送を聴くため、兄と電波状態が比較的良い、2階にラジオを2台並べて聴いた。NHK第1放送が左チャンネル、NHK第2放送が右チャンネルだった。)

 講演では「立体音楽堂」で放送されたシュヒター指揮・NHK交響楽団の「ローマの松」(1959年録音)が再生されたが、その立派な演奏と音の良さに驚いた。収録会場は内幸町にあった旧NHKホール。

 1953年、NHKテレビ放送が開始されるが、当時のビデオテープレコーダの音声はカセットテープ以下の音で音楽には向いていなかった。
 画期的なのは近年、辻本さん等NHK技術陣が1957年カラヤン・ベルリンフィル初来日のフィルム録画映像にステレオで収録した音声をシンクロさせDVD化した事である。同様の手法によって1975年ベーム・ウィーンフィル初来日の演奏も素晴らしいステレオ音声によって蘇りDVDとなった。

 ところで、今回の講演は私が辻本さんに依頼して実現したのだが、私が辻本さんに最初にお目にかかったのは2004年4月4日、初台の新国立劇場だった。当日の出し物はワーグナーの楽劇「神々の黄昏」。辻本さんを紹介して下さったのはアルトゥスミュージックの斎藤啓介さんだった。これがご縁で「伝説のクラシックライヴ」(TOKYO FM出版)に執筆をお願いすることになった。

2012年11月25日日曜日

「NHKプロジェクトⅩ」出演、沖山さん傘寿の会

2000年~2005年までNHKで「プロジェクトⅩ」という番組が放送された。中島みゆきの「地上の星」が番組テーマ曲だった。
 
 この番組に私が勤務していたTDKという会社も登場した。番組の内容は電子部品メーカーTDKがカセットテープで世界市場を席巻するという内容だった。この時の立役者が沖山昭八さん。沖山さんのTDKブランドイメージ戦略は緻密で戦略的だった。社名を東京電気化学工業からTDKに変更。東京・銀座、ニューヨーク・タイムズスクエア、ロンドン・ピカデリーサーカスにTDKのネオンを設置。世界陸上のゼッケンスポンサーになり、カールルイス、ブブカの胸にTDKのゼッケンをつけさせた。

 今の私の人生があるのは沖山さんのお陰である。私は昭和35年地元の農林高校をでてTDK・平沢工場(秋田県)入社。沖山さんはそんな私を本社の社内報担当に抜擢して下さった。そして、その後、なんと、カセットテープ、ビデオテープの(世界の)商品企画の責任者に登用して下さったのである。

 沖山さんはお名前の昭八が示すように来年目出度く傘寿・80歳を迎られる。
 ということで、当時上司だった芝崎さん、沖山さんの秘書役だった岩沢嬢のご協力を得て「傘寿の会」を企画させていただいた。

 「傘寿の会」の世話役で一番心配だったのは参加者の健康。なにしろ、大半が70歳代。沖山さんはじめ、全員が顔を揃えて記念写真に納まった。本当に良かった。

 沖山さん、これからもお元気で、参加者の皆様も!

(終わってから数名の方々からねぎらいのメールやお手紙をいただいた。世話役としては望外の喜びである。)

2012年11月16日金曜日

ソプラノの妖精!小林沙羅

(ラウレッタを唄った小林沙羅)
 
 11日、千葉県文化会館に行った。牛久から千葉までは50キロ。電車で行くと遠回りになるので、車で行った。最近はゴルフの回数が激減したので車に乗るのは久しぶり。古希の祝いで息子夫婦からプレゼントされたカーナビがおおいに役立った。

目的はソフィア国立歌劇場の公演を観るためだった。この公演に行く予定はなかったのだが、新潟の友人、伊藤佳祐さんからチケットをいただいた。伊藤さんとは45年前、鳥取砂丘へ向う車中で偶然お目にかかった。2人とも(厳密には小生の弟を入れて3人)、大阪国際フェステバル協会主催のバイロイト音楽祭が主目的で関西・山陰にでかけていたのである。

