2017年10月31日火曜日

宮様も訪れた秘境の料亭「玉貴」

 
母の百歳祝いの翌日、姉を由利本荘市の病院に送り、帰路についた。
本荘ICに入ったのが丁度9時、山形自動車道の西川インターを目指す。このインターを降りたところに料亭「玉貴」がある。弟から「兄貴、ちょっと高いけど、いい料亭だよ」と聞いていた。たまには家内にも料亭の気分を味わってもらいたいと思い予約した。

 山形自動車道は出羽三山(湯殿山、羽黒
山、月山)を横断する山岳道路。西川町は月山の麓にあり、寒河江川に沿った宿場町。秘境の町である。
 11時45分、料亭「玉貴」に到着。玄関に入って驚いたのは「畠山様」という名札のついたスリッパが並んでいる事。時代劇にでてくる″草履取″を思いだした。案内された部屋には革張りの重厚な椅子が向かい合っている。眼下に寒河江川を臨む。「お父さん、どうしてこんな場所を選んだの」質素な生活を心情としている家内は怪訝な顔をした。
 
 食事は「後の雛祭りと重陽の節句・撫子コース」。山菜とキノコを素材にした料理である。キノコの煮物、ぬた和え、グラタン、鮎炭火焼きと、調理したての料理が次から次へとでてくる。驚いたのはそれぞれの料理が料理に合った器に盛られていること。料理、器にも数十年の経験と工夫が込められいると感じた。
 家内が帰りに土産として「草餅」を注文した。「はい、かしこまりました。これから作りますので、お待ち下さい」注文を受けてから作るという徹底ぶりである。待合用に案内された部屋から紅葉真近な山々、清流を眺める。室内に目を移すと宮様と店主のツーショットや短冊が並ぶ。
 
 帰りの車「お父さん、昼はお握り一個でいいというのに今日は完食だったわね」。確かに。一品が一口サイズだったとはいえ、品数は17品。大自然で育った山菜とキノコ、体との相性が良いのかモタれることもなく、帰路の運転は快調だった。
 

2017年10月28日土曜日

美しい100歳の母に驚く

 
私の母、チヨミは今月100歳の誕生日を迎えた。
地元、秋田県由利本荘市から賀詞と祝い金をいただき(10月7日ブログ)、敬老の日には安倍総理大臣から銀杯をいただいた。(写真・右)
 弟が子供達もお祝いの会をやろうと企画した。母は5人の子供に恵まれた。長女・セイ子、長男・洋三、次男・俊三、三男・幸三、次女・友子である。
 25日、母と子供夫婦8名が、いちゑ旅館(秋田県・にかほ市)に集合した。

 私達夫婦も当日7時に自宅(牛久市)を出発。秋田まで500キロ、久しふ”りの長距離ドライブである。長雨も上がって、天気良好。絶好のドライブ日和だった。山形自動車道に入ると紅葉真っ盛り、紅葉に飛び込むように車は走る。
 実家に立ち寄った後、いちゑ旅館へ。先に到着していた母に会う。正直驚いた。1年前、白寿の祝いで会った時より若くなったように感じた。率直に言って「美しい」。100歳になった女性にも「美しい」という形容詞が当てはまる場合があるという事を実感した。それが自分の母なのである。子供達のお祝いの言葉に対して「お陰様でここまで長生きできました」と、若い頃の口調で語る。その言葉に胸が詰まった。
 18年前、86歳で亡くなった父も「チヨミ頑張ったな」と喜んでいるに違いない。

2017年10月22日日曜日

ハイエンドオーディオの守護神、藤岡 誠先生

 
(1983年、TDK三隈川工場で。右から小生、藤岡 誠先生、江川三郎先生・・・)
 
 20日、オーディオ評論家の藤岡 誠先生が主催する飲み会「千代田会」に参加するため東京へでかけた。この会にはオーディオメーカー、出版社の方々が参加する。
 定年後、オーディオには縁遠くなっている。会に参加される方々とレベル合わせをするため秋葉原に寄った。愕然とした。秋葉原はパソコンとアイドル系ゲームの街に変貌していた。
 電気店のビルに入り、売り場の案内表示を見る。あったあった「オーディオ」という表示が、が、そのフロアに行って愕然!ヘッドフォンがフロアの大部分を占めている。オーディオコンポが見当たらない。そうだ、御茶ノ水の「オーディオユニオン」に行ってみよう、あそこだったらハイエンドのコンポがあるはずだ。というわけで御茶ノ水に足を運ぶ。が、同店に入って愕然!1階から3階までコンポが展示されていたが、全て中古品だった。
 ハイエンドコンポの惨状はわかったが、千代田会メンバーである音元出版の専門誌はどうだろう。お茶の水の「丸善」で同社が出版している専門誌を手にとることができた、が、ページを開いて愕然!ネットオーディオ、ヘッドホンの記事が主流を占めている。
 
