2017年8月27日日曜日

カセットテープ、世界陸上、ここだけの話!

 
(左から畠山、坂本、岩沢、吉野、辻井、藤井・敬称略)
 
 6月「カセットテープ時代」part2という本が発売された。目玉はなんとTDK特集だった。
 8月25日(金)、坂本幸広さんが幹事役となって「カセットテープ時代、有志の会」を開いて下さった。昔話に花が咲いた。
 1964年入社、辻井敝さんの話「当時はオープンテープの時代、工場の事務所には冷房がなく、大歳事業部長は氷の入ったバケツに足を入れて仕事をしていた。”おい、カセットテープというのが発売されたから、買ってこい”大歳さんはポケットマネーを出して、秘書に渡した」。現在、TDKは1兆円の売り上げだが、当時は55億円。テープ工場は赤字。1966年、TDKはカセットテープを発売する。辻井さんの一番の思い出は1981年発売の”黒のAD”「なにしろ、注文が殺到して生産が間に会わないんだよ。お詫びの全面広告を出したね」
 世界陸上を推進した岩沢克恵さんの話。1983年岩沢さんは沖山昭八さんと、スポーツマーケティング仲介者であるジャック・K・坂崎氏と会う。坂崎氏の話はこうだ。「世界陸連がオリンピック、サッカーと並ぶ世界陸上を開催しようとしております。資金集めのためにゼッケンスポンサーを探しております。」岩沢さんは沖山さんの目をみる。「ジャックさん、この話、他にしないで下さい。すぐに結論を出します。」沖山さんは素野福次郎社長に直談判。即決してもらう。ジャックと別れて30分後のことだった。
 岩沢さんは外務省「在英日本大使館広報部」に勤務していた。国にとっても企業にとっても広報活動がいかに大事か熟知していた。
 2005年、岩沢さんはNHK「プロジェクトX」に”TDKカセット物語”を持込む。プロデューサーの共感を得て放送にこぎつける。
 岩沢さんは振り返る。新聞社から電話がかかってくる。「岩沢です」「いや、広報の岩沢さんお願いします」「私が広報の岩沢です」。当時、広報は男性の仕事だったんです。岩沢さんはTDKのみならず業界における女性の地位向上にも大きく貢献した。
 《関連出版物》ジャック・K・坂崎著「フェアプレイ」日経BP社。谷口源太郎著「冠スポーツの内幕」日本経済新聞社。
 

2017年8月24日木曜日

霞ケ浦を舞台にした名画「米」

 
山中さんと、映画「米」のポスター
 
 21日(月)霞ケ浦に住む山中忠雄さん宅を訪れた。
その数日前、山中さんから残暑見舞いをいただいた。「妻が遺したレコードがあります。よろしければお譲りします」とある。直ぐに電話をした。「レコードいただきにうかがいます。ご自宅の場所はネットで調べます」というと、「畠山さん、家にいらした事がありますよ」との事。アレアレである。
 私は「いしぶみ」という自分史集を編集していた。山中さんと知り合ったのは、それがご縁である。山中さんは平成25年と26年の号に寄稿して下さった。(平成22年亡くなられた奥様のご遺構もいただいた。)
 山中さんの作品を拝見すると、山中さんは昭和18年生れ。(小生より一才年下)土浦市出身。地元名門、土浦一高卒業。22才の時、市内菅谷(すげのや)山中家の一人娘サチ子さんと出会い、24才の時、山中家の婿養子になる。
 山中家は土浦駅から霞ケ浦沿いに西へ10キロほどのところにあった。立派な門構えの旧家である。山中さんの話によると、私は3年前にうかがい「秋田にある実家に似ている」と感想を漏らしたとの事。スッカリ忘れてしまった。自分の老いぼれ加減に呆れた。
 帰り道、思い出したのは、60年前、17才の時に観た今井正監督の映画「米」だった。農漁村の若者達の切ない恋物語。江原真二郎演じる次男は霞ケ浦で帆曳き漁をしている。夜遊びといえば対岸に行き、娘たちを冷やかす事。次男はうす暗い農家で黙々と仕事をする中村雅子演ずる千代の清純な姿に心を奪われる・・・。
 左手に海のように広がる霞ケ浦、山中家を囲むのどかな田園風景、これらが映画「米」を再起させたのである。
 牛久の自宅に帰ってLPレコードに針を落す。ポール・アンカの「ダイアナ」が流れた・・・。
 

