2012年12月29日土曜日

音楽に人生を捧げた太田さん逝く

(1972~3年頃、山口県のTDKテープ愛用者取材。左から太田さん、小生、エフエム東京・菊池さん、幅屋さん)

 今年は私の大切な方々の訃報が続いた。
7月、中学生の同級生で秋田県由利本荘市議、佐藤竹夫君逝く。
9月、TDKカセット国内シェアNO,1を率いた川上岩男さん逝く。(80歳)

 そして、12月25日、私の音楽の師匠である太田昌純さん逝く。(82歳)
同日、奥様からお電話をいただいた。「お知らせしようかどうか迷ったのですが、お友達の畠山さんに参列していただけば主人も喜ぶと思いまして・・・」。奥様、知らせていただいてありがとうございます。
 27日、所沢で行なわれた告別式に参列。式場にはヴェルディの「レクィエム」が流れていた。火葬場まで御伴してお見送りした。

 太田さんは静岡大学を卒業されて、音楽教師になられた。その傍ら静岡交響楽団でも活躍された。息子さんのお名前は「響」。教師を辞められて上京。広告代理店に勤務。
 1971年からはじまった「TDKオリジナルコンサート」のCMの制作を担当された。私は1972年にTDK宣伝担当となり、その時以来、今日まで実に40年のお付き合いである。

 今年の10月末、便箋6枚にわたるお手紙をいただいた。末尾にこう書かれていた。「長い病院生活と抗ガン剤ダメージの為、家の近くを2~3分歩くのがやっとの状況です。下らない泣き言を畠山様と思い、つい喋ってしまいました。正直言って、又お会いできる日が来るかどうかもわかりませんん。」

 ご家族の話によると、病床で太田さんは、ドイツの作曲家ワーグナーについての執筆にとりかかろうとしていたという。私にはそんな事は一言もいわなかった。完璧なものができるまで他言しないのが太田流だった。それにしても、太田さんのディスマスクは威厳に満ちていた。

2012年12月24日月曜日

最期のパスポート?

町内の友人「70代の男たち」2人に”海外旅行”しようと誘われた。

 海外旅行は家内と、と思っていたのだが、家内は長時間の飛行機は嫌いになったということで、海外には行かないということなので、友人達の話にのる事にした。

 ということでパスポートを探した。アレレ、パスポートが見当たらない。やっとのことで探し当てて中を見たら2010で期限切れとなっていた。
 
 今月、パスポートの申請をし、先週入手した。新しいパスポートの期限は2022年12月14日。この時、私は80才。これが私の最期のパスポートになるかもしれない。

 ところで、期限切れのパスポートは3回使用していた。

 2004年12月 会社OB有志と台湾へ。同郷の先輩であり、仲人であり、台湾董事長であった小松正一さんの33回忌が現地であり、これに参列した。
 2005年 7月 家内とハワイ旅行
 2007年 9月 ベルリン一人旅。ベルリンフィル、ブッパータール響を聴く。

 新しいパスポートの国務大臣の署名を見て、日本人であることを再認識する。なお、新しいパスポートにはICチップが仕込まれていた。

2012年12月21日金曜日

音楽、年末の贈り物

①18日、レコード会社よりドッサリとCDが届いた。正確に言うとSACD(スーパーCD)である。
私が現役の頃、関係していた「TDKオリジナルコンサート」(TOKYO FM)の音源の一部を使用してSACDとして発売したのでお届けします。という趣旨である。
 下記の通りクラシックファン垂涎のラインナップである。

 ヘンリク・シュリング ヴァイオリンリサイタル(1976年・東京文化会館)
 カール・リヒター チェンバロリサイタル(1976年・石橋メモリアルホール)
 カール・リヒター オルガンリサイタル(1976年・東京カテドラル)
 オイゲン・ヨッフム バンベルク交響楽団(1982年・東京文化会館)
 ローラ・ボベスコ ヴァイオリンリサイタル(1983年・日本都市センターホール)
 クラウス・テンシュテット ロンドンフィル(1984年・大阪国際フェステバル)

定年から10年も経ち、しかも30年以上前かかわった放送音源がこのように陽の目を見るとはなんと幸運なことだろうと感謝せずにはいられない。

 ②竜ヶ崎音楽同好会「ゲヴァントハウス」のメンバーがフルシャ指揮・東京都交響楽団は聴きものですとすすめるので20日夜、上野・東京文化会館まででかけた。(この日は昼ベテランズクラブの忘年会でもあった。)「幻想交響曲」本当に良かった。終楽章の大詰めでは熱演するフルシャが飛びあがり、燕尾服のカマーバンドが外れた。こんなの見たのはじめて。会場はブラボーと拍手で沸いた。こんな盛況なコンサートを聴いたのは久しりである。(ところで入場料金はシニア割引で¥3,850。年金生活者には嬉しい。東京都民に感謝)東京都交響楽団のCDは今年のレコードアカデミー賞も受賞しており、絶好調である。難をいえばややパワー不足。その点、13日のデュトワ・NHK交響楽団の「春の祭典」は凄かった。(FMで聴いたのだが、それはわかる)
(熱演した東京都交響楽団・ヴァイオリンセクションメンバーの1部。女性楽員が多い)


2012年12月15日土曜日

ゴルフ打ち納めはブービー賞


 14日、今年最期のゴルフコンペが千葉県銚子市にある「レインボーヒルズカントリー」で開催された。参加者はTDKのOB15名。私のスコアはアウト55、イン51で合計105。ビリから2番目。
ゴルフの場合、ビリから2番目はブービーと呼ばれ、賞品がでることが多い。私も目出度くブービー賞2千円をゲットした。この他にも競馬が当たり4千円ゲット。成績は悪かったが賞金は稼いだ。

