2018年3月28日水曜日

銀座蔦屋書店。34万円の豪華限定本


27日(火)、東京へでかけた。
10時、上野着。まずは上野公園へ。桜が満開である。人の多さにあきれる。
11時、銀座・ジュリエ(喫茶店)で野原さんにお目にかかる。野原さん、82才、現役である。40年ほど前、野原さんと「TDK・AVランド」というイヴェントをやった。当時、コンサートをテープ録音する「生録会」というのがあった。それの映像版である。VHSビデオテープが登場した時期だった。「やあ、良くやったなあ」昔話に花が咲いた。
13時、銀座4丁目でニッサンのショールーム見学。展示されている車のデザインの素晴らしさに見とれる。次いで、6丁目の「GSIXビル」ヘ。6階に蔦屋書店がある。洋書や豪華本が並ぶ。「大相撲錦絵」限定5冊。定価348,000、野町和喜の写真集「PLANET」定価72,000。本の展示方法もユニークであり、さすが銀座の書店である。

14時、TDK柳橋クラブでOBによる定例のパソコン同好会。山室輝弘先生の講演。「われわれはパソコンがあってスマホがある」という認識だが、若い世代は「スマホがあってパソコンがある」だそうだ。スマホ世代は手紙を書く習慣がなくなり、書いても絵文字になってしまうという。
 小生、移動中、スマホで佐川氏の「証人喚問」を聞く。爺さんの小生、パソコンとスマホの両刀使いである。


2018年3月23日金曜日

私のアルバムから①青山和子(歌手)



私の写真アルバムから、いくつかの写真を紹介していきたい。
一枚目は歌手の青山和子さんである。昭和40年(1965)に撮影したものである。
当時、私は社内報「TDKタイムズ」の編集をしていた。表2に、「私のアシスタント」とう頁を企画した。これは録音テープを使用している有名人に登場していただき、録音テープの活用についてコメントをいただくものだった。当時はオープンテープで、TDKテープではなく「シンクロテープ」というブランドである。(写真、文章とも私が担当し、編集した)以下、青山さんのコメントである。

去年はついていたわね。
″愛と死をみつめて″はレコード大賞をいただくし″紅白歌合戦″には出していただくし・・・。
歌手にとって、一番幸福なことはよい歌をいただくことね。だから私はほんとうに幸せです。それにしても大切なのは、やはり練習ですね。
 私は土井啓四郎先生にご指導いただいているのですが、先生は大阪でしょう。それでお互いに忙しいものですから、先生からの指導はほとんどがテープです。歌の感じ、発声方法など、ピアノをひきながら録音されたテープを送って下さるわけです。だからシンクロテープはかげの功労者ね。
 最近は4時間くらいの睡眠をとるのがやっとですから、シンクロともだいぶご無沙汰しております。 
 今年で私も成人、だから積極的に歌って、ファンの期待に応えるつもりです。よろしくね。
 
 <略歴 京都生まれ。昭和33年、コロムビア全国歌謡コンクールで優勝。コロムビア入社。34年デビュー、〝あしたの風″〝青い山脈"など清純な歌をうたう。39年〝愛と死をみつめて″でレコード大賞受賞。芸名の名づけ親は作家の石坂洋次郎>




2018年3月18日日曜日

日本最古の和歌集「万葉集」(下)92才の執念

 
●防人(さぎもり)に 立ちし朝明けの 金門出(かなとで)に 手放れ惜しみ 泣きし児らばも
<大意>私が防人となって出発する朝、門出のときに、しっかり握り合った手を離して別れるのが辛く、妻はさんざん泣いた。今頃どうしているだろうか。

 防人は「崎守」の意で、兵士を徴集し辺境を守るという制度。新羅(朝鮮)等の侵略に備え対馬、壱岐、筑紫に置かれた。
 筆者の経歴をみると少佐まで昇進した軍人である。昭和の防人といってよい。昭和の軍人の3人に一人が尊い命を国に捧げたという。
 
 以下は本誌に掲載されていた昭和の防人、奥山道郎(義烈空挺隊長)の歌である。
 
 ●天皇(すめろぎ)の御楯(みたて)となりて死なむ身の 心は常に楽しかりけり

 筆者の西宮家は、藤原家の末裔で、仁和2年(886年)越中介(次官)として赴任した従4位下藤原高尚が遠縁。筆者の父、西宮重美は西宮家41代だという。
 筆者のご子息、聡彦氏によると、筆者がこの本を上梓したのは92才の時だという。
 日本人のアイデンティティである「万葉集」を次世代に語り次ごうという筆者の執念に圧倒される。〆に一句。

 ●銀(しろかね)も 金(くがね)も 何せむに 勝れる宝 子に及(し)かめやも
<大意>銀も黄金も玉も、子供という宝に比べたら何のことがあろう。子供に及びはしない。
 

2018年3月16日金曜日

日本最古の和歌集「万葉集」(上)

 
老若男女を問わず、俳句や短歌を楽しむ方が多い。
そこで、もう一度、日本最古の和歌集「万葉集」を味わってみたい。といっても小生、文学の素人。2011年、文芸社から出版された西宮正泰著「万葉集探訪」に書かれたものを要約しながら「万葉集」の真髄の一端に触れてみたい。