11日の出し物は「カヴァレリア・ルスチカーナ」「ジャンニ・スキッキ」の2本立。ブルガリアが自慢するだけあって、オーケストラ、合唱、歌手団のバランスが良く、演出もオーソドックスで、久しぶりにイタリア・オペラを堪能した。中でもジャンニ・スキッキでラウレッタを歌った小林沙羅は声も容姿も美しく、妖精のようだった。
 ただ、残念なのはお客さんが少なかった事。舞台上で名演が展開されていても、客席が閑散としていては体が熱くならない・・・。
 ピアニストの最高峰として誰でも認めるポリー二の公演でもお客さんが半分しか入らない日があったというから厳しい。
 ジャンルは違うが大相撲九州場所のお客さんが少ないのにも唖然とする。舞台(土俵)と満員の客席が一体となってこそ、コンサートも相撲も熱くなる。

2012年11月9日金曜日

農民の誇り「番楽」(ばんがく)

(「鮎瀬番楽」のCD。絵はイメージ。鳥海町のものを借用)

幼少の頃、お盆になると実家の隣、庵寺の広場に仮設の舞台が作られ、ここで「番楽」(ばんがく)が踊られた。獅子舞とも言った。

笛、太鼓、鉦(かね)による囃子(はやし)に乗って、獅子や武士などが勇壮に舞う。囃子方も舞い方も総て部落の若者である。一節によると、番楽に出演できるのは長男に限られていたともいう。

当時、農業は日本の基幹産業であり、農家の長男は自信と誇りに溢れていた。番楽は彼等の晴れ舞台であった。私の兄も幼少の頃から舞っていた。
番楽には部落だけではなく、近隣の若衆もかけつた。若衆同志の出会いの場でもあった。「番楽のできない男には嫁が来ない」ともいわれていた。

「番楽」は東北地方で伝承されている山伏神楽の一種で、350~400年前に生まれた。山伏達が権現である獅子頭をまわして村々を巡り歩き、息災延命、悪魔払いの祈祷を行った。それが村に定着し、古事や歴史物語も取り組んで演劇的なものに発展した。

2日、秋田の実家に行った時、兄から「鮎瀬番楽」の囃子をCDにしてくれという依頼を受けた。渡されたのはカセットテープ。昭和46年(1971)年収録とある。41年前である。再生してみると、解説が入っている。秋田訛りがないので兄に解説者を尋ねた所、「俺だよ」とのこと。当時兄は30歳。張り切っていたんだな・・・。音は大分劣化していたが、懐かしい活気に溢れた囃子が聴こえてきた。村の若者達の名演奏である。

 秋田県内には無形文化財の指定を受けて残っている「番楽」が13もあるという。「鮎瀬番楽」の復活を期待したい。

2012年11月8日木曜日

祖父の遺訓

5日、弟(64歳)から来たメールを見て唸ってしまった。

 「私の家の床の間の写真を添付します。掛け軸は実家の床の間に長年掛けられていたものを譲ってもらったものです。”子孫のために”という添え書きがあります。大分汚れておりましたので表装しなおしました。」

 そういえばなんとなく見覚えがある。ただ、私は草書体が読めないので、記憶から遠ざかっていた。それを察したのか、弟は楷書体を添え書きしてある。
  
        「欲深き人の心に降る雪は積もりつもりて道を忘るる」

この文章を見て、唸ってしまったのである。
なお、この道歌の作者は幕末の三舟(勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟)の一人、高橋泥舟とある。

 祖父は遺訓として「水の五訓」「修身斉家治国平下」等を残しているが、今回の掛け軸の言葉が最も心に響いた。

 祖父は教師になる為に秋田師範に進んだが、長男が亡くなった為、家業である農家を継いだ。弟は容貌も祖父譲りであり、教師になって祖父の思いをかなえた。彼の手によって、70歳になった今、私は祖父のもう一つの遺訓を知ったのである。

 

