2017年4月30日日曜日

日本フィル牛久公演「運命」「新世界」


29日(土)はクラシック音楽ファンである私にとって、とてつもなく贅沢な日だった。
午後3時から大友直人指揮・日本フィルの公演が牛久市民ホールで行われたのである。家内といそいそと出かけた。
 私がこの公演で一番気にしていたのは、演奏がどうのこうのではなく、会場が満席になるかどうかであった。東京からわざわざ日本フィルがくるのに会場がガラガラでは牛久市在住のクラシック音楽ファンとして申し訳ない。
 牛久市民ホールでは6月4日、八代亜紀、9月10日、平原綾香、10月9日、三遊亭円楽の公演が続く。牛久市の人口は8万名弱。こんなに催が続いて、チケットは売れるのかな・・・と心配だった。
 会場についてホッと一息。満席である。ステージに燕尾服の楽員がズラリと並ぶ。イケメンの大友直人登場。白髪の長髪が美しい。演奏前に大友さんが一言。「満員のお客様ありがとうございます。”運命”は200年前に作曲された作品です。その作品を皆様はこれから聴くことができます」。
「フィガロの結婚」序曲にはじまり、ベートーヴェンの「運命」。休憩をはさんでドボルザークの「新世界」。アンコールはドボルザーク交響曲第8番の第3楽章だった。演奏はオーソドックスで作品の素晴しさをあますところなく表現。特に「運命」第3楽章から第4楽章への移行部の緊張感は圧巻。アンコール曲は遠くボヘミアの地を連想させる抒情に溢れていた。
 東京のコンサートホールは客席数が2千名を超える。牛久市民ホールは千2百名。フルオーケストラをこのような中規模のホールで聴くのは誠に贅沢。音響的にも日本フィルの演奏に圧倒された。

2017年4月24日月曜日

TDKカセット開発秘話


 今日(24日)、取材に来られた藤本さん(右)小倉さん

4月17日、「TDK歴史みらい館」の武内隆之さんからメールをいただいた。開発社の小倉靖史さん(デスク)から取材依頼がきているので協力して欲しいという。取材の企画趣旨はこうである。
 ”カセットの街ーTDKの歴史を訪ねて(TDK創業者の郷里である秋田。なかでもにかほ市をカセットテープの街として紹介・・・TDKカセットテープの歴史を探る)”
 TDKは今カセットを作ってないし、カセットは川崎工場と長野の千曲川工場で作っていた。秋田にある「歴史みらい館」にカセットテープが展示されているとはいえ、にかほ市をTDKカセットテープの街として紹介するのはムリがあるように思えた。
 ただ、良く考えてみると、TDKは磁性材料フェライトのメーカーであり、その原点はにかほ市の工場である。カセットテープもこの磁性材料技術を応用して生まれた。現在、テープで培われた塗布技術は秋田地区にある工場の積層部品等に生かされている。ここまで小倉さんは深読みしているのではないか・・・。
 私も出身は秋田。最初の勤務地はにかほの工場。その後、カセットテープの商品企画を担当した。カセットで、にかほ市とTDKの知名度が上がれば、こんな嬉しいことはない。
 取材に備えて40年前の資料をめくってみた。TDKは1968年、世界ではじめて音楽用カセットSDを発売。私が商品企画を担当してから、カセットの評価に聴感評価を導入。いくら電気特性が良くても耳で聴いてダメなものは商品化しなかった。このため、技術陣は新製品の開発に100種類以上の試作品を作った。無理をお願いしたものだと思う。
 開発秘話が掲載された昔の資料をギッシリ詰め込んで、取材場所の牛久シャトーに向かった。小倉さんと藤本晃一さん(部長)が待ち構えておられた。
 記事は5月31日発売の【CDジャーナルムック新刊】カセットテープ時代vol.02~懐かしの昭和の音楽カルチャー~に掲載される。

2017年4月19日水曜日

恩師、高橋彰三郎先生逝く


14日、高校時代の友人、近藤實君からメールが入った。恩師、高橋彰三郎先生の訃報の知らせだった。秋田魁新報・訃報欄に「13日、肺炎のため自宅で死去。葬儀は16日午後」という記事が掲載されたという。
 私は昭和32年、秋田県立鷹巣農林高校に入学した。当時、先生は22~3才、大学を出たばかりの新進気鋭、紅顔の美青年だった。先生は組は違うが同じ学年のクラスを担任。われわれが古希を迎えた平成22年には、私が企画した古希記念文集”飛翔70年「昭和35.36年卒業同窓生が歩んだ昭和平成の記録」”にお祝いのメッセージ”をいただいた。
16日、葬儀に参列した近藤君からメールをもらった。
貴君が発行した”飛翔70年”に掲載された先生のメッセージ「教え子の古希に寄せて」”がコピーされ参列者全員に配布された。ご遺族の計らいか、先生のご遺志かは知る由もないが(推測するに先生の意図と思われる)・・・。
このメールを読んで、胸が熱くなった。先生のお役に立てて良かったと思うとともに記録に残すことの大切さを実感した。
 ちなみにメッセージの書きだしはこうである。”「鷹巣農林高校」、何とも甘やかな響きだ。心を穏やかに包む町の空気、そこで「教師人生」のスタートを切り、「青春」という名の、充実溢れる3年と9ヶ月を過ごした・・・”
 先生は鷹巣農林の後、能代高校、本荘高校、秋田高校等、秋田県の有名高校を歴任され、秋田中央高校、秋田北高校の校長にまで昇りつめる。定年後は県立博物館館長を務めめられた・・・。ご冥福をお祈りいたします。

