2015年12月30日水曜日

やった!慰安婦問題解決etc(年末床屋談義)

<床屋談義と関係ないが、古くからの友人である佐藤さんが出版した「なぜ、ヒラリー・クリントンを大統領にしないのか?」(講談社)が売れている。写真は先月行われた出版記念パーティで。左から小生と佐藤ご夫妻。>

 髪が薄くなり、ほとんど坊主頭だが、正月を迎え、床屋へ行った。床屋といっても1,000円のカットファクトリーである。年末は混むから朝一で行こうと開店時間を確認する為、ファクトリーのカードを見たが、なんと電話番号の表記がない。店員にこの事を尋ねると、電話がかかってくると、仕事が中断してしまうので、電話番号は表示しないのだという。「なるほど、ここまでコスト削減に務めているのか」と関心した。(私が開店時間を確認したのは同社のネットである)
 開店時間は9時。10分前に行くと、誰もいない。しかし、9時になると4~5人の集団が入店してきた。子供の頃、年末は床屋が混む。今も変わらない。

 ところで、集団の中で見覚えのある方がいる。大手建設会社OBのNさんである。「床屋、終わりましたらお茶でも飲みませんか」とお誘いした。
 Nさんとの話題は昨日、合意した「慰安婦問題、日韓妥結」。このニュースには私もNさんも驚いた。国のトップ同士がやる気になれば数十年の懸案事項でも妥結する。年末の超ビックニュースである。安倍総理は大したものである。
次なる話題は少なくなった余生の過ごし方。「悔いを残さないよう、楽しもう」という結論に達した。いずれにしろ、二人の人生は戦争にも合わず、日本も会社も発展した。幸せな人生だった。
 「今年、当社は貴社から50億円の仕事をいただいたそうです。自分も現役当時、貴社から10億円の仕事をいただきました」Nさんは、定年後10年以上たっても会社の動向を気にされる。愛社精神旺盛である。なんとも明るい床屋談義だった。

2015年12月23日水曜日

老後の株式投資。その目的は?

(つくば市の公園。証券会社もつくば市にある)

アベノミックスの影響で株が値上がりした。
10月、値上がりした所で全部株を売却した。
しかし、その後、生活に張り合いがなくなった。

新聞を見ても、テレビを見ても緊張感が沸かない。
株を持つという事は、利益を得る事が最大の目的であるようだが、社会参加という点でも意味があったようである。つまり、株を売ってしまったら、自分の生活範囲がグーンと狭くなったのである。

株を持っていた時は日本経済はもとより、世界経済、特に中国経済、それとイスラム問題・・・。それらが株価に影響した。それが日々の緊張感につながった。年金生活の身でありながら、現役の一員であるような生きがいを感じたのである。

と、いう事で、1ヶ月ほど前、また株を購入した。
購入した株は現在8%ほど下がっている。

株の購入資金に老後の生活費は使用しない事にしている。ましてや借金をするなどという事はあり得ない。株はあくまでも小遣いの範囲である。

「小遣いでボケ防止をする」それが、私の株式投資の目的なのかもしれない。

小遣いの範囲であれば、得をしても損をしても人生勉強になる。儲けて、日頃できない事をするのも勉強になるが、損をして辛抱するのも勉強になる。

と、いう事で今後も株式投資は続きそうである。

2015年12月16日水曜日

命がけ、集中して放った一打!9位入賞


 グランドゴルフは昭和57年、鳥取県で生まれたスポーツである。ゴルフよりも体力、プレー代を必要とせず、高齢者向けである。私もグランドゴルフを始めて7~8年になる。

 グランドゴルフのコースは1ラウンド50、30、25,15メートルのコースを2回づつ8回まわる。野球のボールくらいの球をゴルフクラブのパターのようなクラブで打ち、ホールポストに入れる。
3打で入れば、パープレー。従ってパープレーは24(3×8)となる。ホールインワン(1打)で入れれば、スコアから3打引かれる。ホールインワンの威力は大きい。

 試合はコースを4回廻るのでパープレーは96(24×4)となる。優勝するには60代か70代で廻らなければならない。その為にはホールインワンがでることが必須条件である。

 昨日(15日)私が所属する茨城牛久GGクラブの年末コンペがあり、40名が参加した。
私は運よく最初のプレーでホールインワンがでて、16。残り3プレーを20前後で回れば70代のスコアとなり入賞できると思った。コースは芝生である、芝生の状態がコースにより違う、傾斜しているコースもある。ホールポストの入射角度も違う。一打一打、それこそ命がけでプレーした。結果、16、21、21、20の78で回ることができ、9位に入賞した。
 終わって12時~市役所向かいの料亭で忘年会、昼なのにテーブルに宴会料理が並んだ。食事が一段落したところで、大カラオケ大会。みんな上手い。用事があった私は途中で退散した。

 難ホールといわれた7番でホールインワンできた感触は一日たった今でも忘れない。まさに命がけで、集中して放った一打だった。(と言って入るわけではない。やはりツキがないとダメ)

2015年12月14日月曜日

ジジィ、東京地下鉄ジャングル実感

(久しぶりの秋葉原は中国人で溢れていた)

月に一回は東京にでかける。
11日(木)の東京行きは、73歳のジジィとしてはハードなスケジュールを建てた。
  9:00 牛久発
 10:30 銀座/野原さん(80歳だが、現役)と昼食を兼ねた情報交換
 14:00 赤坂/デザイナーの目崎さんと情報交換(現役の頃、CDのデザインをお願いした。
 15:30 四つ谷/TDK・OB西宮さんと情報交換。(先月行われた、米国ジャーナリスト、佐藤さんのパーティなども聞きたい。
 17:00 秋葉原散策 
 18:00 浅草橋・TDK柳橋クラブ/オーディオ評論家・藤岡誠先生を囲む、オーディオ業界忘年会(出版、メーカー、評論家、19名参加)

 銀座までは通い馴れた道なのでどうという事はなかった。
 銀座から赤坂見附、四つ谷、秋葉原と地下鉄を利用した。
 なぜかといえば、地下鉄は都心に網の目のように張り巡らされており、各路線が繋がっているからである。
  (地下鉄を数多く利用するのは4~5年ぶりである)
 ところが驚いた、地下鉄は1階から6階まであるようで、距離的にも50メートルから300メートルと離れている。ジャングルなのである。

 以前、東北新幹線を利用し、上野で降りて、JRの改札にでるのに(何回もエレベーターに乗る、&歩く)苦労したが、地下鉄はそれの連続である。ジジィにはきつい。JRでも驚いた事があった。秋葉原から浅草橋に行くために、総武線に乗ろうとしたら、総武線がない。最近まで山手戦に隣接していた総武線が遠くに移動していたのである。
 
しかし、キツイからと言って、東京行き減らしたら、東京ジャングルはますますキツクなる。スケジュールには余裕を持たせ、ガンバらなくちゃ・・・。
        

2015年12月6日日曜日

60年ぶりの「餅つき」見学

 
「杵を振るう、杉森さん”市議”と、サポート役の村中さん”中央・割烹着姿”」
 
 5日、今年から理事をしている、牛久市刈谷町・ベテランズクラブ(老人会)の「餅つき」があった。刈谷町には4,500世帯があるが、「餅つき」に参加したメンバーは54名である。参加率1%強である。
 8時30分、指定された自治会館の空地に集合。空地には臼(うす)と杵(きね)が準備され、その隣で、もち米の入った釜が3段重なっている。既に釜の下では薪が赤々と燃えている。「3段とも一度に蒸されるんですか?」と先輩に聞くと「下から順番に蒸される。だがら下の釜が蒸したら、臼に移すという順番で上の釜まで蒸すんだよ」との事。私はバカな事を聞いたものだと思った。

 私は秋田の農家の次男、年末など、朝早くから別棟の作業小屋からドン、ドンという「餅つき」の音が聞こえたものである。ただ、「餅つき」は父と兄がやっていたので、私は杵に触った記憶もない。農家の次男である私は、学校(高校)を卒業したら東京へ集団就職するか、婿に出すものであり、父も真剣に農家の事を教えようという気持ちはなかったようだし、私自身、農家の仕事にほとんど興味がなかった。
 子供の頃の習性は今も引き継いでおり、5日も杵を持って、「餅つき」をするチャンスがあったのであるが、見学するだけに終わったものである。

 それにしても「餅つき」のベテランがよくも集合したものである。「薪燃やし」「もち米蒸し状態のチェック」「餅つき」「餅つきサポート」・・・。見学はしなかったが、餅が持ち込まれた自治会館では、女性陣が「餡子もち」「きな粉もち」の加工を行った。昼近くには、54名分の「餡子もち」と「きな粉もち」が見事に並び、「お疲れ様」の酒井会長の挨拶と同時に缶ビールの蓋が開いた。

 最近、定年後の自分の使命とはなにか?という事を自問自答する。それは「自分の生きてきたものを後世に伝える事」ではないかと思う。5日の「餅つき」もその一つである。いつまでも「餅つき」を継続して欲しい。
 

2015年11月30日月曜日

塩屋岬灯台に挑戦!