2017年8月22日火曜日

小泉進次郎氏、牛久で街頭演説

20日(日)、わが町、牛久で小泉進次郎氏が街頭演説を行った。27日投票が行われる茨城県知事立候補者の応援演説である。夕方6時から、わが家は丁度食事時であるが、将来の総理候補といわれる小泉氏の生の姿を見、話を聞いてみたいと思いでかけた。
 街頭演説が行われる牛久駅東口には既に人垣ができていた。6時、地元県会議員、国会議員が挨拶。続いて小泉氏登場!拍手が沸き起こる。小泉氏、手をあげて応える(写真)

 小泉進次郎氏、36才。若い、カッコイイ。しかも話が上手い。彼のような若い政治家がいれば日本も大丈夫と感じた一時だった。以下、小泉氏、演説の概要。
 「360度、取り囲んで下さった皆さんありがとう。お盆に行われた”河童まつり”の盛況を連想させます。牛久以外からもいらして下さったとか・・・。土浦、阿見、竜ケ崎の方々ありがとう。私は高校時代、野球をやってました。土浦一高、常総学院と練習試合をやりました。負けましたね。(笑い)ところで、9月1日、シャトーカミヤの名称が「牛久シャトー」に変わります。大井川さんに当選していただき、「牛久シャトー」のワインで乾杯をしたい!皆さんよろしくお願いします。ところで、稀勢の里、牛久と竜ケ崎を足場に横綱になりました。なんと19年目の日本人横綱です。茨城県知事選、24年目で終わらせましょう。私でも牛久に関連した話題が次々とでてくるのに、県の魅力度で茨城は47位です。新しい知事を選んで、上位を狙いましょう。茨城が頑張る事によって他県も活性化します。今、スマホの時代ですが、これから世の中ドンドン変わります。平均寿命が100才を超えるといわれております。将来を見通せる若い知事を選びましょう」
 
 小泉氏は、まず、地元の話題を持ち出し、聴衆との同化はかる。また、地元、国の課題を持ち出し、聴衆に問いかける。対立候補を直接ヤジるような事をしない。実にスマートな街頭演説だった。
 

2017年8月17日木曜日

頼もしい孫達

甲子園が夢の純君(左)と諒君

お盆ということで、息子家族が遊びにきてくれた。
息子には3人の男の子がいる。中1、小5、小1である。実に頼もしい。
中一の純君は野球部に所属し、猛練習の日々。ママが時々フェースブックにその模様を投稿するが、フォームが実にカッコイイ。スポーツ音痴のジジィとは違う。
ジジィが「純君、甲子園目指すの?」と聞いたら、うなずいた。ジジィも一緒に甲子園の夢を見よう。小5の諒君、小1の侑君にも、夢を持って頑張って欲しい。
 私は昭和17年生まれ、戦争の記憶はほとんどない。息子は昭和48年生まれ、彼も平和な時代を過ごしてきた。孫の世代も平和であって欲しい!

 息子との会話。
「俺が病気しても、無駄な延命治療はやるなよ、葬式にも金かけるなよ。戒名もいらないからな」
「そうもいかないよ、そういうことは口頭でなく、書類に書いておいてよ」

ところで、今日、自治会の役員の方がいらっしゃった。
「9月18日、敬老会がありますので、ぜひ参加して下さい」”祝・敬老 牛久市”という封書をいただく。
 ”敬老”って私の事!ショック!自分では”後期高齢者”とか”終活”といいながら、お役所にいわれると、「老人呼ばわりするな!」と腹が立つ・・・。難しい年ごろのジジィである。

2017年8月10日木曜日

世界陸上の思い出⑤ディアック会長のメッセージ


 2002年、私は60才となり定年を迎えた。驚いた事にその時、世界陸上・会長のダミン・ディアック氏からメッセージをいただいた。(写真・上)世界陸上はオリンピク、ワールドサッカーと並ぶ世界の3大スポーツイベントである。世界陸上の会長といえば、オリンピックのサマランチ会長に次ぐ有名人である。

