2017年12月26日火曜日

TVドラマ『陸王』と重なるわが人生

(「第3回世界選手権東京大会速報号」「ステレオ時代」誌)

 24日、最終回を迎えたTBS・TVドラマ『陸王』に感動した。
埼玉県行田市にある老舗足袋業者「こはぜ屋」。資金繰りに頭を抱える4代目社長、宮沢紘一は新規事業を思い立つ。足袋製造の技術を生かして”裸足感覚”を追求したランニングシューズの開発はできないだろうか?世界的なスポーツブランドとの熾烈な競争。従業員20名の地方零細企業は情熱と仲間との結びつきで一世一代の大勝負にでる。
 TDKで磁気テープを製造している川﨑市の玉川工場も赤字で悩んでいた。大歳事業部長は社長から事業中止をほのめかされる。そこで大勝負にでる。オランダ・フィリップスが開発した「カセットテープ」。手のひらサイズ、特許料無償。大歳事業部長はこれに飛びつく。その後をひきつだ澤野事業部長はなんと高卒の私を商品企画担当に指名した。その理由は「センス」がある、だった。TDKカセットは世界の大手メーカーに挑んでトップに踊りでる。
 商品企画を任された私が最後に挑んだのが「オープンリールを超えろ!」だった。カセットテープの高性能化は日々向上したが、オープンリールの特性に追いつくことができない。私のビジョンに応えるために、技術陣はメタルテープを開発、ハーフになんとダイキャストを採用。視覚的にもテープが見えるように透明シートを開発した。これがカセットテープのレジェンドと語り継がれる「MA-R」である。
 TVドラマ『陸王』ではマラソンの茂木選手が「こはぜ屋」が開発した「陸王」を履いてマラソン大会で優勝!「世界陸上」への道が開かれる。
 カセットで世界的に知名度が上ったのを機会に、TDKの沖山営業事業部長は世界陸上のゼッケンスポンサーになる事を決意。私はカセットテープの商品企画の後「世界陸上」の担当になる。

2017年12月21日木曜日

お金は使い切る!酒と文化を愛する弟

(妹夫婦のマンションから筑波山を臨む。19日朝、弟撮影)
 
 今年は弟(神奈川県在住)に随分世話になった。
 10月に行われた「母100歳記念祝賀会」も弟の企画。音楽のみならず、絵画、文学、映画に関する情報も沢山もらった。
 暮れに弟からメールが入った。「笠間のギャラリーに行くので、忘年会をやろう」という。場所は妹夫婦が住むつくばが良いのではという提案だった。妹から電話が入る。「忘年会の場所、ホテル・オークラでしゃぶしゃぶはどうかしら」
 18日、夕方、オークラのレストラン「筑波嶺」に行く。参加者は弟と妹夫婦、私と家内の5名である。弟に「今年はあなたのお陰で母さんの100歳記念もできたし、感謝するよ」といったら弟、「兄貴、オレはお金は全部使い切るというのが信条です。楽しくやりましょう」ときた。
 日本の経済は順調だというが、その効果は末端まで及んでいない。経済の循環を良くするためには、ため込むばかりではなく、使うことも大切だ。その結果、経済が好循環し、文化も反映する。年金生活者の自分であるが、弟の信条に共感を覚える。
 食事会が終わった後、妹が「マンションに寄って行って下さい」とのこと。妹夫婦の職場は笠間だが、笠間は文化的なインフラが少ないということで、笠間の本宅の他につくばにマンションを購入。本宅とマンション半々の生活だという。
 マンションはホテル・オークラから200メートルほど。19階に居室があった。リビングにある60型の大画面テレビが妹夫婦の恵まれた生活を象徴していた。
 我々は9時頃、バスで牛久に帰ったが、弟は二次会をやり、マンションのゲストルームに泊まって、翌朝帰宅したという。飲みすぎに注意して長生きして欲しい。少なくとも兄より先に逝かないように・・・。

2017年12月13日水曜日

忘年ゴルフ、115打でブービー賞(連日の忘年会)

 
(来年5月、プロ選手権が開かれる房総カントリークラブ)

 昨12日、CSG会(テープ営業OB)のゴルフコンペがあった。
場所は房総カントリークラブ。わが家から150キロある。6時、牛久出発。集合時間9時15分になんとか間に合う。12名参加。
 ゴルフというと最初のティーショットが気になる。150ヤードくらい飛んだので一安心。一緒にプレーした関口君は250ヤード以上飛ばす。プロ並みである。飛距離の出ない私にとって500ヤード以上のロングコースは酷である。10打も叩いたホールもあった。トータルスコアは前半58、後半57で115打。ブログに書くのは恥ずかしいスコアなのだが、私としてはまずまず。5月の高校同窓会のコンペでは120打以上叩き、ゴルフは止めようとも思ったが、110打代に収まったので来年もやろうという気になった。
 御宿にあるTDK楽多館で、成績発表と宴会。私はお尻から2番目ということでブービー賞をいただく。なんでもよい、賞をいただくのは嬉しい。
 今日(13日)10:30帰宅。今夜は6:30~TDK柳橋クラブで千代田会(オーディオメーカー会)の忘年会がある。評論家の藤岡誠先生はじめ、デノン、ケンウッド、パイオニア、エソテリック、リン、サエク等の方々19名が参加される。
 明日(14日)の昼は地域のベテランズクラブの忘年会である。
 
 年々忘年会の回数が増える傾向にある。それだけ、付き合いが広く、健康だという事なのだろう。でも、そろそろ、店じまいをはじめないと・・・。
 

2017年12月10日日曜日

5千名の社員に誕生カードを書き続けた山﨑社長

山﨑貞一、TDK第二代目社長。在任期間、1947年~1969年。私が入社した1960年、社員数2千8百名。入社すると、誕生日に山﨑社長から誕生カードをいただいた。以来、毎年山﨑社長から誕生カードが届く。山﨑社長が退任される時の社員は5千名を超えていた。つまり、山﨑社長は毎日10名~20名の社員に誕生カードを書き続けたことになる。誕生カードをもらった女子社員の母親は誕生カードを見て涙したという。山﨑社長を神様だというOBもいる。その所以の一端が誕生カードにある。
 先週、ファイルを見たら山﨑さんからいただいた誕生カードがでてきた。改めてこのカードを見て驚いた。消印を見ると1990年、この時、山﨑さんは現役を退かれ相談役、80才。80才にして社員に誕生カードを書き続けていた山﨑さん、その心情に心打たれた。75才でボケたなどと言っていられない。幸い、私にはブログという社会に開かれた窓がある。
 カードを見ると、宛名もメッセージも山﨑さんの手書きである。
 「畠山君 広報課長としてご活躍のご様子、毎日ご苦労様です。勤続30年になりました。広報如何は売上に大きく影響します。厳しい世の中になってきました。年男として広報をしっかりやって下さい」
 印刷部分のメッセージ
 「労働時間の短縮は世の趨勢であります。その短縮された時間の中で生産の効率を高めなければ国、会社、そして個人生活の発展は望み得ません。能率を上げるには計画(段取り)を上手に立てることが大切であります。私は一日の計は夜にあることを信条としておりますが、一日の計も朝立てたのでは既におそく前の夜その日のことをよく反省し翌日の計画を検討し朝になったら直ぐに実行に移せば能率は必ず上がります。一日の計を夜立てるよう努めましょう」

2017年12月6日水曜日

市議会の傍聴席は一人だけ!情けない


 昨日、わが町、牛久市の定例市議会があった。3時頃議場を訪れた。
議場は市役所の4階にある。傍聴席は5階、入って驚いた。50ほどある傍聴席はガラ空き。(写真)女性の方が一人座っていたが、私と入れ違いにその方が席を立たれたので、この時間帯の傍聴者は一人だけということになる。
 平日とはいえ、牛久市は人口85,000名。人口漸増市である。淋しい。

 一般質問の項目を一部をチェックしてみるとどれも興味深い
〇茨城国体、東京オリンピックを間近に控え、事前合宿等の誘致は
〇若者の雇用対策は 〇高齢者に優しい町づくり
〇駅前エスカードビルの活用について
〇空地、空家対策について
〇不登校者の実態と対策 〇貧困世帯の子供対応
〇牛久市の農業振興策
〇ふるさと納税の健全な発展
〇牛久シャトーの日本遺産申請
〇再生エネルギーによる電力供給率のアップ
〇中央図書館、居場所カフェの設置について