(灯台に登ったのは芝田さんと私の2人だけ。芝田さん撮影)
 
 27日~28日は私が住む牛久市刈谷町のベテランズクラブ(老人クラブ)の旅行だった。今年から私はこのクラブの理事である。雑事が多いのでお断りしたのだが、断りきれず、1期(2年)はやらざるを得ない。旅行に参加したメンバーは22名、行先はいわき湯本温泉郷、塩屋岬等である。
 9時バスが出発し、高速に入ると、早速ビールがでてくる。次いでお酒がでる。酒好きの私にはたまらない。また、旅館の同室者は酒井会長、伊澤副会長、芝田理事(民生委員)とご一緒。実に名誉なことではある。

 2日目、塩屋岬に向かう。ここでの見学時間は約50分、多くの参加者は灯台の下にある美空ひばりの「みだれ髪」の歌碑と遺影碑をみた後、お土産屋さんの見学をしてたが、私は2日酔いの身体にムチ打って灯台めがけて坂道を上がった。灯台は海面から73m、地上から24mの高さにある。年齢的に今回登らないと機会がなくなるのではないかという思いが脳裏をかすめたのだった。灯台の頂上で写真を撮りたいと思っていたら階段を上る音がした。芝田さんだった。芝田さんにお願いして写真をとっていただいた。
 塩屋岬灯台は美空ひばりの「みだれ髪」で有名だが、昭和32年、私が15歳の時に木下恵介監督によって映画化された「喜びも悲しみも幾歳月」の舞台でもある。灯台守夫婦を演じた佐田啓二と高峰秀子を忘れる事ができない。
 なお、塩屋岬付近は2011年の東日本大震災の被災地である。今も復興工事の真っ最中である。地震の影響で9ヶ月間、灯台の灯も消えたという。

 



 

2015年11月23日月曜日

米国・クリーブランドの思い出

(左より、'74・クリーブランド管弦団のプロ、ドリームⅩ、アメリカ大陸横断の旅、白上冴さんのCD)

 隣町、龍ヶ崎市に住む白上朝子さんとは時々、同地で開催される「ゲヴァント・ハウス」のCDコンサートで一緒になる。
 先日、白上さんから「アメリカ大陸横断40日間の旅」という本をお借りした。1973年クリーブランドに音楽留学するお嬢さんと、西海岸のサンフランシスコから東海岸のクリーブランド(米国・オハイオ州)に車を運転しての旅日記である。アメリカの広大さと、日々の食事、クリーブランドでの借家の手続きの煩雑さ等が克明に描写されている。
 私が保存している音楽プログラムを調べてみると、1974年、クリーブランド管弦楽団の来日プログラムがでてきた。(指揮マゼール)クリーブランド管弦楽団はアメリカの5大オーケストラの一つとして日本のクラシックファンには有名。私も聴きに行った。そのアンサンブルの見事さは今も耳に焼きついている。
 私が10年前に書いた自分史「ドリームⅩ」(文芸春秋・自費出版)を観ると、1976年にクリーブランドに行ったという記録がある。こんな一文がある。「五大湖沿岸の都市ではミシガン湖畔にあるシカゴが有名だが、エリー湖畔にあるクリーブランドは知名度が低い。それでも著名なオーディオ店があるというので、佐藤さんが案内してくれた」佐藤さんとは、前回(18日)のブログに登場したあの佐藤さんである。
 白上さんのお嬢さん、冴さんは見事、名門クリーブランド管弦楽団のヴァイオリンニストとして入団する。
 時々、帰国されては地元、茨城、八ヶ岳音楽堂でチャリティコンサートを開いている。
音楽は世界を、そして時空を結ぶ文化であるという事を実感する。

2015年11月18日水曜日

なぜヒラリー・クリントンを大統領にしないのか?

 
(写真、右から佐藤ご夫妻、小生)
 
 TDK時代からの古くからの友人である佐藤則男さんが、書いた「なぜヒラリー・クリントンを大統領にしないのか?」が明日(19日)発売になる。出版社は講談社である。(新書版、¥880)その出版をお祝いする会が昨日(17日)、永楽倶楽部(東京・永田町)で行われた。(この倶楽部は早稲田大学を創立した大隈重信が作った社交場で、今年100年目を迎える。)
 祝う会には佐藤さんの出身大学である早稲田大学、コロンビア大学(米国)の卒業生を中心に約50名が参加した。久しぶりに奥様にもお目にかかる。(奥様は長年、国連の職員としてご活躍され、今年外務大臣表彰を受賞)
「なぜヒラリー・クリントンを大統領にしないのか?」パーティでいただいた本をめくってみると、40年アメリカに在住した佐藤さんでないと書けない内容がギッシリ詰まっている。アメリカの大統領選挙って候補者のエゴのぶつかりあい、アメリカってどうも男社会のようである、日本が思っているほど、アメリカにとって日本は重要じゃないようだ・・・、などショッキングな内容が次から次へとでてくる。日頃、日本のテレビに出演しているジャーナリストから、こんな話は聞けない。
 1976年(昭和51年)、私は米国に出張した。その時、アテンドして下さったのが佐藤さんだった。佐藤さんはホテルに帰ってくると、夢を語り続けた。その夢の結晶の一つが今回の本だと思う。
 パーティ終了後、植村さん、岩澤さん、西宮さんと2次会。牛久行の終電が終わっていた。定年後初めてである。やあ、楽しかった!

2015年11月11日水曜日

98歳の母、獺祭(DASSAI)、etc・・・。

11月8日、叔母・綾子(82歳)の葬儀が行われた。幼少の頃、私を可愛がってくれた明るい叔母だった。叔母の嫁ぎ先である富樫家は私の実家・畠山家とは3キロしか離れていない。
 葬儀の前、実家に寄り、母と会う。母は98歳。兄嫁の話によると体調が悪いという。思い出してみると、私は意識して母の手を握った事がない。今回は是非母の手を握りたいと思った。母は、今年の6月父の17回忌で会った時より元気そうである。私は弟と母を囲んで写真を撮る。(左から、私、母、弟)そして手を握る。ゴツゴツして力強い。この手で5人の子供を育て、10人を超える大家族の食事を作り、田畑を耕し、戦争を乗り越えてきたのである。ありがとう!母さん。
 今回の秋田行きは往復の新幹線もホテルも弟と一緒だった。弟は神奈川県・山北在住。67歳。長年勤務した私立高校も来年には退職するという。ホテルの近くの寿司屋で一杯飲む。女将さん「獺祭(DASSAI)」ありますよ。「いただきます。兄貴ご馳走するよ」と弟。獺祭は安部首相が来日したオバマ大統領にプレゼントした銘酒である。
 畠山家は農家である。兄が心配していた。「TPPもいいけど、食の安全と環境は守らないといけない」と。これからの農家は高付加価値商品で戦わなければならない。「獺祭」はその象徴なのである。
 ところで、富樫家と畠山家の間の田んぼの真ん中にTDKが延べ面積1万5千坪の大工場を建設中である。人件費を考えたら中国の工場を拡張した方が良いのだが、TDKはここで、徹底した自動化を図り、高品質商品を作るという 農業も工業もこれからの日本は高付加価値で伸びるしかない。
*本荘アイリスホテル10階、スカイレストラン「天空」。360度の視界に驚嘆。子吉川、日本海、日住山等、わが故郷の美しさを再認識。


2015年11月6日金曜日

私の音楽鑑賞歴・70年

 
(私の青春時代の指揮界のスター、カラヤン。日本の音楽写真家・木之下晃氏撮影。木之下氏今年死去。小生、サントリーホールで行われた告別式に招待された。)

 メル友、高野 睦さんからのメールである。
「な、なんですか、いきなり!!!ものすごいパンチ、フック、ストレート、雨あられ、いやはや、負けた、負けた、負けました、ワタシマケマシタワ。一覧表が貴重ですね。何かと参考にさせて下さい」

 来春発行する地元の自分史「いしぶみ」の為に「私の音楽鑑賞歴」を書いた。70年の間、聴いた主な演奏会180をリストアップし、感想をまとめたものである。
 冒頭の高野さんのメールはこの原稿を見ての高野さんの驚き!である。しかし、これは高野さん自身が音楽ファンだから反応してくれたのであって、音楽に興味のない方には価値がない内容だと思う。

 ところで、70年の間に聴いたもので、記憶に残るものといえば1966年のカラヤン(1906~1989)・ベルリンフィルの来日。この時はチケットを買う為に日比谷公園で徹夜しました。「ウェストサイド物語」を作曲したバーンスタイン(1918~1990)の最後の来日公演ベートーヴェン交響曲第7番も凄かったな!(1990年)。しかし、なんといっても大変だったのは1967年の大阪へのバイロイト音楽祭引っ越し公演。チケット代だけで今の価格で一公演30万円だった。当時25歳。今思えば「独身貴族」だった。


2015年11月2日月曜日

自分史とは「紙碑」!FM放送で語る。

(左から下遠野さん、鈴木会長、畠山)
 
 8月に牛久市にFM放送局(85・4メガヘルツ)が誕生した。
私の現役時代の後輩である吉野 宏さんが、局のボランティアをやっている。そんな関係もあって、私が編集を担当している自分史「いしぶみ」を放送で紹介して下さるという。
「いしぶみの会」の鈴木敏正会長に相談したところ、出演して下さるという。鈴木会長、事務局の下遠野富士子さん、小生(畠山)の3人が出演する事になった。
 FM局は市役所に隣接した建物の2階にある。予想以上に立派である。FM局開局を決めた市役所の意気込みを感じる。
 放送が行われたのは10月20日(火曜日)1時~だった。
 キャスターの方から自分史を発行する目的や苦心談を聞かれた。
「目的」それは、「自分だけの人生」を「自分の言葉」で表し、「生きた証し=紙碑」として残す為である。現在はネット社会、コミュニケーションはネットで行われるが、後世に伝える為には、現在も「紙碑」に勝るものはない。3人の言葉に熱がこもった。
 放送が終了したのは1時45分。予定より放送が15分も長引いた。
 鈴木会長が創めた「いしぶみ」は年1回発行。昨年9号が発行され、現在、記念すべき10号の編集が進んでいる。バックナンバーは牛久中央図書館に常備されている。「いしぶみ」は牛久市を象徴する文化活動の一つである。
 

