2018年10月27日土曜日

那須塩原で会社OBゴルフ。翌日、秋田・中学同期会

 
24日、那須塩原市にある「西那須野カントリー倶楽部」でゴルフ。現役の頃、カセットテープビジネスに燃えた10名(CSG-コンシューマ・セールス・グループ)が北(北海道)、南(九州)から集合した。この会も20回を超えた。
 一時は20名近い世帯だったのに他界したり、ゴルフを辞退したり、漸減。今回も食事の途中、インシュリンの注射を処方する先輩も・・・。かくいう私も76才である。インコース、バンカーで4打も叩き上がってみれば63。アウトで挽回を。と挑戦したが、最終ホールで池ポチャ、63。しかも、ラウンド中、クラブを2回も忘れ、仲間に迷惑をかけた。宴会で久しぶりにカラオケを歌えば、息が続かない。カラオケだって、ゴルフ同様練習しなければ惨めな結果となる。
 ゴルフ場はフェアウエイも緑のベント芝。美しかった。(写真)
 
25日、昼、自宅に帰宅して休憩。24時、新宿発の深夜バスで酒田に向かう。8時30分、酒田着。羽越線で本荘に向かう。日本海が美しい。(写真)14時から「ぽぽろっこ」で開かれた石沢中学校第10期卒業生同期会に参加する。同期生は75名いたが、物故者18名。今回の出席者20名(男性9名、女性11名)。関東地区からの参加者は私を入れて2名である。地元の幹事にとって遠来の参加者は励みになる・・・。と、勝手に解釈してスケジュール的にきつかったが参加した。
 
「おみゃ(お前)誰だ?」顔はわかるが名前がでてこない。やっと記憶が蘇る頃、会はお開きになる。「来年も来るからな」の声を残して、本荘から酒田に向かう。酒田発20:40分のバスに乗る。27日5時40分、新宿着。山手線のホームに立って驚いた。土曜日だというのに(だから?)ホームは乗客で一杯。(写真)閑古鳥の羽越線に比較すると格差が凄い。深夜バスを使う理由?深夜バスは料金が新幹線の半分以下である(ネットで予約)。乗客は全て若者。

2018年10月22日月曜日

西東京郷土史を編集した日立マクセル・OB、工野さん

 昨日、日立マクセル・OBの工野正樹さんから「西東京郷土史研究会研究概要」が送られてきた。
頁をめくってみると、工野さんは維新前後の西東京(現・清瀬市、現・練馬区、現・小平市、現、国分寺市、現、武蔵野市)の治安維持組織等について書いている。
 慶応四年(1868)江戸城明け渡しから一か月後の閏(うるう)四月の中頃、旧幕府方武装集団・彰義隊の初代頭取渋沢誠一郎(明治の実業家・渋沢栄一の従兄)は上野に屯集する副頭取天野八郎らの彰義隊と別れ、堀之内(現・杉並区)の茶屋で同志を集め直す。天野とは義兄弟の杯を交わした仲だったが、渋沢が市中から軍資金を調達したことに天野は怒ったとされ、さらに渋沢が決戦場を江戸の外としたのに対し天野は上野で戦うと主張、隊内は二派に分れた。・・・渋沢は農村支配のため旧幕府が構築した組合村という組織を使い、組合村々へ速やかに伝達、短期間に三千両以上を集めている。
 組合組織とは、三~七ヶ村を集めた小組合を治安維持などのための単位とし、この村役人の中から小惣代(しょうそうだい)を選び小組合の代表とし、さらに小組合の代表から何人かを選んで、大惣代とし、大組合を運営、大組合の中の有力な村を親村とし、囚人を一時預かる寄場を設け、この大組合を寄場組合とも称した・・・。
 この文章は工野さんが「田無市史」等の地方古文書を読み解いて現代訳したものである。工野さんの才能と努力に脱帽である。
 
工野さんは現役時代、カセットテープビジネスのライバルだった。工野さんが商品化した「UD」の音は素晴らしかった。私の目標だった。そして忘れられないのがフジフィルムの「AXIA(アクシア)」。私は上司から「お前は保守的だ。アクシアのようなものを作れ」といわれ「TDKにはTDKのやり方があります」と反論した。今、UDの工野さん、AXIAの高山さんはかけがえのない親友である。