親愛なる畠山さん
 TDKを去られるという知らせを受けました。この機会をお借りしまして、国際競技連盟の代表として、これまでの当連盟およびスポーツ競技に対するご尽力に感謝申し上げます。TDKという有名企業とパートナーを組めたことは当連盟の喜びであり誇りでありました。しかし、こうした関係も畠山さんの努力と情熱があってこそ成功したものだと思います。ありがとうございました。~以下略~

あれから15年、世界陸上ロンドン大会開催中である。アスリート達の記録へのあくなき挑戦、歓声を上げる超満員の観衆!テレビの画面が涙で曇る。世界陸連、電通の皆さん、お世話になりました。


〆は第3回東京大会
マラソンで4位に入賞した
有森裕子さんとの
ツーショット。
(1991)




                   
                   


2017年8月8日火曜日

世界陸上の思い出④世界陸上と共に歩むTDK

 
 TDKは1993年第1回ヘルシンキ大会から今年の第16回ローマ大会までゼッケンスポンサーを継続している。私は第2回ローマ大会から第6回アテネ大会まで、その事務方を担当してきた。担当期間中、業績が低迷して、継続の危機を迎えた事がある。この時、役員の一人が「世界陸上を継続できるよに、皆で頑張ろう!」と述べ、継続が決まった。
 
(1992年、世界陸上継続の稟議書。佐藤社長がサインして下さった)

 2002年、私が定年退職した後もTDKは世界陸上を継続している。その理由は「記録と自己へのあくき挑戦を続けるアスリート」の姿勢と「独自の技術で未来をひきよせるテクノロジーを生み出し、社会貢献をしよう」というTDKの企業姿勢が一致しているからだという。
 1993年第1回ヘルシンキ大会当時のTDKの売上は3千百億円だったが、今年、TDKは1兆1千5百億円を目指す。(海外売上が92%を占める)世界陸上とともに歩むTDKである。
                

1987年、第2回ローマ大会の時、イタリアの日本大使館を訪れ、全権大使 西田誠哉氏にお目にかかる。


2017年8月7日月曜日

世界陸上の思い出③第3回・東京大会

第3回世界陸上・東京大会は1991年8月23日~9月1日まで10日間、開催された。1964年の東京オリンピックに次ぐ国家的イベントだった。23日の開会式には天皇・皇后陛下ご臨席のもと、海部俊樹内閣総理大臣が開会を宣言。
 競技2日目、女子マラソンで山下佐知子が銀メダル。日本女性が世界のひのき舞台の陸上競技でメダルを獲得したのは、1982年アムステルダムオリンピック800mで銀メダルを獲得した人見絹枝以来63年ぶりの快挙だった。その夜、男子100mでカール・ルイスが9秒86の世界新記録(ローマ大会でジョンソンが出した9秒83はドーピングで失格)で優勝。大会6日目にはパウエルが男子走り幅跳びで8m95の世界新。そして大会最終日の9月1日、男子マラソンで谷口浩美が2時間14分57秒で金メダル。(写真・上)国立競技場のセンターポールに日の丸が上る。
 私は第2回大会に続いて、第3回大会も担当。大会期間中、帰宅は毎日深夜。下車駅の牛久駅を乗り越すこともあった。
(世界陸上・東京大会)参加国・地域184、参加選手
2,500名、報道関係者4,500名、観客70万名、テレビ視聴者33億名

TDKのパーティ会場に突然現れたカール・ルイス(写真・左)
               

TDKパーティのホスト役、大歳 寛会長(右)と私(左)


*写真、上・中(陸上競技社)           
               

               







                   

2017年8月6日日曜日

世界陸上の思い出②第2回ローマ大会

 ルイス(左)を破ったジョンソン(右)”写真・陸上競技社”
 
 イタリア語はおろか、英語もできない私が10日間もローマへ行って何をしていたんだろう?あれからもう30年が経過している。自分史「ドリームⅩ」を読み返してみる。
「私の仕事は世界陸連からの情報を基に大会を活用して最大限のPR効果を上げる戦略を練る事、さらに米欧等の現地法人が派遣してくる招待客を迎え入れる体制を整える事」と記している。具体的には次のような対応をした。
①競技場内外でビデオテープのPRをする場合の段取りと費用。
②日本大使館を訪れ、全権大使の西田誠哉氏にお目にかかる。ローマの治安状況と、危機管理についてお話しをうかがう。
③日本交通公社(JTB)・ローマ支店を訪れ、ホテル・レストランの状況を聞く。パーティ会場の選定を依頼。
④電通ISL(世界陸上事業部)と、ゼッケン・看板の露出について確認。TV放送が全世界をカバーするよう要請。
⑤競技場にTDKのバルーンを揚げるよう要請。
⑥世界陸上連盟会長、プリモ・ネビオロ氏に挨拶。
⑦日本テレビ取材クルーに挨拶。 