2015年10月28日水曜日

進む老化!ゴルフ124も叩く

(27日、若くてかわいいキャデーさんだった。)

久しぶりのゴルフだった。
それが3回も続いた。
19日 福島県・小名浜カントリー(本社スタッフOB)    
    54、58=112で3位
21日 栃木県・那須塩原カントリー(磁気テープ部門OB)
    64、60=124でブービーメーカー
27日 茨城県・宍戸ヒルズカントリー(高校時代の仲間)
    54、70=124でブービー

 19日は観光地のゴルフ場だったので、なんとか112で納まったが21日と27日はプロ選手権も行われるゴルフ場なので、コースが長く、グリーンも難しい。それにしても120を超えるとはひどい。もともとスポーツは苦手なのだが・・・ひどい!
 ボケの兆候も表れている。
19日はロッカーのキーを持っているのに同僚にキーはどこにあるの?と聞いた。
27日は1度であるが、クラブを振る前に脳の思考能力が無くなり呆然とした。

幸い、車の運転については問題がないが、明日の事はわからない。
それはそれとして、ゴルフも、飲み会も楽しかった。

2015年10月20日火曜日

ゴルフ集中。超多忙な11日間スタート

最近はゴルフといえばグランドゴルフ。シルバーセンターの掃除のバイト。外出しない時といえば、パソコンに向かってのブログ書きと、年金生活に相応しい日々。ところが、その反動がでて、18日~28日はゴルフコンペが集中。超多忙である。
 
 18日 会社OB「和会」のコンペで小名浜(福島)に向かう
 19日 小名浜でゴルフ。5ケ月ぶりのゴルフ。やはりグランドゴルフとは違う。全身、全精力を打ち込んでクラブを振る。54、58で3位入賞。
 20日 FM牛久に出演。自分史の効用語る。「記憶一代、記録末代」で占める。
 21日 5時起床。会社OB「CSG」のコンペで那須へ。
 22日 昼、近く帰宅。間に合えばベテランズクラブ役員会へ。
 23日 午前、シルバーセンター掃除のバイト。夜、元・社長も出席される宴会参加。
 24日~26日 自分史「いしぶみ」10号、原稿執筆。
 27日 笠間・宍戸ヒルズカントリー。高校同窓会「鷹農35会」コンペ。後、宴会。 28日 帰宅。

 18日は晴天だった。7時、自宅出発。石岡で成田敬吾君に合う。その後、国営ひたち海浜公園に寄る。コスモスの花が美しい。(写真・下)帰り、大駐車場で車を探すのに一苦労。小名浜オーシャンホテルに着いた時は日がトップリ暮れていた。19日の朝、4階の部屋から外を見て驚愕。海とゴルフ場が織りなす景色の見事な事・・・。(写真・上)
 

2015年10月15日木曜日

自分史「いしぶみ」地方文化への貢献



 (牛久・FM放送のスタッフの皆さんと「いしぶみ」)

牛久市は茨城県南にある都市で人口8万6千人。
この牛久市に今年8月FM放送局が誕生した。
周波数は85・4メガヘルツである。
この放送で行政情報を流す他、市内で活躍する方々ゲストに呼んで紹介するのが目的である。勿論、災害発生時には緊急放送を流し、市民の安全を守る。

このFM放送局から私宛てに出演依頼が舞い込んだ。
私が編集を担当している自分史「いしぶみ」について取材したいという。①自分史とはなにか②編集の苦労と喜び③市民へのメッセージ等である。

今日、私達の活動の拠点である牛久市刈谷ベテランズクラブの例会があったので、酒井会長、他皆さまのご許可をいただき、「いしぶみの会」の鈴木会長と小生(畠山)女性会員の下遠野さんの3人が出演する事が決まった。

放送は10月20日(火曜日)13時~30分である。
自分史「いしぶみ」の発行は地方文化活動である。
「千里の道も一歩から」日本の文化の向上は、地方の文化活動の積み重ねだと思う。
放送では、その事を是非申し上げたい。

2015年9月23日水曜日

女流歌人の味わい深いエッセー集「口ずさむとき」

         (写真、左から伊藤君、簾内君、畠山)

「日本ペンクラブ」という文壇組織がある。初代会長は島崎藤村。現・会長は浅田次郎である。会員である女流歌人、伊藤幸子さんから本が送られてきた。本のタイトルは「口ずさむとき」(出版社・コールサック社)。439頁。ズシリと重い。伊藤さんが平成19年から郷里の「盛岡タイムス」に連載した416のエッセーが収められている。筆者が感銘した短歌416作品を取り上げ、作品についての思いが語られる。そこに筆者の人生観、世界観が滲みでる。その見識の深さに圧倒される。小生は「人間浴」というブログを書いているが、素人が書くものと、プロが書くものとの違いに唖然としてしまう。

 実は、伊藤幸子さんは小生の高校時代の友人の奥様である。
 私は昭和35年、秋田県立鷹巣農林高校(現在・秋田北陽高校)林業科を卒業した。林業専攻なのに文科系の3人グループができた。グループ名をシロツメクサと言った。新聞部長の伊藤博、弁論部長の簾内隆一、文芸部長の小生、畠山である。
 伊藤君は林業関係の会社に就職。幸子さんと結婚した。新婚時代の新居を訪れた。新居は福島県・浪江だった。ここで山林の管理を任されていた。山小屋風の新居での2人の笑い声と笑顔は脳裏に焼き付いている。

 伊藤幸子さんは平成7年、自作の歌集「桜桃花」を出版されている。次の3作品は私の胸に突きささった。
「明けやらぬあしたにわが曳くリヤカーは重く軋みぬ死せる父乗せて」「機械油の匂い残れる夫の指みごもりしこと告げし夜に著(しる)く」「水底のごとき寂けさ誰もゐぬ生家の闇に覚めつつをれば」ご主人の伊藤博君は平成10年、57歳の若さで帰らぬ人となった。幸子さんの歌で伊藤君を偲ぶこの頃である。


 
 

2015年9月20日日曜日

オーディオ界のドン、藤岡先生に乾杯!


 私がTDKでカセットテープ開発の担当になったのは40年前の事である。
開発中のカセットテープが出来あがると、開発技術者と一緒にオーディオ評論家のご自宅にうかがい、試聴していただきご指導を仰いだ。

 当時、カセットテープ関連のオーディオ評論家というと、長岡鉄男、菅野沖彦、若林駿介が業界をリードされていた。当時、若手評論家の一人として登場されたのが、藤岡誠先生である。まだ、大学を卒業されたばかりだった。
 藤岡先生のお住まいは代々木上原の高級住宅街。秋田の農家出身の自分は足がすくむ思いだった。ただ、先生はいつもフランクに幅広い観点から指導して下さった。藤岡先生にはTDKのカセット工場である長野の千曲川工場、ビデオの専門工場だった大分の三隈川工場にもお出でいただきご指導していただいた。
 私が商品企画時代、TDKが世界一のテープメーカーになり、世界陸上等のイベントができるようになったのも藤岡先生はじめ諸先生のお蔭である。

 私は13年前、TDKを定年退職し、TDKもテープ事業から撤退したが、私と藤岡先生とお付き合いはまだ続いている。
 9月18日、先生が主催されている「千代田会」にお招きいただいた。先生は茶目っけタップリに私との写真に収まった。

 現在、オーディオ機器はゼネラル化し、マニア向けのオーディオ業界は波乱の時代を迎えている。その中にあって、藤岡先生は業界のドンとしてオーディオ文化を追及し続けている。それはお酒の文化と共通するところがあるのかも知れない。藤岡先生はそんな幅広い発想ができるオーディオ文化人である。


2015年9月12日土曜日

感動!映画「日本の一いちばん長い日」


 今年は戦後70年、映画界、テレビ界、出版界、そろって記念ドラマが展開されている。
おそらく、その中で映画「日本のいちばん長い日」は日本人であれば必見の映画だと思う。
 (10日、有楽町の丸の内ピカデリーで観た。)
 物語は日本が終戦を宣言した1945年(昭和20年)8月15日のドラマである。
当時、私は3才。この時の天皇陛下の英断があって、今の日本がそして自分の幸せがあるという事を痛切に感じた。
 日本が天皇制で本当に良かった。死んだ父が「国体」という事を口癖のように言っていた。
(ここでいう「国体」は国民体育大会のことではない。天皇制を軸とした日本国のことである。)
 軍部の一部には一億総玉砕!一億火の玉になって米軍と戦おうという考えもあったが、天皇は国民の生命を第一に考え終戦を決意し、あの玉音放送となった。
 映画「日本のいちばん長い日」は当時の模様が劇的に描かれていた。昭和天皇を演じる本木雅弘もいい、阿南陸軍大佐を演じる役所広司は名演である。
 特撮等の演出もいい。広島への原爆の劇場内を揺るがす大音響には思わず立ち上がりそうになった。それでも日本は勝てると軍部の一部は勇み立つ・・・。  
 日本の天皇制を称して「日本は神の国」と偉い方が言って辞職に追い込まれた。
気持ちはわかるが、それぞれの国がそれぞれの歴史を持ち、それぞれの国民はそれを誇りに思っている。戦争をしない為ににはそれぞれの国の歴史と誇りを尊重する事だと思った。
(「永遠の〇」も観たがこれも良かった。この映画のデジタル特撮による空中戦は凄かった。)


2015年9月7日月曜日

目黒雅叙園&東京伊勢堂会

(雅叙園のレストラン。奥に日本庭園があり、滝が流れる)