 私が傍聴した時は杉森議員が再生エネルギーによる電力供給率のアップについて質問していたが、質問内容は先進地域の事例も盛り込み、説得力のあるものだった。
 改めて、議員とは、いわゆる政治家とはなにか?ということを考えさせられた。良い町を作るには良い議員を選ばなければならない。それは国も地方も同じである。
 時間を持て余している高齢者は多いはずである。これからの町の発展の為にも、議会に足を運び、議員さん、市長および行政の幹部の方の話に耳を傾けたらどうだろう。
 

2017年12月2日土曜日

TDKの前は「飛良泉」勤務でした。柏倉先輩と忘年会

(左から、斎藤町長”TDK創立者、斎藤憲三弟・東大卒”三笠宮妃殿下、一人おいて山﨑社長”東工大卒”伊藤総務課長”東大卒”一人おいて小松工場長、2人おいて佐々木係長”上司・一橋大卒”右端、畠山)

 11月30日、郷土(秋田)およびTDKの先輩である柏倉哲さんと忘年会を行った。柏倉さんは我孫子、私は牛久ということで、場所は中間である取手の居酒屋。
 柏倉さん(81才)とは50年以上の長いおつきあいである。特に1963年(昭和38年)から6年間、市川市にある独身寮でお世話になった。その後も結婚式の司会をお願いしたり、教養クラブ(2015,5,23ブログ参照。柏倉さん他メンバー写真)に入れていただいたり・・・。そういえば、今まで柏倉さんの生い立ちを聞いたことがない。思いきって聞いてみた。
 「私の祖父は平沢で田畑を所有し、旅館も営んでいたんですよ。羽振りの良い時もあったんですが、長続きしませんでした。父は理髪店を経営しておりましたが、家族も多く、生活は楽ではありませんでした。私は学校を卒業すると”飛良泉”に就職しました。”飛良泉”は日本でも有数の伝統ある酒屋です。(京都に銀閣寺が建立された1487年創業)その後、TDKに転職しました。大学は夜学です。父母とも40~50代で亡くなったため、自分も長生きできないと思い、多額の生命保険に入りました。皮肉にもこうやって長生きしております」
 私が入社した頃、柏倉さんは人事部門のエリートであり、職務分析などを担当していた。
「飛良泉の社長もTDKの山﨑社長も立派な方でした。特に平沢工場長の小松正一さんは人徳があり、神様のような方でした」
 柏倉さんは人事部門の上司の紹介で、良家の奥様と結ばれ、お孫さんにも恵まれた。今は詩吟やカラオケの仲間と楽しい日々を過ごされている。来年、昔話の続きを聞くのが楽しみである。

2017年11月25日土曜日

顔面7針!3年前、飲み会帰り

 
高文会に参加したメンバー、前列右から2人目が広本さん
                    ~2012年9月撮影~
 
 年賀状の季節である。過去の自分が書いた年賀状を見ていたら、”2014年3月、飲み会の帰り、自転車転倒。顔面7針縫う”とある。そんなことあったかな?家内に聞いてみた。「あなた、そんな事も忘れたの。救急車を呼ぼうかと思ったけど、貴方は額に絆創膏を貼って翌朝、掃除のバイトにでかけて行ったわよ」
 今、テレビで連日、日馬富士の暴行問題が報じられている。貴ノ岩は頭部を10針縫い、九州場所休場。それをみると、自分の顔面7針の怪我も痛かったのではないかと思う。そうだ!ブログを見てみよう!きっと当時の模様を書いているに違いない。が、なんと、2014年2月~3月は空白になっている。4月のブログをみると”2月~3月グーグルのブログに投稿できないのでヤフーに投稿した”とある。ヤフーを検索してみたらありました、「人間浴」!
 『先週は毎日飲み会のスケジュール等で満杯、幕開けは11日の高文会。幹事は小生。4時開催、8時過ぎ閉会。牛久駅から自転車で我が家へ。転倒!顔から血が流れている。絆創膏を貼って就寝。朝、家内の「どうしたの!」という声で目が覚める。畳、枕が血に染まっている。朝、掃除のバイトに行って午後病院へ。
 「あなた自分の顔見たの!」医師の差し出した鏡を見ると、左の目の上がパックリと割れている。「骨の近くまで達していますから縫いますよ。場合によっては眉毛が動かなくなる可能性があります」。18日抜糸。「先生、何針縫ったんですか?」「7~8針。ただ何針縫ったかはあまり意味がない。傷が狭くとも緻密に縫えば多くなる」。幸い術後、瞬きもでき後遺症はない』

 今回の件で「記憶は一代で終わるが、記録は末代まで残る」という言葉を再認識した。ブログはボケ老人の自分にとっては貴重である。と、同時に子・孫に対しての無形財産だと思う。
 ところで、11日の飲み会は「高文会」。その中心になっていた広本先輩は「1万升飲むぞ!」が口癖の酒豪だった。が、一昨年亡くなられた。
 
 


2017年11月18日土曜日

あの世、この世

(レーンホフ演出による「ローエングリン」。〝光の道″にたたずむエルザ)

 年末となり、喪中ハガキが連日舞い込む。年々多くなる。自分の順番も近くなってきたと感じるこの頃である。ところで、「あの世」とはどんなところだろう?
本棚を探したら瀬戸内寂聴と玄侑宗久の対談「あの世、この世」が目についた。久し振りに読んでみた。
 
 瀬戸内ーあの世はあるんですかとみんなが訊く場合、あってほしいという願望が込められていると思うんですよ。・・・愛する人が死んだ場合に、まだあの世で生きて待っていてくれると、そう思ったほうが慰めになると思うんですよ。
 玄侑ーお釈迦さまはこの問いについては「無記」としてお答えにならなかったのですが、それは端的にいえば口でいってもわからないだろうからいわない、ということなんですね。
 
 ワーグナーのオペラ「ローエングリン」をDVDで観た。このオペラも「あの世、この世」を舞台にしているといって良い。王女エルザを救うローエングリンは無意識の世界である「聖杯城」から白鳥に乗ってやってくる。演出家のレーホフは白鳥を光に変えている。ローエングリンは光の道を通って現実の世界に登場する。
 オペラの凄いところは、この光の道を音楽で表現していることである。その音楽は幕開けの序曲で奏される。無音の状態から弦の旋律がさざ波のように湧き出してくる。”恍惚感”に体が浮揚する。

 極楽に渡る三途の川も美しいに違いない。瀬戸内さんによると、最近は乗客が増えて渡し舟では追い付かず、フェリーがでているとか・・・。

 

2017年11月11日土曜日

科学万博・つくば’85。あれから32年

 

7日快晴、散歩には絶好である。国道6号線に沿って水戸方面へ。隣の「ひたちの牛久駅」まで行くことにした。家から6キロはある。さすがに徒歩ではきついので、自転車で行く事にした。ラジオ放送を聞きながらのサイクリングは実に楽しい。6号線は交通量が多く危険、ラジオも良く聞こえないので、農道を通る。40分ほどで「ひたちの牛久駅」に到着。駅に着いて、その威容に驚く。(写真・上)「ひたちの牛久駅」の前身は「科学万博中央駅」だった。
 科学万博・つくば’85 以降の牛久市、つくば市の歴史を紐解いてみよう。
 
1985年3月17日ー9月16日
    科学万博・つくば’85開催
    (最寄り駅 常磐線万博中
    央駅。会場まで10キロ)
    48ヶ国と37の国際機関、
    23の民間企業・団体出展
    来場者 2033万名
1986年 牛久町、牛久市になる
1987年 つくば市誕生
1998年 ひたちの牛久駅開業
      (万博中央駅跡地)。
    都心まで約50分
2005年 首都圏新都市鉄道つくば
    エクスプレス開業。
    東京都心まで最短45分
 
 現在、牛久市人口8万5千名(人口増続く)、つくば市人口23万(人口増加率日本一)300におよぶ研究機関・企業と2万名の研究者(うち博士号取得者7千2百名)を擁する研究学園都市。私は1973年、31才の時に牛久に引っ越しした。(写真・下は駅西口にある牛久町長の書碑)

2017年10月31日火曜日

宮様も訪れた秘境の料亭「玉貴」

 
母の百歳祝いの翌日、姉を由利本荘市の病院に送り、帰路についた。
本荘ICに入ったのが丁度9時、山形自動車道の西川インターを目指す。このインターを降りたところに料亭「玉貴」がある。弟から「兄貴、ちょっと高いけど、いい料亭だよ」と聞いていた。たまには家内にも料亭の気分を味わってもらいたいと思い予約した。

