2014年12月25日木曜日

クリスマス前の意外な贈り物。長谷川等伯、狩野永徳

クリスマスイブ前日の23日、弟から宅急便が届いた。
弟は山北町(小田原市の隣)在住。66才。私立高校の教師をやっている。定年を過ぎているのに学校にひきとめられているとは本人の弁。
荷物はズシリと思い。10キロ近い。中を開けてみると、長谷川等伯と狩野永徳の画集と、安倍龍太郎作「等伯」上下2巻(第148回直木賞受賞作品のタスキあり)が入っていた。

偶然であった。
私は7日~9日、牛久在住の友人と能登半島の旅行に出かけた。その時、驚いた事があった。七尾市に行った時、ガイドが「ここは能登・畠山家の城下町です」と語った。隣の席の中田さんが「畠山だって」と私の顔を見た。私はこの時まで七尾が畠山家の城下町だったことを知らなかった。
弟に能登に行ったとメールする「七尾には行ったか?」と問いかけられた。弟は「等伯」を読んで、七尾市がかつて畠山家の城下町だった事を知っていたのだった。

弟はこの機会に私に能登・畠山家を知ってもらいたい。また、家臣である奥村家の子として生まれた長谷川等伯(1539~1610)の絵と、等伯とライバル関係にあった狩野永徳(1543~1590)の絵の素晴らしさも知ってもらいたいと思ったのだった。

なお、私の実家の祖先は能登・畠山家ではなく、重忠で有名な秩父・畠山家だと伝えられている。

*画集の作品は著作権上添付できないので、画集の表紙を添付した。(写真・上)
等伯画集の表紙を飾るのは「松林図屏風」(国宝・東京国立博物館)、永徳画集の表紙を飾るのは「唐獅子図屏風」(宮内庁三の丸尚蔵館)

2014年12月18日木曜日

私のノーベル賞


ノーベル賞というと格別なもののように思われるが、小生は総ての人がノーベル賞に値いする仕事をしていると思う。結果がたまたまノーベル賞だったり、科学技術庁長官賞であったり、社長賞だったり、あるいは無冠だったり・・・これはご縁だと思う。

仕事に打ち込む姿勢に差別はない。

定年後12年、小生の場合、幸運にも現役時代の仕事が「ステレオ時代」vol,3号に掲載された。実に嬉しい。小生が現役時代、カセットテープの最高峰といわる「MA-R」を開発した。通常プラスチックで作られているカセットハーフにダイキャストを使用し、しかも中のテープが見えるという画期的なものだった。勿論音質は抜群!45分のテープが1,750円もしたのに飛ぶように売れた。

この商品、私が一人で開発したものではない。営業、技術、製造、デザイン部門の総力で出来あがったものである。ただ、賞をいただいたり、誌面に取上げられたりする時は代表者が脚光を浴びる。これもご縁である。

今回は偶然の重なりでもある。まずは、「ステレオ時代」というオーディオ誌が存在した事。この雑誌が昔のオーディオ商品を取上げた事。TDKに取材を申込んだ時、広報部長の脳裏に小生が浮かんだ事・・・。小生が健在だった事。

広報部長から電話を頂いて、2~3、会話をしたところ「あ、大丈夫ですね。取材お願いします」ときた。広報部長は小生の前歴を調べるとともに、小生が現在、取材に応えらるかどうか(ボケてないか?)試したのだった。

という事で小生にとってのノーベル賞である記事が「ステレオ時代」vol,3に掲載された。同誌は現在書店で発売されている。

2014年12月11日木曜日

冬の能登半島一周。厳しい海岸美と歴史の重み!


 7日~9日、牛久の友人、中居さん(鹿島建設OB)中田さん(海上保安庁OB)と冬の能登半島に出かけた。2人とは2年前、シンガポールへ旅したので、今回が2回目である。シンガポールの旅は陽光に恵まれ、身も心もリラックスできた旅だったが、今回の能登半島はズシリと心に響くものだった。(長野から輪島まで雪道だったが半島に雪はなかった。)

秋田生まれの私は「久し振りに雪見酒でも・・・」と思ってでかけたのだが、能登の冬はあまりにも厳しく、美しい。秋田には男鹿半島があるが、それとは比較にならない厳しさである。特に松本清張の「ゼロの焦点」の舞台になったという”ヤセの断崖”は高さ35mの断崖絶壁。突風に飛ばされないよう足を踏ん張った。”千枚田”(写真・下)こんな狭い断崖に田んぼを作るとは、能登の厳しい農業を想像した。それにしてはどの民家も黒瓦の立派な家が並んでいる。しかし、ほとんど空き家だという。
”輪島塗り”数百万という作品の制作舞台裏をのぞかせて貰った。

思いがけなかったのは、曹洞宗の祖院を見学できたこと。秋田の実家が曹洞宗だけに感慨深い。さらに驚いたのは能登・畠山家の城下町である七尾市に寄る事ができた事。これは全く予想していなかった。ガイドさんから「畠山氏の城下町だったが上杉謙信の侵攻に会い滅亡した」との説明に「そうだったのか!」と驚いた。七尾市は小京都と呼ばれているとか。”一本杉通り”は600年以上続くという商店街、歴史的建造物が軒を連ねたいた。

能登半島旅行は輪島により、和倉温泉に泊まって帰るコースが一般的だという。今回は半島の突端、禄剛崎(ろっこうさき)燈台(写真・上)まで足を延ばした。本当に良かった。幹事の中田さん、ありがとう。

2014年12月3日水曜日

わが畠山家の歴史。子や孫にも伝えたい。

先月22日だったと思う。秋田の実家の兄から電話があった。用件は「畠山重忠の父親の本が出版されたので注文した。」というものだった。私もネットで検索して購入した。今読み終えたばかりである。
 兄は2001年(平成13)「鮎瀬畠山家累代事歴」という資料をまとめた。それによると、私の実家は畠山重忠(しげただ)の末裔であり兄は第32代目になるという。資料によると800年前、坂東武者であった畠山一族(埼玉県深谷市)は滅亡するが、重忠の長男である重保(しげやす)の妻信子は幼子を抱いて、日本海にでて秋田の海岸に辿りつく。その後由利本荘市・鮎瀬に住み着いたというのである。
 畠山重忠の父親、重能(しげよし)の本、「名は惜しめどもー畠山重忠の父」北澤繁樹著(さきたま出版会)を読むと、重忠の長男重保は結婚しなかったとある。これは兄の資料と異なる。ただ、北澤氏は末尾にこう記している。″畠山重忠一族の男たちの行末は、不思議なほど明らかでない。一族の多くが、滅びもせぬのに、姿を消した″とある。今後の検証に注目したい。
 筆者の北澤さんは長野県大町市生まれ、さきたま出版会はさいたま市にある。畠山一族に対する視点が実に暖かい。重能にしろ、重忠にしろ、武勲に優れているだけではなく、人情にも厚い。また、武蔵国の自然描写や当時の武家生活の描写が素晴らしい。当時随一の動力であった馬への愛着溢れた表現も見事である。
 読み終わって、亡くなった父や兄も性格が重能、重忠に共通ているところが感じられ、鮎瀬・畠山家が重能、重忠の子孫であるという実感が沸いてきた。
 わが、牛久・畠山家の子や孫にも伝えていきたい本である。

2014年11月25日火曜日

2014年、我が人生ハイライト(年賀状)