 神奈川県の山北で教師をやっている弟から時々、「ここは観ておいた方が良いよ。」というメールがくる。6月にきたメールで薦められたのが白金台にある「畠山記念館」だった。その模様は6月16日のブログ”人間浴”「祖先、故郷に対する思い」に書いた。記念館はともかく、ここが東京かと思えるような、古木が生い茂る鬱蒼たる森に感動した。

 6日(日)、もう一つ弟に言われた目黒の「雅叙園」行った。「雅叙園」はポピュラーであり、現役時代行った記憶があるだけになにも行ってみなくとも、と思った。しかし、73才になった今、それらを観ると全く違ったものに見えてくる。「雅叙園」に行くには目黒駅を降りて急坂を下る。この急坂を活用して「雅叙園」は滝を作り、日本庭園を造っていたのである。苑内に入って、美しい庭園、レストラン等に驚く。まさに「昭和の竜宮殿」である。こんなところも是非外国人に見せたい、いや見せたくない・・・と心の葛藤が起きる。

 6日の上京のメインは12時~ライオン銀座クラシックホールで開催された高校時代の同窓会(東京伊勢堂会)への出席である。私は昭和35年、秋田県立鷹巣農林高校を卒業した。同窓生にも構想の大きいのがいる。秋田の実業高校が東京のど真ん中で同窓会をやろうというのである。この同窓会、今年で40回を迎える。
 今年は昭和26年の卒業から昭和44年の卒業まで45名の卒業生が参加した。
 私の同級生、阿部秀夫君も秋田からわざわざかけつけた。
 「翠緑萬古 伊勢堂の杜 幽禽四時 友呼ぶ処」母校の校歌が高らかにライオンクラシックホールに鳴り響いた。幹事の岩崎準志郎君、本橋秀美君、斉藤拓治君、お疲れ様でした。



2015年8月30日日曜日

一市民の息づかいも保存される国立国会図書館

(国立国会図書館の蔵書になっていた、私の3冊の本)

自分も73才。
できれば、その存在価値を確認し、遺したいと思う年頃である。幸い、6人の孫に恵まれたし、お墓も作った。それ以上、何を望もうというのか?
 それは自分の生き様である。
 今はネット社会という便利な時代。「ブログ」という手段がある。現に今もこうやって綴っているのである。しかし、「ブログ」は誰が見てくれるのかわからない。また電子記録なので、いつ消去するかも分からない。
 「ブログ」を書き始めてやっと見えてきた。生き様は他人に披露する為のものではない。「自分自身の記憶を残すためのものであり、ボケ防止の為のものである」と。もしかして息子や孫が見てくれたら儲けものである。
 定年後、自分が書いた(編集した)本のもそうである。自分自身の自己満足の為に書いたものである。そう思った方がスッキリする。
 
 先週、東京に出かけたついでに国立国会図書館に行った。
 読売新聞で私の生まれた秋田の故郷を書いた「水の瀬きよき」という本があると知った。しかし、書店で見当たらないないので、図書館に行ったのである。残念ながら本はあるが、閲覧する準備ができてない、という。
 折角なので、検索欄に自分の名前「畠山俊三」を入力した。3冊の本のリストがでてきた。なんと栄誉なことだろう。自己満足の為に書いた本が国立国会図書館にあるとは・・・。
 テレビドラマや映画を観ていて、作者はどうしてこんな些細なことまで書けるのだろう?と思う。今月観て感動した映画「永遠の0」でもそうっいった事を感じた。
 そのヒントが国立国会図書館にあった。
 私のような一市民が書いたものまで保存されている国立国会図書館。ここで調べれば、歴史書では語られない一市民の息遣いも知る事ができるのである。
 

2015年8月18日火曜日

黒澤君は前橋の名士だった!お通夜で知る・・・。

(葬儀場玄関の看板と温容な遺影)
 
16日(日)「黒柳徹子のハートフルコンサート」の翌17日(月)、友人・黒澤君のお通夜だった。

 17日、午後前橋市に向う。
黒澤君は高校時代の同級生。学校卒業後、前橋に婿養子になったと聞いている。(ただ苗字は黒澤のままだった。)東京近郊で開かれる新年会やゴルフコンペにはほとんど参加していた。

 黒澤君は眉毛が濃く、大きな目玉。いつも笑顔を絶やさなかった。しかもいつも控え目。一言でいえばわれわれ同級生のアイドルだった。
 彼と最期に会ったのは今年の5月。茨城ザ・ロイヤルカントリーで行われた同級生のコンペだった。ただ、この日は彼はプレーはせず、夜の宴会に加わっただけだった。前橋からゴルフ場までは150キロ。体調が悪い中を宴会に参加するだけに、運転してきたかと思うと胸が詰まる。
 奥様の話しによると、ゴルフ場から帰った後、急激に体調を崩し、数度手術をしたが、治らず13日に帰らぬ人になってしまったという。

 お通夜は午後6時から。私が葬儀場に着いたのは5時30分。葬儀場の玄関に「故黒澤和夫儀、葬儀祭告別式式場」という大きな立て看板があるのを見てビックリ。このような立て看板がでるのは町の名士だけである。式場を飾った花輪は50近い。同級生の前では控え目だった黒澤君、地元前橋では子供達に空手を教えるなど名士だったのである。彼は愛する奥様、お子様、お孫さんに囲まれて幸せだったに違いない。その温容な遺影がその全てを物語っていた。それにしても74才は早い。もう10年は頑張って欲しかった。
           
(会場には50近い花輪が手向けられていた)

2015年8月16日日曜日

終戦記念日、黒柳徹子ハートフルコンサート

6月21日、父の日のプレゼントとして息子からもらったコンサートが昨日あった。
コンサートのタイトルは東京フィルの「ハートフルコンサート」。指揮は桂冠指揮者・尾高忠明、お話しが黒柳徹子。家内と出かけた。会場は東京・池袋の芸術劇場。
 このコンサート、終戦の日に思いを寄せるもので、今年で26年目を迎えるという。ユニセフ親善大使でもある黒柳徹子さんがゲスト出演。曲の合間にユニセフについて語り、尾高さんと、貴重なトークを語った。

 なにしろ、徹子さんの父上はヴァイオリニストでNHK交響楽団のコンサートマスターだった。尾高さんの父上は指揮者であり、NHK交響楽団の指揮もしていた。父上同志は同業者だったのだ。尾高さんの父上が「田園」の予定なのに「運命」だと思って指揮しそうなので、徹子さんの父上が小声で「田園」「田園」と囁いたのに「運命」のテーマが振り下ろされた、というエピソードも披露。

 徹子さんはユニセフ大使として海外の恵まれない子供達の実情を切々と語った。改めて、この場に集まって音楽を聴いている自分達を幸せだと思う。日本に生まれて良かった。

 生の音楽を聴いたのは一年ぶりだろうか・・・。生のオケで聴く名曲は素晴らしい。合唱も入った佐藤眞のカンタータ「土地の歌」より”大地讃頌”は特に身に沁みた。
 
 コンサートが終了したのは8時30分、人垣をかき分けて池袋駅へ。JR、私鉄が入乱れ、切符を買って、改札に進むのも一苦労。常磐線では珍しく家内がグリーン車に乗ろうという。ゆったりと座席に座り、孫達の話しをしながら家路についた。

2015年8月12日水曜日

ダダダダーン!「運命」。孫への継承・・・。

(ダダダダーンを聴いた、4才の孫)

11日(火)お盆休みということで、息子の子供3人が佐倉からやってきた。
小5、小3、4才の男の子である。
4才の男の子にベートーベン作曲、交響曲第5番「運命」の冒頭部分を聴かせた。
「ダダダダーン!」いきなり響いた大音響に孫は驚き、スピーカーの方に目をやった。
その瞳は輝いていた。
孫は「ダダダダーン」を聴いたのは初めてだと思う。聴いた事があるとしても30センチのウーハーを備えたスピーカの大音響で聴いたのは初めてだと思う。
その後の孫の行動が意外だった。「ダダダダーン」と大声で叫びながら飛び跳ねたのである。
今朝(12日)も、「ジィ、あれ聴かせて」ときた。
ひょっとすると、ジィのようにクラシックファンになるかもしれない。という予感がした。

それにしても、ベートーヴェンとは大したものだと、改めて感じた。
「運命」が初演されたのは1808年、初演された場所はドイツである。
200年以上経た現在、日本人の4才の子供がこの曲を聴いて、口ずさみ、踊るのである。
ダダダダーンは運命の扉を叩く主題であるが、第2楽章、第3楽章と続き、第4楽章は歓喜の調べとなって幕を閉じる。約40分。緻密に作られた音楽ドラマである。

4才の孫が現在の私と同じ年になった68年後、孫はダダダダ―ンを聴いた、この日を記憶しているだろうか・・・。


2015年8月5日水曜日

グランドゴルフで銅メダル。本番で奇跡の69


 2015、6、5のブログに「グランドゴルフで69。生涯あり得ない好スコア」という記事を書いた。
これは週1回~2回ほどやっている練習ラウンドででたスコアである。通常は80代。良くて70代の後半なので、驚いて、ブログに書いたのだった。

8月3日(月)、私が所属している「茨城・牛久グランドクラブ」の大会が開催された。私はこの大会初参加である。
会場に着くと、事務局のテーブルには賞品や参加賞がところ狭しと並んでいる。メダルも3個並んでいる。「畠山さん、3位まで入るとメダルもらえますよ」と先輩が笑顔で説明してくれた。
小学校の頃から運動が苦手な私はゴルフもグランドゴルフもいつも下位。もらえるとすればブビー賞。というわけで、先輩の説明は他人事である。