 山形自動車道は出羽三山(湯殿山、羽黒
山、月山)を横断する山岳道路。西川町は月山の麓にあり、寒河江川に沿った宿場町。秘境の町である。
 11時45分、料亭「玉貴」に到着。玄関に入って驚いたのは「畠山様」という名札のついたスリッパが並んでいる事。時代劇にでてくる″草履取″を思いだした。案内された部屋には革張りの重厚な椅子が向かい合っている。眼下に寒河江川を臨む。「お父さん、どうしてこんな場所を選んだの」質素な生活を心情としている家内は怪訝な顔をした。
 
 食事は「後の雛祭りと重陽の節句・撫子コース」。山菜とキノコを素材にした料理である。キノコの煮物、ぬた和え、グラタン、鮎炭火焼きと、調理したての料理が次から次へとでてくる。驚いたのはそれぞれの料理が料理に合った器に盛られていること。料理、器にも数十年の経験と工夫が込められいると感じた。
 家内が帰りに土産として「草餅」を注文した。「はい、かしこまりました。これから作りますので、お待ち下さい」注文を受けてから作るという徹底ぶりである。待合用に案内された部屋から紅葉真近な山々、清流を眺める。室内に目を移すと宮様と店主のツーショットや短冊が並ぶ。
 
 帰りの車「お父さん、昼はお握り一個でいいというのに今日は完食だったわね」。確かに。一品が一口サイズだったとはいえ、品数は17品。大自然で育った山菜とキノコ、体との相性が良いのかモタれることもなく、帰路の運転は快調だった。
 

2017年10月28日土曜日

美しい100歳の母に驚く

 
私の母、チヨミは今月100歳の誕生日を迎えた。
地元、秋田県由利本荘市から賀詞と祝い金をいただき(10月7日ブログ)、敬老の日には安倍総理大臣から銀杯をいただいた。(写真・右)
 弟が子供達もお祝いの会をやろうと企画した。母は5人の子供に恵まれた。長女・セイ子、長男・洋三、次男・俊三、三男・幸三、次女・友子である。
 25日、母と子供夫婦8名が、いちゑ旅館(秋田県・にかほ市)に集合した。

 私達夫婦も当日7時に自宅(牛久市)を出発。秋田まで500キロ、久しふ”りの長距離ドライブである。長雨も上がって、天気良好。絶好のドライブ日和だった。山形自動車道に入ると紅葉真っ盛り、紅葉に飛び込むように車は走る。
 実家に立ち寄った後、いちゑ旅館へ。先に到着していた母に会う。正直驚いた。1年前、白寿の祝いで会った時より若くなったように感じた。率直に言って「美しい」。100歳になった女性にも「美しい」という形容詞が当てはまる場合があるという事を実感した。それが自分の母なのである。子供達のお祝いの言葉に対して「お陰様でここまで長生きできました」と、若い頃の口調で語る。その言葉に胸が詰まった。
 18年前、86歳で亡くなった父も「チヨミ頑張ったな」と喜んでいるに違いない。

2017年10月22日日曜日

ハイエンドオーディオの守護神、藤岡 誠先生

 
(1983年、TDK三隈川工場で。右から小生、藤岡 誠先生、江川三郎先生・・・)
 
 20日、オーディオ評論家の藤岡 誠先生が主催する飲み会「千代田会」に参加するため東京へでかけた。この会にはオーディオメーカー、出版社の方々が参加する。
 定年後、オーディオには縁遠くなっている。会に参加される方々とレベル合わせをするため秋葉原に寄った。愕然とした。秋葉原はパソコンとアイドル系ゲームの街に変貌していた。
 電気店のビルに入り、売り場の案内表示を見る。あったあった「オーディオ」という表示が、が、そのフロアに行って愕然!ヘッドフォンがフロアの大部分を占めている。オーディオコンポが見当たらない。そうだ、御茶ノ水の「オーディオユニオン」に行ってみよう、あそこだったらハイエンドのコンポがあるはずだ。というわけで御茶ノ水に足を運ぶ。が、同店に入って愕然!1階から3階までコンポが展示されていたが、全て中古品だった。
 ハイエンドコンポの惨状はわかったが、千代田会メンバーである音元出版の専門誌はどうだろう。お茶の水の「丸善」で同社が出版している専門誌を手にとることができた、が、ページを開いて愕然!ネットオーディオ、ヘッドホンの記事が主流を占めている。
 
 千代田会は18:30~武蔵小山の焼肉「和田」で開催された。藤岡先生ご贔屓のお店だという。部屋に入ると、藤岡先生が向かいに座るように招いて下さった。こんな美味しい焼肉食べたのはじめて、いいちこスペシャルも美味しい。茨城の牛久からわざわざ来た甲斐があった。幹事役の進藤さん、藤岡先生ありがとう。
 「俺はネットオーディオなんて、相手にしないからな」と藤岡先生はおっしゃる。先生はあくまでもハイエンドオーディオに拘るという。先生はハイエンドオーディオの守護神である。
 オーディオでも芸術性を追求する先生の姿勢は不変である。

2017年10月17日火曜日

アサヒビール茨城工場見学(味の決めては試飲)

 
見学者を迎えるビル(左上)巨大な仕込釜(左下)正しい注ぎ方を教授する池田嬢(左)

 昨日(16日)、雨の中、アサヒビール茨城工場の工場見学に向かった。(証券会社主催)
茨城工場は守谷市にある。同工場は世界最大級のビール工場であり、同社ののショーウィンドウ的な役割も果たしている。
 ビール工場の行程はいたってシンプル。原料は麦とホップと水。麦芽をつくる「製麦工程」、麦芽に米・コーンスターチなどの副原料を加えて煮て麦汁をつくる「仕込工程」、麦汁にホップを加えて煮沸。ビール特有の芳香と苦みを出す。これにビール酵母を加えて発酵、熟成させる「発酵熟成工程」、熟成したビールをろ過すると黄金色に輝く生ビールが誕生する「ろ過工程」、その後「パッケージング工程」に流れ、缶、ビン、樽にパッケージングされて出荷される。工場に入ると巨大な仕込釜、煮沸釜、発酵・熟成タンクに驚く。
 原料、行程はシンプルだが、それぞれ磨き抜かれたノウハウが蓄積されている。そして最終的に味を決めるのはパネリスト(検査員)による試飲。いくら人口知能が発達したとはいえ、人間の感性に勝るものはない。私も現役の頃、カセットテープの商品企画を担当したが、最も重視したのは人間の耳による「聴感評価」だった。
 工場見学の仕上げは8階展望台での試飲会。できたてのビールはさすがに美味しい。3杯もご馳走になった。
 
 アサヒビールとえば「スーパードライ」。それまでシェア10%だったアサヒビールは1987年の「スーパードライ」、2001年の「本生」の発売でシェアトップになる。
 
 工場見学は事前申込みで誰でもできる。見学工程は1キロ以上あるので、足腰健在なうちの見学をお薦めしたい。
 
 

2017年10月14日土曜日

車椅子の区議会議員!村松さん

 本棚を見たら、読みかけの「本」があった。
村松勝康(むらまつ・かつやす)さんが書いた「80センチに咲く花」(池田書店)である。表紙をめくると、畠山俊三様″感謝″という筆者のサインがある。
 村松さんは「1944年生まれ。秋田県出身。1歳の時に脊髄小児麻痺になり、下肢に障害を負う。1969年、日本大学法学部卒業。1993年、車椅子で日本列島360キロ単独横断に成功。同年、東京都葛飾区議会議員に初当選。車椅子の視点から福祉の向上に日々奮闘している」
 村松さんは小学校の入学を認めてもらえなかった。母さんが校長に噛みつく。「あんたたちがオラーの立場だったら、どう思うんだい?歩けないからって学校に入れないなんて、おかしいじゃないか!差別だよ!」「勝康、おまえさー、学校に入れなくて寂しいか?ごめんな」「オラー、淋しくねーよ。勉強嫌いだから」「だども、いつまでもこうしていられねーんだ。勉強しないと、大人になって困るんだよ」村松さんは1年後、入学。母さんの期待に応えて大学まで進学。1993年には区議会議員に当選する。母さんはその2ケ月前、天に召される。村松さんは喜びと悲しみに嗚咽する。
 
 「オラー、もうダメだ、結婚したのに仕事もなくて・・・。オラーは必要のない人間なんだ。死んでしまった方が楽だ・・・」そう思う日々もあった。そんな時、母さんの声が聞こえてきた。「勝康、お前に苦労かけてごめんよ。でも、どんな人でも、世の中に立てる道が必ずある。バカなことは考えないで・・・」
 
 立つ事ができない村松さんの目線はせいぜい80センチ。「80センチに咲く花」のタイトル名はそこに起因している。私が村松さんから本をいただいたのは、2011年、高校同窓会(東京伊勢堂会)の時だった。その高校は鷹巣農林高校。ゆったりと流れる米代川を背に秋田杉の実習林がある学び舎だった。
 

 


2017年10月7日土曜日

母さん、100歳、本当におめでとう!