 年々、ボールの飛距離が落ちてきている。
ゴルフの場合、一番飛距離のでるクラブをドライバーと呼ぶ。
ドライバーショットはプロの場合、300ヤード(270メートル)は飛ぶ。ところが14日の私のドラ―バーショットは150ヤードしか飛ばない。プロの半分である。(若い時は180ヤードくらい飛んでいた)
 私はもともと運動が不得意。飛距離は諦めている。
 結局アプローチとパットでスコアをまとめるしかない。なのにゴルフの回数は今年から激減。

 ゴルフの成績を云々する時期は過ぎ、ゴルフが終わってからの飲み会も含めた友人達との交流に主眼を置く時期に入った。




2012年12月12日水曜日

日本の原風景、明治の木造校舎

(古屋さんのメールに添付されていた音楽教室)
 
 11日、隣町・竜ヶ崎市に住む古屋和紀さんからメールをいただいた。
古屋さんは同町にある音楽愛好会「ゲヴァントハウス」でいつも名解説をして下さる方である。

 古屋さんは友人達と茨城の北部にある大子(だいご)町と五浦(いずら)海岸に忘年会旅行に行ったという。 写真はその時訪れた大子にある小学校の音楽室だという。「昔の教室そのままであり、懐かしさで一杯になった」というコメントがついている。

 私も茨城住民として大子は何回か訪れているが、それは、いつも「袋田の滝」を観るためだった。
今回、改めて大子町のホーム頁をみると、同町は「大子町フィルムコミッション」として木造小学校を保存しているとある。初原小学校(明治6年設立、平成6年閉校)上岡小学校(明治12年設立、平成13年閉校)浅川小学校(明治6年設立、平成13年閉校)池田小学校(明治7年設立、平成13年閉校)西金小学校(明治5年設立、平成17年閉校)の6校である。

 古屋さんの思いは続く。「日本は確かに豊かになり、校舎も立派になった~略~立派な建物がいくらあっても誰も語りはしない。物質的な豊かさを求めたために精神的な豊かさが失われたのは確かなような気がします。」「いじめや教育の乱れはご立派な校舎に魂が宿らないからではないでしょうか」
 
 古屋さんにこのような感慨をもたらした大子町の施策は心温まるものがある。

 ところで、写真の音楽教室にあるピアノは場違いのように立派である。それはこの校舎にピアニストを呼んで、コンサートをやるためだという。明治の木造校舎でグランドピアノがどのような音を奏でるのか興味深い・・・。

2012年12月8日土曜日

衆議院選挙。カナダから疑問の声

 2日、カナダ在住の好打 献(こうだけん)さんから衆議院選挙について疑問のメールが入った。
政治家、マスコミ、選挙民に対する疑問である。ご指摘もっともと思った。
 
「脱原発、反増税、TPPの賛否など、キャッチフレーズに過ぎない各論が主たるテーマになってしまっており、肝心・肝要であるべき”国家観と国益”の基本政策が二の次に追いやられている」

「マスコミの報道姿勢と選挙民の政治感覚にも問題の根源があるように思えます。いみじくも国政を託す政治家なり、政権を託す政党なりに対して質問すべきは、短絡的な施策ではなく、明日の日本をどの方向へ進めるのか、即ち経済・財政政策、産業政策、社会福祉政策、教育政策、外交・安保政策が、まず問われなければなりません。それらの戦略主題が先ずあって、各論として戦術論が付随して出てこなければ、選挙で人も党も選べない筈です」

 私とすれば、①憲法改正を提唱している党もあるので、国の基本である憲法について各党、候補者の意見を聞きたい。②また、借金大国からどうやって抜けだすのか、そのロードマップを提示して欲しい。この2つのテーマと比較すると好打さんご指摘のように原発・増税・TPPは短絡的であり、収斂する方向は見えているように思える。
 (4日、オーディオ評論家・藤岡誠先生主催「千代田会」忘年会参加の為東京へ出かけたら、有楽町駅前で桝添要一さんの選挙カーと遭遇した。)



2012年11月29日木曜日

東京国立博物館と茨城の秋

21日、東京へ出かけたついでに、東京国立博物館に行った。
 この日展示されていた「古事記1300年、出雲大社大遷宮特別展」は古事記の世界が事実であることを実感させる素晴らしいものだった。同時に博物館の前庭にあるユリの木(写真・上)に目を奪われた。中庭にある日本庭園は特別展見学の疲れを癒してくれた。(写真・下)

 22日はツーリズム旅行の「茨城バスの旅」に家内と参加した。
 コースは袋田の滝、竜神大橋、花貫渓谷、那珂湊というお馴染みのコース。
 この中で花貫渓谷ははじめてだったが、渓流に沿っての遊歩道は平坦で広く、シニア向き。散策を楽しんだ。
(花貫渓谷の不動の滝。大きくはないが風情がある。)
 

2012年11月26日月曜日

NHKラジオ、テレビのステレオ秘話

(NHKのスタジオで番組制作中の辻本さん)