                             (左上は住所録)
 年賀状の季節である。
私は1980年から年賀状に、その年の自分と家族の出来事を書いてきた。題して「人生ハイライト」である。
 今年もいろいろな事があった。3月には飲み会の帰り、自転車で転倒し、額に怪我(7針縫う)をした。4月には予て購入しておいた墓地に墓石を建てた。12月には牛久在住の友人、中居さん(鹿島建設OB),中田さん(海上保安庁OB)と能登半島に行く予定である。
 その中で最も大きな出来事は10月、オーディオ誌「ステレオ時代vol,3」の取材に応じた事である。これはTDK・広報部の要請によるものである。定年退職して12年経った今、これは実に名誉なことであった。(会社に小生を忘れてない方がいらっしゃる)しかも取材内容が「カセットテープの商品企画」の裏話である。私が人生で最も油の乗り切った頃の話である。掲載誌は12月下旬に店頭に並ぶとのこと。待ち遠しい。
 
 ところで、この「ステレオ時代」、vol,1が発売されたのは昨年12月である。スマホ全盛の時代、オーディオ雑誌など新たに出版して商売になるのだろうかと思った。だが、中を見ると、懐かしいオーディオの名器が美しい写真とともに掲載されている。主な購入層はシニア族とのこと。いずれにしても編集スタッフのオーディオに対する愛着には感服する。

 年賀状を書くため、住所録を見ると、470名ほど。この中で年賀状を交換していただいている方は200名ほどである。

2014年11月13日木曜日

世界一のイケメン、名ピアニスト。ユンディ・リ

11月10日(月)久しぶりにサントリーホールに行った。
中国生まれのピアニスト、ユンディ・リを聴くためである。
新潟の友人である伊藤さんからチケットをいただいた。
 
(伊藤さんは新潟放送OB。最初にお目にかかったのは1962年<昭和37>である。この年、大阪国際フェステバル協会主催で「バイロイト音楽祭」の引越し公演が行なわれた。この時、伊藤さんと知りあったのである。52年にわたる長いお付き合いである。)

ユンディ・リ、1982年中国重慶生れ。32才。2000年のショパンコンクールでスタニスラフ・ブーニン以来15年ぶりに第1位優勝。チラシを見ると「パリ、ロンドン、ウィーン、世界で絶賛されるユンディのベートーヴェン。待望のアンコール公演」とある。聴きものはベートーヴェンらしい。この日の公演も最期に「熱情」がラインナップされている。(当日、変更があり「熱情」は前半の最後に演奏された)

公演を聴いた印象を私は伊藤さんにこう報告した。「洗練された音と技術、スケールの大きさと並外れたピアニストだと思いました。ただ、難をいえば、どの作品も彼のテクニックを披露するための素材のように処理されているような印象を持ちました。特にベートーヴェンなど。SL(蒸気機関車)であるべきものが新幹線のようにスマートでした。」

ただ、新世代の名演奏家はえてしてこういう印象を与える。
世紀の大指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンも「何を演奏してもカラヤン美学に染まる」といわれた。

そして気がついた。カラヤンとユンディは美学というところと、イケメンというところが共通している。
超満員の当夜のサントリーホールは女性ファンの熱気に溢れていた。(休憩時間の女性トイレの長蛇の列。エクセレントなサントリーホールには似合わない)

 

2014年11月10日月曜日

定年後の体力維持。掃除のバイト、散歩、グランドゴルフ

(グランドゴルフ場は芝生とは限らない。”写真は千葉・九十九里のコース”)

定年後、12年。体力維持も兼ねてスーパーの掃除、グランドゴルフを行なっている。

 体力作りの中心はスーパーの掃除のバイトである。(牛久市シルバーセンターの紹介)月に10日間、8時~11時まで、店の内外、駐車場の掃除をする。3時間で8,000歩くらい歩く。特に体力を使うのはトイレの掃除。床、壁、便器、全て手拭きである。デッキブラシ等を使用するよりも手拭きの方が体力を使う。もう10年近く続いている。

 5年ほど前、同じ掃除の仲間から「グランドゴルフ」を勧められ、道具一式いただいた。掃除の無い日はできるだけグランドゴルフの練習に参加する。グランドゴルフはゴルフのパター競技と思えばよい。野球くらいの大きさのボールをクラブで打ち、ホールポストに入れる。スタートマットからホールポストまでの距離は50m、25m、15mと3種類。どれも3打で入れるとパーである。打数の少なさを競う。距離が短いからといって侮ってはいけない。ゴルフ場のグリーンと違って、コースは芝生だけではない。凹凸あり、傾斜あり、砂利などの障害物あり。
 ゴルフの下手な私はグランドゴルフをやっても、やはり下手。ただ、どう真っ直ぐ飛ばすか、どう距離を合わせるか、どうコースを読むか、実に面白い。ゴルフほど体力を必要としないので、歩ける限りは続けられそうだ。

 昨日(9日)牛久市体育協会の主催で「エンジョイフェスティバル」があり、老若男女がバトミントン、卓球、テニス等の競技を楽しんだ。私もグランドゴルフに参加した。昨夜男子フェギュアで命がけでプレーした羽生結弦君を思い描きながら一打入魂でのぞんだのだが、20位までの入賞もならなかった。

2014年11月1日土曜日

バッハ、300年前の音楽を聴く

(CDのお土産。右下が人気のバブル・チュア)

先月(10月16、17日)高校時代(秋田・鷹巣農林)の同窓生とゴルフをやった時、阿部秀夫君からプレゼントをいただいた。中味はCDだった。先週、2週続いたゴルフが一段落したので、CDを聴いた。バッハ(1685ー1750)である。名曲のさわりが24曲入っている。「対位法」の頂点を極め、「形式美」を重んじた音楽は素晴らしい。ドイツ土産だった。

阿部君は高校を卒業すると、ドイツに留学。養豚業を学んだ。阿部君にとってドイツは第二の故郷なのである。今回は奥様と一緒だったという。留学先からバッハの生まれたアイゼナッハ(テューリンゲン地方)は近い。バッハハウスに寄った。入館者に人気なのがバロック時代の鍵盤楽器のコンサートと〝バブル・チェア″に揺れながら聴くバッハの音楽だという。いただいたCDの音楽はバッハハウスが所有する1970年代の楽器を使用したものであり、懐かしい音がする。また録音が素晴らしい。中学の音楽の時間、バッハは「音楽の父」と教えてもらったが、その事を実感した。

高校時代、小生と阿部君は同じ文芸部だった。小生は文芸部の他に音楽鑑賞部を作って、月に1回レコードコンサートを開催した。阿部君は小生のクラシック音楽好きを知っており、バッハハウスからCDのお土産を買ってきたのである。

阿部君の養豚場で育てられた豚は全て東京に出荷される。”江戸で相撲取る秋田のトン”である。
現在、阿部君は養豚業は息子さんに譲り、悠々自適の日々である。

2014年10月25日土曜日

2週続き、ゴルフの醍醐味を味わう


16日の宍戸ヒルズカントリー(茨城)に続き、24日は塩原カントリークラブ(栃木)でゴルフをした。
昨日までの雨がウソのような晴天。日本各地からTDK・OB(テープの営業マン等)17名が集結。

