2018年5月28日月曜日

藤岡誠先生「わがオーディオ人生」

 
26日(土)、オーディオ評論家、藤岡誠先生の講演会が、NPO法人龍ヶ崎ゲヴァントハウスの主催で行われた。
 龍ヶ崎ゲヴァントハウスは私の住む牛久市の隣町、龍ヶ崎市にあるクラシック音楽愛好団体。NPO法人化5周年ということで、藤岡誠先生に講演をお願いした。
 先生は1944年生まれ。大学在学中からオーディオ誌に執筆。以来50年にわたって、日本のオーディオ界をリードしてきた。現在、年間オーディオ銘機賞・審査委員長。
 先生をお招きして一番心配だったのは会場にあるオーディオ装置の音が先生のおミミにかなうかどうか?一聴するなり「大人の音だな」。合格である。関係者一同胸を撫でおろす。開演前、オーディオ装置担当の石井さんが「最上の音で先生持参の愛聴盤を聴いていただくために暖房のスイッチを切ります」。先生やおら立ち上がり「暑い方はズボンを脱いで下さい」。早くも藤岡節が飛び出す。藤岡先生の持ち味は、歯に衣着せぬ率直さ+漫談調。
「皆さん、良い音アレコレを追求しちゃダメですよ。無駄な金を使うことになる。自分の音に対するスタンスを決め、その目標に向かって音づくりをして下さい」「ネットオーディオ?とんでもない!ヘッドフォンオーディオ?とんでもない!耳が悪くなります」「オーディオの本質追求を忘れると、出版社もメーカーもダメになる」「低音がでてる、高音不足・・・、そんな聴き方はダメ、16キロヘルツの音が聴こえないからオレの耳はダメ、そんなことはない。音楽が音楽らしく聴こえるかどうかですよ!聴くことによって聴感は鍛えられます」
講演会のハイライトは先生の持参した愛聴盤の再生。(愛聴盤はオーディオ評論家にとっては秘密兵器である)弦楽四重奏、ピアノ(フォルテ、モダン)、ソプラノ、テノール等の音がゲヴァントハウスの「大人の音」で再生される。演奏家が次々に登場するように会場に流れる。それは至福の一時である。
 先生は藤岡節で場を和ませながら、誰が、何が本物なのか?見抜いてしまう。恐ろしい人である。「畠山さんの欠点は敵がいなことだな」帰り際、先生はそうおっしゃった。この言葉、私の宝物である。(写真下・先生の紹介をする畠山”左”)

2018年5月21日月曜日

息子は外務官僚です。

(つくばにある妹の居宅から眺めた筑波山)

 昨日(20日)、笠間市にある常陸国出雲大社を訪れた。同大社の春季大祭に参列するためだった。神奈川に住む弟と弟の縁者であるAさんも一緒だった。
 
 11時春季大祭開始。境内に太鼓の音が鳴り響き、宮司、権宮司登場。紋章入りの衣装を着た宮司は普段着で会う宮司と違い、威厳が漂う。清め祓い、開扉、・・・巫女舞、国歌斉唱、宮司講和・・・と続く。日本の伝統文化を体現したひと時だった。
 
 夕方6時~宮司の居宅があるつくばに移動し、料亭での食事会になった。宮司、権宮司(宮司の息子)、社長(小生の妹)、弟、Aさん、小生の6名がテーブルを囲む。ここでの宮司とAさんのバトルが楽しかった。宮司は神社経営の傍ら、ガラス工芸、樹木葬、ギャラリーと次々に新機軸を打ち出し、神社界の風雲児と呼ばれている。方やAさんは銀行員として、経営モラルの管理に携わってきた。Aさんは権宮司にくれぐれも宮司のような破天荒な経営をやらないよう注意を促す。こんな事を宮司の前で忠告した縁者ははじめてである。
 
ところで、Aさんの息子さんは外務省の官僚だという。「息子には庶民の気持ちを忘れないようにといつも忠告しております」。縁者に外務官僚がいるというのは、私としても嬉しい。また、Aさんのような謙虚な方の息子さんであれば国を任して安心である。日本人としての誇りを持って、日本のため、世界のために頑張って欲しい。
 Aさんの話を聞いて、32年前、一介のサラリーマンである私と会って下さったイタリアの西田大使を思いだした。(写真)品格に溢れ、凛とした方だった。
 