 千代田会は18:30~武蔵小山の焼肉「和田」で開催された。藤岡先生ご贔屓のお店だという。部屋に入ると、藤岡先生が向かいに座るように招いて下さった。こんな美味しい焼肉食べたのはじめて、いいちこスペシャルも美味しい。茨城の牛久からわざわざ来た甲斐があった。幹事役の進藤さん、藤岡先生ありがとう。
 「俺はネットオーディオなんて、相手にしないからな」と藤岡先生はおっしゃる。先生はあくまでもハイエンドオーディオに拘るという。先生はハイエンドオーディオの守護神である。
 オーディオでも芸術性を追求する先生の姿勢は不変である。

2017年10月17日火曜日

アサヒビール茨城工場見学(味の決めては試飲)

 
見学者を迎えるビル(左上)巨大な仕込釜(左下)正しい注ぎ方を教授する池田嬢(左)

 昨日(16日)、雨の中、アサヒビール茨城工場の工場見学に向かった。(証券会社主催)
茨城工場は守谷市にある。同工場は世界最大級のビール工場であり、同社ののショーウィンドウ的な役割も果たしている。
 ビール工場の行程はいたってシンプル。原料は麦とホップと水。麦芽をつくる「製麦工程」、麦芽に米・コーンスターチなどの副原料を加えて煮て麦汁をつくる「仕込工程」、麦汁にホップを加えて煮沸。ビール特有の芳香と苦みを出す。これにビール酵母を加えて発酵、熟成させる「発酵熟成工程」、熟成したビールをろ過すると黄金色に輝く生ビールが誕生する「ろ過工程」、その後「パッケージング工程」に流れ、缶、ビン、樽にパッケージングされて出荷される。工場に入ると巨大な仕込釜、煮沸釜、発酵・熟成タンクに驚く。
 原料、行程はシンプルだが、それぞれ磨き抜かれたノウハウが蓄積されている。そして最終的に味を決めるのはパネリスト(検査員)による試飲。いくら人口知能が発達したとはいえ、人間の感性に勝るものはない。私も現役の頃、カセットテープの商品企画を担当したが、最も重視したのは人間の耳による「聴感評価」だった。
 工場見学の仕上げは8階展望台での試飲会。できたてのビールはさすがに美味しい。3杯もご馳走になった。
 
 アサヒビールとえば「スーパードライ」。それまでシェア10%だったアサヒビールは1987年の「スーパードライ」、2001年の「本生」の発売でシェアトップになる。
 
 工場見学は事前申込みで誰でもできる。見学工程は1キロ以上あるので、足腰健在なうちの見学をお薦めしたい。
 
 

2017年10月14日土曜日

車椅子の区議会議員!村松さん

 本棚を見たら、読みかけの「本」があった。
村松勝康(むらまつ・かつやす)さんが書いた「80センチに咲く花」(池田書店)である。表紙をめくると、畠山俊三様″感謝″という筆者のサインがある。
 村松さんは「1944年生まれ。秋田県出身。1歳の時に脊髄小児麻痺になり、下肢に障害を負う。1969年、日本大学法学部卒業。1993年、車椅子で日本列島360キロ単独横断に成功。同年、東京都葛飾区議会議員に初当選。車椅子の視点から福祉の向上に日々奮闘している」
 村松さんは小学校の入学を認めてもらえなかった。母さんが校長に噛みつく。「あんたたちがオラーの立場だったら、どう思うんだい?歩けないからって学校に入れないなんて、おかしいじゃないか!差別だよ!」「勝康、おまえさー、学校に入れなくて寂しいか?ごめんな」「オラー、淋しくねーよ。勉強嫌いだから」「だども、いつまでもこうしていられねーんだ。勉強しないと、大人になって困るんだよ」村松さんは1年後、入学。母さんの期待に応えて大学まで進学。1993年には区議会議員に当選する。母さんはその2ケ月前、天に召される。村松さんは喜びと悲しみに嗚咽する。
 
 「オラー、もうダメだ、結婚したのに仕事もなくて・・・。オラーは必要のない人間なんだ。死んでしまった方が楽だ・・・」そう思う日々もあった。そんな時、母さんの声が聞こえてきた。「勝康、お前に苦労かけてごめんよ。でも、どんな人でも、世の中に立てる道が必ずある。バカなことは考えないで・・・」
 
 立つ事ができない村松さんの目線はせいぜい80センチ。「80センチに咲く花」のタイトル名はそこに起因している。私が村松さんから本をいただいたのは、2011年、高校同窓会(東京伊勢堂会)の時だった。その高校は鷹巣農林高校。ゆったりと流れる米代川を背に秋田杉の実習林がある学び舎だった。
 

 


2017年10月7日土曜日

母さん、100歳、本当におめでとう!

