2015年6月30日火曜日

父の17回忌&故郷トピックス

(26日、山形・銀山温泉。妹夫妻と)

 27日(土)「父親(畠山家31代目)の17回忌」と先祖「報恩100回忌」の法要があり、故郷・秋田に行った。

 26日(金)山形・銀山温泉「銀山荘」に一泊。妹夫婦も一緒だった。一夫婦10万円近くと高額だったが、十分その価値があった。義弟は笠間で神社を経営している。今年、数千万かけて社務所のリフォームをするという。

 27日、実家(由利本荘市)に行く前に昼、家内の実家(横手市・坂部)に寄った。義兄(83才)がこんな話をした。「先月、アメリカ在住の弟(80才、農学博士/元・アリゾナ大学教授)が帰国した。親父は弟の異例の出世を喜び、なにか世界的な賞を授賞したら、地元に記念館を作ってやる。と弟に語っていたんだそうだ。そういえば、長男の俺に対する金は厳しかった。それは弟の記念館を建てるためだったんだ。」義父が亡くなって7年。義兄は今にして義父の夢を知ったのである。

 13時、本荘の実家に兄弟姉妹5人が集う。家は大きいが別棟などだいぶ朽ちている。子供頃、この別棟で母と父に挟まれて寝た。兄は母屋で祖父母と一緒だった。天地が裂けるような雷は怖かった。母にしがみついた。父が飲み過ぎて洗面器に嘔吐するのを何回か目撃した。

 14時、大蔵寺で法要が厳かに行われた。兄は大蔵寺の総代だという。地域の組合長も勤めている。祖父、父、兄と村のリーダーの役目を果たしている。

 16時、安楽温泉でお開き。今年10月98才になる母が大正琴を披露。
 (安楽温泉に行く途中、実家から3キロのところに、TDK・本荘工場がある。数百億かけた増設工事である。建設クレーンが林立していた。高校時代、就職先に困っていた私を、父はTDKの工場長に頭を下げて、入社させた。親父、本当にありがとう。)
 二次会は兄の長男、治君の主催。私と弟、弟の長男が参加。「大松寿し」に集う。治君(東京農大出身。地元農協の幹部)は今や地元の名士。これからの畠山家も安泰である。

 28日(日)、家内と妹を乗せて、一路茨城へ。いつまで(何才)車で往復できるかな?できれば親父が逝った86才まで元気でいたい。
(大正琴を演奏する98才の母)

2015年6月25日木曜日

突然の雷雨、押しよせる濁流


23日(火)の夕方である。

20キロほど離れている取手市の先輩にメールを打っていた。
遠くの方(取手方面)で雷が鳴りだした。
「雷雨がきそうですね!」という文言でメールを閉じ、階下に降りた。
4時30分頃である。

1階でCDを聴き始めた。
隣町、龍ケ崎市のご出身でアメリカのクリーブランド管の女性ヴァイオリン奏者がいる。その方のCDが手に入ったので聴きだした。バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ・・・。しかし、それどころではない。今まで体験した事がないような、雷雨である。稲妻と同時に雷がなり、雨が屋根を叩きつける。生きた心地がしない激しさである。遂に停電。
戸締りに家内が走りまわる・・・。「お父さん、水が溢れてるわよ!」
2階に上がって隣家の方を見ると、道路を濁流が滝のように流れている。
私が住んでいるのは、牛久市でも高台の刈谷団地である。
その団地を滝のように濁流が流れるなど、想像しなかった。
1980年から、この団地に住んでいるが、このような経験は初めてである。

最近の天気は実に不安定。
この歳になって天変地異の怖さを改めて実感しました。



2015年6月23日火曜日

娘45才、息子43才、父の日プレゼント・・・。


21日(日)は、いわゆる父の日だった。
今年も娘と息子からプレゼントが届いた。
息子からは、洋酒オールドパーと黒柳徹子がゲスト出演するコンサートチケット。(17日到着)「お母さんと一緒に行って欲しい」という手紙がついていた。娘からはゴールドのゴルフマーカーとネーム入りのタグである。(22日到着)ネーム入りのタグを早速愛用のバックにつけた。