競技が始る。
ホールめがけて、真っ直ぐクラブを振る。ただそれだけに集中した。
グランドゴルフのコースは50m、30m、25m、15mと4種類の長さがあるがどれもパー3。つまり3打で入れるのが基本。私は好調で半分は2打で入る。そして30mに差しかかる。おもいっきるボールを打つ。「やった!おめでとう」同僚が叫ぶ。一打で入ったのである。前半さらに15mでもホールインワンがでる。「畠山さん優勝だな」と同僚。
後半でも15mでホールインワン。50mでも一打目のボールがホールポストに当たるという打球があった。練習ラウンドの時は50m飛ばすのがやっとなのに、今回は50m全てでゴールポスト近くまで飛んだ。
競技が終了してスコアを数えると69。6月5日のブログに書いた「生涯有り得ない好スコア」が本番で出たのである。

人生70年、スポーツ競技でメダルを頂いたのは初めてである。

2015年8月4日火曜日

NHKクラシック音楽番組の守護神

(後方左端、辻本さん。右方向へ市川さん、古屋さん、小生。前列、中川さん。講演会終了後の親睦会で)

1日(土)、龍ヶ崎市(我が牛久市の隣)のクラシック音楽愛好家で組織する”ゲヴァントハウス”の例会に、NHKのクラシック音楽プロデューサー、辻本廉さんをお迎えした。
 辻本さんとご縁ができたのは2005年である。
私はこの時、TOKYO FM 出版が企画した「伝説のクラシックライヴ」(収録現場からみた20世紀の名演奏家)のコーデネータをしていた。この本の中核となった「ステレオ放送80年の歩み」の執筆を辻本さんにお願いしたのだった。

 1日の講演のタイトルは「FM 長時間番組の放送技術の移り変わり~バイロイト音楽祭の放送を中心に~」である。
 FM 放送の前段で、AM 放送の話があり、1957年日比谷公会堂におけるカラヤン指揮ベルリンフィル来日公演の放送をエアチェックした音が再生された。曲目はベートーヴェンの交響曲「英雄」。AM第2放送で放送されたモノラル録音だが、この音が素晴らしかった。当時のAM放送は局数も少なく、局間の周波数が離れており、音声帯域も広かったという。
 講演の最後には”バイロイト音楽祭”楽劇「ワルキューレ~魔の炎の音楽」のアナログ録音とデジタル録音の比較が行われた。デジタル録音は2008年、バイエルン放送協会収録で指揮がティーレマン。アナログ録音は1955年デッカ録音で指揮がカイルベルト。聴いた会員の評価はどちらかといえば1955年のデッカ録音の方が良いという声が多かった。私にもそう聴こえた。音場空間の広がりという点では2008年録音が勝っていたが、1955年録音の方が歌手とオーケストラの音を力強く捉えており、音楽の本質をとらえていると感じた。
 この違いは録音プロデューサー、ミキサーの違いによるものだと思う。新しいものであれば、デジタル録音であれば、音がいいとは限らない。それに携わる技術者の力がものを言う。

 辻本さんは1944年広島生まれ。1969年、NHK入局。1973年から2001年の定年まで音響関係の仕事をされた。定年後も音楽プロデューサーとして活躍され、後進の指導にも当たっている。現在、FM番組を中心に「オペラ・ファンタスティカ」「ベストオブクラシック」「名演奏家ライブラリー」「N響ザ・レジェンド」「世界の快適音楽セレクション」などの番組を担当。NHKクラシック音楽番組の守護神である。

2015年7月29日水曜日

スタバで家内の誕生祝い


(ホスピタリティ満点のスタバの店員さん。同社ホーム頁より)
 
 家内は7月生まれである。今年、彼女は70才となる。誕生祝いなど、大げさにやった事はない。
「食事にでも行こうか」
「連れて行ってくれるの。でも気を遣うようなところは嫌よ」
いつもの彼女の返事である。
 二人とも秋田の農家の生まれ。高級な店は性に合わないのである。

 昼、近くのファミリーレストランに行った。1,500円の和食ランチメニューを頼んだ。これがひどかった。寿司、刺身、天ぷらと並んでいるが寿司の小さい事、ネタの薄い事・・・。ウニは真っ黒である。「これ古いわね。昨日残ったものだよ、きっと」私は恐るおそる食べたが家内は食べなかった。

 なんとなく割り切れない気持ちで店を出た。
帰り道、信号待ちをしていると、「スターバックス」(スタバ)の看板が目に入った。「コーヒーでも飲んで行かない」「いいわよ」。いつもは真っ直ぐ家に帰ろうという家内が珍しく同意した。幸い4人がけのテーブルが空いていた。そこに二人でかけた。
 客の多くは若者、ほとんどが、パソコンの席に座って、黙々とキーを叩いている。それだけに静かである。
 コヒーの注文の仕方も、ケーキの注文の仕方も良くわからない我々に対して、店員さんは特別扱いでサービスして下さった。70才過ぎの老夫婦は優雅にコーヒーを楽しんだ。

 ところで、スタバは1971年アメリカのシアトルで誕生した。今や全世界60ヶ国にチェーン店があるという。日本に出店したのは1996年。今年、47都道府県の最後に鳥取店ができて話題になった。



2015年7月23日木曜日

銀座を闊歩して50年

(50年間、私は銀座を闊歩した。これからも・・・)

 21日(火曜日)、TDKパソコンクラブの例会があって東京へ出かけた。パソコンクラブの例会はいつも14時~である。午前は銀座で現役の頃、お世話になった野原さんと昼食をとることにしている。
 野原さんは広告代理店の局長だった。TDKがFM東京で提供していた「TDKオリジナルコンサート」(クラシック生収録番組)を担当されていた。小生が定年になってから、この番組の音源をCD化しようという企画が持ち上がり、キングインターナショナル、FM東京の二社の協力により実現した。音源の中にはカラヤン、ベームなど巨匠達の演奏が含まれている。
 野原さんは現在80才であるが、まだ現役。お目にかかると50年も前の思い出話に華が咲く。あの頃から二人は銀座を闊歩していた。その頃の銀座の主役は夜だった。ネオンとクラブのママ達が眩しかった。
 銀座といえば、なんといっても四丁目交差点。和光、三越、三愛、日産ビルが取り囲む、この交差点は、日本の頂点であるとともに世界の頂点である。22日は数週間にわたって降り続いた雨も上がり日本晴れ。シャッターを切った。その後、木村屋の前を通り、山野楽器へ。銀座に行くと、必ず山野楽器に寄る。この2階にクラシック音楽のCDがズラリと並んでいる。「TDKオリジナルコンサート」のCDもまだ並んでいた。ただ、最近はこのCDから”TDK”という文字が消えつつあるような気がする。それはTDK本体が電子部品専業になった事と、野原さんと私が高齢になった事が影響しているように思う。時代は変わりつつある。

 午後3時から浅草橋にある「TDK柳橋クラブ」でパソコンクラブ。今回のテーマの一つが「ブログ」。私にも発言の機会が与えられた。”人間浴”について話をした。「健忘症、ボケ防止の為に続けている。」つまり、自分の為にやっている。子供や孫が年をとったら読んでくれるかも、という期待はある。自分もこの年になって親を思うようになった。文章はできるだけ短く。写真を入れる。





2015年7月19日日曜日

傷痍軍人、おめかけさん、関釜連絡船


 私は牛久市で自分史「いしぶみ」(年一回発行)の編集のお手伝いをしている。そんな関係もあって、近隣の利根町で発刊している自分史「利根川のほとりで」を読む機会に恵まれた。
 「利根川のほとりで」を読んで、随所で衝撃を受けた。

 まず、菊池雪子さんの書かれた「傷痍軍人とサツマイモ」である。傷痍軍人とは”戦争で受けた傷やけがをした軍人”とある。その軍人さんが、母娘三人家族の雪子さんのお宅をたずねる。泥の着いたサツマイモをもって玄関に現れ、「蒸かして欲しい」と懇願する。雪子さんは「おめかけさん」という大人達の言葉を度々耳にするが、子供だった雪子さんには意味が分からない。「在日朝鮮人」が近くに住んでおり、”子供は近づくな”と言われたという。 中村 允さんの書かれた「私の諸国漫遊記」。なんとこの中に「関釜連絡船」がでてくる。中村さんのお父さんの赴任地は朝鮮で、中村さんはお母さんと一緒に「関釜連絡船」を何度か利用したという。「関釜連絡船」とは下関と朝鮮の釜山を結ぶ連絡船だという。
 読み進んでいくと、戦時中の日本と朝鮮(韓国)との関係が生ナマしく迫ってくる。自分が子供の頃、子供ながらに朝鮮人を差別していたような記憶が蘇り、心が痛む・・・。
 日韓関係についてはテレビを介して、いろいろと報道されているが、手作りの地方の自分史で語られる一般国民の声は胸を突き刺すのである。

 間もなく安倍総理が戦後70年に当たって談話を発表するという。
日本国民のみならず、中国の国民、韓国の国民の胸にも響くような談話を発表して欲しい。

2015年7月9日木曜日

"関東武士の鑑"畠山重忠に迫る!