塩原カントリーはプレー代が宍戸ヒルズの半分以下だがコースは素晴らしい。
第1打から精魂込めてプレーする。最初の3ホールは、緊張のあまり、クラブを振るのが怖い。50センチのパットも打ち損じる。5ホール目あたりから冷静さをとり戻す。先週プレーしたかいあって、ドライバーショットは真っ直ぐ飛ぶ。スコアは55、56。先週のスコア50、65から4打良かった。順位はローハンディの恩恵もあり、4位だった。次回は3位入賞を目指したい。
 それにしてもゴルフは体力と頭脳の両方を駆使する素晴らしいスポーツである。その事を改めて実感した。
 修了後は「那須塩原ホテル」の温泉につかり、宴会に臨む。幹事の高橋さんありがとう。

 25日も晴天。吉野さんの車で「日塩(にちえん)もみじライン」をドライブ。白滝ドライブインで観た日光連山、白滝は素晴らしかった。また、富士見峠からは、富士山も見え、紅葉見物の観光客が歓声を上げた。吉野さん、牛久までの往復運転ありがとう。
(白滝ドライブインから日光連山をのぞむ)

2014年10月17日金曜日

名門、宍戸ヒルズカントリー・西コースでプレー

(左から筆者・畠山、黒澤、佐藤、簾内)

高校時代の同窓生のゴルフコンペが昨日(16日)開催された。学校出てからなんと54年である。
秋田、群馬、埼玉、茨城から8名が参加し、熱戦を繰り広げた。
今年の幹事は同窓生で一番ローハンディの簾内隆一君。
場所は2003年から「日本ゴルフツアー選手権」が開催されている、宍戸ヒルズカントリー・西コース(茨城県・笠間市。昨年もここでプレーしたが東コースだった。)名門コースだけにクラブハウスも立派。年金生活の自分にはなんとも晴れがましい。

キャディ付である。最近はキャディ付のゴルフ場は少なくなってきている。付いても、年配者が多い。しかし、ここのキャディさんは若い。その点でも大したものである。
コースはやはり難しい。バンカー、池が待ちかまえている他、コースは起伏があり、グリーンも難しい。ところが前半はなんと50で回る。半年ぶりにプレーする小生としてはできすぎである。ところが後半馬脚が現れる。65である。課題はアイアンショットである。ウットはまずまずだったがアイアンはヒドイ。半年もやっていなければこうなる。
料金は昼食代を含め、2万円近かった。だが、その価値は十分あった。

夜は笠間の和風旅館に泊まる。
こちらはゴルフ場と対象的に極安。朝食付で4千円。夕食は仕出、4千円。飲み会には山形から村上君が一升瓶をもって駆けつけ、宴会は深夜まで続いた。

2014年10月12日日曜日

世界をリードする日本の電子部品メーカー

(電子部品メーカーの小間。TDK、ローム、村田と続く)

11日、千葉・幕張で開催されているCEATEC(シーテック)JAPANに行った。私が現役の頃、この展示会はエレクトロニクスショウとよ呼ばれ、展示品の中心はラジオ・テレビ機器が中心で、会場も東京・晴海だった。2000年から、データ機器等が加わり、CEATEC JAPANとして再スタートした。
出展企業は約5千社、入場者は約15万人である。

会場に入って驚いたのは私が現役の頃、メイン出展社だった松下(パナソニック)、東芝、日立、ソニー、パイオニア等の電子機器メーカーの影が薄くなり、TDK、村田、ロームなどの電子部品メーカーが主役に踊りでていたことである。

これは株価にも顕著に現れている。(11日、終値)
 パナソニック 1,218 東芝 456 日立 781 ソニー 1,882 パイオニア 273
 TDK 5,630 村田 11,265 ローム 6,0520 京セラ 4,709

つまり、セットメーカーは韓国メーカーに首位の座を奪われたが、電子部品メーカーは日本のメーカーが主力製品で首位の座にあるからである。さらに昔は電子部品の用途といえば、ラジオ・テレビだったが、今は自動車もスマホも電子部品がないと動かない。

電子部品メーカーの出展では、村田製作所のチアリーディング部がマスコミでも話題になり、会場でも黒山の人だかりだったが、ロームのROHMANTIC(ローマンティック)というパンフレットにも感心した。ローマンテックはロームとロマンティックの造語だそうだ。会場では活動の一環として同社の本拠地である京都の名所を案内するパンフレットが無料配布されていた。

かつてオーディオファンの端くれであった小生としてはパナソニックが同社のオーディオブランド”テクニクス”を復活させたのは歓迎。ただ、機器が数十万~数百万と高い。今後の展開に注目したい。
(話題をさらった村田チアリーディング部。ジャイロセンサでバラスをとり、倒れない、ぶつからない)

2014年10月6日月曜日

畠山家、北條家、安房小湊に集う

(宿中屋の海岸から見た夕焼け)

私の息子は2002年結婚した。
結婚相手は宇都宮在住の北條家のお嬢さん。
歴史を紐解くと、畠山家と北條家は鎌倉時代、ご縁があった。

息子の結婚が決まった時、私の兄が「栃木の北條さんといえば、もしやあの北條さんでは?」と・・・。その通りだった。兄同志が東京農業大学で学び、同じ学生寮に入っていたのである。

息子に3人の男の子が誕生した。10才、8才、3才である。
10才の長男とはキャッチボールをしても、もうかなわない。彼の方が球が速い。

久し振りに北條家のご両親と一泊旅行をした。
3日~4日。千葉・房総、安房小湊・宿中屋である。
旅行の手配は息子が行なった。
旅館に到着すると女将が私と家内の写真を撮る。食事前にはフルートの演奏会。幼児から老人まで楽しめるものだった。食堂に入ると集合写真。風呂も料理も素晴らしかった。帰りには女将が撮影した写真を3家族(私、息子、北條家)に渡した。心にくい演出である。

3ヶ月前、この旅行が決まってから北條さんのお父さん、息子と3人で酒を汲かわすこの日がくるのを指折り数えて楽しみにしてきた。しかし、食事をとりながらの2時間でギブアップ。2次会成らず!
(畠山・北條家の3人の孫)

2014年10月2日木曜日

ベテランズ(老人)クラブ旅行、観光やな「ひのきや」

昨日(1日)は小生が住む牛久市刈谷町、ベテランズ(老人)クラブの旅行だった。
日帰りで行き先は関東の嵐山といわれる、栃木県那須烏山市。那珂川上流にある観光やな「ひのきや」で鮎を食しながらの宴会。
この旅行、毎年行われているが往復のバスは市のバスを使用するので会費はたったの3,000円。44名の定員は直ぐに満席。(2011年10月にも、その模様を掲載した。)

8時、刈谷町出発。11時、「ひのきや」に到着。
料理は鮎の刺身、天ぷら、炭焼と鮎づくし。今回もやっぱり美味しかった。
”観光やな”は、故郷創生の目玉になりうると思った。数年先は外人観光客で賑わうかもしれない。

今回は往復とも小生の筋向いにお住まいの澤岡さんの隣席だった。澤岡さんは大手電機メーカーのOB。小生より2才年上である。筋向いといっても日頃のお付き合いがほとんどないので、「今でしょう」ということで、故郷の話(澤岡さんは岡山のご出身)、ご家族の話、勤務時代の話、老後、これからの話と根ほり葉ほり伺って実に楽しく実りある一時だった。

「ひのきや」での集合写真撮影の時、「(人生)最後の写真!」と誰かが言ったので場はドット沸いた。
「ひのきや」の後、「烏山和紙会館」、銘酒一人娘蔵元「山中酒造店」により、5時30分、バスは無事刈谷町に到着した。

