2014年5月28日水曜日

社友会30周年。日本企業の原点

(TDK社友会30年史の表紙。秋田工場からのぞむ鳥海山が美しい)

私がサラリーマンになった昭和30年代は「家族経営」という言葉があった。
会社は一つの家庭であり、従業員は家族。当然ながら修身雇用が常識だった。

私の勤務した会社、東京電気化学工業(TDK)は、秋田県の代議士・斎藤憲三が疲弊する農民を助けるために昭和10年に起こした会社である。私は秋田の実業高校をでて、TDK・秋田工場に昭和35年入社した。当時、秋田には「家族会」というのもあった。

昭和59年(1984年)、TDKに退職者(OB)で組織する社友会が誕生した。
それから30年、20名でスタートした会員は現在1,532名。
社友会の主な事業は新年会と総会と旅行。社友会には東京本部、秋田本部、千葉、千曲川、甲府等の支部があり、それぞれの組織にパソコン、ゴルフ等の同好会がある。地域における奉仕活動も行っている。

活動資金は会員の年会費が基本になっているが、今まで会社、役員から3億円以上の資金提供があったというから凄い。

TDKも今や国際企業であり、家族主義の風潮は薄れてきている。
30年史を見ながら、これからの日本企業&OBはどうあるべきか考えてみたい。
来年はTDK本体が創立80年を迎える。

(小生の寄稿も掲載された)

2014年5月22日木曜日

おもてなしに感動!柴塚ゴルフ、長瀞カントリー

 
(写真・上、柴塚ゴルフ倶楽部の宿泊施設)

 ゴルフの回数がメッキリ減った。一番大きいのは一昨年、取手市在住の川上先輩が亡くなられたことである。それまでは川上先輩の御伴もあり、月1~2回、ゴルフを楽しんだ。
 最近は春と秋のシーズンに3回前後コンペに参加する程度。ゴルフの会員券も処分した。

 5月はシーズンとあって3回ゴルフを楽しんだ。5日、筑波東急(既報)、15日、栃木・柴塚ゴルフ倶楽部、21日、長瀞カントリークラブといった具合である。
 15日のゴルフ、高校時代の同級生のコンペ。8名が参加した。実業高校だけにメンバーの現況を見ると、自営業が多い。養豚、果樹栽培、建設関係といった具合。今回塗装業で頑張ってきた黒澤君が初参加した。(夜の宴会には山形からレストラン経営で活躍中の村上君が参加)
 柴塚ゴルフ倶楽部はプレーはキャディ付。ゴルフコースも良かったがリゾート風の立派な付属宿泊施設と本格的な料理には驚いた。(幹事・宇都宮在住、佐藤宣男君)
 21日はTDK時代、カセットテープビジネスで苦労を共にした仲間のコンペ。(川上先輩が仕事でもコンペでも親分だった。川上先輩亡き後、浜田さん、佐藤廣吉さんが後を引き継いでいる)21日は朝から雨。5時30分、吉野さんが運転する車で秩父・長瀞に向かう。13名の仲間が集う。80才、浜田リーダーの「やろう」という気合で雨中のコンペ開始。
 ゴルフ場は100mの打ち下ろしもあるトリッキーなコース。前半はなんと63の大叩き。後半は53だった。100を切る目標は秋のシーズンに持越し。
 夜の宴会は、長瀞峡に建つ大正4年創業の「長生館」。ここの風景と従業員の”おもてなし”が心に響いた。
(「長生館」から長瀞峡を臨む)

2014年5月18日日曜日

「致知」。日本のリーダー達のリアルな提言


日頃、ご指導いただいている先輩Kさんから”人間学を学ぶ月刊誌”「致知」4月号が送られてきた。その赤裸々な提言に圧倒された。

●三浦雄一郎(冒険家)→人間は年をとるほどできない理由を述べます。しかし、最後の最後まで諦めなければいくつになっても夢は叶うことを改めて教わりました。
●五木寛之(作家)→アサガオは朝の光で咲くのではありません。冷たい空気と夜の闇が開花をもたらす。私たちは悲しむこと、涙を流すこともまた大切なのです。
●中條高徳(アサヒビール名誉顧問)→筆者の家は父の発声「いただきます」で食事が始った。ごはんを一粒でも残すと「神様が目を潰す」とおばあさんが孫にもっともらしく説いた。
●伊與田覺(99才、論語普及会学監)→終戦前の20年2月に先生(安岡正篤)からいただいた極秘の手紙には強く心を打たれた。そこには「この戦いに日本は必ず敗れる」とあったのです。「しかし、これは軍と官が敗れるのであって、国民が敗れるわけではない」
●江崎玲於奈(ノーベル物理学章)→人間の分別力は20才でゼロですが、70才で百になります。創造力は20才をピークとして段々衰えてきます。この分別力と創造力が拮抗するのが45才くらいです。
●飯守泰次郎(今秋より新国立劇場オペラ芸術監督)→(小澤征爾を育てた斎藤秀雄から)自分の意志を楽員にどうやって伝えるかという技術を教わりました。「ここは愛の場面ですからもっと愛を感じて」といった抽象的な表現ではなくて「ここは長く、ここは短く」あるいは「ここは強く、ここは弱く」といったように徹頭徹尾、具体的な指示を出すべきだと教わりました。
●桂 歌丸(落語芸術家協会会長)→今輔師匠から言われた言葉なんですが、「褒める人間は敵と思え。教えてくれる人、注意してくれる人は味方と思え」と。
●渡部昇一(上智大学名誉教授)→都知事選。小泉純一郎氏が細川氏を担ぎ出し、脱原発を声高に叫びました。原子力に頼らないなら、その分のエネルギーをどこからどのように確保するのか。それを明確に示すべきなのに触れずじまいでした。脱原発の理想一本槍では無責任もいいところです。詭弁、虚言と言われても仕方ありません。都民は冷静でした。