(100歳とは思えない凛とした母の写真に驚く)

 昨日(6日)東京へでかけた。小田原に住んでいる弟と高島屋で開催されている「池田学展」に行く約束をしていた。幸いなことにギャラリー桜林(常陸国出雲大社)の石橋さんから招待券をいただいていた。
 高島屋に行く前に内幸町の日本プレスセンタービルに寄った。この4階に秋田魁新報社の東京支社がある。同新報社が、私の母が100歳を迎えたというので取材をした事を聞いていた。「載ってましたよ」係の方が掲載誌を持ってきてくださった。5日の日付である。グットタイミングだった。記事は次の通リ・・・。
 『由利本荘市は3日、100歳を迎えた同市鮎瀬の畠山チヨミさんに、賀詞と祝い金10万円を贈った。畠山さんは1917(大正6)年、旧石沢村(現由利本荘市)に8人きょうだいの長女として生まれた。19歳で同村の一男さん(故人)と結婚。夫婦で農業を営みながら5人の子どもを育て、孫14人とひ孫32人、やしゃご一人に恵まれた。現在は自宅で長男・洋三さん(76)夫婦と3人暮らし。趣味は三味線や大正琴、読書など多彩。足腰が丈夫で、晴れた日は庭の草むしりをしているといい、政治ニュースもよく見ているという。この日は阿部太津夫副市長が自宅を訪れ、賀詞と祝い金を手渡した。畠山さんは「ありがとうございます」と笑顔を見せ、長生きの秘訣について「いつも前向きに、くよくよしないこと」と話した。(斎藤祐希)』
 新聞を見て弟と乾杯!その後「池田学展」見学。1時間30分待ちの長蛇の列。わずか1ミリに満たないペン先の線で描いた壮大な作品が並ぶ。-凝縮の宇宙ーに圧倒された。

2017年10月4日水曜日

一兆円企業・TDK社長と飲み会

 
(左より、創業者・斎藤憲三氏、8代目・石黒さん、畠山)
 
 昨日、TDK・OB有志の飲み会があった。第6代目社長、澤部さん、第8代目社長、石黒さんも参加された。
 席は指定されており、私は澤部さんの向かい席。澤部さんは小生と同じ昭和17年生れ。早速世間話をはじめたが、澤部さんは現役のTDK相談役、対する小生は中間管理職で定年となり、掃除のバイトをするボケ老人。世の中の見方、情報量、頭脳の回転速度が全く違う。澤部さんは帰宅しても会社の事が気になり、アレコレメモを書いては破り捨て、ワインを飲む日々だという。
 第8代目、石黒さんはTDK創業の地である、秋田に何度か足を運び、創業者、斎藤憲三氏の遺徳に触れ、感動したという。これからも生産拠点として秋田地区を重視していくという。「石黒さん、私の実家は本荘工場から2~3キロのところです。農業をやっております」「そうですか、私も米つくりに関心があります。TDKの技術を応用して”甘くて大粒の米”ができないか、挑戦しております」農工一体、創業者・斎藤憲三氏が描いた夢である。
 TDK社長の出身校はバラエティに富んでいる。5代目、佐藤さんは日大、6代目、澤部さんは早稲田、7代目、上釜さんは長崎大、8代目、石黒さんは北海道大。(東大出身者が居並ぶ東芝と対象的)TDKの社長の選定基準はどこにあるのだろう・・・。
 澤部さんは挨拶にくるOBに向かって「あんたも私心を捨てて仕事をやってたね」と笑顔。TDKの経営者は無心で仕事に打ち込む社員を育て、その中から後継者を選んできたのではないか。その背景に社是がある。「創造によって(世界)の文化産業に貢献する」斎藤憲三氏はなによりも”創造”に拘った。
 石黒さん「明日、米国出張です。経営会議も海外でやるようにしました。資料は全部英文です」TDKの年間売上一兆円。うち海外が9割。連結従業員10万名、こちらも9割が海外である。
 

2017年9月26日火曜日

「東芝・原子力敗戦」に学ぶ (上司のためではなく、人類の未来のために)

 
電子部品メーカーOBの小生にとって、東芝は日立、パナソニックと並んで、お得意先であり、雲の上の存在である。
 従業員、経営者もエリート、電子部品メーカーとはレベルが違うだろう。ところが、その東芝が原子力事業で多額の負債をだしたとか、その穴埋めに虎の子である半導体事業を売りに出したが、その売り先がなかなか決まらない等、新聞で報じられた。天下の東芝に何があったのだろう?その疑問に答える本が出版された。大西康之著「東芝・原子力敗戦」(文藝春秋)である。
 本を読んで唖然とした。小生の常識の範囲を超えるできごとが次から次へと記載されている。「2006年、経済産業省が″原子力立国計画″を発表。国内の電力需要の30~40%を原発で補うとともに、後進国に原発を輸出する。この国策のもとに、2007年、東芝は米国の原発会社ウェスチングハウスを6,600億で買収」「当初、当面の受注数を39基と見込んでいた。1基当たりの建設コストは2,000億。ところが、2011年、東日本大地震の発生等で原発建設の流れが停滞、しかもコストは要求品質が厳しくなった事で1兆円に膨れ上がると見込まれた」「ここで踏みとどまれば良かったが、トップは国策だといって突き進む。そして行われたのが粉飾決算である。2017年3月期の最終赤字は日本の製造業として最悪の1兆円超にのぼる見込みだ」
 大西氏は指摘する。「東芝問題は、東芝固有の問題ではない。日本企業全体の問題である。″官民一体″″全社一丸″″滅私奉公″は思考停止を呼び、粉飾決算にも手を染めさせる」「米国、電気自動車のベンチャー企業テスラモーターズのCEOイーロン・マスクは全社員に一本のメールを送った。″あなたの上司のためではなく、人類の未来のために働いてください″」「求められるのは″自由″と″多様性″である」
 
 大西康之=1965年生まれ。愛知県出身。1988年、早稲田大学法学部卒、日本経済新聞社入社。1998年、欧州総局(ロンドン)、日本経済新聞編集委員。日経ビジネス編集委員などを経て2016年独立。著書に「稲盛和夫 最後の戦い」他

2017年9月21日木曜日

スマホ世代にも見て欲しい、名画「米」

<ご用済みの携帯(左)とスマホ>
 
 15日、2009年から使用していた携帯電話をスマホに切り替えた。スマホといっても、電話もメールもほとんど使用しない私、容量は0,5ギガで契約。それでも、インターネットが見れるのでありがたい。グーグルで「映画・米」と検索すれば、関連情報がズラリとでてくる。小生のブログ「人間浴」も出先で検索できる。
 ところで、8月24日のブログで触れた映画「米」、わが町、牛久図書館にDVDがあったので観た。感動した。感想は「凄い!」の一言。この映画ができたのは1957年(昭和32年)、小生、15才、高校一年生の時である。
 舞台は近隣のかすみがうら市の農漁村。田植えのシーンが凄い!農民達は膝まで、泥田に埋まりながら、田植え、田の草取りを行う。(当時、田植え機などなかった)刈り採った稲から足踏みの脱穀機で米を採る。農作業で使用する縄も足踏みの機械にワラを差し込みナう。
 私は実家が秋田の農家だったので、「米」を見ながら今年100才になる母、亡くなった父、ワカゼ(若衆)メラシ(女衆)達が寝る間を惜しんで働いていた姿を思い出す。稲刈りの時期、昼は田圃にムシロを敷いてホノハママ(ご飯にきな粉を付け、ほおの木の葉っぱで包む)を食べた。
 当時、長男は跡継ぎだからいいものの、次三男は東京に集団就職。霞ケ浦の次三男は自衛隊に入隊する。「米」にでてくる母娘は貧しかった。農家でありながら、自分で食べる米もなく青田刈をする。霞ケ浦の漁でなんとか生き延びるが・・・。そして若者達の切ないロマンス・・・。
 名匠、今井 正監督の画面が凄い。厳しい農作業と農民の生活をリアルに表現。一方、霞ケ浦に帆舟が出航するはシーンは勇壮、収穫を祝う祭りのシーンは躍動!気持ちが昂った。
 先人達の苦労があって、今の日本がある。次世代を担うスマホ世代にも、この名画を観て欲しい。
 

2017年9月13日水曜日

恩田 陸著「蜜蜂と遠雷」(直木賞、本屋大賞)