2014年9月25日木曜日

産地直送の鮮音!「霧島国際音楽祭・イン・龍ケ崎」


9月20日、午後2時から牛久市の隣町、龍ケ崎市で「霧島国際音楽祭・イン・龍ケ崎」が開催された。
 今年の7月~8月、鹿児島で行なわれた音楽祭の模様を録音プロデューサーを務めた常盤清さんにCDを再生しながら紹介していただくという企画である。
 主催は「NPO法人龍ケ崎ゲヴァント・ハウス」。小生も役員になり、お世話になっている。「霧島国際音楽祭・イン・龍ケ崎」というタイトルは小生がつけた。
 会場には50名が詰めかけ満員となった。無料とはいえ、東京都心でもない地方都市のCDコンサートに50名が駆けつける。これは信じがたいでき事である。

 そのコンサート、素晴らしかった。1にも2にもCDの音が素晴らしい。
録音を担当された常盤さんは1970年、録音プロデューサーとして日本を代表する菅野沖彦氏が設立した「ジャパン・オーディオ・ラボラトリー」に入社。1973年に日本フォノグラムに移籍し、数々の名録音を行なった。
 
 最初に演奏されたのは藤原浜雄のヴァイオリン(高関健指揮・鹿児島交響楽団)が奏でるサン=サーンスの「序奏とロンド・カプリツィオーソ」。その音の瑞々しさ。まさに産地直送である。ヴィオリンとオーケストラの音のバランスも見事。
 録音技術を通り越して、録音芸術の域を感じさせた。

 ここ数年、私は音楽と正面から向き合う事が少なく、パソコンをやりながらのバックグランドミュージックとして聴くことが多い。しかし、常盤さんの録音した音を聴いて、やはり音楽は正座して聴かなくはいけないと思った。演奏家も録音スタッフもある意味命をかけているのである。

2014年9月15日月曜日

飲んで唄って4時間!「東京伊勢堂会」

(右から2番目、小生ではありません。小生は”オンチ”です)

昨日、銀座で平成26年度「東京伊勢堂会」が開催された。
これは私の母校、秋田県立鷹巣農林高校の同窓会である。
鷹巣農林は農業、林業、普通、家庭の4科からなる総合高校である。校舎は林業科の為の壮大な実習林に囲まれていた。この実習林を〝伊勢堂の杜″と呼んでいる。「東京伊勢堂会」の名称の由来である。

会場は銀座7丁目にあるライオン銀座6階「クラシックホール」。ここに46名が集合した。
お偉いさんの挨拶が終わると、飲めや唄えの大宴会。酒はビール、ウィスキー、日本酒、ワインなんでもござれ、会長の布田さんはキングレコード出身、それにプロの女性歌手、麻里侑加も加わる。演歌もあれば秋田民謡もある。銀座のど真ん中が秋田の宴会場と化す。12時に開会した同窓会が終了したのは16時。なんと4時間に及ぶ大宴会。

「東京伊勢堂会」の幹事長は私より6年後輩の岩崎準一郎さん、副幹事長は8年後輩の本橋芳美さん。会の案内から会場セッティング、名札の作成、席のセッティング、式次第の作成とその苦労ははかりしれない。岩崎さんに「良くやるね」というと「同窓生の喜ぶ顔が見たいから」との事。

翠緑萬古 伊勢堂の杜 幽禽四時 友呼ぶ処・・・
(すいりょくばんこ いせどうのもり ゆうきしじ ともよぶところ)
兎追いし かの山”を作詞作曲した高野辰之、岡野貞一コンビが作った校歌を高らかに歌い、同窓会は幕を閉じた。また来年会おう!岩崎さん、本橋さんありがとう!
(学生服姿でお酌をして回る幹事長の岩崎さん)
(秋田・能代出身の麻里侑加さん。”おばこ夢人生”で頑張っている)

2014年9月12日金曜日

地域創生にハイテク産業育成の視点を!


昨日の日本経済新聞に胸のすくような記事が掲載された。

スマホ部品増産へ100億円。ー村田製作所、福井に新工場ー

電子部品の世界トップメーカーともいえる村田製作所が、スマートフォン(スマホ)向けの部品が好調で福井県に100億円投資して新工場を作るという記事である。また、今後2年間で約100人の従業員を採用するという。

さらに勇気づけられるのは村田信夫社長のコメントである。
「最先端部品は海外生産が難しく、最も技術基盤が整った福井で増産する」と西川一誠知事に語ったとある。

つまり、日本の日本海側にある福井県の工場でなければ、スマホ向けのハイテク部品は作れないという話である。
今、安倍政権あげて、「地域創生」に取り組もうとしている。
しかし、村田のような優れた民間企業があれば税金を使わずに、地域創生が具体化できるのである。輸出額も増えるし、一石三鳥である。

「地域創生」というと補助金事業に目が行きがちだが、ハイテク産業の育成、民間企業との協力という視点も忘れないで欲しい。
 
 村田が示したように日本にはかけがえのない優れた人的資源がある。

2014年9月6日土曜日

朝日が夕日に?後手後手!トップの顔が見たい

昨夕、朝日新聞10月以降、購読中止の電話をした。
理由は従軍慰安婦問題の件もあるが、「池上彰の新聞ななめ読み」を見送ったからである。報道の自由を標榜するマスコミ、そのマスコミを代表する朝日新聞がこんな事をするなんて信じられない。
今朝、朝日新聞を見たら一面右肩に「池上彰さんの連載について 読者におわびし説明します」とある。これは期待を持てると思い、38面を見て驚いた。一民間企業に勤めていた小生には理解できない。
 一面でリードするような重要な記事であれば、なんで38面なの?なんで社長がでてこないの?
38面では現場での池上さんとの経緯が説明され、この釈明をした人物として、最後に「東京本社報道局長」の名前が掲載されている。今回の件は現場の出来事と朝日は判断しているようである。
 小生が知りたいのは現場での経緯もそうであるが、こういう体質を産んだ朝日の建て直しなのである。その為には社長の顔が見たい。こんなケースが一般企業で起こった場合、マスコミはどうするか?記者会見を求める。テレビ局は社長や当事者をカメラをかついで追いかける。
 今回の件で感じてる事はマスコミ同志の馴れ合いである。他の業界の事や政界の事であれば争うように取材合戦をするのに週刊誌を除いては平穏である。

 私は長年、朝日新聞を購読してきた。
きっかけは朝日文化財団がはじめた「大阪国際フェステバル協会」の催事である。昭和42年同協会はが主催した「バイロイト音楽祭」を聴く(観る)ために大阪まででかけた。感動した。このような催事ができる朝日新聞は素晴らしいと思った。

2014年9月4日木曜日

「こんにちは赤ちゃん」梓みちよさんの思い出

(写真、梓みちよさん。小生撮影。〝昭和41年3月撮影″)

古い社内報をめくっていたら「梓みちよ」さんの写真がでてきた。
その社内報の発行年月を見ると、昭和41年4月である。

当時、私は社内報「TDKタイムズ」の編集担当だった。
TDKは当時、「シンクロテープ」を販売していた。カセットテープ全盛の前でオープンリールテープ。ブランド名もTDKではなく、「シンクロ」だった。「シンクロファン」というタイトルで毎月、TDKシンクロテープを愛用しているタレントさんを取材した。東海林太郎、園まり、丸山明宏(現在の美輪明宏)等、多士済々。梓みちよさんもその中のお一人・・・。

この時、梓さん22才、小生23才。取材は写真撮影、インタビューと約1時半ほどかかった。年令が近いこともあり、彼女を身近に感じた。その後、銀座コリドー街にあるライブハウスで彼女のコンサートを聴いた。100名ほど入ると満席の小さなお店だった。この時、彼女の視線を感じた。(彼女は私の顔を覚えていたようだった)

梓さんは昭和38年、「こんにちは赤ちゃん」で大ブレイクした。翌年だったろうか。日劇のクレージーキャッチショウに出演されたと記憶している。
舞台袖から梓さんは乳母車を押し、唄いながら登場した。舞台が一瞬にして陽春のように明るくなった。その時の爽やかな印象は今でも忘れない。

平成26年の今、私は72才。6人の孫がおり、禿げ頭、ヨボヨボのジジィだが、梓さんはスターとして第1線で活躍されている。ますますのご活躍を期待したい。

2014年8月25日月曜日

金食い虫、マイカーとどう付き合うか?