2017年4月14日金曜日

400年の伝統「歌舞伎」に痺れる。


月に一度、東銀座にある喫茶店「ジュリエ」で昼食をいただきながら、野原さんと四方山話をする。野原さんにとって「ジュリエ」のママは”ジュリエット”のよう。ご挨拶はいつも「今日もママは美しい」。
 4月11日、野原さんとの四方山話が終わったのは2時近く、外は生憎の大雨。次の予定は東京駅で弟と4時半に会う約束をしている。大雨の中、2時間あまり、どう有効活用しようか?一つは近くに歌舞伎座があるので一幕物を見る。もう一つは映画でも見るか、である。
 歌舞伎座に行くと、ちょうど昼の部の最終演目、「一谷ふたば軍記”熊谷陣屋”」の発売中である。料金1,500円也。窓口に並んでいると「チケット買われるんですか」、振り向くとご婦人が立っていた。「良かったら使って下さい」見ると2階正面席である。「1,000円でよろしいですか」「どうぞ、どうぞ」。(後で調べたら18,000円の席)
 座席につく。舞台が良く見える。椅子もゆったりしている。お客のほとんどはご婦人である。(歌舞伎座に入るのは50年ぶりくらいかもしれない)
 幕が上がる。下座音楽がはじまる。重要人物が登場する時場内に響く”バタバタ””バシーン”という「ツケ」の音に驚いた。あらすじを語る義太夫(三味線)のうなりも凄い。役者は直実(幸四郎)、義経(染五郎)、弥平兵衛(左團次)と名優が勢揃い。歌舞伎は芝居、踊り、音楽による総合芸術だというが、真にその通り。400年以上の伝統に培われた日本の歌舞伎に痺れた。
 当日の仕上げは弟との一献。東京駅の居酒屋で築地の刺身を肴に山形の銘酒「十四代」のコップ酒。「お会計・・・えっ!割り勘だよ」「もちろん。兄貴、帰りの電車賃大丈夫?」。(兄貴の財布まで心配する)頼りがいのある弟である。

2017年4月10日月曜日

畠山家初代「重忠まつり」へ参上

(雨天の中、行われた”重忠まつり”。正面はお墓)
 
 8日、夜、携帯のベルが鳴る。「熊谷の曽根です。明日(9日)”重忠まつり”があります。今日の明日で失礼とは思いましたが、お知らせいたします。」「明日ですか・・・おうかがいします。」
 畠山重忠は平安時代末期から鎌倉初期時代の武将。源頼朝に臣従し、治承・寿永の乱では先陣をきる。重忠は埼玉県深谷市の生まれ。地元では「坂東武士の鑑」と崇拝されている。その深谷市が「重忠まつり」と銘打って、その面影を偲ぶという。重忠を初代とし、畠山家32代・洋三の弟である私は先祖に導かれるように曽根悦夫さんのお話しにのった。
 曽根さんにお目にかかったのは2015年7月。TDK時代「世界のカセット」を目指して世界のライバルメーカーと戦った戦友、内野森一さんの誘いだった。内野さんも熊谷在住。この時は埼玉大学・清水先生の「畠山重能・重忠と源平の内乱」という講演会だった。この時、曽根さんを紹介された。
 曽根さんの運転する車で熊谷から深谷に向かう。会場である「畠山重忠公史跡公園」に着くと、満開の桜、祭りの幟が目に入る。雨にもかかわらず、多くの市民が詰めかけていた。重忠に対する市民の心情に胸が熱くなった。祭りの実行委員会、高橋会長に「重忠の子孫です。茨城から来ました」と挨拶。31代・畠山一男の本「感謝」を手渡す。
 曽根さんは、その後、嵐山にある重忠の居城「菅谷館跡」を案内して下さった。曽根さん元関東財務局勤務のお役人、今は悠々自適の日々を送られてる。内野さんのお陰で素晴らしい方と知り合うことができ、お世話になった。
 1205年(元久2年)重忠は長男・重保ともども北條一族に討ち取られる。しかし、畠山家32代・洋三は東京農業大学で北條家の流れを汲む北條文次郎氏と会い「村の会」に集い、農業の将来を語り合う。次男俊三の息子暁は文次郎の弟保夫氏の長女訓子と結婚する。縁とは不思議である。ご縁は大切にしなければならない。