 第2回ローマ大会には165ヶ国から1,700名の選手が参加。大会2日目、男子100mでベン・ジョンソンが9秒83の驚異的な世界新記録でカール・ルイスを破ったこともあり、異常な盛り上がりを見せた。
TDKのパーティはヒルトンホテルで開催された。TDKからホスト役として大歳会長ご夫妻が参加。招待客はネビオロ会長他、日・米・欧のTDKのお得意先を含め、500名。日本テレビで特別コメンテーターを務めた長嶋茂雄氏も参加された。

2017年8月4日金曜日

グランドゴルフで4位入賞

(グランドゴルフに興ずる仲間たち)

 私の午前中の日課は運動である。
その手段は3つ。①掃除のバイト②グランドゴルフ③散歩。①も②も週に2日くらい、①と②がない日は③で体を動かす。

グランドゴルフは実に楽しい。ゴルフクラブのようなクラブで野球のボールくらいの大きさの球を打って、ゴールポストに入れる。コースの長さは15m、25m、30m、50m、と4種類あり、いずれもパー3。1ラウンド、8コースなので、1ラウンド、パー24である。試合になると4ラウンド廻るのでパー96ということになる。なお、1パット(ホールインワン)で入れると、合計打数から3打引くことができる。

大会で入賞するには、70代のスコアを出す必要がある。
私はいつも、80代の前半。80代をきるのは10回の内、3回くらいである。
2日、牛久グランドゴルフクラブの大会があった。32名参加。
この日はなぜか絶好調!4ラウンドとも、2打(バーディ)が5回もでた。おまけに50mのロングコースでホールインワン!合計打数71。自分でも信じられない。
このような好スコアは2度と出ないと思い、ブログに書き残す。


頂いた賞品。
参加費¥300。
(ゴルフとは比較にならない
低料金)

2017年8月1日火曜日

世界陸上の思い出①男子ゼッケンスポンサー

(第3回・東京大会、100mで金メダルのカール・ルイス)

世界陸上といえば、TDKが男子ゼッケンスポンサーである。私はこのイベントを担当した。「俊、ビリにだけはなるな!」小学校時代、運動会の時に母に言われた言葉である。とにかく運動が苦手。そんな私が世界陸上のイベント担当になった訳?それは私を秋田から東京へ呼んで下さった沖山昭八さん、澤野洋さんの意向だった。
 沖山さんはTDKをカセットのトップメーカーに育て、さらに1983年、第1回世界陸上のゼッケンスポンサーになることを提案。広報担当として外務省「在英日本大使館広報部」に勤務していた岩澤克恵さんを起用。開催地ヘルシンキに乗り込む。この時は男女ともゼッケンはTDK。「TDKの運動会」といわれた。
 第2回世界陸上は1987年、ローマで開催された。この時、私はカセットやビデオテープの商品企画を離れて広報部に在籍していた。以下、沖山さんの後、テープ事業部長となった澤野洋さんとTDKヨーロッパ・徳田社長との会話
澤野「ローマ大会の運営は、ヨーロッパでやってくれないか」
徳田「それは困ります。期間中大歳会長が参加してのパーティもありますので、東京の広報からも誰か派遣して下さい」
澤野「畠山君でいいか?畠山君は岩澤さんと違って、イタリア語は勿論、英語もできないよ」
徳田「わかっております。そこらへんは私の方でフォローします」

1997年、第6回・アテネ大会の時、行きの飛行機はTBSの砂原社長、電通の坂田常務と同じ便だった。スチュワーデスが「ファーストクラスが空いてます」と笑みを浮かべた。(通常、ビジネスが45万なのにファーストは120万もする)坂田さんが忖度して下さったのかな?。ファーストは2階席先端にあり、座席は一列、前の席とは3mも離ている。天にも昇る気分だった。