(私の愛車。もう13年。写真ではわからないがバンパーは傷だらけ)

2年に一回車検の年である。
10万円くらいかかるかな?と心構えはしていた。ところが、結果は16万5千円だった。1月の定期点検が13万円。合計すると29万5千円。これに税金などを加えると35万円になってしまう。ガソリン代等を入れると40万を超す。老夫婦だけの年金生活としてはトンデモない!

 ところで、今乗っている車は三菱のエアトレック。13年前、息子が選んだ車である。ゴルフにも里帰り(秋田)にもピッタリ。満足している。ただし、運転手が不器用なのでバンパーは傷だらけ。そろそろ、買い替え時かと思う。息子にこの事を話たら「お父さんには軽は似合わないよ」ときた。理由はわからないが嬉しい返事だった。

年間40万もかけて、月何キロ走っているんだろう。改めて調べてみると420キロである。もったいない。そういえば、最近ゴルフの回数もメッキリ減っているし、秋田に帰る時もガソリン代と高速代が高いので深夜バスを利用したりしている。その上、生活費も切り詰めるとなったら本末転倒である。

私も72才、車を買換えるとしても、費用対効果、収入を考えたら次の車検あたりで維持費の安い中古車を買うのが分相応なのかもしれない。

私より10才年上の近隣の上司が最後に乗っていたのはベンツだった。しかし、75才過ぎる頃から体調不良でゴルフの回数が減り、ゴルフに行くにも私が送迎する事が多かった。上司は80才で亡くなった。ベンツが勿体ないというか可哀想だった。

2014年8月20日水曜日

われら同人誌「いしぶみ」、国立国会図書館へ


私が住んでいる牛久市刈谷町。
ここに「刈谷いしぶみの会」があり、年一回、同人誌「いしぶみ」を発刊している。
会長は昭和5年生まれの鈴木敏正さん。17年生まれの小生(畠山)と19年生まれの下遠野さんが事務局を仰せつかっている。

平成24年発刊された「いしぶみ6号」を国立国会図書館に納本した。
この事を会で報告したところ、「納本する必要はないのではないか」という声があったので、7号と8号は納本しなかった。
 先日、国立国会図書館から「平成25年から最新号まで送付をお願いします」というお手紙を頂戴した。これには驚くとともに、感動さえおぼえた。地方の同人誌も積極的に収集して下さっているのである。

 国立国会図書館のホーム頁をみる。その設立理念を見ると「真理がわれらを自由にする」とある。″従来の政治が真理に基づかなかった結果悲惨(*戦争)な状況に至った。日本国憲法の下で国会が国民の安全と幸福のために任務を果たしていくためには調査機関を完備しなければならない″とも。(*筆者挿入)

 「いしぶみ」には一般市民であるわれわれの真理が披露されている。
一般市民の真理をも大切にしょうという国立国会図書館の姿勢に敬意を表するとともに、同人各位の今後の作品に期待したい。


2014年8月16日土曜日

お盆に”孫”がやってきた。

(トランプゲームに興じる孫達)

昨日(15日)、お盆ということで孫達がやってきた。
いつもは家内と2人きりの静かなわが家がお祭りのような賑やかさになった。

私には娘と息子がおり、それぞれに3人の子供達がいる。つまり、6人の孫がいるわけだ。
昨日は5人の孫が勢ぞろいした。嬉しい事に娘婿も来てくれた。

16時に孫達に囲まれ、息子と娘婿とビールで乾杯!至福の一時がはじまった。
テレビでは高校野球。娘が卒業した大学の付属高校が大活躍ということもあり、宴会はおおいに盛り上がった。

子どもは子ども同士ということで、食事後トランプゲームがはじまる。
娘と息子の孫達は久しぶりに会うのだが、まったく違和感なく同化している。

〝世界の平和も家庭の一歩から″まずは家庭の平和が大切である。
先祖を敬い、家族の大切さを認識させる「お盆」は日本の大切な風習の一つである。

それにしても孫はかわいい。

2014年8月9日土曜日

銀座の「おもてなし」

       (銀座・ソニービル前の屋外大水槽)
 
 8日(金)、銀座にお出かけした。
10時30分、歌舞伎座近くの喫茶店でNさんにお目にかかる事になっている。いつもNさんに昼食をご馳走になる。今日もそのような流れになるに違いない。申し訳けないので、お土産を買おうと思った。何がいいかな・・・?
Nさんは79才とご高齢である。「千疋屋」が目に入った。そうだ果物にしよう。店内に入って驚いた。メロンなど、ほとんどが万円である。手頃なのがあった。オレンジ、1個650円。普通の果物店で買うと100円代である。産地や、種類など厳選されているに違いない。
 「へえ、千疋屋ですか。宮内庁ご用達のお店ですね。ありがとう」さすが、Nさん、千疋屋の事、良くご存知だった。

 Nさんとお別れした後、銀座・三越による。
 小生、誠に申し訳けないが三越で買物はしないが時々トイレをお借りしている。ここのトイレ、いつ入っても掃除が行き届いている。大のトイレを覗いて驚いた。使用説明表示が英語、韓国、中国語、点字と万全。2020年の東京オリンピックを控えて、このような「おもてなし」は今後ますます充実していくに違いない。

 ソニービルの前は黒山の人だかり。「屋外大水槽」である。今年、国立公園に指定された慶良間諸島の魚達が悠々と泳いでいる。ナポレオンフィッシュの名前で親しまれている体長1m超のメガネモチノウオには驚いた。

 銀座の後、神田で現役時代、オーディオ・ビデオのイヴェントでお世話になったNさんと会い、久しぶりに情報交換。こちらのNさん、64才。大手電気メーカーのアドバイザーとして頑張っているとの事。頼もしい限りである。
         
(銀座・三越のトイレの表示。各国語が並び、さすがである)

2014年8月7日木曜日

一流新聞に「精力食材」の全面広告


昨日、朝刊を開いてアレと驚いた。
「精力食材」の全面広告が掲載されている。
(スポーツ新聞ではありません。一般紙ですよ!)

私が購読している新聞はインテリ層の読者が多く、教師の方々の購読者も多いと認識している。
私が子どもの頃、新聞は記事だけではなく広告の頁も読めば為になる。と、先生に教えられた。

今は「精力食材」も教養に結びつくというのだろうか?

従軍慰安婦記事掲載についての見解と同じように、この件についても見解をおうかがいしたい。

この日は一面トップに日本を代表する清純派女優のインタヴュー記事も掲載された。
「精力食材」の全面広告はこの女優さんに対しても失礼なのではないか?