(100歳とは思えない凛とした母の写真に驚く)

 昨日(6日)東京へでかけた。小田原に住んでいる弟と高島屋で開催されている「池田学展」に行く約束をしていた。幸いなことにギャラリー桜林(常陸国出雲大社)の石橋さんから招待券をいただいていた。
 高島屋に行く前に内幸町の日本プレスセンタービルに寄った。この4階に秋田魁新報社の東京支社がある。同新報社が、私の母が100歳を迎えたというので取材をした事を聞いていた。「載ってましたよ」係の方が掲載誌を持ってきてくださった。5日の日付である。グットタイミングだった。記事は次の通リ・・・。
 『由利本荘市は3日、100歳を迎えた同市鮎瀬の畠山チヨミさんに、賀詞と祝い金10万円を贈った。畠山さんは1917(大正6)年、旧石沢村(現由利本荘市)に8人きょうだいの長女として生まれた。19歳で同村の一男さん(故人)と結婚。夫婦で農業を営みながら5人の子どもを育て、孫14人とひ孫32人、やしゃご一人に恵まれた。現在は自宅で長男・洋三さん(76)夫婦と3人暮らし。趣味は三味線や大正琴、読書など多彩。足腰が丈夫で、晴れた日は庭の草むしりをしているといい、政治ニュースもよく見ているという。この日は阿部太津夫副市長が自宅を訪れ、賀詞と祝い金を手渡した。畠山さんは「ありがとうございます」と笑顔を見せ、長生きの秘訣について「いつも前向きに、くよくよしないこと」と話した。(斎藤祐希)』
 新聞を見て弟と乾杯!その後「池田学展」見学。1時間30分待ちの長蛇の列。わずか1ミリに満たないペン先の線で描いた壮大な作品が並ぶ。-凝縮の宇宙ーに圧倒された。

2017年10月4日水曜日

一兆円企業・TDK社長と飲み会

 
(左より、創業者・斎藤憲三氏、8代目・石黒さん、畠山)
 
 昨日、TDK・OB有志の飲み会があった。第6代目社長、澤部さん、第8代目社長、石黒さんも参加された。
 席は指定されており、私は澤部さんの向かい席。澤部さんは小生と同じ昭和17年生れ。早速世間話をはじめたが、澤部さんは現役のTDK相談役、対する小生は中間管理職で定年となり、掃除のバイトをするボケ老人。世の中の見方、情報量、頭脳の回転速度が全く違う。澤部さんは帰宅しても会社の事が気になり、アレコレメモを書いては破り捨て、ワインを飲む日々だという。
 第8代目、石黒さんはTDK創業の地である、秋田に何度か足を運び、創業者、斎藤憲三氏の遺徳に触れ、感動したという。これからも生産拠点として秋田地区を重視していくという。「石黒さん、私の実家は本荘工場から2~3キロのところです。農業をやっております」「そうですか、私も米つくりに関心があります。TDKの技術を応用して”甘くて大粒の米”ができないか、挑戦しております」農工一体、創業者・斎藤憲三氏が描いた夢である。
 TDK社長の出身校はバラエティに富んでいる。5代目、佐藤さんは日大、6代目、澤部さんは早稲田、7代目、上釜さんは長崎大、8代目、石黒さんは北海道大。(東大出身者が居並ぶ東芝と対象的)TDKの社長の選定基準はどこにあるのだろう・・・。
 澤部さんは挨拶にくるOBに向かって「あんたも私心を捨てて仕事をやってたね」と笑顔。TDKの経営者は無心で仕事に打ち込む社員を育て、その中から後継者を選んできたのではないか。その背景に社是がある。「創造によって(世界)の文化産業に貢献する」斎藤憲三氏はなによりも”創造”に拘った。
 石黒さん「明日、米国出張です。経営会議も海外でやるようにしました。資料は全部英文です」TDKの年間売上一兆円。うち海外が9割。連結従業員10万名、こちらも9割が海外である。