 17日(土)隣町・竜ヶ崎市の音楽愛好会「ゲヴァントハウス」で、同会の五周年を記念してNHK音楽プロデューサー、辻本廉さんの講演会が開催された。

 講演テーマは「秘蔵音源でたどるNHKクラシック番組収録技術の変遷」
 
 ラジオのステレオ放送というとFM放送が一般的だが、FM放送がなかった頃、なんとAMの2波を使用してステレオ放送が行われた。1950年~60年代の話である。当時は「立体放送」と呼ばれていた。(そういえば、私は実家の秋田で中学生の頃、この立体放送を聴くため、兄と電波状態が比較的良い、2階にラジオを2台並べて聴いた。NHK第1放送が左チャンネル、NHK第2放送が右チャンネルだった。)

 講演では「立体音楽堂」で放送されたシュヒター指揮・NHK交響楽団の「ローマの松」(1959年録音)が再生されたが、その立派な演奏と音の良さに驚いた。収録会場は内幸町にあった旧NHKホール。

 1953年、NHKテレビ放送が開始されるが、当時のビデオテープレコーダの音声はカセットテープ以下の音で音楽には向いていなかった。
 画期的なのは近年、辻本さん等NHK技術陣が1957年カラヤン・ベルリンフィル初来日のフィルム録画映像にステレオで収録した音声をシンクロさせDVD化した事である。同様の手法によって1975年ベーム・ウィーンフィル初来日の演奏も素晴らしいステレオ音声によって蘇りDVDとなった。

 ところで、今回の講演は私が辻本さんに依頼して実現したのだが、私が辻本さんに最初にお目にかかったのは2004年4月4日、初台の新国立劇場だった。当日の出し物はワーグナーの楽劇「神々の黄昏」。辻本さんを紹介して下さったのはアルトゥスミュージックの斎藤啓介さんだった。これがご縁で「伝説のクラシックライヴ」(TOKYO FM出版)に執筆をお願いすることになった。

2012年11月25日日曜日

「NHKプロジェクトⅩ」出演、沖山さん傘寿の会

2000年~2005年までNHKで「プロジェクトⅩ」という番組が放送された。中島みゆきの「地上の星」が番組テーマ曲だった。
 
 この番組に私が勤務していたTDKという会社も登場した。番組の内容は電子部品メーカーTDKがカセットテープで世界市場を席巻するという内容だった。この時の立役者が沖山昭八さん。沖山さんのTDKブランドイメージ戦略は緻密で戦略的だった。社名を東京電気化学工業からTDKに変更。東京・銀座、ニューヨーク・タイムズスクエア、ロンドン・ピカデリーサーカスにTDKのネオンを設置。世界陸上のゼッケンスポンサーになり、カールルイス、ブブカの胸にTDKのゼッケンをつけさせた。

 今の私の人生があるのは沖山さんのお陰である。私は昭和35年地元の農林高校をでてTDK・平沢工場(秋田県)入社。沖山さんはそんな私を本社の社内報担当に抜擢して下さった。そして、その後、なんと、カセットテープ、ビデオテープの(世界の)商品企画の責任者に登用して下さったのである。

 沖山さんはお名前の昭八が示すように来年目出度く傘寿・80歳を迎られる。
 ということで、当時上司だった芝崎さん、沖山さんの秘書役だった岩沢嬢のご協力を得て「傘寿の会」を企画させていただいた。

 「傘寿の会」の世話役で一番心配だったのは参加者の健康。なにしろ、大半が70歳代。沖山さんはじめ、全員が顔を揃えて記念写真に納まった。本当に良かった。

 沖山さん、これからもお元気で、参加者の皆様も!

(終わってから数名の方々からねぎらいのメールやお手紙をいただいた。世話役としては望外の喜びである。)

2012年11月16日金曜日

ソプラノの妖精!小林沙羅

(ラウレッタを唄った小林沙羅)
 
 11日、千葉県文化会館に行った。牛久から千葉までは50キロ。電車で行くと遠回りになるので、車で行った。最近はゴルフの回数が激減したので車に乗るのは久しぶり。古希の祝いで息子夫婦からプレゼントされたカーナビがおおいに役立った。

目的はソフィア国立歌劇場の公演を観るためだった。この公演に行く予定はなかったのだが、新潟の友人、伊藤佳祐さんからチケットをいただいた。伊藤さんとは45年前、鳥取砂丘へ向う車中で偶然お目にかかった。2人とも(厳密には小生の弟を入れて3人)、大阪国際フェステバル協会主催のバイロイト音楽祭が主目的で関西・山陰にでかけていたのである。

11日の出し物は「カヴァレリア・ルスチカーナ」「ジャンニ・スキッキ」の2本立。ブルガリアが自慢するだけあって、オーケストラ、合唱、歌手団のバランスが良く、演出もオーソドックスで、久しぶりにイタリア・オペラを堪能した。中でもジャンニ・スキッキでラウレッタを歌った小林沙羅は声も容姿も美しく、妖精のようだった。
 ただ、残念なのはお客さんが少なかった事。舞台上で名演が展開されていても、客席が閑散としていては体が熱くならない・・・。
 ピアニストの最高峰として誰でも認めるポリー二の公演でもお客さんが半分しか入らない日があったというから厳しい。
 ジャンルは違うが大相撲九州場所のお客さんが少ないのにも唖然とする。舞台(土俵)と満員の客席が一体となってこそ、コンサートも相撲も熱くなる。

2012年11月9日金曜日

農民の誇り「番楽」(ばんがく)

(「鮎瀬番楽」のCD。絵はイメージ。鳥海町のものを借用)

幼少の頃、お盆になると実家の隣、庵寺の広場に仮設の舞台が作られ、ここで「番楽」(ばんがく)が踊られた。獅子舞とも言った。

笛、太鼓、鉦(かね)による囃子(はやし)に乗って、獅子や武士などが勇壮に舞う。囃子方も舞い方も総て部落の若者である。一節によると、番楽に出演できるのは長男に限られていたともいう。