というか、小生も72才。世の中の常識に疎くなってしまったのかもしれない。


2014年7月31日木曜日

古希の祝いに〝バイロイト〟というお嬢さん

《写真》バイロイト行きの夢破れ「飲み会」に興ずる筆者(左下)。25日、TDK時代の同僚・高橋氏(右)と。

美しい封書が届いた。
差出人を見ると、ピアニストのT嬢である。
中にコンサートのチラシと招待券が入っている。

私が衝撃を受けたのは、同封されていたお手紙だった。
「8月、父を連れてバイロイトに行ってきます。今年度からはじまったインターネット販売で執念でチケットを入手しました。古希祝いです。」
T嬢のお父上は放送局でご活躍されたクラシック番組収録エンジニアである。お父上にとっては願ってもない古希の祝になると思う。なんという父娘の愛情であろう。ワグナーの楽劇にでてくる父娘の情愛を連想してしまった。

私もクラシック音楽ファンの端くれである。
生涯に一度はワーグナーが自分の楽劇を上演する為に作ったバイロイトに行くのが夢だった。
どうやらその夢は夢で終わりそうだ。

最近、私の楽しみは「音楽会」ではなく「飲み会」である。7月21日、秋田で中学の同期会、25日東京・御徒町でTDK営業部・OB会、29日牛久でTDK・コアOB会、明日8月1日は東京・銀座でテープ業界・OB会と続く。

しかし、待てよ、アルコールに陶酔するのも良いが、音楽に陶酔する事を忘れてはならない・・・。
T嬢の手紙を見てそう思った。

2014年7月23日水曜日

深夜バスで秋田へ。中学同期会

(由利本荘のシンボルである鳥海山と「カダーレ」。そして僕の中学時代)

6月、実家の「畠山家兄弟会」があったばかりなのに、こんどは(7月21日)中学の同期会である。

年金生活の身である。東京から、会場である秋田・由利本荘市までの交通費を調べる。新幹線・飛行機・マイカーはともに往復3万円前後。最も安いのは深夜バスである。深夜東京を出発して早朝、秋田に着く。ルートは3つある。①東京・由利本荘往復1万7千円くらい。②東京・横手往復+横手・由利本荘バス往復=1万5千くらい。③東京・酒田+酒田・由利本荘JR往復=1万3、800円。
一番安い③で行く事にした。この料金だと、同期会の会費7千円を払っても新幹線往復より1万ほど安い。ところがである。深夜バスは狭くて寝る事ができない。しかも長時間である。酒田行きは東京出発が22時、酒田着が8時45分。なんと10時間45分の旅である。案の定、乗客は元気の良い若者ばかり。しかも女性客の方が多い。
しかし、この深夜バス。素晴らしかった。久しぶりに見る大東京の夜景。(深夜バスは窓のカーテンが締まっているので、隙間から外の景色を覗く)どこまでも続くラブホテルのネオン。最大のプレゼントは早朝の湯殿山越え。窓越しに出羽山々(羽黒・湯殿・月山)の絶景が広がった。

早目に本荘駅についたので、駅前にできた由利本荘市文化交流館「カダーレ」に寄った。奇抜な外観と立派な図書館に仰天した。この図書館には昭和29年、本荘町が本荘市になってからの「市政だより」も保管されている。もしや?と思って第1号をめくってみると、祖父・畠山敬治が写真入りで掲載されている。当時祖父は石沢村の村長で本荘町に合併する経緯を語っている。

「カダーレ」とはギリシャ語かと思ったらこの地方の方言「かだれ」に因んでいるという。この地方では「仲間に入る」ことを「かたれ」というのである。
「カダーレ」は新居千秋の設計であり、2012年度・日本建築家協会賞を受賞したという。郷里・由利本荘にもこのような斬新な交流館を作る熱意があるのだ。交流館を起爆剤としてさらに発展して欲しい。

肝心の「石沢中学同期会」は午後2時から市内「安楽温泉」で開催された。宴会の前にゆっくりと温泉に浸かった。参加者は22名。往年の秋田美人にお酌をしていただき、酩酊。帰りは象潟でTDK時代の友人・今野隆君にお目にかかり、酒田発20時のバスに乗車。翌朝、窓越しに巨大な東京スカイツリーが姿を現す。6時20分、バスは無事、東京駅・鍛冶橋に到着した。

2014年7月17日木曜日

マゼール逝く!吉田純子さんの見事な追悼文。

吉田秀和(2012年、99才で歿。文化勲章受章)亡きあと、音楽評で最も気にいっているのが朝日新聞編集委員の吉田純子さんである。

7月15日、指揮者ロリン・マゼールが84才で亡くなったという記事が朝日新聞に掲載された。追悼記事を吉田さんが書いている。その記事の結びを引用する。
 「カラヤンの後継と目されつつ90年、ベルリン・フィル芸術監督の座をアバドに譲った。そのアバドも1月に逝去。アバドは調和の貴さを、マゼールは批判を恐れず己を貫く勇気を。それぞれに人生を賭し、次代への遺言を完結させた。」
 短い文章の中でアバドとマゼールという2大巨匠の指揮スタイルと業績を見事に表現している。

 私の身近にも素晴らしい音楽表現者がいる。
 私は月に2回、隣町にある「龍ケ崎ゲヴァント・ハウス」のCDコンサートを聴きにいく。私の前の席に高野睦さんが陣取っておられる。高野さんの7月8日のブログの一部を引用する。
 「ヂャーン、チャイコの4番!トランペットのファンファーレで始るコレもへ短調なのでした。ベルリン・フィルを叱り飛ばしているオザワ!両手で藁塚から藁を引き抜くようにして、音塊を取り出しては投げ、投げては跳ねる。チャイコフスキーが踊っています。(もちろん画像はありません。)いやー、コーフンしました。スピーカーの前のわれわれも大喝采。汗までかいていました。」

 私もコンサートの模様を時々ブログなどに書くが、感覚的な印象を文章にするのは実に難しい。
吉田さんや高野さんの文章を読んで、自分の未熟さを感じるとともに、プロの物書きの方々の次元の違いを思いしらされるのである。

2014年7月10日木曜日

小澤征爾・水戸室内のベートーヴェン第7番


2010年、食道ガンの手術を受けた小澤征爾が奇跡のカンバックを果たしている。
去る5月25日、水戸市で自らが音楽監督をしている水戸室内管弦楽団を指揮し、ベートーヴェンの交響曲第7番を指揮した。この模様は茨城県限定でTV放送され、茨城県在住の小生はその恩恵にさずかった。

音楽は世界共通語である楽譜に従って演奏される。小澤が指揮しようが、誰が演奏しようが、変わりはない。ベートーヴェンはベートーヴェンではないかという見方もある。
ただ、音楽を聴き進んでいくと、そのベートーヴェンも演奏者によって印象が違うことに気がつく。
幸い、日本ではベートーヴェンの第9番「合唱」がプロの演奏者のみならず、身近な町の演奏者によっても演奏される。クラシックファンでなくとも同じ曲でも演奏者によって印象が違う事を体験できる。

5月、水戸と川崎で行なわれた小澤征爾・水戸室内によるベートーヴェンの第7番は多くの評論家が最高の名演と評価した。それは欧米の古今の名指揮者の演奏者と比較してもひけをとらないというものだった。

私も小澤が表現した「舞踏の化身」と評されるこの交響曲第7番の躍動感に興奮してしまった。
小澤征爾は24才の時、スクーターとギターを持って貨物船に乗り、渡仏した。以来「西洋音楽の神髄をどれだけ見極められるか。その実験だ」という基本姿勢でクラシック音楽に立ち向かってきた。
その成果がベートーヴェンの第7番だった。

