2011年6月28日火曜日

吉田秀和97才。面白い、艶っぽい

     (吉田秀和特集号、音楽分野以外の方にもお薦め)


 2006年、音楽評論家の吉田秀和が文化勲章を受賞した。



その時、作曲家でもない、演奏家でもない、評論家畑の人がなぜ文化勲章なのかと腑におちなかった。私からすると、音楽で一番偉いのは作曲家で、二番目は演奏家、ズーと離れて評論家という位置づけなのである。

 そういう、私だから、楽譜は読めない、楽器は演奏できない、聴くのが好きだけの自分は肩身が狭かった。



 今月発売された「レコード芸術」7月号は吉田秀和特集である。

 これを読んで、評論家も作曲家や演奏家と肩を並べる存在なのだ、と思った。というか、吉田秀和の対談を読んで、そう思わされた。そうして、自分もこれからは自信を持って、居並ぶ作曲家、演奏家のことを語ろうと思った。



 吉田秀和は朝日新聞にも「音楽展望」を連載しているが、文章がやさしい、そして、表現にツヤがある・色っぽい、視点が広い。音楽ファンならずとも引き込まれてしまう。



 最後に「レコード芸術・吉田秀和特集」から一部を引用しよう。

●僕はこの二人(中原中也、吉田一穂)から、決定的なことを学びました。それは勤めたりしないで、好きなことをして、ごろごろしていてもー少々語弊があるけれどー成り立つ生活があるということです。

●岩波というところは、ご承知の通り誰も読めないような変な哲学書だっていいんです。東大出であれば(笑)。

●之を知る者は之を好む者に如かず。之を好む者は之を楽しむ者に如かず。

2011年6月23日木曜日

パソコン&カール・ベーム没後30年

      (押し寄せた観客に応える80歳のカール・ベーム)





 今日(23日)は30度を超える猛暑、しかも節電。パンツ一丁でパソコンに向かう。こんな時に限って、ご婦人の訪問がある。銀行のフィナンシャル担当、それに家内の友人。あわててシャツを着たり・・・。


 ところでパソコンに住所録(筆王)のソフトが入っていないため、住所録が開かない。ついでにノートンもインストール。(13日、¥13,000)今までのパソコンでインストールできなかったi Tuneも解決。


 4日(土)隣町・竜ヶ崎市の音楽愛好会(ゲヴァント・ハウス)の為に、講師として友人の乙黒正昭さん(元日本グラモフォン・プロデューサー)を東京からお呼びした。テーマは「没後30年、巨匠カール・ベーム」。カール・ベームは数度来日しているが1975年、NHKが放送50周年記念としてウィーンフィルとともに招聘したのが有名。この時、NHKは入場券の販売方法をハガキの申込みによる抽選にしたが、応募ハガキはなんと17万通に及んだという。


 演奏会も歴史的な名演となり、終演後、お客様が怒涛のように舞台に押しかけ、ベームはこれに応えて、オーケストラのいない舞台に何度も現れた。(写真・乙黒さん撮影)ベームはこの写真を欧米の公演に持ち歩き、日本での歓迎ぶりを自慢したという。


 乙黒さんは、1975年の来日のとき、福原信夫とともに、ベームのお世話をしという。講演ではホテルでベームと腕立て伏せの競争をしたなどのエピソードを披露。(長時間の指揮に対応するため、ベームは来日の時も毎日腕立て伏せをかかさなかったという)

 乙黒さんの講演は来日時のシューベルトのグレイトのライブCDとともに深い感銘を与えた。

 講演会場(旧映画館)は50名の来客で満席。東京、千葉はもちろん、名古屋、福島からも音楽ファンがかけつけた。


(訂正)前回のブログ。髙橋先生が、ビルマのチョンゾンの地名が掲載された本「インパールの十字架」に出会ったのは昭和63年9月でした。

2011年6月17日金曜日

安らかに・・・。高橋秀次郎中尉殿。(享年24歳)



 高校時代の恩師、髙橋彰三郎先生に父の十三回忌記念誌「感謝」をお送りしたところ、丁重な礼状とともに一冊の本が送られてきた。


 ”烈”の一兵士「インパールからの便り」というタイトルが付いている。


 先生の兄、秀次郎氏が、出征し、インパール作戦に参加し、戦死するまでの経過が書かれている。


 秀次郎氏は昭和15年宮城県の小学校の教師になるが、昭和17年出征。昭和18年、ビルマに出発。インパール作戦に参加し、昭和19年9月21日戦傷死した。


 前半は先生の母の遺品の中にあった秀次郎氏の手紙。家族、故郷を思う気持ちが綴られる。中盤以降は手紙で伏せられていた、インパール作戦での戦慄に満ちた事実が語られる。これは、主に生還した兵士の記録「砲よ愛馬よ戦友よ」による。