当時、農業は日本の基幹産業であり、農家の長男は自信と誇りに溢れていた。番楽は彼等の晴れ舞台であった。私の兄も幼少の頃から舞っていた。
番楽には部落だけではなく、近隣の若衆もかけつた。若衆同志の出会いの場でもあった。「番楽のできない男には嫁が来ない」ともいわれていた。

「番楽」は東北地方で伝承されている山伏神楽の一種で、350~400年前に生まれた。山伏達が権現である獅子頭をまわして村々を巡り歩き、息災延命、悪魔払いの祈祷を行った。それが村に定着し、古事や歴史物語も取り組んで演劇的なものに発展した。

2日、秋田の実家に行った時、兄から「鮎瀬番楽」の囃子をCDにしてくれという依頼を受けた。渡されたのはカセットテープ。昭和46年(1971)年収録とある。41年前である。再生してみると、解説が入っている。秋田訛りがないので兄に解説者を尋ねた所、「俺だよ」とのこと。当時兄は30歳。張り切っていたんだな・・・。音は大分劣化していたが、懐かしい活気に溢れた囃子が聴こえてきた。村の若者達の名演奏である。

 秋田県内には無形文化財の指定を受けて残っている「番楽」が13もあるという。「鮎瀬番楽」の復活を期待したい。

2012年11月8日木曜日

祖父の遺訓

5日、弟(64歳)から来たメールを見て唸ってしまった。

 「私の家の床の間の写真を添付します。掛け軸は実家の床の間に長年掛けられていたものを譲ってもらったものです。”子孫のために”という添え書きがあります。大分汚れておりましたので表装しなおしました。」

 そういえばなんとなく見覚えがある。ただ、私は草書体が読めないので、記憶から遠ざかっていた。それを察したのか、弟は楷書体を添え書きしてある。
  
        「欲深き人の心に降る雪は積もりつもりて道を忘るる」

この文章を見て、唸ってしまったのである。
なお、この道歌の作者は幕末の三舟(勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟)の一人、高橋泥舟とある。

 祖父は遺訓として「水の五訓」「修身斉家治国平下」等を残しているが、今回の掛け軸の言葉が最も心に響いた。

 祖父は教師になる為に秋田師範に進んだが、長男が亡くなった為、家業である農家を継いだ。弟は容貌も祖父譲りであり、教師になって祖父の思いをかなえた。彼の手によって、70歳になった今、私は祖父のもう一つの遺訓を知ったのである。

 

2012年11月5日月曜日

家族、同期会の絆を世界の絆へ

2日、午後2時~郷里(秋田県・由利本荘市)で中学時代の同期会があった。1日の深夜バスで東京を出発、2日の深夜バスで帰るというトンボ帰りのスケジュールだった。

1日~2日の秋田地方の天気予報を見ると、強風に雨、電車は止まる可能性があるが、秋田行き(横手経由)のバスは山間部を走るので止まらないだろうと読んだ。雨合羽に傘の重装備。

同期会の前、10時近く実家に寄った。96歳の母は相変わらず元気。ストーブで、濡れた靴や合羽を乾かすように、70歳の息子に気をつかう。11時頃、電車でくるかもしれないと、駅まで迎えに行った兄が帰宅。「(70歳過ぎて)深夜バスで秋田往復なんて信じられない!」一学年上の兄貴は呆れる。兄嫁が新米のお握りや、漬物などのご馳走を出してくれたが食べ切れない。

私の同期生、在籍生徒数93名、物故者15名。今回の出席者21名。(電車で東京からかけつけた小松寿雄君が、電車が遅れ、閉会ぎりぎりに駆けつけ、22名となる。)

「息子がTDKの下請けに勤めていたんだけどリストラで首になってよ、息子が毎日家にいるもんだから孫も変な顔している。爺と婆の年金で家族で食っていくのは大変だ・・・」同様の話がもう一件あった。
「俊三さん(私)のブログ、東京にいる子供が見て、送ってくれたよ!」という嬉しい話も。

家族の絆、同期生の絆、こういった絆が多くなれば、日本も世界も平和になると信じ、来年も元気で同期会に参加しよう。

2012年11月1日木曜日

リアル作家、児玉さんの人生

(児玉さんは広島県能美島大柿町で生まれた)

町内の自分史同好会「いしぶみ」の大先輩、児玉伸彦さんからドサリと印刷物を手渡された。
タイトルは「私の人生」。児玉さんが自分の幼少期から今日までを綴ったものだった。

児玉さんは昭和6年生まれ、私より11歳年上。今年81歳である。
瀬戸内海に浮かぶ能美島で生まれた。今では高速艇で広島まで27分だが、当時は島々を回ることもあり、3時間以上かかったという。船も丸木を打ち抜いて作ったような木造船だった。お母さんは早世、お祖母さんに育てられる。お父さんが先生だったため、「先生坊ちゃん」と島の人々に呼ばれて育つ。私は幼少の章を読んで壺井栄の「二十四の瞳」を連想した。

やがて、児玉さんはお父さんの勤務の関係で東京へ転居するが、第2次世界大戦勃発。疎開先の広島で原爆の阿鼻叫喚を体験する。中学3年の時である。好事家だったお父さんは高校2年の時蒸発。継母(教師)の細腕で戦後の混乱期を生き抜く。奨学金をもらい、明治学院大学に入学。アルバイトもしたが、小遣いが足らず、青山の借家から大学のある白金まで歩いて通学したという。しかし、ムリがたたり、夢遊病者になってしまう。
大学は卒業したが、就職先が見つからず、林業関係の業界紙、個人の印刷会社を渡り歩く。何日も徹夜が続き、デパートでマネキンの足を踏み、女性と間違って「すみません」とマネキンに謝り周囲の人々に笑われたこともあった。