(左から清水先生、小生、内野さん、曽根さん)

 6月、熊谷市の県立図書館主催で「”関東武士の鑑”畠山重忠に迫る!」という講演会があるという知らせを同市に住む曽根悦夫さんからいただいた。曽根さんは同市に住む内野森一さんのお知り合い。内野さんは現役の頃「世界のカセットTDK」を目指した戦友である。曽根さんは内野さんから、畠山重忠が祖先だと称する知り合い(小生)がいるということを聞いていたのである。
 7月4日、昼の電車で熊谷へ。内野さんの車で県立図書館に向う。曽根さんと図書館でお目にかかる。曽根さんとは初対面だった。

 講演のテーマは「畠山重能・重忠と源平の内乱」。講師は清水亮先生(埼玉大学教育学部準教授)。清水先生は2時から2時間、畠山家に関する研究成果を明快な口調で語られた。「畠山氏は、武蔵国に軍事的テリトリーを持ち、京都と東国を往来する大規模武士団を形成していた。源頼朝は畠山家などの有力武士を臣従させることによって武蔵国を支配した」と語る。関係資料によると、重忠が愛馬を背負って急坂を降りたという「鵯(ひよどり)越え」のエピソードは架空の話とのこと。重忠の怪力と優しさを後世に伝えるための創作とある。

 講演が終わって、曽根さん、内野さんと駅ビルの居酒屋へ。曽根さんは農業をやっておられる熊谷の名士。全国を旅しておられ、なんと秋田の小生の母校、鷹巣農林にも行かれたことがあるという。内野さんは昭和44年早稲田大学卒業。稲門会埼玉県役員、熊谷地区の幹事をやられているというから恐れいる。小生、重忠が祖先ということでなんとか体面を保つ。

2015年6月30日火曜日

父の17回忌&故郷トピックス

(26日、山形・銀山温泉。妹夫妻と)

 27日(土)「父親(畠山家31代目)の17回忌」と先祖「報恩100回忌」の法要があり、故郷・秋田に行った。

 26日(金)山形・銀山温泉「銀山荘」に一泊。妹夫婦も一緒だった。一夫婦10万円近くと高額だったが、十分その価値があった。義弟は笠間で神社を経営している。今年、数千万かけて社務所のリフォームをするという。

 27日、実家(由利本荘市)に行く前に昼、家内の実家(横手市・坂部)に寄った。義兄(83才)がこんな話をした。「先月、アメリカ在住の弟(80才、農学博士/元・アリゾナ大学教授)が帰国した。親父は弟の異例の出世を喜び、なにか世界的な賞を授賞したら、地元に記念館を作ってやる。と弟に語っていたんだそうだ。そういえば、長男の俺に対する金は厳しかった。それは弟の記念館を建てるためだったんだ。」義父が亡くなって7年。義兄は今にして義父の夢を知ったのである。

 13時、本荘の実家に兄弟姉妹5人が集う。家は大きいが別棟などだいぶ朽ちている。子供頃、この別棟で母と父に挟まれて寝た。兄は母屋で祖父母と一緒だった。天地が裂けるような雷は怖かった。母にしがみついた。父が飲み過ぎて洗面器に嘔吐するのを何回か目撃した。

 14時、大蔵寺で法要が厳かに行われた。兄は大蔵寺の総代だという。地域の組合長も勤めている。祖父、父、兄と村のリーダーの役目を果たしている。

 16時、安楽温泉でお開き。今年10月98才になる母が大正琴を披露。
 (安楽温泉に行く途中、実家から3キロのところに、TDK・本荘工場がある。数百億かけた増設工事である。建設クレーンが林立していた。高校時代、就職先に困っていた私を、父はTDKの工場長に頭を下げて、入社させた。親父、本当にありがとう。)
 二次会は兄の長男、治君の主催。私と弟、弟の長男が参加。「大松寿し」に集う。治君(東京農大出身。地元農協の幹部)は今や地元の名士。これからの畠山家も安泰である。

 28日(日)、家内と妹を乗せて、一路茨城へ。いつまで(何才)車で往復できるかな?できれば親父が逝った86才まで元気でいたい。
(大正琴を演奏する98才の母)

2015年6月25日木曜日

突然の雷雨、押しよせる濁流


23日(火)の夕方である。

20キロほど離れている取手市の先輩にメールを打っていた。
遠くの方(取手方面)で雷が鳴りだした。
「雷雨がきそうですね!」という文言でメールを閉じ、階下に降りた。
4時30分頃である。

1階でCDを聴き始めた。
隣町、龍ケ崎市のご出身でアメリカのクリーブランド管の女性ヴァイオリン奏者がいる。その方のCDが手に入ったので聴きだした。バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ・・・。しかし、それどころではない。今まで体験した事がないような、雷雨である。稲妻と同時に雷がなり、雨が屋根を叩きつける。生きた心地がしない激しさである。遂に停電。
戸締りに家内が走りまわる・・・。「お父さん、水が溢れてるわよ!」
2階に上がって隣家の方を見ると、道路を濁流が滝のように流れている。
私が住んでいるのは、牛久市でも高台の刈谷団地である。
その団地を滝のように濁流が流れるなど、想像しなかった。
1980年から、この団地に住んでいるが、このような経験は初めてである。

最近の天気は実に不安定。
この歳になって天変地異の怖さを改めて実感しました。



2015年6月23日火曜日

娘45才、息子43才、父の日プレゼント・・・。


21日(日)は、いわゆる父の日だった。
今年も娘と息子からプレゼントが届いた。
息子からは、洋酒オールドパーと黒柳徹子がゲスト出演するコンサートチケット。(17日到着)「お母さんと一緒に行って欲しい」という手紙がついていた。娘からはゴールドのゴルフマーカーとネーム入りのタグである。(22日到着)ネーム入りのタグを早速愛用のバックにつけた。


息子と娘にはそれぞれ3人の子供がいる。学齢期である。
娘は主婦業のかたわら、仕事をしている。
毎日日曜日の私とは大違いなのである。恐縮、恐縮・・・。

誰が「父の日」などはじめたのか、迷惑な話である。
だが、効用もあるようである。

プレゼントを貰って、改めて子供の年令を確認した。
今年、息子は43才、娘は45才になる。早いものである。
(孫達の成長ぶりも確認して驚く)
これだけでも「父の日」の効用十分である。

でも、プレゼントはいいよ!葉書やメールで「祝いのメッセージ」をいただけば十分!
私だけでなく、どこの親もそうだと思う。元気に暮らしていてくれれば十分なのである。

どれ、今夜は現役時代、銀座(交際費)で味わった「オールドパー」をチビリチビリやってみよう。

2015年6月21日日曜日

最高の親孝行。Sさんがまとめた母の自分史。


 現役時代、日本記録メディア工業会でお世話になった、日本ビクターOBのSさん(昭和23年生まれ)が、お母様が書かれた自分史「幸せは笑顔から」を出版された。拝読して感動した。
 本の中にこんな一文がある。「年をとると、今まで出来た事が出来なくなってくるから、お金で物を買って頂くより、出来なくなったことをやってもらうことがどれ程うれしいことか。例えば車に乗せてもらうこと、お使いにいってもらうこと、お話し相手になってもらうことなどは本当に有難いこと。あなた達もその年になると、よくわかるから・・・」
 Sさんはお母さんの米寿のお祝いとして、お母さんが書きのこしてきた自分史を編集し、本として出版した。お母さんの88年の人生を見事に再現したのだ。これに勝る親孝行はない。
 
 お母さんは大正15年、豊橋市に生まれた。昭和20年、19才の時、豊橋は空襲に遭う。米軍の機銃掃射の時は機が低空飛行で迫り、アメリカ兵士の顔が見えダメだと思ったという。昭和22年結婚。一男二女に恵まれるが、ご主人が病気がちで苦労が重なる。これを助けたのが子供達だった。 私は昭和17年生まれでSさんと6才違うが、自分の人生とダブって時々目頭が熱くなった。と同時に子供の有難さというのを再認識した。
 しかし、世の中、結婚されない方、結婚をされても子供のいらっしゃらない方、様々である。そのような方々はどのような人生を送っているのだろうか?そのような方々の自分史も読んでみたいと思った。

 私は今年73才、地元の自分史「刈谷いしぶみの会」のお手伝いをしている。お金は残せないが、自分の歩んできた人生の軌跡は残せる。読んでいただけるかどうかわからないが、人生の軌跡を残すのが生きがいになってきている。そのような観点から見ると「ブログ」の存在は誠に有難い。

 

2015年6月17日水曜日

創業80年、売上1兆、株価1万円

(1942年、TDK・秋田・平沢工場の朝礼風景。私はこの年に生まれ、18才の時に、この工場に入社した。その時は事務所が鉄筋三階建になっていた) 
  私が勤務していた会社はTDKという電子部品メーカーである。
昨日、OBで組織する社友会の暑気払いが都内のホテル(品川・JAL CITY)で開かれた。120名が参加した。
 TDKは1935年(昭和10年)に創業した。今年は創業80年目に当たる。この節目の年、売上は1兆円に達した。株価は1万円を前後している。従業員は全世界で88,000名。目出度い。
 私は昭和35年、秋田にある工場に入社したが3年目に本社へ転勤。主な職場が広報関係だったので、創業者の斎藤憲三、2代目、山﨑貞一・・・とトップの方々の近くで仕事をさせていただいた。高卒であり、幹部にはなれなかったが、恵まれていた。
宴席でYSさんと一緒になった。「やあ、寮長、久しぶり!」そういえば、私は独身時代、独身寮の寮長をやっていた。私が寮長でYSさんが副寮長だった。YSさんは技術者でありながら経営についても鋭い観察をしていた。
「TDK、好業績だが、電子部品メーカーにはもっと成績の良い会社もあるし、業績がTDKに及ばないが、立派な仕事をしている会社もある」。YSさんはそういうと、TDKの裏面史を語り始めた。裏面史は今後のTDK幹部にも是非知っていただきたい。ただ、裏面史は社史などの公式文書に掲載するわけにいかないので、語り継いでいくしかない。
 YSさんの裏面史を聞いて「これからの経営幹部の方には、目の前の業績も大事だが、創業当時の経営者が持っていたロマン、ビジョンを忘れないで欲しい」と感じた。
 ところで、最近のTDKはなんで利益を出しているの?スマホ、ハードディスク・・・の部品?その部品の名前は?技術者OBの話を聞いてもチンプンカンプン。今のTDKだったら務まらなかったなあ・・・。