 髙橋先生は昭和16年、上野の本屋で偶然、兄が戦死したチョンゾンという地名が掲載された「インパールの十字架」に巡り会ったという。その後も調査を続け、退官した平成6年から本格的に執筆し、平成7年に出版に漕ぎつけた。


 私は「感謝」の編集で父が千島列島の「占守島の戦い」参戦したということで、戦争というものを身近に感じてはいたが、「インパールからの手紙」の生々しい、表現に打ちのめされた。「撃つに弾なく、食うに糧なく」「兵器を運ぶ牛は豪雨の中、泥濘に足を取られ涙す。兵士その牛を食らう」地獄絵である。


 その中で高橋秀次郎中尉は敵弾に二度撃たれ、赤痢にかかって帰らぬ人となる。


 戦場で中尉を支えた恩人が二人いた。いずれも同郷(宮城)の方でズーズー弁が知遇の縁だったという。

 この本をまとめられた髙橋先生に敬意を表すとともに秀次郎中尉のご冥福をお祈りします。






 

2011年6月11日土曜日

神の国、日本・・・?

      (完成した追悼記念誌と、礼状の一部)


 5月27日、昨年末から作業を開始した、父、畠山一男(第31代・又右ェ門)十三回忌追悼記念誌『感謝』が遂に完成した。


 その後、パソコンが故障したこともあり、放心状態の2週間が過ぎた。



 この記念誌B5版、238頁の大作である。

 身内用に作ったものだが、書籍としての評価も欲しいと思い、文藝仲間や、文藝春秋社の社員にも送ってみた。幸いにも丁重な感想文をいただいた。編集者としてこれほど嬉しいことはない。

 追悼誌の半分は畠山家の家族が取り交わした手紙を掲載している。そんなこともあり、わずかの部数しか作らなかった。(非売品)


 編集者としてできるだけ多くの方に考えてただきたい事がある。

 それは家系図である。畠山家の場合、過去帳があるので、先祖と伝えられている畠山重忠から、兄の息子まで33代にわたる家系図を作ることができた。

 歴史があるないは別にして、それぞれの家庭が家系図を作るべきだと思う。

 そのことによって、何百年と遡れば、日本人が一つに繋がっていることが実感できる。

 家族は日本の社会を構成する細胞だということも実感できる。

 そして日本とは、日本人のアイディンティティーとは何かということも見えてくる。


 「神の国、日本」と言ってクビになった総理大臣がいたが、あれは発言のTPOが不味かったのではないか?客観的に他の国をみると、全ての国が「神の国」であり、今でも聖戦が続いている。戦争は容認できないが、それぞれの国が神を信じている。強要してはいけないが、日本、日本人も、祖先、神道、仏教に真面目に対峙すべきではないかと思った。



 



2011年6月9日木曜日

パソコン炎上!



   パソコンが故障した時、ディスプレーは太陽の表面のように黄金に輝いた。



 4月末にプリンターが使用不能になり、キャノンのpixus MG6130を新しく購入し、父の13回忌追悼記念誌の印刷を終了した。


 こんどはパソコンである。5月25日、メールを打っている途中で、突如、モニター画面が黄金の縞模様に変貌した。驚いてアクションしようとしたが、画面全体が黄金の縞模様で覆われていて、アイコン用のマークが全く見えない。ドアノブがついてない、黄金の部屋に閉じ込められたような状態。こうなったら、ドアを蹴破るしかない。つまり、電源を切った。そして新たにスイッチオン?スイッチは入るが起動しない。こんな状況への対応はマニュアルにもでていない。


 つくばのパソコン工房に持ち込む。「メーカーへ修理に出すしかない」とのこと。

 31日、パソコン工房から電話。「修理の見積もりがでました。マザーボードとDVDドライブが壊れていて、79,000です」「じゃ、修理お願いします」「え!いいんですか!79,000出せば当社の新品が買えますよ」「じゃ、そうするか」


 炎上したパソコンは2007年5月に購入したNECPCLL550/JG3E:LaVie(vista)。購入価格169,800だった。丸4年でオシャカとは早すぎる。おかしな現象は1年ほど前から起きていた。①起動時間が異常に長くかかる②新しいソフトのインストールができない③DVDドライブが立ち上がらない④キーボードを叩くと連動してカタカタ音がすることがある。


 そろそろ寿命ではないかと思っていたので修理代79,000にもあまり驚かなかった。


 新しく購入したパソコンは本体が39,980、ソフト(outlook2010等)20,000ということで59,800。その他、データバックアップ、3年間保証料、等でトータル75、730となった。


 いずれにしろ、パソコンが壊れたのが父の記念誌が出来上がった後で良かった。

 また、データのバックアップが修復できたのも不幸中の幸いだった。


 それにしてもパソコンの画面が黄金の縞模様に輝いたのには驚いた。この画面をカメラで撮らなかったのは残念だが、イメージとしては太陽が燃え盛る様子と似ていた。

 あの黄金の縞模様をみて、人間が死ぬ瞬間もあのような映像を見るのではないかと連想した。