2018年10月16日火曜日

同級生逝く、20年ぶり銀座で記者と会う


9日、東京にでかけた。国会図書館をでてスマホを見ると留守電が入っている。見覚えのない電話番号である。「畠山です。電話をいただいたようですが?」「佐藤稔の家内です。主人が昨夜亡くなりました・・・」。ミノル君、高校の同級生である。そういえば最近は年賀状くらいで会っていなかった。
 
10日、夕方、スマホのベルが鳴った。電話番号の表示に田村とある。あの田村さんかなと思って応答する。「田村です。久しぶりです。なんとか会社もやっていけるメドがついたので、畠山さんにご報告したい。お会いしたい・・・」「13日であれば同級生の葬式があって東京に行きます。どうでしょう」「ああ、こんどの土曜日ですね」「土日もほとんと働いてますから大丈夫です」
 
13日、ミノル君の葬式に参列するため、大泉学園に向かう。その後、田村さんと会う約束をしていたので、奥様に「用事がありますので、お別れの会に参加できません」というと「主人の顔をご覧になりますか」。奥様は棺のミノル君に声をかける。「あなた、畠山さんが会いにきてくれましたよ」。ミノル君、逝くのは10年早かったよ。しかし、優しい奥様と一緒で君は幸せだったね・・・。
午後4時近く、銀座のライオンビヤホールに到着。田村さん(写真中・左端)と会うのは20年ぶりくらいである。彼は電気業界紙の記者だった。当時、電気業界は隆盛を極めていた。業界紙の出版社も10社ほどあって業界の潤滑油になっていた。その中で秋田出身の記者が3人いた。私は「秋田会」を作って情報交換をしていた。田村さんもその一人。彼、法政大学卒、61才。これからである。
 「飲み代は割り勘にしよう」というと「私が払います」と譲らない。名刺を見ると、代表取締役とある。それでは遠慮なくご馳走になります。銀座の夜景を後にして帰途につく。

2018年10月12日金曜日

芸術祭大賞受賞「武満徹・カトレーン」秘話

 
 
隣町にある音楽グループ「龍ヶ崎ゲヴァントハウス」のお手伝いをしている。
1年に1~2回、現役の頃お世話になったオーディオ、音楽関係の方を講師としてお招きする。来年の講師として、音楽評論家の東条碩夫先生に連絡したところ「お引き受けします」というご返事をいただいた。
 改めて、東条先生が主筆を務められた「伝説のクラシックライヴ」(TOKYO FM出版)を読み直してみた。″《カトレーン》顛末記″を読んで息が詰まった。1975年、東条先生はFM東京の音楽プロデューサーだった。この時、文化庁芸術祭参加作品に応募する決意をする。世界的な名声を博していた武満徹(1930~1996)に新作を依頼する。
 軽井沢の別荘に新作の譜面をとりに深夜タクシーで向かう。「(運転手が)とてつもない悲鳴を上げた。窓の外を見ると、白いシャツを着た武満さんが幽霊のごとく立っているではないか。げっそりと痩せ、ぼうぼうと伸びたざんばらの髪と無精髭に覆われた顔の中に目だけがギョロギョロとひかり・・・」。でき上ったばかりの譜面の前で奥様が語る。「この人、もう、1ヶ月以上座ったきりで全然運動してないでしょう。心臓麻痺でも起こして、(これが)遺作になるかと思ったわよ」
 武満が精魂を込めて書き上げた作品「カトレーン」は小澤征爾指揮・新日本フィルとスーパー室内楽団″タッシ″(Vn,Vc,Cl,Pf)によって初演され、見事に芸術祭大賞を受賞する。
 「カトレーン(Quatrain)」。16分余の作品。日本人である武満でないと書けない神秘的な作品である。
 東条先生が「カトレーン」をテーマに語って下さるかどうかはわからないが、できれば取り上げていただきたい。神秘的なこの曲がゲヴァントハウスの音響装置でどう響くか・・・。聴いてみたい。