2012年11月5日月曜日

家族、同期会の絆を世界の絆へ

2日、午後2時~郷里(秋田県・由利本荘市)で中学時代の同期会があった。1日の深夜バスで東京を出発、2日の深夜バスで帰るというトンボ帰りのスケジュールだった。

1日~2日の秋田地方の天気予報を見ると、強風に雨、電車は止まる可能性があるが、秋田行き(横手経由)のバスは山間部を走るので止まらないだろうと読んだ。雨合羽に傘の重装備。

同期会の前、10時近く実家に寄った。96歳の母は相変わらず元気。ストーブで、濡れた靴や合羽を乾かすように、70歳の息子に気をつかう。11時頃、電車でくるかもしれないと、駅まで迎えに行った兄が帰宅。「(70歳過ぎて)深夜バスで秋田往復なんて信じられない!」一学年上の兄貴は呆れる。兄嫁が新米のお握りや、漬物などのご馳走を出してくれたが食べ切れない。

私の同期生、在籍生徒数93名、物故者15名。今回の出席者21名。(電車で東京からかけつけた小松寿雄君が、電車が遅れ、閉会ぎりぎりに駆けつけ、22名となる。)

「息子がTDKの下請けに勤めていたんだけどリストラで首になってよ、息子が毎日家にいるもんだから孫も変な顔している。爺と婆の年金で家族で食っていくのは大変だ・・・」同様の話がもう一件あった。
「俊三さん(私)のブログ、東京にいる子供が見て、送ってくれたよ!」という嬉しい話も。

家族の絆、同期生の絆、こういった絆が多くなれば、日本も世界も平和になると信じ、来年も元気で同期会に参加しよう。

2012年11月1日木曜日

リアル作家、児玉さんの人生

(児玉さんは広島県能美島大柿町で生まれた)

町内の自分史同好会「いしぶみ」の大先輩、児玉伸彦さんからドサリと印刷物を手渡された。
タイトルは「私の人生」。児玉さんが自分の幼少期から今日までを綴ったものだった。

児玉さんは昭和6年生まれ、私より11歳年上。今年81歳である。
瀬戸内海に浮かぶ能美島で生まれた。今では高速艇で広島まで27分だが、当時は島々を回ることもあり、3時間以上かかったという。船も丸木を打ち抜いて作ったような木造船だった。お母さんは早世、お祖母さんに育てられる。お父さんが先生だったため、「先生坊ちゃん」と島の人々に呼ばれて育つ。私は幼少の章を読んで壺井栄の「二十四の瞳」を連想した。

やがて、児玉さんはお父さんの勤務の関係で東京へ転居するが、第2次世界大戦勃発。疎開先の広島で原爆の阿鼻叫喚を体験する。中学3年の時である。好事家だったお父さんは高校2年の時蒸発。継母(教師)の細腕で戦後の混乱期を生き抜く。奨学金をもらい、明治学院大学に入学。アルバイトもしたが、小遣いが足らず、青山の借家から大学のある白金まで歩いて通学したという。しかし、ムリがたたり、夢遊病者になってしまう。
大学は卒業したが、就職先が見つからず、林業関係の業界紙、個人の印刷会社を渡り歩く。何日も徹夜が続き、デパートでマネキンの足を踏み、女性と間違って「すみません」とマネキンに謝り周囲の人々に笑われたこともあった。

児玉さんは30歳で結婚するが、奥さんと渋谷の「名曲喫茶田園」でデートした時である、急に奥さんが下を向き、ハンカチで目元を拭きだした。理由を聞いたところ、児玉さんの服装があまりにも粗末だったのが理由だった。奥さんは泣きながら「あなたが可哀相で仕方がなかったの。私で出来ることなら、あなたを幸せにしてあげたい。」これを聞いて児玉さんは貧しくても彼女を大切にしなければならない、と思った。

児玉さんは自分史を「リアル文学」と呼んでいる。児玉さんの人生は波瀾万丈。読んで大きな感動に包まれた。現在、児玉さんは2人のお嬢さんとお孫さんに恵まれ、趣味の写真と文学で悠々自適の生活を送られている。