2013年8月30日金曜日

ジェジェ!ホロヴィッツ変奏曲

(ホロヴィッツ夫妻”奥様は大指揮者トスカニーニの末娘”)

26日、昼食の後、昼寝。眼を覚ますと時計は2時を回っている。
FMラジオのスイッチを入れる。ジェジェ!なんだ、なんだ、とんでもないピアノの音が聴こえてきた。あの世で鳴っているような音である。アナウンスが流れる。「ただいまのはリスト作曲、パガニーニによる大練習曲から第2番。ピアノはウラデミール・ホロヴィッツ、1930年の録音でした。」
 あわてて、番組表を見ると、ホロヴィッツ変奏曲~名盤を通して知る大芸術家~。今日はその第一日目。第1変奏、奇跡のピアニスト、ホロヴィッツ~その魔性のピアニズムに迫る~とある。この番組、今日が初日で29日まで4日間続いたのである。スッカリ、ホロヴィッツの魔性にとりつかれてしまった。番組にゲスト出演したピアニスト、伊藤恵のコメントが良かった。曲が終わるごとに、感想を述べる。それが実に的確。
 ホロヴィッツというと、1983年初来日の時、体調が悪く、「ひびわれた骨董品」と吉田秀和に評された。また、公演のチケットがS席5万円(平均4万)”NHKホール”と破格だった。今回の放送を聴いて破格な値段の理由も理解できた。是非、再放送して欲しい番組である。

 ホロヴィッツの放送を聴いてルービンシュタインを思いだした。彼はホロヴィッツより7才年上。1887年の生まれである。1966年2回目の来日をした。この年、ビートルズも来日。彼等が武道館で公演した一週間後、同じ武道館で公演した。1万5千人が詰めかけた。私も秋田から来た阿部君と一緒に聴いた。広い会場をものともせず、ルービンシュタインの悠然たる演奏が鳴り響いた。
 
 1960年、ルービンシュタインはショパン国際ピアノコンクールの審査委員長を務める。この時優勝したのがポリー二。ルービンシュタインは「ここにいる誰よりもうまい」とポリー二を評した。ポリー二は私と同じ1942年の生まれ。1974年初来日。グラモフォンレコードの土橋さんの招待でポリー二を聴く。私の体は硬直してしまった。息もできなかった。理詰めの凄い演奏だった。

2013年8月22日木曜日

世界陸連から感謝された私

「世界陸上・男子選手ゼッケンには”TDK”のロゴが付いている」
 (8月19日付、朝日新聞より転載)

子供の頃、運動会で母親に「シュン、ビリにはなるなよ!」と言われた。兄はいつもトップグループ、私はいつもビリだった。大人になってもスポーツは全くダメ。
 なぜか、その私が世界陸上を主催している世界陸連から、感謝のレリーフを頂戴している。

世界陸上モスクワ大会は18日、9日間の幕を閉じた。10日、女子マラソンでは福士加代子が銅メダル、木崎良子が4位に入賞した。男子マラソンでは中本健太郎がアフリカ勢と競って堂々5位入賞。男子4×100mリレーでは日本がジャマイカ、アメリカ、カナダ、ドイツ、オランダに次いで6位となった。
 ところで、男子選手の胸に『TDK』のゼッケンが着いているのにお気づきだろうか?世界陸上は1983年、ヘルシンキで第1回大会が行なわれた。それ以来、モスクワ大会まで、TDKは世界陸上のゼッケンスポンサーを続けている。
 実は私は元・TDKに勤務しており、87年のローマ大会、91年の東京大会、93年のシュトットガルト大会、95年のイエテボリ大会、97年のアテネ大会、99年のセビリア大会、の6大会を担当した。そのお陰で87年にはローマでカールルイスとベンジョンソンの百メートルの一騎打ちを観戦。解説者として大会にいらしていた長嶋茂雄氏にもお目にかかった。
 スポーツ音痴、語学音痴の私が世界陸上にこんなに長い間お世話になったのは運命の悪戯だったと思う。

 1999年、私は世界陸上の仕事から離れるが、世界陸上のマーケティング会社会長から私はセビリア大会100m、200m、400mリレーで3つの金メダルをとったモーリス・グリーンの写真パネルを頂いた。そのパネルには「陸上スポーツの継続に貢献した貴方に感謝します」という英文のレリーフがセットされていた。(リレーフ下のロゴは左から世界陸連、マーケティング会社、電通)