児玉さんは30歳で結婚するが、奥さんと渋谷の「名曲喫茶田園」でデートした時である、急に奥さんが下を向き、ハンカチで目元を拭きだした。理由を聞いたところ、児玉さんの服装があまりにも粗末だったのが理由だった。奥さんは泣きながら「あなたが可哀相で仕方がなかったの。私で出来ることなら、あなたを幸せにしてあげたい。」これを聞いて児玉さんは貧しくても彼女を大切にしなければならない、と思った。

児玉さんは自分史を「リアル文学」と呼んでいる。児玉さんの人生は波瀾万丈。読んで大きな感動に包まれた。現在、児玉さんは2人のお嬢さんとお孫さんに恵まれ、趣味の写真と文学で悠々自適の生活を送られている。



2012年10月28日日曜日

70歳、人生下り坂

(今年、7月27日、上野・不忍の池で撮影)

最近、自分が写った写真を見て、エッと思うことがある。

頭は丸刈り、猫背、どこの爺さんだ?なんだオレじゃないか。そういえば70歳だもんな。

いつだったか、先輩が言った。「70を越えたら、体がいうことを効かなくなるよ。」本当だった。

①まず、耳が聞こえなくなった。テレビを観ていて、家内が笑う。テレビの画面でおかしいことをいっ ているのだが、自分は言葉が聞き取れない。ただ、ありがたいことに、音楽はわかる。ウィーンフ ィルとベルリンフィルの音の違いだって分かるんだから・・・。エヘン!本当かな?

②猫背は本当にみっともない。その内、腰も曲がりそうだ、というか曲がっているかもしれない。
 週2~3回のシルバーセンターの掃除は矯正のチャンス。ゴミ袋を持って、背筋を伸ばし、運ぶ。 この掃除、死ぬまで続けたい。難儀な時もあるが、難儀だから体の矯正になる。と言い聞かせる

③食べ終わると、何を食べたか忘れてしまう。今困っているのはパスポートの紛失。町内の友人か ら海外旅行しようと誘われた。パスポートは○年前、○○へ行って以来(いつ、どこへ行ったか
 忘れた)仕舞ったきり。引出、カバン、背広のポケット、どこを捜しても見当たらない。

大切な事は忘れない内にブログ「人間浴」に書いておこう。

2012年10月23日火曜日

和太鼓、抹茶、芸者・・・日本の雅

 21日(日)、義弟が経営する出雲大社・常陸教会の20周年記念大祭が行われた。
 笠間市・福原に建立されている教会に到着すると、既に「常陸乃国ふるさと太鼓会」の奉納太鼓がはじまっていた。島根にある本家・出雲大社に匹敵するという大注連縄(しめなわ)が新しく張り直され、勇壮な太鼓が鳴り響く。
式典は10時~始まり、神様に五穀豊穣が供えられる。式典の最中、切れ目なく、笛と太鼓の演奏が続く。
 正午、拝殿で記念式典が開かれる。国歌斉唱の後、高橋教会長の挨拶。昨年の3・11の時は笠間市も震度6で大揺れ。しかし、本殿、拝殿とも持ちこたえたという。ここで会長も言葉に詰まる。つづいて笠間市長の祝辞。今や、常陸教会は笠間市になくてはならない観光スポットだという。
 昼食後、樹木葬園にある東屋で抹茶をご馳走になる。 
 午後5時、笠間市内にある城山割烹旅館大広間で直会(なおらい)。宴会の半場で芸者衆が登場。和服が実に美しい。
 和太鼓、抹茶、芸者衆・・・。日本の雅(みやび)を満喫した一日だった。

2012年10月15日月曜日

知られざるアウンサンスーチンの父

 アウンサンスーチンは1945年生まれ、私とほぼ同世代。1991年、46才でノーベル平和賞を受賞したのだから凄い。

 ところで、スーチンの父親、アウンサンは日本軍と関係が深かったのだという。

 ミャンマー(ビルマ)はイギリスの植民地だった。アウンサンはイギリスから独立する夢を見る愛国者。アウンサンの耳に「遠方の仏教国、日本がヨーロッパの列強ロシアを戦争で打ち負かした」という情報が入る。アウンサンは日本と協力すれば独立の道が開けるのではないかと思う。
 しかし、東京に滞在して、日本軍に不信感を抱く。建前は同じアジアの仏教国として戦おうと言っているが、本音はミャンマーを「日本の天皇を頂点とするピラミッドの底辺を支える従順で勤勉なアジア民族の一つ」としか考えてないのではないかと・・・。つまり、支配国がイギリスから日本に変わるだけではないかと・・・。
 1941年、 アウンサンは日本軍と一緒になって、イギリス軍をミャンマーから追い出すが、1945年には、連合軍と組んで、日本軍を駆逐する。1947年、アウンサンは政敵により暗殺される。スーチン2歳の時である。

 これはイギリスの「インディペンデント」紙、特派員ピーター・ポパムが書いた『アウンサンスチー”愛と使命”』(明石書店)の冒頭部分の概要である。

600頁近い大作だが実に面白い。先日読んだ「戦後史の正体」同様、深い感銘を受けた。

2012年10月13日土曜日

年金手取り減とライフワークの対応

(今年7月、飛騨高山・上高地・穂高の旅、1泊2日のバス旅行は2万円。
        JR、マイカーの旅はわが家では贅沢。)