 
弟から「面白い本があるから読んでみたら」と薦められた。
 2017年度、直木賞と本屋大賞をダブル受賞した、恩田 陸著「蜜蜂と遠雷」である。
 ストーリーは日本の地方都市で開催された世界的なピアノの国際コンクールに出場するコンテスタントの話なのだが、音楽・オーディオファンであり、現役の頃、カセットテープの商品企画をやっていた私には聞き捨てならない話が続々登場する。
「才能は、当然のことながら富と権力のあるところに引き寄せられる。豊かなアメリカは巨大な音楽市場となった」。TDKも音楽用カセットをアメリカから市場導入して成功した。「CDがレコードならまだ再現できていた人間の耳に聴こえるか聴こえない高音域と低音域を切り捨て、それによって、演奏家のもっているある種の土着性をスッポリとそぎ落とした・・・」LPレコードで聴いた加藤登紀子の「知床旅情」が私の心に響いたのはそのせいかもしれない。
 極め付きは、楽器を演奏せず、カラオケも歌わない私が体験できない、演奏家の喜びである。「普段の生活がどこか遠いできごとのよう。ステージ上のあの感じ、光に照らされたグランドピアノの佇まい、そこに歩いていく感じ、心地よく集中できるあの場所、観客の視線を集めて弾きだす瞬間、親密な同時に崇高なものが凝縮された瞬間、そしてあの満足感。興奮に溢れた喝采、観客となにかを共有し、やりとげた感じ。ステージを去る時の感激と高揚感・・・」ここで、先月、聴いたプリマドンナ、中丸美千繪を思い出す。彼女は観客の割れるような拍手に片膝を折り曲げて答礼。その姿が美しかった。
 恩田 陸(おんだ りく)さん<本名:熊谷奈苗(くまがいななえ)>は1964年生まれ、私より22才若い。そのせいか文章は現代調で読みやすい。しかも、その表現力、洞察力に驚く。音楽に縁のない人でもピアノ演奏の奥深さが十分わかるように表現されている。恩田さんはこの作品を書き上げるのに7年費やしたという。
 わが町、牛久図書館でも「蜜蜂と遠雷」は大評判。現在、貸出待ちの市民210名である。
 

2017年9月4日月曜日

加藤登紀子と中丸三千繪

 
加藤登紀子(左)と中丸三千繪
 
 レコードをジャケットから取り出す。レコードの盤面を拭く。プレーヤーのターンテーブルにレコードを載せる。スタートボタンを押すと、ターンテーブルが回転し、ピックアップがレコードに乗る。えもいわれる優しい音がスピーカーから流れる。
 加藤登紀子の唄が流れる。「知床旅情」(森繁久彌、作詞作曲)、「逢瀬」(加藤登紀子、作詞作曲)と続く。加藤登紀子、昭和18年生れ。東大卒のシンガーソングライター。唄を聴きながら、あの頃、北海道は新幹線もなく、知床はまさに最果ての秘境だったと思う・・・。「逢瀬」、<後ろ姿の淋しい男に、かける言葉はみつからない・・・>という歌詞ではじまる。切ない・・・。
 加藤登紀子の唄はアナログLPレコードが良く似合う。彼女の唄をデジタルサウンドで聴く気がしない。

 中丸三千繪。昭和35年生れ。オペラ歌手。8月26日(土)、隣町、龍ヶ崎市文化会館ホールで聴いた。家内も一緒だった。そのパワフルな歌唱力に圧倒された。彼女がオペラ歌手を目指すようになったのは、イタリア映画の影響だという。「甘い生活」「カビリアの夜」「ひまわり」「道」、イタリア映画にでてくる主人公達は感情をむきだしにする。オペラはその凝縮版といってもよい。

 加藤登紀子、中丸三千繪、ジャンルは違うが、2人に共通しているのは、その唄がドラマになっている点である。ただ、味は全く違う。
 加藤の唄は日本の風土を反映して、抒情がある、陰がある。そして切ない。
 中丸の唄はドラマチックである。イタリアの男女の情念の世界は激しい。中丸は全身全霊を傾けてそれを表現した。

2017年8月27日日曜日

カセットテープ、世界陸上、ここだけの話!

 
(左から畠山、坂本、岩沢、吉野、辻井、藤井・敬称略)
 
 6月「カセットテープ時代」part2という本が発売された。目玉はなんとTDK特集だった。
 8月25日(金)、坂本幸広さんが幹事役となって「カセットテープ時代、有志の会」を開いて下さった。昔話に花が咲いた。
 1964年入社、辻井敝さんの話「当時はオープンテープの時代、工場の事務所には冷房がなく、大歳事業部長は氷の入ったバケツに足を入れて仕事をしていた。”おい、カセットテープというのが発売されたから、買ってこい”大歳さんはポケットマネーを出して、秘書に渡した」。現在、TDKは1兆円の売り上げだが、当時は55億円。テープ工場は赤字。1966年、TDKはカセットテープを発売する。辻井さんの一番の思い出は1981年発売の”黒のAD”「なにしろ、注文が殺到して生産が間に会わないんだよ。お詫びの全面広告を出したね」
 世界陸上を推進した岩沢克恵さんの話。1983年岩沢さんは沖山昭八さんと、スポーツマーケティング仲介者であるジャック・K・坂崎氏と会う。坂崎氏の話はこうだ。「世界陸連がオリンピック、サッカーと並ぶ世界陸上を開催しようとしております。資金集めのためにゼッケンスポンサーを探しております。」岩沢さんは沖山さんの目をみる。「ジャックさん、この話、他にしないで下さい。すぐに結論を出します。」沖山さんは素野福次郎社長に直談判。即決してもらう。ジャックと別れて30分後のことだった。
 岩沢さんは外務省「在英日本大使館広報部」に勤務していた。国にとっても企業にとっても広報活動がいかに大事か熟知していた。
 2005年、岩沢さんはNHK「プロジェクトX」に”TDKカセット物語”を持込む。プロデューサーの共感を得て放送にこぎつける。
 岩沢さんは振り返る。新聞社から電話がかかってくる。「岩沢です」「いや、広報の岩沢さんお願いします」「私が広報の岩沢です」。当時、広報は男性の仕事だったんです。岩沢さんはTDKのみならず業界における女性の地位向上にも大きく貢献した。
 《関連出版物》ジャック・K・坂崎著「フェアプレイ」日経BP社。谷口源太郎著「冠スポーツの内幕」日本経済新聞社。
 

2017年8月24日木曜日

霞ケ浦を舞台にした名画「米」

 
山中さんと、映画「米」のポスター
 
 21日(月)霞ケ浦に住む山中忠雄さん宅を訪れた。
その数日前、山中さんから残暑見舞いをいただいた。「妻が遺したレコードがあります。よろしければお譲りします」とある。直ぐに電話をした。「レコードいただきにうかがいます。ご自宅の場所はネットで調べます」というと、「畠山さん、家にいらした事がありますよ」との事。アレアレである。
 私は「いしぶみ」という自分史集を編集していた。山中さんと知り合ったのは、それがご縁である。山中さんは平成25年と26年の号に寄稿して下さった。(平成22年亡くなられた奥様のご遺構もいただいた。)
 山中さんの作品を拝見すると、山中さんは昭和18年生れ。(小生より一才年下)土浦市出身。地元名門、土浦一高卒業。22才の時、市内菅谷(すげのや)山中家の一人娘サチ子さんと出会い、24才の時、山中家の婿養子になる。
 山中家は土浦駅から霞ケ浦沿いに西へ10キロほどのところにあった。立派な門構えの旧家である。山中さんの話によると、私は3年前にうかがい「秋田にある実家に似ている」と感想を漏らしたとの事。スッカリ忘れてしまった。自分の老いぼれ加減に呆れた。
 帰り道、思い出したのは、60年前、17才の時に観た今井正監督の映画「米」だった。農漁村の若者達の切ない恋物語。江原真二郎演じる次男は霞ケ浦で帆曳き漁をしている。夜遊びといえば対岸に行き、娘たちを冷やかす事。次男はうす暗い農家で黙々と仕事をする中村雅子演ずる千代の清純な姿に心を奪われる・・・。
 左手に海のように広がる霞ケ浦、山中家を囲むのどかな田園風景、これらが映画「米」を再起させたのである。
 牛久の自宅に帰ってLPレコードに針を落す。ポール・アンカの「ダイアナ」が流れた・・・。
 

2017年8月22日火曜日

小泉進次郎氏、牛久で街頭演説

20日(日)、わが町、牛久で小泉進次郎氏が街頭演説を行った。27日投票が行われる茨城県知事立候補者の応援演説である。夕方6時から、わが家は丁度食事時であるが、将来の総理候補といわれる小泉氏の生の姿を見、話を聞いてみたいと思いでかけた。
 街頭演説が行われる牛久駅東口には既に人垣ができていた。6時、地元県会議員、国会議員が挨拶。続いて小泉氏登場!拍手が沸き起こる。小泉氏、手をあげて応える(写真)