2013年8月18日日曜日

綱渡り、盆踊り放送担当

(盆踊りを盛り上げる「刈谷和太鼓クラブ」の少年、少女達)

私が住んでいる牛久市刈谷団地は自治会の主催で毎年盆踊りを実施している。
私は平成20年から盆踊りの放送を担当。今年で5年目である。盆踊りは17日と18日の2日間行なわれる。

盆踊りは、櫓(やぐら)などの会場設営、ゲストも交えての踊りのプログラム編成、屋台の設営など自治会を中心に町内総力を挙げてのイベントである。刈谷地区の少年少女で編成された和太鼓クラブの出演等もあり、老若男女の交流の場でもある。

放送担当の酒井さん、五十嵐さんには平成20年からお世話になっている。状況に応じて適切に対応していただけるので任せて安心。しかし、放送担当はうまくいって当たり前。綱渡りである。
 主催者側の開会の挨拶が終わり、市長、国会・県会議員・小中学校校長等の挨拶が続いたが、なんと、冒頭の市長の挨拶で「キーン~」という音、事務局サイドの視線が放送担当の私に注がれる。ハウリングである。櫓の上のマイクがスピーカの音を拾ったらしい。なんとか対応。
 終盤、こんどは肝心なところで、五十嵐さんが「音がでません」。機材を見たら、アンプの電源が切れている。電源コンセントを強く押したらアンプのランプが着く。危ないところだった。

 盆踊りの1日目がなんとか無事に終了し、帰宅すると、世界陸上マラソンの放送中。アフリカの強豪勢と競って中本健太郎が5位入賞。立派!
 今(18日)高校野球を観戦しながらブログ作成中。隣町土浦市の常総学院が3回戦で福井商業を9対1で圧倒。監督は木内さんから佐々木さんに変わったが常総マジック健在である。
 今日は盆踊りの2日目、盆踊りの放送担当は71才である私にとっては若人にとっての高校野球と同じである。ミスがでないよう万全を期したい。
 

2013年8月13日火曜日

酩酊!全治二週間


 こんな経験、リタイア後はじめてである。酩酊!全治二週間の擦過傷である。

 8月9日(金)現役時代お世話になった電気業界新聞社長、田村さん、長谷川さんに何年ぶりかにお目にかかる約束をした。
 約束の時間は6時から秋葉原の居酒屋「赤津加」である。
その前に上野の東京文化会館・音楽資料室に寄り、調べものをしよう。ところが、文化会館に着くとなんと臨時休館である。会館の周囲を見回すと、西洋美術館の手前の野外休憩所のテーブルが空いている。ここに陣取って本を読むことにした。木陰になっており、暑さをしのいで休憩するには絶好の場所だった。(写真)
 5時40分頃、「赤津加」に着く。テーブル席が丁度空いていた。「お揃いになってからにしますか?」「いや、生ビールお願いします」ここらへんからまずかった。6時丁度、長谷川さん到着。長谷川さんとビールで乾杯。「田村さん、遅れるそうだから日本酒でもやりますか」「冷を徳利で頼みましょう」。6時30分頃、田村さんが見えたのは記憶があるが、その後の記憶といえば、「大丈夫ですか」と長谷川さんに腕を抱えられている光景。降りた駅は牛久の次「ひたちの牛久」だった。幸い上りの最終電車があったのでそれに乗り、牛久駅に着く。駅前に自転車を置いていたので、自転車を駐車場から引き出そうとして、横転。なんとか家にたどり着いた。
 朝起きてシーツを見てアレッ、シーツに赤い模様が着いている。良く見ると血痕である。腕を見ると、肘が真っ赤。かなりの擦り傷である。5日たった今でも、腕や胸が痛い。寝返りを打つのが不自由である。しかし、この程度で済んで良かった。

 こんな経験、リタイア後はじめててある。なんて書きはじめたが、数年前も似たような事があったような気がしてきた。「人間浴」を見返してみたら2010、11、3、八潮市在住の岩崎邸(高校時代の同級生)でご馳走になり、この時も乗り越し。この時は帰りの電車がなく。一駅歩き、午前2時に自宅に戻ったとある。そう言えば、亡くなった親父も酔っ払いだったな。その内、親父のように訳のわからない事をわめくようになるのかな・・・。

2013年8月7日水曜日

圧巻!霧島国際音楽祭・東京公演

(圧巻!霧島国際音楽祭出演メンバー。その1部)