2018年5月19日土曜日

感謝、感謝の掃除バイト

 
2015年から始めた牛久シャトーの掃除のバイト(牛久人材シルバーセンター)が今年で丸3年を迎える。週2回、8:00~10:00or11:00。
 掃除のある日はやはり緊張する。家内もそうである。7:30自転車で自宅から3キロ先のシャトーへ。シャトーには国の重要文化財である醸造施設が三棟ある。その他にミュージアムとレストラン2棟。敷地内には竹林、銀杏の森、ブドウ畑、桜の老木あり、別天地である。
掃除をする場所はミュージアム(写真)と、レストランのトイレ。おばさん(おばあさん)と一緒の時もある。3年もやっていると、おばあさんと世間話ができるようになる。「うちで作ったネギ持ってきたから。細いネギだから納豆に入れるとおいしいよ!」(写真・上)。「銀杏拾ったから持っていった方がいいよ。食べ方わかる?」「一人娘がいるんだけど、50近いんだけど嫁にいかなくてね」「10年前に主人が逝ってね・・・」
 最近は守衛さんとも仲良くなった。「あんたも一服やったら・・・」とタバコを勧められた。つい、50年ぶりにタバコを吸いそうになった。
 レストランに行くと、白衣を着た若い調理人たちが仕込みに入っている。「おはようございます」と声をかけると、「ご苦労さんです。お願いします」と返ってくる。その労いの言葉が嬉しい。
 体を使い、運動にもなるからと始めた掃除のバイトだが、職場では、サラリーマン時代には経験できなかった人間浴を経験することができる。次の掃除の日が待ち遠しい。


2018年5月13日日曜日

私のアルバムから⑥勳四等旭日小授賞の謎


 アルバムを整理していたら、勳四等旭日小授賞の写真がでてきた。
記憶喪失が多い昨今、なぜこの写真があるのか思い出せない。賞状を確認すると「日本国天皇は高尾三郎を勳四等に叙し・・・」とある。高尾三郎とは、私のアルバム④⑤に登場した元TDK・常務の高尾さんである。
 そんな偉い方の賞状がどうして手元にあったのか?ブログ「人間浴」を遡ってみたらありました。2016,10,21「遺された勲章と日記」。”高尾さんのお孫さんからメールをいただいた。「実は祖父の遺品があります。処分しようと思っているんですが、もしかしたら貴重なものかもしれません」”私は遺品をお預かりし、「TDK歴史みらい館」に委託した。その時、遺品の一部を撮影していたのだった。
 TDKの関係者で勲章をいただけるとしたら、社長経験者だけといってよい、なぜ、常務の高尾さんが叙勲したのか?その回答は手元にある日記の一部で確認できた。”正午すぎ、松下の西宮氏来社、大歳君(後の社長)と同席して昼食を共にし幸之助氏礼賛の話を聞いた。1時30分EIAJ(日本電子機械工業会)に赴き西欧委員会に出席。通産省から河野班長を迎えベネルックスの明年度貿易交渉の方針につき説明あり。続いて根岸所長からヨーロッパ情勢について解説があった・・・。”
 高尾さんは、電機業界関連の工業会の会長等を歴任していたので、十分叙勲の資格があったのである。
 それにしても高尾さんのお孫さんが、定年後14年もたった私のところへ、(しかも現役時代は中間管理職に過ぎなかった)なぜ遺品の相談に来られたのか?これは今もって謎である。”ご縁”としかいいようがない。

2018年5月11日金曜日

生誕150年「横山大観展」


8日(火)上京した寸暇を利用して竹橋にある東京国立近代美術館に駆け込んだ。出し物は生誕150年「横山大観展」。絵画に素人の私でも横山大観の名前は知っている。どんなものか観てみたい。入場料¥1,500。「展覧会としては高いなあ!」入場してアッと驚いた。なんと、日本の美しい大自然が広がっていた。「夜桜」「紅葉」のなんと美しいことか!実景以上の鮮やかさである。観覧者はその絵の前の椅子に腰かけて観入っているが、忙しい私は数秒観ただけで、次の絵へと足を運ぶ。次の場所への電車の中でも、大観の絵の強烈な印象は脳裏に残ったままだった。