 小泉進次郎氏、36才。若い、カッコイイ。しかも話が上手い。彼のような若い政治家がいれば日本も大丈夫と感じた一時だった。以下、小泉氏、演説の概要。
 「360度、取り囲んで下さった皆さんありがとう。お盆に行われた”河童まつり”の盛況を連想させます。牛久以外からもいらして下さったとか・・・。土浦、阿見、竜ケ崎の方々ありがとう。私は高校時代、野球をやってました。土浦一高、常総学院と練習試合をやりました。負けましたね。(笑い)ところで、9月1日、シャトーカミヤの名称が「牛久シャトー」に変わります。大井川さんに当選していただき、「牛久シャトー」のワインで乾杯をしたい!皆さんよろしくお願いします。ところで、稀勢の里、牛久と竜ケ崎を足場に横綱になりました。なんと19年目の日本人横綱です。茨城県知事選、24年目で終わらせましょう。私でも牛久に関連した話題が次々とでてくるのに、県の魅力度で茨城は47位です。新しい知事を選んで、上位を狙いましょう。茨城が頑張る事によって他県も活性化します。今、スマホの時代ですが、これから世の中ドンドン変わります。平均寿命が100才を超えるといわれております。将来を見通せる若い知事を選びましょう」
 
 小泉氏は、まず、地元の話題を持ち出し、聴衆との同化はかる。また、地元、国の課題を持ち出し、聴衆に問いかける。対立候補を直接ヤジるような事をしない。実にスマートな街頭演説だった。
 

2017年8月17日木曜日

頼もしい孫達

甲子園が夢の純君(左)と諒君

お盆ということで、息子家族が遊びにきてくれた。
息子には3人の男の子がいる。中1、小5、小1である。実に頼もしい。
中一の純君は野球部に所属し、猛練習の日々。ママが時々フェースブックにその模様を投稿するが、フォームが実にカッコイイ。スポーツ音痴のジジィとは違う。
ジジィが「純君、甲子園目指すの?」と聞いたら、うなずいた。ジジィも一緒に甲子園の夢を見よう。小5の諒君、小1の侑君にも、夢を持って頑張って欲しい。
 私は昭和17年生まれ、戦争の記憶はほとんどない。息子は昭和48年生まれ、彼も平和な時代を過ごしてきた。孫の世代も平和であって欲しい!

 息子との会話。
「俺が病気しても、無駄な延命治療はやるなよ、葬式にも金かけるなよ。戒名もいらないからな」
「そうもいかないよ、そういうことは口頭でなく、書類に書いておいてよ」

ところで、今日、自治会の役員の方がいらっしゃった。
「9月18日、敬老会がありますので、ぜひ参加して下さい」”祝・敬老 牛久市”という封書をいただく。
 ”敬老”って私の事!ショック!自分では”後期高齢者”とか”終活”といいながら、お役所にいわれると、「老人呼ばわりするな!」と腹が立つ・・・。難しい年ごろのジジィである。

2017年8月10日木曜日

世界陸上の思い出⑤ディアック会長のメッセージ


 2002年、私は60才となり定年を迎えた。驚いた事にその時、世界陸上・会長のダミン・ディアック氏からメッセージをいただいた。(写真・上)世界陸上はオリンピク、ワールドサッカーと並ぶ世界の3大スポーツイベントである。世界陸上の会長といえば、オリンピックのサマランチ会長に次ぐ有名人である。

親愛なる畠山さん
 TDKを去られるという知らせを受けました。この機会をお借りしまして、国際競技連盟の代表として、これまでの当連盟およびスポーツ競技に対するご尽力に感謝申し上げます。TDKという有名企業とパートナーを組めたことは当連盟の喜びであり誇りでありました。しかし、こうした関係も畠山さんの努力と情熱があってこそ成功したものだと思います。ありがとうございました。~以下略~

あれから15年、世界陸上ロンドン大会開催中である。アスリート達の記録へのあくなき挑戦、歓声を上げる超満員の観衆!テレビの画面が涙で曇る。世界陸連、電通の皆さん、お世話になりました。


〆は第3回東京大会
マラソンで4位に入賞した
有森裕子さんとの
ツーショット。
(1991)




                   
                   


2017年8月8日火曜日

世界陸上の思い出④世界陸上と共に歩むTDK

 
 TDKは1993年第1回ヘルシンキ大会から今年の第16回ローマ大会までゼッケンスポンサーを継続している。私は第2回ローマ大会から第6回アテネ大会まで、その事務方を担当してきた。担当期間中、業績が低迷して、継続の危機を迎えた事がある。この時、役員の一人が「世界陸上を継続できるよに、皆で頑張ろう!」と述べ、継続が決まった。
 
(1992年、世界陸上継続の稟議書。佐藤社長がサインして下さった)

 2002年、私が定年退職した後もTDKは世界陸上を継続している。その理由は「記録と自己へのあくき挑戦を続けるアスリート」の姿勢と「独自の技術で未来をひきよせるテクノロジーを生み出し、社会貢献をしよう」というTDKの企業姿勢が一致しているからだという。
 1993年第1回ヘルシンキ大会当時のTDKの売上は3千百億円だったが、今年、TDKは1兆1千5百億円を目指す。(海外売上が92%を占める)世界陸上とともに歩むTDKである。
                

1987年、第2回ローマ大会の時、イタリアの日本大使館を訪れ、全権大使 西田誠哉氏にお目にかかる。


2017年8月7日月曜日

世界陸上の思い出③第3回・東京大会

第3回世界陸上・東京大会は1991年8月23日~9月1日まで10日間、開催された。1964年の東京オリンピックに次ぐ国家的イベントだった。23日の開会式には天皇・皇后陛下ご臨席のもと、海部俊樹内閣総理大臣が開会を宣言。
 競技2日目、女子マラソンで山下佐知子が銀メダル。日本女性が世界のひのき舞台の陸上競技でメダルを獲得したのは、1982年アムステルダムオリンピック800mで銀メダルを獲得した人見絹枝以来63年ぶりの快挙だった。その夜、男子100mでカール・ルイスが9秒86の世界新記録(ローマ大会でジョンソンが出した9秒83はドーピングで失格)で優勝。大会6日目にはパウエルが男子走り幅跳びで8m95の世界新。そして大会最終日の9月1日、男子マラソンで谷口浩美が2時間14分57秒で金メダル。(写真・上)国立競技場のセンターポールに日の丸が上る。
 私は第2回大会に続いて、第3回大会も担当。大会期間中、帰宅は毎日深夜。下車駅の牛久駅を乗り越すこともあった。
(世界陸上・東京大会)参加国・地域184、参加選手
2,500名、報道関係者4,500名、観客70万名、テレビ視聴者33億名

TDKのパーティ会場に突然現れたカール・ルイス(写真・左)
               

TDKパーティのホスト役、大歳 寛会長(右)と私(左)


*写真、上・中(陸上競技社)           
               

               







                   

2017年8月6日日曜日

世界陸上の思い出②第2回ローマ大会

 ルイス(左)を破ったジョンソン(右)”写真・陸上競技社”
 
 イタリア語はおろか、英語もできない私が10日間もローマへ行って何をしていたんだろう?あれからもう30年が経過している。自分史「ドリームⅩ」を読み返してみる。
「私の仕事は世界陸連からの情報を基に大会を活用して最大限のPR効果を上げる戦略を練る事、さらに米欧等の現地法人が派遣してくる招待客を迎え入れる体制を整える事」と記している。具体的には次のような対応をした。
①競技場内外でビデオテープのPRをする場合の段取りと費用。
②日本大使館を訪れ、全権大使の西田誠哉氏にお目にかかる。ローマの治安状況と、危機管理についてお話しをうかがう。
③日本交通公社(JTB)・ローマ支店を訪れ、ホテル・レストランの状況を聞く。パーティ会場の選定を依頼。
④電通ISL(世界陸上事業部)と、ゼッケン・看板の露出について確認。TV放送が全世界をカバーするよう要請。
⑤競技場にTDKのバルーンを揚げるよう要請。
⑥世界陸上連盟会長、プリモ・ネビオロ氏に挨拶。
⑦日本テレビ取材クルーに挨拶。 

 第2回ローマ大会には165ヶ国から1,700名の選手が参加。大会2日目、男子100mでベン・ジョンソンが9秒83の驚異的な世界新記録でカール・ルイスを破ったこともあり、異常な盛り上がりを見せた。
TDKのパーティはヒルトンホテルで開催された。TDKからホスト役として大歳会長ご夫妻が参加。招待客はネビオロ会長他、日・米・欧のTDKのお得意先を含め、500名。日本テレビで特別コメンテーターを務めた長嶋茂雄氏も参加された。