「致知」読者の集いである”木鶏クラブ”が茨城県に2つある。水戸とわが町牛久である。牛久の代表世話人は加瀬征夫さんとある。たいしたものである。

2014年5月12日月曜日

愛妻の事を書きたいという友


一度しかお目にかかっていない方を友というのも可笑しいが、山中さんを身近に感じている。

数日前、地元情報紙「常陽リビング」に小生が編集のお手伝いしている「いしぶみ8号」読者プレゼントの記事が掲載された。土浦市在住の山中さんから電話をいただいた。「いしぶみ8号」をお送りしたところ、「お目にかかりたい」という。

昨日、土浦の歯科に行くことにしていたので、その前に山中さん宅にお邪魔した。山中さんのお宅は土浦といってもかすみがうら市に近い。霞ヶ浦に面した農村地帯である。ご自宅も広々とした宅地に大きな瓦屋根の邸宅。(写真・上)秋田の実家を思いだした。

山中さんは昭和18年生まれ。(小生昭和17年)奥様が3年前(平成22年9月)に亡くなられたという。奥様が書かれたという絵のコピーをいただいた。(写真・下)素晴らしい。愛妻の思い出を書きたいと思い、文集を探しており、「いしぶみ」の記事が目にとまったという。離れに91才のお母様がおられ、その看病をされているという。お父様の手書きの遺稿もあり、手にとったところ、ズシリと思い。

 山中さんには是非「いしぶみの会」に入会していただき、奥様との貴重な思い出を書き残していただきたい。
 山中さん宅からの帰り、霞ヶ浦を見ながら、昭和32年に公開された今井正監督の「米」を思いだした。次回、山中さんにお目にかかった時に、この事もうかがってみたい。

2014年5月6日火曜日

優雅な一日

(レストランからアウト9番ホール、グリーンを臨む)

5日(月)朝7時15分。家の前にプリウスが停車する。
Yさんが迎えにに来てくれた。
ゴルフバックを積んで20キロ先の「筑波東急カントリークラブ」に向う。
Yさんの運転は実に丁寧。60キロ以上のスピードは出さない。ハイヤーに乗っているような質感がある。 ゴルフ場に着くと着替えをして、レストランでコーヒーをいただく、窓外に広がる新緑が美しい。(先月行った「くろがねカントリー」は野性的なコースだったが、筑波東急は洗練された良さがある。)

この日のゴルフは出版社社長Wさんの招待。
Wさんにお世話になったのは現役の頃だが、定年後10年以上経った今でも声を掛けて下さる。Wさんは筑波東急の理事も兼務されている。昼食の時間を2時間ほどとった。メニューに掲載されていない、常陸牛をご馳走になった。こんなに美味しい肉を食べてのは初めてだ。口の中に入るととろけた。地元牛久ワインとの相性も抜群である。

Wさんは今月古希を迎えるという。一緒に回らせていただいた秘書役のIさんは65才、送迎して下さったYさんは61才。
 スコアはWさん、Yさんが87、Iさんが106、小生は103だった。(小生後半久しぶりに50を切り、49)ひょっとすると今年、何年かぶりに100を切るかもしれない。
 そのヒントは最近町内の方々と楽しんでいるグランドゴルフにある。左手のグリップを握る時、ヘッドの方向正しいかどか確認、シッカリ握って振りぬく。
 帰りはお土産に茨城産の新米5キロいただく。なんとも優雅な一日だった。

2014年5月2日金曜日

’65制作「飢餓海峡」の衝撃

伴演じる弓阪刑事(左)と三国演じる殺人犯・犬飼

連休である。毎日が日曜日の私でも連休はホッとする。
先日、BS放送から録画しておいた1965年制作の映画「飢餓海峡」を観た。
テレビドラマ化もされ、過去に観た記憶があるが、今回の映画には圧倒された。

原作は水上勉。監督が内田吐夢。三国連太郎、左幸子、伴淳三郎、藤田進、高倉健、加藤嘉といった名優が登場する。殺人鬼・三国が良い。その男に惚れる左幸子がなんとも哀れ。左演じる杉戸八重は三国を忘れる事ができず下北の大湊から東京へ。彼の爪をお守りのように持って。三国を追う函館の刑事を伴淳が好演。
 
 三国演じる犬飼が殺人を犯す遠因は彼の育った貧しさにあった。原作の水上勉も幼少から壮年まで貧しかったという。作者の飢餓体験が「飢餓海峡」という傑作を生んだようだ。 モノクロの画面が映画に奥行を与える。「飢餓海峡」にカラーは不要である。

物語は昭和22年からの設定。私は昭和17年生れだから、私の人生とも重なる。蒸気機関車、女性の服装は和服。(私の少年時代もそうだった)。道路は未舗装、土埃。上野駅だけは今の駅舎と同じだが、入口に靴磨きが並ぶ・・・。

放送されたのは183分のノーカット版だった。
当時を描いた映画といえば今井監督の「米」や、松本清張の「砂の器」などがあるが、それらを凌駕する圧倒的な感銘を受けた。