小澤征爾(1959年生まれ。文化勲章受章。ボストン交響楽団、ウィーン国立歌劇場音楽監督歴任)

2014年7月6日日曜日

偉大な母の愛(野口英世、照国)


 先月「兄弟会」の時、兄から”横綱「照国」物語”(無明舎出版)という本をもらった。ちょうど同じ時期、弟から”野口英世の母 シカ”(白水社)を読むよう勧められた。
 横綱「照国」は秋田県出身。24才で横綱になった。「相撲さ、行くな!相撲さ行けば、はたかれる」。と母は相撲取りになることに反対。「あばぁ(母さん)を助けたい。早く一人前の関取になって仕送りをしたい」。
 野口英世は福島県出身。3才の時、囲炉裏に落ち、左手におおやけど。5本の指が癒着して木のコブのようになってしまう。「清作(英世の幼名)ごめんな。母がすっかりかたわものにしてしまった。観音様。この愚かな母を許してくだされ」「母ちゃん、俺は大人になって絶対に母ちゃんに楽させてあげるんだ」
 両方とも母子の愛情の深さを語り、度々目頭が熱くなった。
 
 そして自分の母を思う。
 私の家は秋田の小地主だった。終戦、農地改革という動乱期に母は5人の子供を抱えていた。父、祖父・祖母、一時期、叔父・叔母も同居していたので11人の大家族だった。現在母は96才。健在である。

 この2冊の本を読むと、日本は偉大な母の愛によって継続しているように想う。この伝統が今後も継続し、日本が永遠に繁栄し続けることを願う。

 ところで野口英世を読んで、義兄の事を連想した。
 昭和10年、秋田県出身。京都大学大学院卒。フルブライト留学生として渡米。スタンフォード大に学び、大阪大微生物研究所に勤めた後、再渡米。アリゾナ大学医学部教授となる。
 

2014年7月2日水曜日

友人・中田さんの叙勲

(受章された中田さんと、シンガポール旅行の記念写真。左から中田さん、自分、中居さん)

友人の中田貴己さんが、今年の春、瑞宝小綬章を授与された。
中田さんは海上保安庁に勤務され、巡視船に乗船された。国を守るため、体を張ったのである。
中田さんとは5年くらい前、牛久市の「松本英語塾」で知り合った。今では学友の域を超え、友人と認めあう間柄である。その証拠に昨年、中田さんと私、そして同じ学友の中居さんと三人でシンガポールに旅したのである。
中田さんは海上保安庁のご出身、中居さんは鹿島建設のご出身である。電子部品メーカー育ちの私からみるとお二人は仰ぎみるような方々である。いずれにしろ、日本をリードしてきた方々とお付き合いできる自分は幸せだと思う。

そもそも「松本英語塾」には凄いメンバーが揃っている。塾長の松本さんは日立製作所エレベーター部門の国際ビジネスマン。幹事のTさんは日本航空のご出身。塾生にはNEC・OBのSさん、神戸外語大・OBのHさん、女性陣では香港で美容師をやっておられたYさん、中国国籍のSさん、ご主人がエーザイのつくば研究所に勤めておられたというTさん・・・。

英語が全くできない私が70過ぎてなぜ「英語塾」に通うのか?
それは日本、世界をリードしてきた方々のお話をおうかがいするためである。そういった意味では二ヶ月に一回の塾生による飲み会も楽しみである。
こういった方々と杯を酌み交わしながら自分も日本をリードしてきた一員だったような高揚感にかられるのである。

2014年6月27日金曜日

震災の語り部。「宝来館」女将

(「宝来館」のある根浜海岸”陸中海岸国立公園”。左岬は大槌町)

 21日の兄弟会の翌日、9時前ホテル出発。家内の実家(横手市坂部)により、義父母の墓参り。義兄夫妻に挨拶をした後、11時坂部発。横手・ふるさと村で昼食をとり、一路岩手県釜石市に向かう。(ネットで「宝来館」という旅館を予約済)
 12時40分、横手インターに入る。北上までは秋田自動車道。約30分の道のり。ここからが大変である。東へ東へと一般国道を太平洋岸を目指してひた走る。途中遠野市を通過する。釜石に到着したのは16時近くだった。
 夕食時、隣の席のご夫婦に話かける。「どちらからいらしたんですか?」「東京からです。昨夜の宿の飯に比べるとここは美味しい」。ご主人は元・高校教師。退官され、JRの”大人の休日”を利用して被災地を旅しているという。ご主人の話によると、この「宝来館」というのは、有名な旅館のようだ。旅館のある根浜海岸の建物はほとんど流されたが、四階建ての「宝来館」は二階まで波に洗われたが建物は流されなかった。女将(岩崎昭子さん)は旅館を地域の避難所として開放。一時は120人が避難したという。私はそんな事とは露知らず、予約したのだった。
 翌朝、朝食後、女将の岩崎さんが宿泊者を相手にプロジェクターを使って、被害の状況や、釜石について熱っぽく語った。「早く津波の事は忘れた方が風評被害もなく良いのではないか。という意見もあるが、私は津波をいつまでも忘れない。津波を忘れないで早く復興するやり方があると信ずる。私はその実験台になってもよい」。
 「宝来館」を出発したのは9時、釜石から大船渡、気仙沼まで国道45号線を走る。リアス式海岸である。道路は左右に蛇行し、しかも上下する坂道。宮城県・登米からやっと三陸自動車道に入る。わが家(牛久)に着いたのは19時。10時間600キロの道のりだった。
      
復興工事が続く「宝来館」。二階まで津波が押し寄せた。

2014年6月25日水曜日

畠山家兄弟会→修身斉家治国平天下

(畠山家・兄弟会一同)

21日、昨年に続いて、畠山家の兄弟会を開催した。
開催場所は実家のある秋田県・由利本荘市の「フォレスト鳥海」。
姉(77才)、兄(74才)、自分(72才)、弟(66才)、妹(63才)。5人とも元気である。今年、誕生日がくると97才の母も健在。宴会では得意の大正琴を披露した。

兄弟そろって思い出すのは「修身斉家治国平天下」(しゅうしんさいかじこくへいてんか)という言葉である。これは畠山家の”躾”である。祖父、父から夕食時お経のように訓えられた。
”天下を平安にするためには、まず自分自身が自立し、家庭が平穏でばければならない”という教えである。兄弟5人、この教えを守り、5人は健康であり、その家庭も平穏である。
今回昨年に続いて、兄弟会が開催されたというのは、兄弟の家庭の平穏と仲の良さを実証している。

この教えは家庭だけなく、会社にも国にもあった。しかし、戦後は家庭崩壊がはじまり、会社は個人の成果主義が重視され、国民は愛国心を失った。これからの新しい国づくりの為に「修身斉家治国平天下」を再認識すべきだと思う。

この言葉は儒教の基本的政治感で、孔子が始祖である。まずは本家本元である中国にこの言葉を噛みしめて欲しい。

今回の「兄弟会」で名称を「家族会」に改め、親族に親睦の和を広げてゆくことになった。

2014年6月16日月曜日

東京・銀座はボクの世界遺産

(銀座・有楽町の靴磨き)