2017年4月7日金曜日

野菊の墓、矢切の渡し、寅さん

<戸定邸、さくら像(右上)、矢切の渡し>
4月2日、市川に住む、義兄、工藤光春さんが旗振りをして松戸の名所を案内してくれるという。松戸は牛久から常磐線一本で行けるのでありがたい。10時、松戸駅で光春さんに会う。光春さんの母方のご親戚の土門さん、岡野さんも合流。秋田出身の爺さん4人のお散歩のはじまりである。
 まず、松戸駅から徒歩10分のところにある戸定(とじょう)邸<国指定重要文化財>と庭園<国指定名勝>に寄る。この邸とお庭は最後の水戸藩主であった徳川昭武(あきたけ)の私邸で、一般公開されている唯一の徳川家の住まいとのこと。邸と庭の調和が素晴らしい。折しも紅しだれ桜が満開。江戸川を臨むこともできた。
 次に向かったのは矢切。戸定邸近くのバス停から10分足らずで到着。矢切観光案内所の近くに野菊の墓文学碑がある。伊藤左千夫の処女小説「野菊の墓」はこの矢切地方が舞台なのである。(後で、「野菊の墓」を読んでみよう)
 そして、いよいよ「矢切の渡し」である。船頭さんが漕ぐ船にのって、対岸の柴又(東京都葛飾区)まで行く。乗船料200円。所要時間10分足らず。船は28名で満席となった。風もなく、江戸川は波静か。絶好のクルージング日和だった。
 柴又に着くと、ここは「寅さん」の町。寅さんやさくらの像が並ぶ。「葛飾柴又寅さん記念館」「山田洋次ミュージアム」は見たつもりで素通り。隣接する柴又帝釈天に向かう。200mの参道はうなぎ屋や団子屋が並び、参拝客でごった返している。浅草のミニチュア版のようである。「とら屋」で団子のお土産を買う。
 時計を見ると、もう一時過ぎ。待ちにまった飲み会。ビールで乾杯した後でお蕎麦をいただきながら、故郷、秋田のお話し、東京へでてきてからの自慢話と、時の経つのも忘れました。
 それにしても灯台下暗し。松戸周辺にこんなに名所が集中していたとは・・・。光春さんありがとうございました。

2017年4月4日火曜日

稲作時代からの日本を語る、名匠・小津安二郎

映画ファンである野原さん、「音楽と同じように映画の世界も奥が深い。この本を読んで下さい」。渡されたのが前田英樹が書いた「小津安二郎の喜び」(講談社)である。

 前田は語る”小津が日本間のシーンで用いる水平のローポジションは、畳の上に座る人物の視線と重ならない。キャメラの位置は、必ずそれよりも低い。人物が立っている時も、椅子に腰かけている時も、必ずその人物の視線の下にキャメラは沈む。・・・なぜ、その位置は、人間の上ではなく<下>なのか。・・・<下>で水平に構えられたキャメラは潜在的なもの、それ自体に在るもの、一切を生み出しながら持続しようとする<永遠の現在>を視ようとする。言い換えれば、それは神を視る視線である。・・・それは稲作民の神であり、「畳の上で暮らしている日本人」の神だと言ってよい。”
 前田が「あとがき」で言っているように、この本に書かれていることは誠にわかりにくい。ただ、小津が監督した映画の印象と合わせて考えると合点がいく。「東京物語」「早春」「小早川家の秋」等に共通しているのは、日本の家屋、和服、日本人の振る舞い、風習の穏やかさであり、美しさである。小津は日本の美しさを永遠に語り継ごうとし、前田はその為に用いた撮影技法などを説こうとしてしているのではないか。
 前田は語る”そもそも、都会のビルで働くサラリーマンとは、何者であるのだろう。彼等の仕事は、近代の工業化された産業を前提に成り立ち、貨幣という記号による抽象的な、奇怪極まる投機市場の流れのなかで、その日その日を綱渡りしながら暮らしてる。・・・小津安二郎が映画のなかで描き続けたサラリーマン生活は、だいたいのところ、こういったものである。”小津が映画を作っていた1930年~50年代、日本はまだ農業、漁業等の第1次産業が隆盛で、稲作時代の伝統が息づいていた。小津の目から見たサラリーマンは異端だった。映画は時代を映し出すものでもある。
 「小津安二郎の喜び」を読んで、小津作品を見直し、日本人とはなにかを問い直したいと感じた。