2015年7月29日水曜日

スタバで家内の誕生祝い


(ホスピタリティ満点のスタバの店員さん。同社ホーム頁より)
 
 家内は7月生まれである。今年、彼女は70才となる。誕生祝いなど、大げさにやった事はない。
「食事にでも行こうか」
「連れて行ってくれるの。でも気を遣うようなところは嫌よ」
いつもの彼女の返事である。
 二人とも秋田の農家の生まれ。高級な店は性に合わないのである。

 昼、近くのファミリーレストランに行った。1,500円の和食ランチメニューを頼んだ。これがひどかった。寿司、刺身、天ぷらと並んでいるが寿司の小さい事、ネタの薄い事・・・。ウニは真っ黒である。「これ古いわね。昨日残ったものだよ、きっと」私は恐るおそる食べたが家内は食べなかった。

 なんとなく割り切れない気持ちで店を出た。
帰り道、信号待ちをしていると、「スターバックス」(スタバ)の看板が目に入った。「コーヒーでも飲んで行かない」「いいわよ」。いつもは真っ直ぐ家に帰ろうという家内が珍しく同意した。幸い4人がけのテーブルが空いていた。そこに二人でかけた。
 客の多くは若者、ほとんどが、パソコンの席に座って、黙々とキーを叩いている。それだけに静かである。
 コヒーの注文の仕方も、ケーキの注文の仕方も良くわからない我々に対して、店員さんは特別扱いでサービスして下さった。70才過ぎの老夫婦は優雅にコーヒーを楽しんだ。

 ところで、スタバは1971年アメリカのシアトルで誕生した。今や全世界60ヶ国にチェーン店があるという。日本に出店したのは1996年。今年、47都道府県の最後に鳥取店ができて話題になった。



2015年7月23日木曜日

銀座を闊歩して50年

(50年間、私は銀座を闊歩した。これからも・・・)

 21日(火曜日)、TDKパソコンクラブの例会があって東京へ出かけた。パソコンクラブの例会はいつも14時~である。午前は銀座で現役の頃、お世話になった野原さんと昼食をとることにしている。
 野原さんは広告代理店の局長だった。TDKがFM東京で提供していた「TDKオリジナルコンサート」(クラシック生収録番組)を担当されていた。小生が定年になってから、この番組の音源をCD化しようという企画が持ち上がり、キングインターナショナル、FM東京の二社の協力により実現した。音源の中にはカラヤン、ベームなど巨匠達の演奏が含まれている。
 野原さんは現在80才であるが、まだ現役。お目にかかると50年も前の思い出話に華が咲く。あの頃から二人は銀座を闊歩していた。その頃の銀座の主役は夜だった。ネオンとクラブのママ達が眩しかった。
 銀座といえば、なんといっても四丁目交差点。和光、三越、三愛、日産ビルが取り囲む、この交差点は、日本の頂点であるとともに世界の頂点である。22日は数週間にわたって降り続いた雨も上がり日本晴れ。シャッターを切った。その後、木村屋の前を通り、山野楽器へ。銀座に行くと、必ず山野楽器に寄る。この2階にクラシック音楽のCDがズラリと並んでいる。「TDKオリジナルコンサート」のCDもまだ並んでいた。ただ、最近はこのCDから”TDK”という文字が消えつつあるような気がする。それはTDK本体が電子部品専業になった事と、野原さんと私が高齢になった事が影響しているように思う。時代は変わりつつある。

 午後3時から浅草橋にある「TDK柳橋クラブ」でパソコンクラブ。今回のテーマの一つが「ブログ」。私にも発言の機会が与えられた。”人間浴”について話をした。「健忘症、ボケ防止の為に続けている。」つまり、自分の為にやっている。子供や孫が年をとったら読んでくれるかも、という期待はある。自分もこの年になって親を思うようになった。文章はできるだけ短く。写真を入れる。





2015年7月19日日曜日

傷痍軍人、おめかけさん、関釜連絡船


 私は牛久市で自分史「いしぶみ」(年一回発行)の編集のお手伝いをしている。そんな関係もあって、近隣の利根町で発刊している自分史「利根川のほとりで」を読む機会に恵まれた。
 「利根川のほとりで」を読んで、随所で衝撃を受けた。

 まず、菊池雪子さんの書かれた「傷痍軍人とサツマイモ」である。傷痍軍人とは”戦争で受けた傷やけがをした軍人”とある。その軍人さんが、母娘三人家族の雪子さんのお宅をたずねる。泥の着いたサツマイモをもって玄関に現れ、「蒸かして欲しい」と懇願する。雪子さんは「おめかけさん」という大人達の言葉を度々耳にするが、子供だった雪子さんには意味が分からない。「在日朝鮮人」が近くに住んでおり、”子供は近づくな”と言われたという。 中村 允さんの書かれた「私の諸国漫遊記」。なんとこの中に「関釜連絡船」がでてくる。中村さんのお父さんの赴任地は朝鮮で、中村さんはお母さんと一緒に「関釜連絡船」を何度か利用したという。「関釜連絡船」とは下関と朝鮮の釜山を結ぶ連絡船だという。
 読み進んでいくと、戦時中の日本と朝鮮(韓国)との関係が生ナマしく迫ってくる。自分が子供の頃、子供ながらに朝鮮人を差別していたような記憶が蘇り、心が痛む・・・。
 日韓関係についてはテレビを介して、いろいろと報道されているが、手作りの地方の自分史で語られる一般国民の声は胸を突き刺すのである。

 間もなく安倍総理が戦後70年に当たって談話を発表するという。
日本国民のみならず、中国の国民、韓国の国民の胸にも響くような談話を発表して欲しい。

2015年7月9日木曜日

"関東武士の鑑"畠山重忠に迫る!

(左から清水先生、小生、内野さん、曽根さん)

 6月、熊谷市の県立図書館主催で「”関東武士の鑑”畠山重忠に迫る!」という講演会があるという知らせを同市に住む曽根悦夫さんからいただいた。曽根さんは同市に住む内野森一さんのお知り合い。内野さんは現役の頃「世界のカセットTDK」を目指した戦友である。曽根さんは内野さんから、畠山重忠が祖先だと称する知り合い(小生)がいるということを聞いていたのである。
 7月4日、昼の電車で熊谷へ。内野さんの車で県立図書館に向う。曽根さんと図書館でお目にかかる。曽根さんとは初対面だった。

 講演のテーマは「畠山重能・重忠と源平の内乱」。講師は清水亮先生(埼玉大学教育学部準教授)。清水先生は2時から2時間、畠山家に関する研究成果を明快な口調で語られた。「畠山氏は、武蔵国に軍事的テリトリーを持ち、京都と東国を往来する大規模武士団を形成していた。源頼朝は畠山家などの有力武士を臣従させることによって武蔵国を支配した」と語る。関係資料によると、重忠が愛馬を背負って急坂を降りたという「鵯(ひよどり)越え」のエピソードは架空の話とのこと。重忠の怪力と優しさを後世に伝えるための創作とある。

 講演が終わって、曽根さん、内野さんと駅ビルの居酒屋へ。曽根さんは農業をやっておられる熊谷の名士。全国を旅しておられ、なんと秋田の小生の母校、鷹巣農林にも行かれたことがあるという。内野さんは昭和44年早稲田大学卒業。稲門会埼玉県役員、熊谷地区の幹事をやられているというから恐れいる。小生、重忠が祖先ということでなんとか体面を保つ。