6月10日、東京・銀座へ出かけた。
有楽町駅をでて信号を渡り、驚いた。なんと靴磨き屋さんのコーナーがある。
昔、靴磨きというと風呂屋の洗い場にあるような木製の椅子だったが、革張りの堂々とした椅子である。職人さんは鳥打帽子を被ったイケメン。あわてて値段を見たら千円とある。980円の運動靴で茨城から出てきた小生、気が引けた。

それにしても、銀座は昔のお店とか風習がそのまま残っている。
最近は「アークヒルズ」「虎の門ヒルズ」「六本木森タワービル」と高層ビルラッシュだが、銀座は昔の景観を守る為、ビルの高さを56メートルに制限している。そのせいもあって、昔と変わらない。
有楽町の西銀座デパートなど中学の修学旅行(昭和31年)の時のままだし、不二屋のポコちゃん、ペコちゃんもそのまま、もちろんソニービル、和光ビル、銀座・三越もそのまま。音楽ファンとしてお世話になった日本楽器、山野楽器もそのままである。たまには万札を握り締めてネオンを見ながら並木通りを徘徊する。

今日は歌舞伎座のある三原橋の交差点近くにある喫茶店「ジュリエット」で10時30分、野原さんと待ち合わせである。野原さんと初めてお会いしたのは1972年頃だと思う。40年以上におよぶお付き合いである。「オレもう79才だよ」。しかし、青学出身でまだ現役の野原さんは容姿、話題ともダンディな銀座野郎である。

東京・銀座はボクにとっての「世界遺産」「人生遺産」である。
(銀座野郎・野原さん”左”とボク)

2014年6月9日月曜日

安らぎと静謐に満ちた人生

(今朝、掃除のバイトがないのでグランドゴルフに行きました)
 
 林真理子が朝日新聞に「マイストーリー」という連載小説を書いている。
主人公は自費出版専門の出版社の主人公である。
 約10年前、文藝春秋社から自分史「ドリームⅩ」を出版し、現在地元の自分史「いしぶみ」の編集を担当している小生にとっては、他人事とは思えないストーリーである。

 「マイストーリー」の中にこんな文脈があった。
”自分は一生本など書くことはないだろうー略ーだいいちこんな平凡な男の人生を、いったい誰が知りたいというのだろう。そして本を書くことのない人生というのは、なんと安らぎと静謐に満ちていることか”

 「ドリームⅩ」を書いた頃の自分は”幸福だった自分の人生をできるだけ多くの方に伝えたい”という願望があったが、最近は”自分の人生など、他人様が関心があるわけがない。自分の記憶を留める為に書いておこう”と割り切っている。

 朝は6時起床。朝食後、NHKの朝ドラを見る。それからスーパーの掃除のバイトにでかける。(8時~11時)バイトがない時は地元の方々とグランドゴルフに興じる。昼食の後昼寝。午後はパソコンに向かう。(メールをチェックしたり、ブログを書いたり)バッググラウンドミュージックはFMラジオから流れるクラシック音楽。夕食の後は家内と一緒にテレビを見る。

 私の人生も”安らぎと静謐”に満ちている。

2014年6月5日木曜日

「万葉」の心がある限り、日本は永遠である。


今年も半分が終ろうとしている。ホッと一息。本棚にある「万葉集探訪」を取り出してみた。

石(いわ)ばしる 垂水の上の さ蕨の 萌え出づる春に なりにけるかも巻8・1418 志賀皇子)

春過ぎて 夏来るらし 白栲(しろたえ)の 衣乾したり 天の香具山(巻1・28 持統天皇)

躍動する自然、自然の雄大さが眼前に浮かぶ。

「万葉集探訪」は西宮正泰氏が卒寿記念として2011年、文芸社(03-5369-2299)から発刊したものである。西宮氏は〝むすび″にこう書いている。「英国人が教養としてシェークスピアの作品を必読とし、ドイツ人がゲーテのファウストを愛読する如く、日本人はせめてこの世界に誇る民族の古典を必読としたいものである」と。

銀(しろかね)も 金(くがね)も玉も 何せむに 勝れる宝 子に及(し)かめやも(巻5・803 山上憶良)

1,500年経っても日本人の心、自然は不変である。
万葉の心がある限り、日本、日本人は永遠である。




2014年5月28日水曜日

社友会30周年。日本企業の原点

(TDK社友会30年史の表紙。秋田工場からのぞむ鳥海山が美しい)

私がサラリーマンになった昭和30年代は「家族経営」という言葉があった。
会社は一つの家庭であり、従業員は家族。当然ながら修身雇用が常識だった。

私の勤務した会社、東京電気化学工業(TDK)は、秋田県の代議士・斎藤憲三が疲弊する農民を助けるために昭和10年に起こした会社である。私は秋田の実業高校をでて、TDK・秋田工場に昭和35年入社した。当時、秋田には「家族会」というのもあった。

昭和59年(1984年)、TDKに退職者(OB)で組織する社友会が誕生した。
それから30年、20名でスタートした会員は現在1,532名。
社友会の主な事業は新年会と総会と旅行。社友会には東京本部、秋田本部、千葉、千曲川、甲府等の支部があり、それぞれの組織にパソコン、ゴルフ等の同好会がある。地域における奉仕活動も行っている。

活動資金は会員の年会費が基本になっているが、今まで会社、役員から3億円以上の資金提供があったというから凄い。

TDKも今や国際企業であり、家族主義の風潮は薄れてきている。
30年史を見ながら、これからの日本企業&OBはどうあるべきか考えてみたい。
来年はTDK本体が創立80年を迎える。

(小生の寄稿も掲載された)

2014年5月22日木曜日

おもてなしに感動!柴塚ゴルフ、長瀞カントリー

 
(写真・上、柴塚ゴルフ倶楽部の宿泊施設)

 ゴルフの回数がメッキリ減った。一番大きいのは一昨年、取手市在住の川上先輩が亡くなられたことである。それまでは川上先輩の御伴もあり、月1~2回、ゴルフを楽しんだ。
 最近は春と秋のシーズンに3回前後コンペに参加する程度。ゴルフの会員券も処分した。

 5月はシーズンとあって3回ゴルフを楽しんだ。5日、筑波東急(既報)、15日、栃木・柴塚ゴルフ倶楽部、21日、長瀞カントリークラブといった具合である。
 15日のゴルフ、高校時代の同級生のコンペ。8名が参加した。実業高校だけにメンバーの現況を見ると、自営業が多い。養豚、果樹栽培、建設関係といった具合。今回塗装業で頑張ってきた黒澤君が初参加した。(夜の宴会には山形からレストラン経営で活躍中の村上君が参加)
 柴塚ゴルフ倶楽部はプレーはキャディ付。ゴルフコースも良かったがリゾート風の立派な付属宿泊施設と本格的な料理には驚いた。(幹事・宇都宮在住、佐藤宣男君)
 21日はTDK時代、カセットテープビジネスで苦労を共にした仲間のコンペ。(川上先輩が仕事でもコンペでも親分だった。川上先輩亡き後、浜田さん、佐藤廣吉さんが後を引き継いでいる)21日は朝から雨。5時30分、吉野さんが運転する車で秩父・長瀞に向かう。13名の仲間が集う。80才、浜田リーダーの「やろう」という気合で雨中のコンペ開始。
 ゴルフ場は100mの打ち下ろしもあるトリッキーなコース。前半はなんと63の大叩き。後半は53だった。100を切る目標は秋のシーズンに持越し。
 夜の宴会は、長瀞峡に建つ大正4年創業の「長生館」。ここの風景と従業員の”おもてなし”が心に響いた。
(「長生館」から長瀞峡を臨む)