息子と娘にはそれぞれ3人の子供がいる。学齢期である。
娘は主婦業のかたわら、仕事をしている。
毎日日曜日の私とは大違いなのである。恐縮、恐縮・・・。

誰が「父の日」などはじめたのか、迷惑な話である。
だが、効用もあるようである。

プレゼントを貰って、改めて子供の年令を確認した。
今年、息子は43才、娘は45才になる。早いものである。
(孫達の成長ぶりも確認して驚く)
これだけでも「父の日」の効用十分である。

でも、プレゼントはいいよ!葉書やメールで「祝いのメッセージ」をいただけば十分!
私だけでなく、どこの親もそうだと思う。元気に暮らしていてくれれば十分なのである。

どれ、今夜は現役時代、銀座(交際費)で味わった「オールドパー」をチビリチビリやってみよう。

2015年6月21日日曜日

最高の親孝行。Sさんがまとめた母の自分史。


 現役時代、日本記録メディア工業会でお世話になった、日本ビクターOBのSさん(昭和23年生まれ)が、お母様が書かれた自分史「幸せは笑顔から」を出版された。拝読して感動した。
 本の中にこんな一文がある。「年をとると、今まで出来た事が出来なくなってくるから、お金で物を買って頂くより、出来なくなったことをやってもらうことがどれ程うれしいことか。例えば車に乗せてもらうこと、お使いにいってもらうこと、お話し相手になってもらうことなどは本当に有難いこと。あなた達もその年になると、よくわかるから・・・」
 Sさんはお母さんの米寿のお祝いとして、お母さんが書きのこしてきた自分史を編集し、本として出版した。お母さんの88年の人生を見事に再現したのだ。これに勝る親孝行はない。
 
 お母さんは大正15年、豊橋市に生まれた。昭和20年、19才の時、豊橋は空襲に遭う。米軍の機銃掃射の時は機が低空飛行で迫り、アメリカ兵士の顔が見えダメだと思ったという。昭和22年結婚。一男二女に恵まれるが、ご主人が病気がちで苦労が重なる。これを助けたのが子供達だった。 私は昭和17年生まれでSさんと6才違うが、自分の人生とダブって時々目頭が熱くなった。と同時に子供の有難さというのを再認識した。
 しかし、世の中、結婚されない方、結婚をされても子供のいらっしゃらない方、様々である。そのような方々はどのような人生を送っているのだろうか?そのような方々の自分史も読んでみたいと思った。

 私は今年73才、地元の自分史「刈谷いしぶみの会」のお手伝いをしている。お金は残せないが、自分の歩んできた人生の軌跡は残せる。読んでいただけるかどうかわからないが、人生の軌跡を残すのが生きがいになってきている。そのような観点から見ると「ブログ」の存在は誠に有難い。

 

2015年6月17日水曜日

創業80年、売上1兆、株価1万円

(1942年、TDK・秋田・平沢工場の朝礼風景。私はこの年に生まれ、18才の時に、この工場に入社した。その時は事務所が鉄筋三階建になっていた) 
  私が勤務していた会社はTDKという電子部品メーカーである。
昨日、OBで組織する社友会の暑気払いが都内のホテル(品川・JAL CITY)で開かれた。120名が参加した。
 TDKは1935年(昭和10年)に創業した。今年は創業80年目に当たる。この節目の年、売上は1兆円に達した。株価は1万円を前後している。従業員は全世界で88,000名。目出度い。
 私は昭和35年、秋田にある工場に入社したが3年目に本社へ転勤。主な職場が広報関係だったので、創業者の斎藤憲三、2代目、山﨑貞一・・・とトップの方々の近くで仕事をさせていただいた。高卒であり、幹部にはなれなかったが、恵まれていた。
宴席でYSさんと一緒になった。「やあ、寮長、久しぶり!」そういえば、私は独身時代、独身寮の寮長をやっていた。私が寮長でYSさんが副寮長だった。YSさんは技術者でありながら経営についても鋭い観察をしていた。
「TDK、好業績だが、電子部品メーカーにはもっと成績の良い会社もあるし、業績がTDKに及ばないが、立派な仕事をしている会社もある」。YSさんはそういうと、TDKの裏面史を語り始めた。裏面史は今後のTDK幹部にも是非知っていただきたい。ただ、裏面史は社史などの公式文書に掲載するわけにいかないので、語り継いでいくしかない。
 YSさんの裏面史を聞いて「これからの経営幹部の方には、目の前の業績も大事だが、創業当時の経営者が持っていたロマン、ビジョンを忘れないで欲しい」と感じた。
 ところで、最近のTDKはなんで利益を出しているの?スマホ、ハードディスク・・・の部品?その部品の名前は?技術者OBの話を聞いてもチンプンカンプン。今のTDKだったら務まらなかったなあ・・・。