2017年8月4日金曜日

グランドゴルフで4位入賞

(グランドゴルフに興ずる仲間たち)

 私の午前中の日課は運動である。
その手段は3つ。①掃除のバイト②グランドゴルフ③散歩。①も②も週に2日くらい、①と②がない日は③で体を動かす。

グランドゴルフは実に楽しい。ゴルフクラブのようなクラブで野球のボールくらいの大きさの球を打って、ゴールポストに入れる。コースの長さは15m、25m、30m、50m、と4種類あり、いずれもパー3。1ラウンド、8コースなので、1ラウンド、パー24である。試合になると4ラウンド廻るのでパー96ということになる。なお、1パット(ホールインワン)で入れると、合計打数から3打引くことができる。

大会で入賞するには、70代のスコアを出す必要がある。
私はいつも、80代の前半。80代をきるのは10回の内、3回くらいである。
2日、牛久グランドゴルフクラブの大会があった。32名参加。
この日はなぜか絶好調!4ラウンドとも、2打(バーディ)が5回もでた。おまけに50mのロングコースでホールインワン!合計打数71。自分でも信じられない。
このような好スコアは2度と出ないと思い、ブログに書き残す。


頂いた賞品。
参加費¥300。
(ゴルフとは比較にならない
低料金)

2017年8月1日火曜日

世界陸上の思い出①男子ゼッケンスポンサー

(第3回・東京大会、100mで金メダルのカール・ルイス)

世界陸上といえば、TDKが男子ゼッケンスポンサーである。私はこのイベントを担当した。「俊、ビリにだけはなるな!」小学校時代、運動会の時に母に言われた言葉である。とにかく運動が苦手。そんな私が世界陸上のイベント担当になった訳?それは私を秋田から東京へ呼んで下さった沖山昭八さん、澤野洋さんの意向だった。
 沖山さんはTDKをカセットのトップメーカーに育て、さらに1983年、第1回世界陸上のゼッケンスポンサーになることを提案。広報担当として外務省「在英日本大使館広報部」に勤務していた岩澤克恵さんを起用。開催地ヘルシンキに乗り込む。この時は男女ともゼッケンはTDK。「TDKの運動会」といわれた。
 第2回世界陸上は1987年、ローマで開催された。この時、私はカセットやビデオテープの商品企画を離れて広報部に在籍していた。以下、沖山さんの後、テープ事業部長となった澤野洋さんとTDKヨーロッパ・徳田社長との会話
澤野「ローマ大会の運営は、ヨーロッパでやってくれないか」
徳田「それは困ります。期間中大歳会長が参加してのパーティもありますので、東京の広報からも誰か派遣して下さい」
澤野「畠山君でいいか?畠山君は岩澤さんと違って、イタリア語は勿論、英語もできないよ」
徳田「わかっております。そこらへんは私の方でフォローします」

1997年、第6回・アテネ大会の時、行きの飛行機はTBSの砂原社長、電通の坂田常務と同じ便だった。スチュワーデスが「ファーストクラスが空いてます」と笑みを浮かべた。(通常、ビジネスが45万なのにファーストは120万もする)坂田さんが忖度して下さったのかな?。ファーストは2階席先端にあり、座席は一列、前の席とは3mも離ている。天にも昇る気分だった。



 
 

2017年7月27日木曜日

大腸がん(内視鏡)検診

先日、6月に受診した定期健康診断の結果通知書が送られてきた。
「がん検診等」の項目に●精密検査を要する:大腸がん検診。とあり、受診用の書類が入っている。健康には自信のある自分だが「ついに来たか」である。

7月25日が精密検査の日だった。
お尻から内視鏡を入れ、ポリープ等があれば切除するという。
22日から、検査に備えての食事が始まる。アルコールも禁止。「ノンアルコールビールもダメですか?」と聞いたらダメだという。惨めな気分になる。前日の24日など、支給されたお粥をすする。夜はスープだけ。検査当日25日の朝はコップ1~2杯の水だけ。普通食を食べている家内は「悪いわね」と気を使う。
9時30分、愛和病院へ。腸管洗浄剤(モビプレップ)を1時間かけて1リットル飲まされる。便は水状になる。ポリープを切除した場合、1~2週間はアルコール禁止、ジョギング、ゴルフ等の運動も禁止だという。改めて健康の大切さを実感するとともに、検査結果が良好であることを願う。
1時30分、検査室へ。内視鏡が挿入されてもほとんど違和感はない。「はい、終わりました。畠山さん、問題ありません。痔の傾向がありましたね。健康診断でひっかかったのはそのせいでしょう。2~3時間休養をとっていただけば普通の食事をしてもかまいません」バンザーイ!である。
 帰宅して、すぐ、27日の飲み会の幹事に電話をする。「飲み会、キャンセルのメール入れたけど、検査の結果問題ないので参加するよ!」

 もし、ポリープの切除をしていたら、今日も悶々としていたと思う。今回は問題なかったが、自分も75才。これから健康問題で悶々とする機会が増えることは確実である。
 そこで思った。手足が不自由でも口で絵を書いた星野富弘さんを見習おう!(写真・上)健康上のハンディがでてきても夢と感謝の気持ちを持っていれば、なんとかなる!
 

2017年7月23日日曜日

口で絵と文章を書く・・・「富弘美術館」

21日はベテランズクラブ(牛久市刈谷町・老人会)の日帰り研修旅行だった。テーマは「富弘美術館・わたらせ渓谷鉄道」。 参加者39名。
 8時、刈谷町出発。8:20つくば牛久インターから圏央道へ。東北道を経由して10:00関東自動車道、太田桐生インター流出。11:00群馬県みどり市にある「富弘美術館」に到着。
 星野富弘さん、1946年生まれ。(小生より4歳年下)1970年、群馬大学卒業。中学校の教諭になるが、クラブ活動の指導中、頸髄を損傷、手足の自由を失う。1972年、群馬大学病院入院中、口に筆を加えて文字や絵を書きはじめる。
 富弘美術館には星野さんの作品が6つの展示室に展示されている。どの作品にも草花が描かれ、素朴な言葉が添えられている。それは、不治の怪我にもかかわらず、「口で文字と絵を書けることができる」という、星野さんの喜びと感謝の気持ちの表現である。五体満足で平々凡々と暮らす私達に「生きる」意味を問いかける。
 絵葉書を今年100歳になる母に贈る事にした。(写真・上)

 母の手は 菊の花に 似ている
 固く握りしめ それでいて やわらかな
 母の手は 菊の花に 似ている

 
12:30 列車レストランで昼食。わたらせ渓谷鉄道で帰路に。(写真・左)18時、無事、刈谷到着。
 富弘美術館と、秘境・わたらせ渓谷の旅。感動!これも圏央道開通のお陰。茨城と群馬は近くなった。幹事の皆様、お世話になりました。

2017年7月17日月曜日

鳴り響いたストラディバリウス!千住真理子の技

昨日(16日)も茹だるような暑さだった。
その只中、家内とコンサートにでかけた。
「千住真理子ヴァイオリンリサイタル」竜ケ崎市文化会館大ホール。(家から車で30分)午後2時開演。
予定プログラムに入る前、照明を抑えた舞台で、千住は集中豪雨に見舞われた北九州の被害者の方々を思い、バッハを演奏。
 舞台が明るくなり、演奏開始。黒人霊歌「アメイジング・グレイス」、モーツアルト、「アイネ・クライネ」第1楽章と続く。ここで確信する。千住の弾くヴァイオリンの音は今まで聴いた事がない音である。ヴァイオリンの音というより、ヴィオラの音に近いと感じた。その音が奏でるブラームスのソナタ第1番「雨の音」はドラマチックで、シンフォニーのようである。終了後、やや間があって、2階席から「ブラヴォー」という声が飛ぶ。
 休憩時間、真夏の外気と比較すると、大ホールはキンキンに冷えている。
 第2部冒頭、千住が語る「皆様、会場を冷やして申しわけありません。実は、使用しているヴァイオリンは300年前に造られたストラディバリウスです。この楽器は湿気をきらいます。また、ヴァイオリン仲間では暴れ馬と呼ばれ、弾き熟すのが大変なのです。私も弾き熟すのに7年かかりました。今では私の体の一部です」。ネットで調べると、千住の持っているストラディバリウスは「デュランティ」と呼ばれる名器。最初の所有者はローマ法王”クレメント14世”だったとある。
 第2部では千住が「デュランティ」の魅力をあますところなく引き出す為の選曲である。クライスラー、ドビュシー、ポンセ、滝廉太郎と並ぶ。そして極め付けはサラサーテの「ツゴイネルワイゼン」。今まで聴いた事がない骨太で哀愁に満ちたツゴネルである。そのテクニックと力強さ、女性が弾いているとは思えない。
 これぞ、荒馬「デュランティ」を乗りこなした千住の技である。2階の客席から再び「ブラボー」の声が飛び、満員の会場に熱い拍手が鳴り響いた。
(ピアノ伴奏:山洞 智)