2015年6月12日金曜日

祖先(畠山家)、故郷(鮎瀬)に対する思い


 兄が20年前にまとめた「鮎瀬畠山家累代事歴」によると、初代は畠山重忠、兄洋三は32代目。今年は重忠が生まれてから810年目となる。
 
 山北(神奈川県)にいる弟幸三から、「機会があったら畠山記念館にいくべきだ」と言われていた。9日、畠山記念館(港区白金台)を訪れた。(写真、左)最寄駅は高輪台(都営・浅草線)。地名を聞くだけで東京の住宅一等地である。「畠山記念館」展示の品は茶道具。国宝や重要文化財が展示されているが、茶道具には全く興味がない。驚いたのは記念館を取り巻く、庭である。都心とは思えない、深遠さである。昼なお暗い。そして、さらに驚いたのは隣接する白亜の建物。一見外国大使館のようだが、後で調べてみたら、「テラス白金」。その昔、「般若苑」という料亭で能舞台も付属していた。三島由紀夫、小説「宴のあと」の舞台にもなったという。
 「畠山記念館」を作ったのは能登国主畠山家の後裔、畠山一清。一清(1881-1971)は東京帝国大学卒業後、荏原製作所を創設した事業家。隣接する「般若苑」を居宅にしていた。一清は近代畠山家の著名人である。

 畠山家の初代、重忠もその長男重保も敵の刃に倒れるが、重保の妻、信子が秋田県羽川海岸に漂着。重忠が助けた秋田の勇将由利氏を頼ったいう。信子がフトコロにかくまっていた重光が、現在の畠山家がある鮎瀬で農業をはじめた。

 弟幸三は山北の鈴木家の養子になるが、故郷は忘れがたく、平成20年、新築した家に「鮎瀬亭」(写真・右)と命名する。

 今月27日、秋田で31代目一男(私の父)の17回忌が行われる。母チヨミは98才。矍鑠としている。畠山家の歴史は続く・・・。
 

2015年6月5日金曜日

グランドゴルフで「69」。生涯有り得ない好スコア

 
(クラブとボール、白いボールは一般のゴルフボール。旗の下の丸い輪に入れる)

5月29日(金)グランドゴルフの練習試合で「69」という信じられない好スコアがでた。(やること、なすこと総てうまくいった。こんな事ってあるんだ!)グランドゴルフの場合、公式な大会でも70台の前半で優勝できる場合が多い。60台というスコアは稀なのだ。ということでブログに書き残す事にした。
 ところで、グランドゴルフってどんなスポーツなの。日本グランドゴルフ協会のホーム頁をみると、このスポーツは昭和57年に鳥取県で生涯スポーツ活動の一環として考案されたという。
 コースは50、30、25、15メートルが2ホールづつある。つまり、8ホールあり、全てパー3。(3打で入れる。)競技は4ラウンド行うので、4x8で32ホールとなる。パープレーは32x3=96となる。
 クラブは一本。ボールはゴルフボールより大きい。このボールを3打で旗の下に入れる。(写真)
パープレー96のところ、69で入れるというのは凄いのだ。(私の当日のプレーでは一打で入るホールインワンが3回あった。)
 グランドゴルフは一般のゴルフのようにプレー代が高くないのもいい。私が所属している牛久グランドゴルフクラブは会費が3ヶ月で1,200円。これで週3回、コースで練習できる。プレーの前の草むしり、年2回ほどの飲み会も楽しい。私はシルバーセンターで掃除のバイトも楽しんでいるので、グランドゴルフの練習は週一回がいいところ。それでも「69」という信じられなスコアがでるからグランドゴルフは楽しい。一般のゴルフはこんなことはありえない。飛距離からして私はうまい人の半分しか飛ばない。

 (当日のスコア。丸で囲んだ数字が4ラウンドの合計)


2015年5月26日火曜日

ビジネスクラスで海外旅行。リッチな友人

 
(天皇陛下お手植えの松がある、ロイヤルオーシャンゴルフ場)
 
 21日(木)、5月に入って3回目のゴルフコンペがあった。場所はロイヤルオーシャンゴルフ場(茨城県・鉾田市)。このゴルフ場はクラブハウス、ゴルフコースとも私の体験したゴルフ場でNO,1である。今回、新たにクラブハウスの前に天皇陛下が皇太子時代に植えらた松があるのを発見。係りの方に聞いたら、コースにも2ヶ所、植えられたという。

 集まったのは秋田の高校時代の友人7名。(前橋からかけつけた黒澤君は歩行困難で夜の宴会のみ参加)。ゴルフ場からの帰り、秋田で養豚場を経営する阿部君を僕の車で土浦駅まで送った。道中聞いた阿部君の悠々自適の老後の生活に驚いた。年に2回は海外旅行へ奥様と出かけると言う。座席はビジネスクラス。私も現役の頃は社用族としてビジネスクラスだったが、定年後はエコノミーである。ビジネスクラスの場合、飛行機代だけで100万はかかる。
 阿部夫妻の楽しみは旅行の他にゴルフ。ゴルフは奥様の方が上手で秋田県でもトップクラスとか。そういえば奥様と一度ゴルフをしたことがある。手帳をめくってみたら、2002年5月18日。場所は秋田の大館カントリークラブ。スコアを見ると、阿部君96、奥様89、簾内79、畠山109とある。
 いずれにしろ、同級生にリッチな友人がいるのは嬉しい。旅行にゴルフにお金を消費し、日本の経済の活性化に貢献して欲しい。ところで、養豚てそんなに儲かるの?阿部君によると、安全と味が勝負だという。日本の養豚は海外とは歴然だという。

 24日(日)、H先輩のお誘いで、K先輩と一緒に病気療養中のSさんのお宅(東京・練馬)にお邪魔した。Hさん、Sさん、小生は6年前、会社創業者のお一人だったT氏の本を出版した間柄である。また、Kさん、Sさん、小生は秋田の出身という関係。 Sさんは昭和6年生まれ。83才。1昨年脳梗塞に罹った。驚いたのは車椅子に座ったままであるが、Sさんの活き活きしたお顔だった。この陰には奥様の献身的な介護があると思った。見舞客を受け入れるというのは主婦としては大変なことである。恐らく、ご主人を喜ばせたい一心でわれわれを受け入れたのだと思う。Sさんの一日も早いご回復を祈るのみである。

 

2015年5月20日水曜日

マーケティング(商売)の本質


 先月、業界OB有志の集まりの時、元・日立マクセル・理事の工野正樹さんから一冊の本をいただいた。室井鉄衛/マーケティングの本質ーその源流と展開/自然塾編著/クリエー出版である。
 室井さんは工野さんのマーケティングの先生であり、工野さん自身この本に寄稿されている。

 マーケティング、いわゆる商売(経営)の本質とはなにか?これは私個人としても自問自答してきた課題である。それは、最近の企業の目的があまりにも利益に偏重しているのではないかという疑問である。企業の利益率を上げる為に、不採算部門のみか収益率の悪い部門を閉鎖したり売却する例が後を絶たない。利益率の高い企業が優良企業と言われ、株価も高い。しかし、企業の価値はそんなに単純なものではないはずである。
 室井さんは語る「企業の存在は、計数的には利益の表示によって表現されるが、その利益によって生まれる根源は、企業の存在と、その行動が市場からの容認と、顧客が得た期待と満足の評価の代償として与えられた結果なのである。企業の存在とは、社会において万人が認める行動として認められる結果であり、そこには自ら万人が感じ、理解し、容認する行動があるからである。人が信頼して生きる姿である。人間の行動としての経営、そこには自ら行為の倫理性が求められ、考えられ、実行されるものである。マーケティングという行為にも当然倫理性は求められるものである。倫理性とは人間の教養なのである」
 決算数字を良くする為に粉飾決算等が後を絶たない昨今、株価に企業の倫理性まで織り込まれたら、と思ったしだいである。

 室井さんは第1線を退いた後、2011年(平成23年)郷里、宇都宮で91才の生涯を終える。最晩年、宇都宮で書かれた、東京一極集中の弊害は「品格のある日本の国土と日本人の生活」を愛した室井さんならではの説得力がある。

2015年5月17日日曜日

50年前・独身寮時代の仲間と旅行(新潟)

(左から柏倉さん、小生、栗林さん)

 毎年、独身寮時代の仲間とゴルフをやっている。寮は千葉県市川市本八幡にあった。市川駅から徒歩10分。その頃はまだ田圃があった。50名くらいの寮生が入っていた。部屋の広さは3畳ほど。そこに机とテレビ(モノクロ)を置くと、布団を敷くところがない。秋田からの出張者はそんな狭いところにテレビを見にきた。寮生への手紙は食堂の一角にまとめておかれていた。プライバシーなど問題にされていなかった。「おい、彼女から手紙が来ているじゃないか」そんな会話が日常だった。
 秋田出身の柏倉さん(人事・中央大学出身)、静岡出身の栗林さん(人事・中央大学)、長野出身の平田さん(技術・電通大、後NCR)が仲間である。年長(79才)の柏倉さんが「教養クラブ」という名前を付けた。今年はこのメンバーに秋田で人事部門にいた今野さんが加わった。今野さんは一時本社勤務となり、八幡寮の一員となった。