2015年6月12日金曜日

祖先(畠山家)、故郷(鮎瀬)に対する思い


 兄が20年前にまとめた「鮎瀬畠山家累代事歴」によると、初代は畠山重忠、兄洋三は32代目。今年は重忠が生まれてから810年目となる。
 
 山北(神奈川県)にいる弟幸三から、「機会があったら畠山記念館にいくべきだ」と言われていた。9日、畠山記念館(港区白金台)を訪れた。(写真、左)最寄駅は高輪台(都営・浅草線)。地名を聞くだけで東京の住宅一等地である。「畠山記念館」展示の品は茶道具。国宝や重要文化財が展示されているが、茶道具には全く興味がない。驚いたのは記念館を取り巻く、庭である。都心とは思えない、深遠さである。昼なお暗い。そして、さらに驚いたのは隣接する白亜の建物。一見外国大使館のようだが、後で調べてみたら、「テラス白金」。その昔、「般若苑」という料亭で能舞台も付属していた。三島由紀夫、小説「宴のあと」の舞台にもなったという。
 「畠山記念館」を作ったのは能登国主畠山家の後裔、畠山一清。一清(1881-1971)は東京帝国大学卒業後、荏原製作所を創設した事業家。隣接する「般若苑」を居宅にしていた。一清は近代畠山家の著名人である。

 畠山家の初代、重忠もその長男重保も敵の刃に倒れるが、重保の妻、信子が秋田県羽川海岸に漂着。重忠が助けた秋田の勇将由利氏を頼ったいう。信子がフトコロにかくまっていた重光が、現在の畠山家がある鮎瀬で農業をはじめた。

 弟幸三は山北の鈴木家の養子になるが、故郷は忘れがたく、平成20年、新築した家に「鮎瀬亭」(写真・右)と命名する。

 今月27日、秋田で31代目一男(私の父)の17回忌が行われる。母チヨミは98才。矍鑠としている。畠山家の歴史は続く・・・。
 

2015年6月5日金曜日

グランドゴルフで「69」。生涯有り得ない好スコア

 
(クラブとボール、白いボールは一般のゴルフボール。旗の下の丸い輪に入れる)

5月29日(金)グランドゴルフの練習試合で「69」という信じられない好スコアがでた。(やること、なすこと総てうまくいった。こんな事ってあるんだ!)グランドゴルフの場合、公式な大会でも70台の前半で優勝できる場合が多い。60台というスコアは稀なのだ。ということでブログに書き残す事にした。
 ところで、グランドゴルフってどんなスポーツなの。日本グランドゴルフ協会のホーム頁をみると、このスポーツは昭和57年に鳥取県で生涯スポーツ活動の一環として考案されたという。
 コースは50、30、25、15メートルが2ホールづつある。つまり、8ホールあり、全てパー3。(3打で入れる。)競技は4ラウンド行うので、4x8で32ホールとなる。パープレーは32x3=96となる。
 クラブは一本。ボールはゴルフボールより大きい。このボールを3打で旗の下に入れる。(写真)
パープレー96のところ、69で入れるというのは凄いのだ。(私の当日のプレーでは一打で入るホールインワンが3回あった。)
 グランドゴルフは一般のゴルフのようにプレー代が高くないのもいい。私が所属している牛久グランドゴルフクラブは会費が3ヶ月で1,200円。これで週3回、コースで練習できる。プレーの前の草むしり、年2回ほどの飲み会も楽しい。私はシルバーセンターで掃除のバイトも楽しんでいるので、グランドゴルフの練習は週一回がいいところ。それでも「69」という信じられなスコアがでるからグランドゴルフは楽しい。一般のゴルフはこんなことはありえない。飛距離からして私はうまい人の半分しか飛ばない。

 (当日のスコア。丸で囲んだ数字が4ラウンドの合計)