 昨日(6日)、東京オペラシティコンサートホールで行なわれた「霧島国際音楽祭・東京公演」にでかけた。
 18時40分、ホールの座席につくと、誘い合わせた弟(神奈川・山北)が既に席に着いていた。席は1階5列目中央。指揮者の真後ろ、カブリツキである。
 オーケストラ団員が席に着くと、あわててメンバー表を確認した。
 NHK交響楽団や読売日本交響楽団の首席奏者がズラリと並んでいる。それだけではない。メンバー表をみると、ベルリン国立歌劇場のコンサートマスター、アムステルダム・コンセルトヘボウの首席奏者も名を連ねている。キリシマ祝祭管弦楽団の中身は国際選抜管弦楽団なのだ。実に壮観である。女性奏者は皆美人揃いであり、これにも驚いた。

 指揮者は鹿児島出身の下野竜也。前半のベートーヴェンの交響曲第1番。彼がまだ幸福だった頃の作品。彼にもこういう希望に満ちた時期があったということを実感させる若々しく力強い演奏。
 後半は生誕200年を記念してワーグナーの楽劇「ワルキューレ」第1幕。ソリストはマリンスキー歌劇場(ロシア)のソリストが出演。同歌劇場の音楽監督ゲルギエフの推薦した歌手達。カブリツキで聴く一流歌劇場の歌手陣の声は五臓六腑に沁み込んだ。下野が最後の指揮棒を振りきると、ブラボーの声とともにホール全体が拍手に揺れた。

  終演後は53階にある”北の味紀行と地酒「北海道」”で弟と食事。刺身と地酒が美味しい。スッカリ弟にご馳走になる。

*霧島国際音楽祭→1975年、来日中のゲルハルト・ボッセ(東独ゲヴァントハウス管弦楽団員)が提唱。今年34回目に当たる。今年は7月17日~8月4日まで鹿児島市を中心にコンサート&講習会を実施。締めくくりに東京公演が行なわれた。

2013年8月5日月曜日

燦々!人間浴。この一週間

7月30日から8月5日までの一週間、いろいろなことがあった。
 まず、孫である。31日、小1と小3の孫を連れて東京ドームのナイターに行った。いつもは8時30分には床に着くという2人だが、9時30分まで飽きずに観ていた。ドームをでて水道橋から上野までの電車のラッシュは凄い。2人をなんとか大人達の隙間に潜り込ませた。野球もそうであるが、ラッシュも彼等の幼少の記憶として刻まれることだろう。2日、孫達を佐倉市の自宅へ送り届ける。
 熊谷市の曽根さんという方からお手紙をいただいた。元大蔵省勤務で、現在は自治会、長寿会と八面六臂のご活躍。曽根さんの知人に小生の母校の元校長がいらっしゃるという。たどっていけば、日本人はみな仲間であり、親族だと思った。
 音楽仲間の吉原さんが、1942年、44年録音されたフルトヴェングラーのCDを送ってきた。1942年といえば小生の生まれた年である。思いの他音は良く、演奏はさすがに凄い。44年録音のベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を弾いているのはエーリッヒ・レーンというはじめて名前を聴く奏者。音も演奏も瑞々しい。
 4日、横須賀に住む松蔵叔父さんの葬儀。18才で秋田から東京へでてきて57年。75年の生涯だった。仙台から義兄の憲さん、ひたちなか市から義弟の猛さんもかけつける。
 帰宅したら、現役時代の大恩人のOさんからお電話。声が弱々しい。「実は水頭症にかかってね。手紙も書けないので電話した・・・」。心からOさんの全快を祈る。
 牛久から横須賀までは2時間30分。ジックリ本が読める。
 磯田道史著「無私の日本人」。貧困にあえぐ仙台藩吉岡宿。武士にお金を貸し、利息でこの吉岡藩を救うという奇想天外なお話。作者は1970年生まれ。「武士の家計簿」の作者でもある。
 植村攻「巨匠たちの音、巨匠たちの姿」(1950年代・欧米コンサート風景)。筆者は1928年、東京生まれ、東大卒業後、富士銀行入行。「当時のヨーロッパの音楽祭、日本人はおろか東洋人らしい顔は見当たらなかった」「銀行とはいったいそんなに暇なのか」。故・音楽評論家(文化勲章受章)吉田秀和の音楽体験記を上回る体験記である。クラシックファン必読。