 場所は今野さんの事を考えて、東京と秋田の中間を選んだ。新潟県阿賀野市咲花温泉。阿賀野川に面したこじんまりとした温泉。翌日は近くの阿賀野高原ゴルフ場で一戦を交える。
 5月12日、10時過ぎ、牛久駅で柏倉、平田、栗林の3名を愛車に乗せて出発。午後4時には花咲温泉・湯元館に到着。今野さんも到着していた。案内された三階から臨む阿賀野川のなんと素晴らしい事か!山間とは思えない、幅広の川面が眼前に浮かぶ。「フォー」と歓声を上げる。(写真・下)風呂もひなびて風情があり、料理も美味しかった。なによりも木造のこじんまりした作りが良い。女将も中居さんも新潟美人だった。
 13日のゴルフは、予報にあった台風の影響も無く、晴れ。阿賀野高原ゴルフ、クラブハウスは立派、コースままずまず。しかし、コース間の移動は急峻。カートの運転を任された小生、汗だくだった。73才にはキツイ。3時過ぎにはなんとか無事終了。牛久から阿賀野市までは往復700キロ。その上、カートの運転も引き受ける。キツかったが、それだけに記憶に残る旅行になった。

2015年5月10日日曜日

最期のマイカー

(リニューアルした愛車”エアトレック”息子から譲りうけた)
 
 私が車に乗りはじめたのは1973年(昭和48年)31才の時だった。
この年、西荻窪から牛久に引っ越し。長女に続いて長男も生まれた。車は必需品だった。
(運動神経が鈍く、車にも興味がなかった私の車はほとんどが、義弟からゆずり受けた中古車だった。)
 それから22年、2001年息子も大きくなり就職。宇都宮勤務。ここで息子は新車を購入した。ステーションワゴン車、三菱エアトレックである。次の年、息子がそのエアトレックを買って欲しいという。車種には執着心がない小生、エアトレックを買い取ることにした。
 定年を迎えた時、定年後は”軽”が一番経済的だよと助言してくれる人もいたが、たまに友人とゴルフに行く。”軽”だとクラブを積む事ができない。
 あれから13年エアトレックに乗り続けている。

 運転が下手な小生、エアトレックはボロボロである。前も後もバンパーに傷がついている。ただし、走行距離を見ると97,000キロしか走っていない。
 熟慮の上、このエアトレックを最期のマイカーとして乗り続けることにした。4月30万円かけてリニューアル。これからは傷をつけないように大事に乗ろう。息子から譲り受けた大切な車である。


2015年5月5日火曜日

老人を拒否する街(汐留)

冷たい、汐留の高層ビル街
 
 先月(4月28日)、工業会OB会有志の飲み会があった。工業会とは「日本記録メディア工業会」のことである。
 カセットテープ、ビデオテープ、CD-R、DVD-R、フロッピーディスクの生産メーカーの集まりである。ソニー、富士写真、日立マクセル、TDK、パナソニック、ビクター等が加入していた。小生は会社勤務の傍ら、工業会で広報、業務委員をやっていた。

 飲み会の場所は東京の汐留だという。JR新橋駅から数分だという。開始は5時。現役時代、日本橋勤務だったし、工業会は虎の門だったので、日本橋から東京、銀座、新橋は守備範囲である。ただ、海側については当時は未開の地だった。そんな事もあり、余裕を持ってでかけた。

 余裕を持ってでかけたが、エライ目に会った。汐留は巨大なビル街だった。パナソニック、日本テレビ、電通などの巨大企業が巨大な高層ビルに入居している。ビルを一回りするだけでも200メートル近く歩かなければならない。その中で飲みやを捜すのは大変。ここは老人のくるところではない。高層ビルの地下二階の飲み屋の座席に着いた時はヤレヤレだった。

 東京も変わったが、自分も年をとったものだ。
 飲み会に集まった各社の面々、さすがにみんな年をとった。いつもは二次会ということで銀座に繰り出したものだが、8時、汐留で打ち止め。助かった・・・。

2015年5月2日土曜日

春たけなわ、ゴルフコンペ3回。頑張るぞ!

(右から坂本さん、小生、坂本さんの奥さん)
 
 最近はゴルフといえばグランドゴルフである。ただ、昨日(1日)、お断りできないコンペがあり、今年2回目のゴルフをした。(1回目は3月21日、出版社の社長と)。3年前亡くなられた上司の追悼コンペである。12名(3組)が霞台カントリークラブに集合した。天気は晴天。私の組は現役時代、営業を率いた岡田光雄さんと、私の部下だった坂本幸弘さん、奥様の彰子さん。坂本さんも今年の秋には定年を迎えるという。
 ところで、坂本さんの結婚式は1985年12月7日、場所は下関だった。奇しくも、岡田さんと私は坂本さんの結婚式に参加していた。幹事はこのことを知っていて4人を組合せたのだろうか?この年の私の日記を見ると、欧米出張2回。ワシントン、パリにも行っている。つくばで科学万博開催と大変な年だった。長男は筑波のマラソン大会、小学生の部で2位。長女は中学生で関西に修学旅行をしている。あのバーンスタインがイスラエルフィルを率いて来日。そのマーラーの名演も聴いた。人生絶頂期の頃だった。

 昨日のゴルフだが、岡田さんが102で7位、坂本さんが100で9位、奥様が105で5位、私が110でブービー賞(尻から2番目)。久し振りのゴルフなので、自分のボールがどのクラブでどれくらい飛ぶのか全く見当がつかない。前半のアプローチはほとんどがグリーンオーバーで57、後半は飛距離が把握できてきたので53だった。今月は13日、独身寮時代の仲間とコンペ(新潟・阿賀高原ゴルフ)、21日は高校時代の同級生とのコンペ(ザ・ロイヤルオーシャン)と続く。月に3回のコンペは久しぶりである。100近くまでスコアを縮めたいものである。



2015年4月28日火曜日

女性市議4割。わが町・牛久


 26日行われた市議選。私の住む牛久市の場合、選挙前7名だった女性議員が9名となった。
22名の定数に対して、立候補者27名。この内、現職の女性7名、新人の女性2名。その全員が当選したのである。結果女性議員の占める比率が40%となった。これは珍しいことであり、今日の読売新聞茨城版でも大きく報道された。
 内閣府男女共同参画局によると、2013年12月現在、女性の割合が3割以上占めている市区議会は3,9%にとどまっており、担当者は「女性の割合が4割を超える市議会は全国でも珍しい」と語ったという。(同新聞)

 私は国政は外交、政治、経済が中心なので、保守系(民主党政権には期待したのだが、あの混乱ぶりには政治に素人の小生でさえ呆れた)。地方区は生活に密着しているので革新系に投票する傾向が強い。今回は革新系の男性候補に投じたが、生活に密着した地方区を考えると、女性の進出は大歓迎である。

 世界情勢を見ると、主要国の文化レベルが上がってきており、局地的なトラブルはあっても、第1次、第2次大戦のような戦争は考えにくい。今後、日本にとって、大切な事は人口減少をいかに止めるかだと思う。その為には女性の政界進出が大事である。まずは地方区からそに実績を積み上げ、国政に反映していって欲しい。わが町うしくがその先兵にあるのは誇らしい。

(追報)今日のNHKの朝の報道番組で、牛久のインターネット番組「ちゃんみよTV」が紹介されていた。

2015年4月25日土曜日

音楽写真家 木之下晃 お別れの会


 カラヤン、バーンスタイン、小澤征爾等、世界の音楽界の巨匠達の写真を撮り続けて来た木之下晃(2006年、紺綬褒章)が今年の1月12日逝った。死因は虚血性心不全。享年78歳だった。
 
 小澤征爾、田沼武能(日本写真家協会長、文化功労者)等が発起人になり、「木之下晃 お別れの会」が昨日(24日)サントリーホールで行なわれた。光栄にも小生も案内をいただいた。お嬢様が木之下氏の年賀状を整理したら、小生の賀状があったので案内したとのことだった。何年ぶりかにネクタイをし、革靴を履いてでかけた。
 会場には著名な音楽家、評論家、写真家が詰めかけていた。日本を代表するピアニスト小山実稚恵がピアノ演奏を献呈した。真近(前から3列目)で聴くピアノの名演奏に圧倒された。木之下はいつも演奏家と対峙して"弓矢を放つようにシャッターを切った”と語っている。特に指揮者の場合、音がでる前に指揮棒を振り下ろす。音楽を理解し、指揮者と一体にならなければならない。木之下の写真から音楽が聴こえる由縁である。(写真、左が小澤征爾、右はカラヤン)

 私の勤務していたTDKと木之下さんとの出会いは1978年、37年前である。カセットテープの広告に使用する写真撮影を木之下さんにおい願した。私は商品企画だったが、コピーライターの内野森一とデザイン担当の和泉賢二が木之下さんのウィーン取材旅行を担当した。当時のTDKは広告宣伝費が豊富だった。泊まるホテルは一流、ドイツ語の通訳つきだった。当時博報堂を退職し、フリーカメラマンとして苦労していた木之下さんは好環境のもとで伸びのびと仕事をされたと内野と和泉は語る。
 TDKは「FMファン」「週刊FM」「FMレコパル」の3誌に木之下さんが撮影したヨーロッパのオペラ劇場、モーツアルト、ベートーヴェン博物館等の写真を使用した広告(カラー見開き)を連載。TDKカセットテープはハイ・イメージ戦略が効を奏しトップブランドになる。TDKが今日あるのも木之下さんのお蔭である。