 ●春過ぎて 夏来(きた)るらし 白栲(しろたえ)の 衣乾したり 天(あま)の香具山
<大意>春も終わり、夏がやって来たに違いない。真っ白な衣が干してある。天の香具山には。
 ●東(ひむがし)の 野に炎(かぎろひ)の 立つ見えて かえりみすれば 月傾きぬ。
<大意>東の野に陽炎(かげろう)の立つのが見えて、振り返ってみると、下弦の月が西の空に傾いている。
 ●田児(たご)の浦ゆ うち出(い)でてみれば 真白にそ 不尽(ふじ)の高嶺に 雪は降りける
<大意>田子の浦沿いの道を通って、視界が開けた所にでてみると、富士山の高嶺に真白な雪が降り積もっている。

 万葉とは時代は飛鳥時代と奈良時代の大部分をいう。「万葉集」に収められている最後の歌は、大伴家持の歌で天平宝字3年(759年)の作であり、その頃編集されたと考えられている。1,250年前である。万葉集は全20巻、4、516首からなり、作者は天皇から庶民まで。日本文学史上、永遠に光を放つ最高の文化遺産だと西宮氏は言う。
 
 当時は電車も車もパソコンもなかった。人々を慰め、発奮させたのは四季に恵まれた美しい日本の自然だった。日本の自然はなんと豊かで雄大なのだろう・・・。

2018年3月7日水曜日

堀井文衞さん、祖父は野口英世と同窓、父は北京大学医学部教授

 (左から畠山、堀井さん、小松さん)

 昨日(5日)堀井文衞さん、小松征夫さんと夕食を共にした。
堀井さんは、工作機械を海外に販売する会社を経営。小松さんは堀井さんの会社の監査役である。堀井さんは昭和18年生れ、小生17年生れ、小松さんは16年生れとほぼ同世代。高齢の同世代が集まると、健康談義で幕となるが、今回は違った。
 堀井さん、祖父が明治29年済世学舎を卒業して医師になるが、野口英世が30年同舎卒業なので、野口と1年違いの同窓になる。父も医学の道を継ぐ。中国北京大学医学部で教鞭をとり中国の陸軍病院等に勤務。終戦後はモンゴル、ウランバートルに連行され、78才で死去する。文衛さんは中国山西省で生まれる。
 堀井さんはビジネスでアメリカ、中国、韓国、カンボジア等に在住・出張する一方、小松さん(中国・ハルピン生れ)とともに中国に旅をし、父の足跡を訪ねる。その過程で堀井さんは世界の中における日本の特殊性を痛感する。以下はその一旦である。
①日本人はノーといえない。日本人は国際会議ではスマイル、サイレント、スリーピング。日本人の3Sといわれている。
②相手が悪いと思う中国人、相手に悪いと思う日本人。
③中国や韓国の博物館には日本の軍人が、自国の捕虜を虐待する蝋人形等が展示されている。若者達に日本の蛮行を伝えるのが国の指針になっている。
④事件が起きた時、ある国では既に警察官が待機していた。つまり警察官が犯人だった。
堀井さんは語学も達者。パワーもある。ご自身の経験を語り継ぎ、日本および、世界の発展の為に貢献していただきたい。
 それが、父上に対する恩返しになると思う。
なお、お母さんはオペラ蝶々夫人の作曲家プッチーニから”わが夢”と称賛された三浦環(たまお)と義姉妹とのこと。(現在確認作業中)

2018年3月4日日曜日

わが畠山家は一族の傍流

 私の実家畠山家(秋田)は兄・洋三が32代目である。初代は畠山重忠(1205年没)である。800年以上続いている。
そんな事もあり、昨日(3日)武蔵野大学講座「畠山一族の世界」(写真)を弟と受講した。
 重忠は1205年(元久2年)、北条氏の謀略により、二俣川(横浜市旭区)で闘死、庶子の重秀は自害。同年、嫡子の重保、由比ガ浜で謀殺。つまり、畠山家は滅亡する。その後、足利一門の畠山一族である泰国が武蔵国畠山郷(埼玉県深谷市川本町畠山付近)を引き継ぐ。
 再起した畠山一族は能登(石川県)、伊勢(三重県)、日向(宮城県)、尾張(愛知県)の守護大名(修理大夫)を務める。ということで講座は終了。秋田で営々と続いたわが畠山家の話は全くでてこなかった。文学部出身の弟は「わが畠山家は傍流なんだよ」と一言。やっぱり・・・。
 わが家に伝わる過去帳、部落古事録によると、二俣川の戦いの時、重忠の子、重保の妻信子は子重光を懐に抱いて逃亡。日本海に出て40日目に秋田市羽川海岸に着いたとある。かつて重忠に助けられたこの地の勇将、由利氏を頼ったようだ。実家の隣に信子が建立した「八幡神社」がある。

四ツ谷で行われた講座の後、東京駅にある「あべや」で弟と盃を酌み交す。弟に尋ねる「幸三、われわれ男兄弟は洋三、俊三、幸三と、下に三がつくけど、その訳知っている?」「兄貴、われわれの名前はお爺さんがつけたんだ。当時、男の場合、下に”ぞう”をつけるのが一般的だった。お爺さんの祖父も助三だった。三に特に意味はない。上の漢字に師範学校をでたお爺さんの思いがこもっている」
 そういえば、兄貴が生まれた昭和16年は太平洋戦争の前年。日本は海(洋)の向こうの大国を相手に戦をしようとしていた。もう分けてやる田畑はない。次男は自分自身の才覚(俊)で頑張って欲しい。三男が生まれた昭和23年は敗戦に続いて農地解放。地主だった畠山家は窮地に立たされた。”幸”を祈った。
 ●ブログを見た友人からのメール→「三」には①古代から(数が多い、より選んだもの)②「みっつ」が(充、満)③「ぞう」は「蔵」(蓄、納、秘)に通じる。という説あり。