定年になって10年。
年金の支給額は減らないが、介護保険料、住民税のアップで手取り額は年々減少。
今後、税金は上がる一方、さらに消費税も上がるので、老後の生活は厳しくなる。
これを反映してわがライフサイクルも変化してきている。(体力の衰えも影響している。)

①ゴルフの回数減少。
 ゴルフの回数が減少した分、グランドゴルフで穴埋めしている。
②コンサート回数の減少。
 特に高い外来演奏家のコンサートは行かない。国内演奏家だっていいものがある。
③JRを使用した旅行の減少。
 2~3年前まではジバングを利用して旅行したが、最近は郷里の秋田行きは深夜バスを利用。
 JRだと2万~3万のところ、7千~1万で行ける。
④海外旅行はテレビ、音楽、読書で代用。
⑤今後、考えられる対応策は、利用率が減少するのに、維持費が年20万もかかるマイカーを手放 すことである。
⑥ブログを書く、シルバーセンターのバイトはボケ防止、体力維持の為にも頑張って継続しよう。


それでも、われわれの世代は高度成長の余韻が残っているが、子供、孫の時代は絶望的で、為政者も国民も大胆な発想の転換をしないと大変なことになる。



2012年10月9日火曜日

雄大、ウィンザーパーク&ゴルフ

4日、水戸の近くにあるウィンザーパーク&ゴルフでプレーした。
 朝方まで降っていた台風雨もスタート時には上がった。
 (メンバーは6月に烏山カントリーでプレーした高校時代の友人達である。)

 写真で見るとクラブハウスは立派だが、一泊3食付で¥15,500(部屋はシングル)という価格から推測してゴルフコースは期待できないのではないかと思っていた。
 ところが、コースは実に雄大。グリーンも手入れが行き届き、手こずった。
 久しぶりに、ゴルフの醍醐味に浸った。

 帰宅して、ゴルフ場の設計者を調べたところ、佐藤謙太郎。1947年、秋田生まれとある。
 国内外の著名ゴルフ場を設計している人物である。
 彼の設計思想が素晴らしい。

 「ゴルフコースは雄大で美しく、かつ戦略的あるべきである。」
 「優れたコースは優美な音楽と同じである。音楽における作詞・作曲は設計であり、奏でるのはプレーヤーである。」
 参加したプレーヤ7名は昼はコースで音楽を奏で、夜はカラオケで演歌を奏でたのであった。
 
 プレーはやらないが、夜の宴会に参加のため、日立からかけつけた高泉君が5日の朝、朝食時にしみじみと語った 「ゴルフ場で早朝ランニングをしたのは今回がはじめて・・・。雄大でしたね。」

2012年10月6日土曜日

ペットの骨壺

(教会長自ら焼いたペット用の骨壺)

5日、水戸の近くにある城里町のゴルフ場でプレーした後、笠間市にある出雲大社を訪れた。

この神社、実は私の義弟が教会長を務めており、今年で設立20周年を迎える。
経済不況が続く昨今、よくぞ20年も続いていると感心する。

最近は樹木葬の事業化を開始し、売れ行きは順調だという。
人間は死後自然に返る、ということを思うと、樹木葬は自然の摂理に会っていると思う人が多いのだろう。

ところで、樹木葬を契約したお客様にペットも一緒に埋葬して欲しいという要望が多いのだという。そこで、新にペット用の樹木葬用地を整地中である。

教会長の凄いところは自らユンボを運転して、樹木葬用地の整地、区画作業をやってしまうところだ。それだけではない。窯を作り、ペット用の骨壺も作ってしまう。その出来栄えは単なる骨壺の域を超え、芸術品に近い。

2012年9月30日日曜日

中国、韓国ありがとう。

現在起こっている尖閣、竹島問題で70年間、安穏と暮らしていた私も目が覚めた。
恐らく、日本人のほとんどが(特に戦後生まれ)そうなのではないだろうか・・・。
 昭和17年生まれの私でさえ、戦争の記憶は薄く、父が戦争に行ったとか、地域の先輩達が満州に行ったといってもピンとこなかった。
 そういった意味では韓国、中国は今回、日本国民に歴史、外交の大切さを教えるきっかけを作ってくれた。中国、韓国よありがとうである。これを機会に日本は歴史、外交に関心をもつべきである。
 私が70年間安穏と暮らせたのは、アメリカの戦略にあるようだ。アメリカは戦後、日本を再蜂起させないように、日本を彼等のコントロール下においてきた。その結果、日本人の国家意識は著しく低下し、平和ボケしてしまった。

 先週、元日本大使館勤務のIさんから「戦後史の正体」という本を送っていただいた。著者の孫崎亨さんはIさんの同僚だったとのこと。
 この手の本は難解なものが多いが孫崎さんは高校生でも理解できるように書いたということで、私でも十分理解できた。
 この本によると、アメリカは全て自国の利益を優先して日本をコントロールしているとのこと。アメリカの意志に反した総理大臣は失脚させたというから驚く。裏でCIAと日本の検察が動き、日本のマスコミがこれを後押しするという構図なのだという。
 孫崎さんは推理ではなく米国の公文書等の資料を用いて解説する。
 
 そういえば、尖閣問題についてアメリカは安保の範囲とはいっているが、どこの国の所有権かということについては態度をハッキリさせていない。当事国同士のやりとりの成り行きをみながら、自国にとって一番都合のよい着地点を探っているようだ。
 
 
 

2012年9月21日金曜日

インバル・都響、遂に昇天!

