(国立国会図書館の蔵書になっていた、私の3冊の本)
自分も73才。
できれば、その存在価値を確認し、遺したいと思う年頃である。幸い、6人の孫に恵まれたし、お墓も作った。それ以上、何を望もうというのか?
それは自分の生き様である。
今はネット社会という便利な時代。「ブログ」という手段がある。現に今もこうやって綴っているのである。しかし、「ブログ」は誰が見てくれるのかわからない。また電子記録なので、いつ消去するかも分からない。
「ブログ」を書き始めてやっと見えてきた。生き様は他人に披露する為のものではない。「自分自身の記憶を残すためのものであり、ボケ防止の為のものである」と。もしかして息子や孫が見てくれたら儲けものである。
定年後、自分が書いた(編集した)本のもそうである。自分自身の自己満足の為に書いたものである。そう思った方がスッキリする。
先週、東京に出かけたついでに国立国会図書館に行った。
読売新聞で私の生まれた秋田の故郷を書いた「水の瀬きよき」という本があると知った。しかし、書店で見当たらないないので、図書館に行ったのである。残念ながら本はあるが、閲覧する準備ができてない、という。
折角なので、検索欄に自分の名前「畠山俊三」を入力した。3冊の本のリストがでてきた。なんと栄誉なことだろう。自己満足の為に書いた本が国立国会図書館にあるとは・・・。
テレビドラマや映画を観ていて、作者はどうしてこんな些細なことまで書けるのだろう?と思う。今月観て感動した映画「永遠の0」でもそうっいった事を感じた。
そのヒントが国立国会図書館にあった。
私のような一市民が書いたものまで保存されている国立国会図書館。ここで調べれば、歴史書では語られない一市民の息遣いも知る事ができるのである。
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