2017年7月11日火曜日

75才、東京・秋田夜行バス、トンボ帰り

6月、「中学同窓会&喜寿の祝い」があり、秋田に里帰りした。今月は会社OBで組織するパソコンクラブが東京地区と秋田地区の交流会を秋田でやるという。2ヶ月続けての秋田行となるが、費用はなんとか月々の小遣いで収めたい。ということで、6月に続いて、今回も夜行バスにした。(新幹線の半額)6月は秋田到着の夜、実家に泊めてもらったが、今回は交流会が終わった日の夜行バスで帰るという強行軍。75才の体力が持つかどうか・・・?。
 7月7日(金)23時10分、夜行バスは池袋西口を出発する。最近は21時には寝てしまうので、23時10分の池袋なんて別世界である。(写真・下)
西口の夜景を見て、現役の頃、銀座で梯子をして飲んだ頃を思い出す。夜行バスが出発する広場には外国人も交えた若い男女が、地べたに座って酒を飲みながら談笑。(そういえば、自分もカラヤンの切符を買うために日比谷公園で徹夜をした。)夜行バスを待つ間、色々な思い出が交錯する。
 夜行バスは3列。カーテンで仕切られ、前後左右の人は気にならない。ところが、当日は凄いイビキの音が車内に響き閉口した。8日(土)7時、バスは予定通り酒田駅に到着。羽越線で「にかほ」に北上し、10時からのパソコンクラブ交流会に参加。交流会は15時に終了。帰り「象潟駅」に下車、同期入社の今野隆君と会う。象潟は松尾芭蕉の「奥の細道」で有名。鳥海山があまりにも美しいので今野君にシャッターを押してもらう。(写真・上)
 20時40分、酒田発。帰りのバスは4列。トイレが付いてない。休憩の度に隣の席の方に立っていただく。寝付けないまま、9日(日)5時45分、新宿到着。夜行バスの疲れは10日まで残った。トンボ帰りは往復3列が限界と悟った。ちなみに、酒田、東京の料金、3列は¥7,870、4列は¥6,000だった。

2017年7月5日水曜日

カラヤン(下)普門館収録、関係者秘話

(1977年、普門館でベルリンフィルを指揮するカラヤン)

 1977年、普門館で行われたFM東京「TDKオリジナルコンサート」カラヤン・ベルリンフィルによるベートーヴェン交響曲全曲収録には数限りないエピソードがある。同全曲CDの解説書からそのいくつかを紹介する。
  
  東条碩夫(音楽評論 元FM東京プロデューサー)
 〇第5番「運命」の普門館での演奏は、彼等が残した如何なるレコーディングにおける演奏にも増して凄まじい力感に溢れているといえよう 〇録音エンジニアはエフエム東京の橋本正文が、他の7曲は若林駿介氏がつとめた 〇「第9」の本番直前、それまで快調だった収録用のアンプがトラブル。心の中でアンプを呪った。
  中山 実(大阪国際フェステバル協会元職員)
 〇1977年のベルリン・フィルの招聘は大阪フェステバル協会とNHKの競争となりました 〇ベルリンフィルは正団員約110人に約40人のエキストラを加えた総勢150名を超えるメンバーが来日しております。TV収録のある日は正団員が出なくてはならないという決まりがありました。「運命」「田園」はTV収録があったため正団員のみ出演している大変貴重な記録です。
  太田昌純(元中央宣興株式会社ディレクター)
 〇「なんで今さらカラヤンのベートーヴェンなの?」という声があった。しかし、69才のカラヤン、今回の東京公演のリハーサルは凄まじいものだった。それはまるですべての曲がまっさらな新曲で、今生まれたばかりの瑞々しいコンテクスト(文脈)を、オーケストラから呼び覚まそうとするかのようだった。
 
 *太田さんは静岡大学出身。前歴は音楽教師。クラシック音楽に人並外れた愛着を持っていた。スポンサーのCMにも注文をつけた。本編の音楽と調和のとれた”宣伝臭さのないCMを”と。番組の録音に若林さんの起用を要請したのも、小生と太田さんの意向だった。間にたって野原博さん(元中央宣興株式会社・営業局長)はいつも苦労されていた。野原さん、太田さんと3人で「カラヤン」の話をしたい。しかし、太田さんはもう旅立ってしまった。
 

2017年7月4日火曜日

カラヤン(中)1977年、普門館ライヴのCD化

1966年、日比谷公園で徹夜をしてカラヤンのチケットを買った私、その時、社内報の編集担当だった。その後、記録メディアの宣伝、カセットテープ、ビデオテープの商品企画、広報を歴任し、2000年、子会社であるTDKコアへ出向。定年まで残すところ、後2年。子会社でノンビリしたらという会社の親心だったと思う。
 これが、幸運だった。私は「TDKオリジナルコンサート」のCD化を提案した。
「TDKオリジナルコンサート」とは、1971年、私の上司だった芝崎彪さんが提案したクラシック音楽番組。国内外の名演奏家のコンサートを収録し、民法FM放送(FM東京等)で放送する、というものだった。芝崎さんは「世界のカセットTDK」を標榜した沖山昭八さんの部下、さすがスケールが大きい。
 TDKコアは教材、音楽等のソフトメーカー。レコードメーカーから移籍した社員もいた。「クラシック音楽のCD化?200~300枚も売れればいいんじゃない」という声もあった。しかし、チェロ奏者フルニエのCDを発売したところ初回オーダー2千、ベーム・ウィーンフィルは1万枚を超えた。これにはコアの社員のみならず、音楽業界もビックリ。2002年、松本社長から感謝状をいただくとともに、プレスクラブで定年祝いパーティまで開いていただいた。(6月ブログ)
 「TDKオリジナルコンサート」の目玉は1977年、東京普門館(5千名収容)で開催されたカラヤン・ベルリンフィルハーモニーだった。このCDが2010年、FM東京創立40周年事業としてCD化された。光栄にも定年後8年たった私にも解説書への寄稿依頼があった。(写真・上)その原稿をみると、カラヤン・ベルリンフィルの番組収録が実現したのは私が主催者である大阪フェステバル協会の中山実さん(当時)に働きかけたのがきっかけとある。夢は見続けるものである。

2017年7月2日日曜日

カラヤン(上)1966年、ビートルズとカラヤン来日

(筆者はテレビ画面に映るカラヤンを撮影した)

朝ドラ「ひよっこ」、みね子の叔父さん、宗男が茨城の山奥から上京する。目的はビートルズが来日。彼等と一緒に東京の空気を吸いたいというもの。時は1966年、昭和41年。小生24才。この年、クラシック音楽ファンの私にとっては指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンが手兵ベルリンフィルハーモニー管弦楽団を引き連れての来日の方が大事件だった。
(以下、小生の自分史「ドリームⅩ」から・・・。)
 東京へ転勤して嬉しかったのはコンサートに行けることだった。カラヤンの来日はビートルズと並ぶくらいの大事件だった。カラヤンは帝王と呼ばれていた。美人モデルと結婚する一方、飛行機も操縦し、音楽以外の分野でも話題になった。会社の中でもカラヤンの演奏会に行きたいという女性が何人かいた。どうやって入場券を買うかである。入場券の発売は3月1日である。私は彼女達に神田にある社員クラブに泊まって初電が走る前にプレイガイドに並ぶことを提案した。
情報によると、入場券を買うファンが3日前から並びはじめ、既に千人以上、日比谷公園に並んでいるという。女性陣は社員クラブをキャンセルし、毛布を持ってかけつけた。クラブのおばさんが言った。「風邪をひかないように・・・。若い人っていいわね。そんな情熱があって。」翌日10時から切符が発売されたが、われわれが切符を買えたのは午後2時30分だった。
 購入した切符は4月13日の公演。曲目はベートーヴェンの交響曲第4番と第7番。
今、そのエアチェックCDを聴いている。当時カラヤン56才。気迫に満ちた演奏である。後年、私自身がカラヤンのベートーヴェン交響曲全集のCD化(1977年・普門館ライヴ)にかかわるとは夢にも思っていなかった。