 横山大観(1868-1958)、没後60年である。意外に最近の人である。こんな近代にも絵画の大巨匠がいたのである。改めて、日本人もたいしたものだと思った。経歴をみると、無類の酒好きとある。人生後半の50年は飯をほとんど口にせず、酒と肴だけで済ませたという。飲んでいたのは広島の酔心。大観と酔心の山根社長は意気投合。無償で大観に酒を送ったという。山根には年に4斗樽で何本も注文がきたという。大観は謝礼として、年に1枚づつ、山根に無償で絵を送った。大観の師匠、岡倉天心も大の酒好きで、日に2升も飲んだとか。「酒の一升も飲めずどうする」と大観を叱ったという。

 それにしても今週は忙しかった。9日はさくら市柴塚カントリーで高校同級生とゴルフコンペ。雨の中、カツパを着て打ちまくった。今日はTDK独身寮時代の仲間との飲み会である。

2018年5月5日土曜日

「火垂るの墓」「おくりびと」

先月、映画ファンの野原さんから☎がかかってきた。
「畠山さん、ホタルの墓、TV放映されます。是非観て下さい」「あのひ(火)がた(垂)れるとかいうアニメ」「そう、あれ、ホタルと読むんです」。そうか、ここで自分の学のなさに気づきガックリ。そういえば、この頃、国会でセクハラ騒ぎがあった。革新系のおばさん達(失礼)が喪服姿でプラカードを持っている。それに書かれている文字が「ME TOO」。英語にも弱い僕はミートゥーってどんな意味だっけと、あわてて辞書を引いた。

5月の連休、「火垂るの墓」観ました。戦争で両親を失った戦争孤児の悲惨さ、必死に生きる兄妹愛に涙がとめどなく流れた。食べるものがなく、飢え死に寸前の妹、節子になんとか白米を食べさせようと、衣服を盗んで白米を買った兄、清太だったが、かけつけた時、節子は絶命していた。最後の言葉は「またドロップを舐めたい」。清太も三宮駅構内にボロを着て横たわり衰弱死する。最後の言葉は「節子・・・」だった。節子の遺骨の入ったドロップの缶は駅員に放り投げられた。

「火垂るの墓」に引き続いて、「おくりびと」を見た。オーケストラでチェロを弾いていた主人公、小林大悟(本木雅弘)、オケが解散したため失職。故郷の山形に帰る。再就職した先がNKエージェント。募集広告のキャッチフレーズが「旅のお手伝い」。実はこの旅、あの世への旅立ちだった。社名のNKは納棺(No-Kan)からとったもの。腐乱死体の処理など厳しい現実に直面するが、社長(山﨑務)が行う、死者に対する厳かな振る舞いに感動。最初、納棺夫に反対していた主人公の妻も納棺の仕事に共感する。
 火葬場の担当(笹野高史)は、棺を釜に押し込むと「ここは門です」といって点火する。

 「火垂るの墓」の清太、節子兄妹も、小林大悟のような納棺夫に清められ、厳かにあの世に送って欲しかった・・・。

2018年5月2日水曜日

私のアルバムから⑤武者小路が愛した稲住温泉

 2009年10月、秋田に行った時、栗駒山の麓近くにある稲住温泉に行った。母と姉と一緒だった。山に埋もれるような一軒家だった。

女将の押切陽子さんが、色紙と宿帳を見せて下さった。色紙は武者小路実篤の書いたものだった。こう書かれていた。「昭和二十年春稲住温泉に妻次女初孫と四人で疎開し八月二十日の終戦を迎え九月に歸京す最も印象強き月日をこゝに送りたり思い出多き懐かしき土地なり 昭和四十一年春 武者小路実篤」

宿帳を見て、驚いた。「昭和三十六年七月 遠藤為春 市川左團次 中村卯三郎 高尾泰弘」とある。遠藤は当時新橋演舞場常務、市川、中村は歌舞伎俳優、高尾は私のアルバム④に登場した、TDKの高尾常務である。当時、私は秋田にある平沢工場に勤務していた。高尾常務が市川左團次一行を伴って、工場にいらしたと記憶している。
 武者小路実篤の言葉に「仲良きことは美しき哉」という言葉がある。各界に多くの友人・知人がいた高尾常務は美しく、幸せな方だったと思う。

 ところで、その稲住温泉、現在ネットで検索してもでてこない。女将の押切さんはお元気だろうか?貴重な色紙や宿帳はどうなっているだろうか?現在、稲住温泉があった近くにスパリゾート「秋の宮荘」がある。機会があれば訪ね、稲住温泉を偲びたい。