音楽雑誌のレコード評を見ると、インバル指揮・東京都交響楽団のマーラー演奏の評価が高い。
海外の名指揮者・オーケストラのそれを押しのけて”特選”である。

ならば、一度は聴かねばならぬ。20日、先日(13日)二期会の「パルジファル」で興奮した東京文化会館にいそいそと出かけた。会場へ着くと、チケットは完売とある。さすがである。早目にチケットを購入しておいて良かった。(4月26日、購入)

東京都交響楽団定期演奏会Aシリーズ「新マーラー・ツィクルス」の初日である。
曲目は「さすらう若人の歌」と交響曲第一番「巨人」。
初めて聴く、インバル指揮の都響の演奏。都響といえば、中型の行儀の良いオケというイメージだったが、今日の都響は音に深みがある。しかも、演奏への集中力が並みではない。馬力という点では国内外のオケで都響を上回るオケはいるだろう。しかし、楽員一丸となってマーラーに取り組む気迫は尋常ではない。
「巨人」の第4楽章は激しい音楽である。世の終わりを告げるかのように絶望的である。子供の頃、ニュース映画を観た時、大火災発生のバックにこの曲が使われていた。しかし、第4楽章の終幕は勝利の讃歌となる。オケが一丸となって、讃歌を歌い上げる。前面に陣取ったヴァイオリン奏者の林立する弓が矢のように上下する。8名のホルン奏者が総立ちとなる。2人のテンパニー奏者が大上段からステックを振りおろす。インバル・都響は大音響ととも浮上し、昇天。地上から怒涛のような拍手が沸き起こる。

同じコンビによる「巨人」は16日、横浜でも行なわれた。
その時の演奏を音楽評論家の東条碩夫氏はこう評した。「一歩踏み外せば深淵に落ちかねないその危うさの、ギリギリのところで踏み止まり、それがまた絶妙のバランスを保っているのが最近のインバルのマーラーだろう。」

2012年9月16日日曜日

バイロイトに負けない日本のワグナー

 日本の歌手、指揮、オケによるワグナーの「パルジファル」が本場バイロイト音楽祭のそれと比較しても遜色ない。と書くと、音楽ファンの失笑を買うことはわかっているが、私は本当にそう感じた。

 13日、上野の東京文化会館で二期会60周年記念公演ということで、「パルジファル」の初日が幕を空けた。開宴前、拍手が沸きおこったので、ファンファーレでも鳴るのかと思って、後ろを振り返ったら皇太子殿下のお出ましだった。
 指揮者の飯守泰次郎が登場。前奏曲がはじまった時、神秘的で温かい響に引き込まれた。そして、グルネマンツを演じる小鉄和広の堂々たる歌唱を聴いて「なんだ、なんだ」と血が騒いだ。その原因は8月にNHKから放送された、今年のバイロイト音楽祭の「パルジファル」を上回っているように聴こえたからだ。昔は藤原歌劇団や二期会が公演するオペラは「学芸会」と揶揄されたものだ。
 17時からはじまった公演が終了したのは22時。私は日本人の演奏しているワーグナーという先入感を忘れ、スッカリ、ワーグナーの虜になっていた。そして熱唱した歌手陣、指揮者達に惜しみない拍手を送った。
 それにしても空席が多かった。恐らく、不況の中、日本人の演奏するワーグナーに行ってもしょうがないというオペラファンが多かったのではないか。
 5万、6万も払って外来のオペラ公演に行けない年金生活者の私にとって、国内オペラ団の優れた公演はありがたい。

 オペラ公演に先立って、NHKでコンサートライヴ録音一筋の辻本さんにお目にかかり、昼食を共にした。単なる音楽ファンにとって、辻本さんは神様のような存在である。

(オペラ開演前、文化会館テラスでビールを一杯。向こう側は西洋美術館)

 なお、12日は現役時代にお世話になった川上さんが79才で亡くなられた。14日お通夜、15日、告別式。川上さんを慕う方々が、ホテルに泊まって酒を酌み交わし、川上さんを偲んだ。

2012年9月10日月曜日

ドナルド・キーン90歳。夢の実現に挑戦

(2012、7、21 石川啄木の墓を訪れたドナルド・キーン)

 9日、BS・TBSより、「日本人ドナルド・キーン90歳を生きる」が放送された。実にショッキングな内容だった。

 今年90歳になったドナルド・キーンは日本の国籍をとり、鬼怒鳴門と名乗り、さらに現在、3つの夢の実現に挑戦しているというから驚く。70歳で年をとったなどと、いってられない。

 ドナルド・キーンは20歳代の時、源氏物語を読んで、魅せられ、日本文学の虜になったという。(第2次大戦の時は米軍の通訳として日本人捕虜とも対峙した。”小生ブログ2012、3,17キーンが体験した日米戦”参照)その後、谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫等の日本文学を翻訳。日本文学を世界に広めた。キーンは日本国より、勲二等、文化勲章を授与されている。

 さて、キーンが今取り組んでいる夢とは何か?