2018年10月8日月曜日

100年後の子孫に伝える和風家屋「鮎瀬亭」


5日、義兄の建築士、工藤光春さんと弟・幸三の自宅を訪ねた。

 弟は1948年生まれ。私とは6才違い。小田原の近く山北町に住んでいる。
 秋田の高校を出た後、東京の大学に進学。小田原にある私立高校の教師になる。1972年、山北町の旧家・鈴木家の養子になる。
 弟は2009年、和風に拘った「鮎瀬亭」を新築する。
 この鮎瀬亭をプロの建築士、工藤さんに見てもらおうというのが今回の山北行の趣旨である。
 
私と工藤さんは9:00バスタ新宿で落ち合う。工藤さんの第1声「やあ、驚きましたよ。これが現役の頃、建設の話があったバスターミナルなんですね」。私も新宿バスタを使用するのは初めてである。このバスターミナルから全国に向けてバスが出発する。
 山北は電車で行くと不便なのだが高速バスで行くと1時間30分。東名山北に着く。

 弟の案内で山北町を見学しながら高台へ。太平洋岸方向をみると小田原市街が一望である。フジフィルムの工場群、アサヒビールの工場が遠望できる。
 
 鮎瀬亭に着く。玄関をくぐるなり、工藤さん「ホーッ」と天井を見上げる。秋田杉を使用した梁が美しい。(写真・上)弟は秋田の実家の杉を製材し、山北に運んだのである。工藤さん私に言う。「あなたは建築の素人だからわからないだろうが、秋田杉を使用し、これだけの家を作ろうという発想は、並大抵のものではない。幸三君のその源泉はどこからきたのかな・・・?」弟のこたえ。「鈴木家は170年経った茅葺の古民家でした。壊すのに逡巡しました。その思いを”鮎瀬亭”に託しました。」
 
 幸三は100年以上後の子孫に、和風建築の伝統と秋田の実家への思いを伝える事を意図しているのであろう。因みに「鮎瀬亭」の鮎瀬は我々兄弟が生まれた部落の名前である。

2018年10月2日火曜日

有楽町・プレスクラブで行われた退職記念パーティ

 
 
16年前、有楽町・プレスクラブで行われた私の「定年退職記念パーティ」のビデオが見つかった。
 一般的に定年になった時は職場で花束の贈呈があるぐらいではないだろうか?
 私の場合、開催場所が有楽町にある外人記者クラブ(通称・プレスクラブ)。TDKの社員だけでなく、ソニー、フジフィルム、松下等の業界関係者も参加。計87名。
 パーティを企画(&司会)したのは私の最後の職場となったTDKコアの社長、松本謙明さんだった。松本さんは福島出身。慶応義塾大学卒業の後、TDKに入社。カセットテープ等記録メディアの国内営業責任者として辣腕を振るった。人情味豊かで、社内、業界に広い人脈があり、それが、このパーティの源泉になった。
 乾杯の音頭は、私を秋田から本社に呼んで下さった沖山昭八さん。沖山さんは「世界のカセット」を提唱。その後「世界陸上のゼッケンスポンサー」を発案する。業界を代表して日立マクセルの工野正樹さんが挨拶。TDKデザインを代表して社長・植村徳さんが挨拶。小生の商品企画時代を回想。TDK・広報部長、片山道憲さんが、世界陸上連盟会長ダミン・ディアックさんのメッセージを披露した。小生答礼の挨拶の後、会場には小澤征爾指揮ウィーンフィルのラデッキー行進曲が流れ、私と松本さんはお客様をお送りした。
 TDKコアに異動になったのは定年2年前。松本さんから「定年まで、ゆっくり休んで下さい」といわれた。が、ここで花が咲く。「TDKオリジナルコンサート」のCD化が大ヒット。それが小澤・ウィーンフィルによるニューイヤーコンサートDVDの発売権利の獲得につながる。(後継の岩垂靖樹さんの貢献が大きかった)
 
 パーティのビデオがあることをスッカリ忘れていた。先月、101歳の母を囲む兄弟会が秋田で行われた。これをビデオに撮ろうとビデオカメラを捜した。カメラの箱の中にテープが入っていた。