①ドナルド・キーン著作全集全15巻の出版→ドナルド・キーンは現在の世相は文学全集が売れる時代ではない。もし、売れなかったら、出版元の新潮社で皿洗いをやる。と心境を語る。
②ドナルド・キーンセンター柏崎の開館→このセンターに米国のキーンの執務室などを再現。キーンの日本、日本文学への愛の秘密に迫る。
③石川啄木の評伝の執筆→27歳で夭折した啄木。特にその日記には今日的表現が散りばめられているという。その啄木の魅力を解き明す。

 キーンは「90歳の今が一番幸せ」だという。
 それは裏返せば、夢が沢山あるという事だろう。

2012年8月31日金曜日

神の領域、ワーグナー「パルシファル」

この年(70歳)になると、プッチーニの「トスカ」「蝶々夫人」「トゥーランドット」など軟弱である。時にはヴェルディの「椿姫」さえも・・・。

 その点、ワーグナーの楽劇は今だに汲めども尽きない。もっとも、どの作品も長すぎて相対する機会も少ないのだが・・・。
 そのワーグナーという作曲家、人間的には自己中心的で、鼻つまみものだったらしい。かのニーチェは自著の中で「彼は人間ではない、病だ」と評している。
 その彼だからこそ、「神々の黄昏」「パルシファル」といった神の領域を感じさせるオペラ(楽劇)を創ることができたのだろう。

 8月26日、NHK/BSで、8月11日上演されたばかりの「パルシファル」(バイロイト祝祭歌劇場)が放送された。この作品は舞台神聖祭典劇と命名され、ワグナーの死の前年(1882年)上演された。この祭典劇には槍と杯が登場するが、この槍はキリストが磔にされた時、脇腹を刺したもの、杯はその時流れた血を受けたもの、というから恐れいる。

 物語はこの槍(聖槍)と杯(聖杯)を守るべき王が悪の誘惑に負け、槍を奪われた上にその槍で射され、その傷が癒えず、苦しみ抜くというストーリーである。その苦しみは作曲家ワーグナーの苦しみのようである。鼻つまみものだった彼の苦しみ、懺悔の念は尋常なものではなかったはずだ。

 それにしても、第一幕の荘重な前奏曲からして、この楽劇は神の領域のオペラだと感じさせる。人間業を超越している。

 


2012年8月25日土曜日

文章は、その方の全存在の表現


 8月16日、牛久市の板前料理「ふしみ」で、「刈谷いしぶみの会」の暑気払いが行われた。
この会は私が住む刈谷団地の鈴木敏正さんが主宰する自分史の会である。
 私の向いの席は新しく入会された中村たかさんである。炎暑の中、神立からいらして下さった。
帰り、平成6年発行の「ふみつき」を手渡された。中村さんが足立区にお住まいの頃の同人誌である。「驚くわよ」と中村さんは言われた。
 「ふみつき」をみて、中村さんが内閣府に勤められていたこと、芥川賞作家の重兼芳子さんに師事されていたことを知った。確かに驚いた。
 私はあわてて牛久図書館に行き、重兼芳子さんの「さよならを言うまえに」を読んだ。この中に次ぎのような記述があった。
 「このあいだ『初めて文章を書く』(主婦の友社)という本を書きましたが、その中で、文章はハウツーでは教えられないということを何回も書きました。それはなぜかというと、文章というのは、その方の持っている全存在の表現だからなんですね。」

 同じく 「いしぶみの会」のメンバーである下遠野さんから見せていただいた本に渡辺昇一さんが、こんな事を書かれていた。
 「今の民主政治をよく見てください。民主政治と言いながらも、今生きている人たちだけですべて物事を決めてしまいます。-略ーそこには先祖が築いてきた伝統や遺産というものが考慮されておりません。あるいはこれから生まれてくる子どもたちのことが忘れさられております。百年前の祖先のこと、二百年後の子供たちのこと、そこに目を向けることこそが、本当の意味での民主主義だと思うのです。」

 お二人の言葉の重さ、深さを忘れない為にブログに書留ました。

2012年8月20日月曜日

刈谷団地・盆踊り大会、放送担当

(櫓上段で太鼓を叩くのはモナコからきたフィリップさん)

18、19日、私の住む牛久・刈谷団地で「第33回ふるさとづくり盆踊り大会」が行われた。

私がこの団地に引っ越ししてきたのは1980年(昭和55年)、従って、その前年から盆踊り大会は開催されたことになる。当時の世帯数は200ほど。現在は1,600世帯、5千名が生活する大団地になった。

私は平成20年から盆踊りの放送を担当している。
午後5時~午後9時まで、住民、ゲストの要望に応えて盆踊りの曲を流し続ける。当初、曲はカセットとCDだった。しかし、カセットは曲出しが面倒なので、最近は全てCDRに作りかえて使用している。機材はレンタルだが、毎年、プレーヤが違う。CDRの場合、プレーヤによって、再生できない場合がある。そこで、今回は自分のプレーヤを持ち込んだ。

アナウンサーはベテランの酒井さん、五十嵐さん。酒井さんによると、五十嵐さんは元・ミス牛久とのこと・・・ということで、CDRプレーヤが快調だと、放送席は両手に花で特等席である。

18日の特別老人ホーム元気館の「よさこいソーランチーム」による、”マツケンサンバⅡ””よさこいソーラン”の唄と群舞は迫力満点!19日は磯節全国大会で優勝した岸田千恵子先生が自作の「牛久ハッピー音頭」を熱唱。櫓の周りに大きな踊りの輪ができ、先生から放送席にアンコールのサインがでた。
(祭りが始る前「刈谷和太鼓クラブ」の厳しい訓練が行われる)


2012年8月13日月曜日

男!残された人生

 今朝(13日)の朝日新聞、茨城版を見たら、高山了さんの記事が掲載されている。
高山さんは65才。定年後、シルクロード1万5千キロを10年かけて自転車で走破する計画をし、挑戦している。
 高山さんは地元(土浦)の進学校を卒業、T工業大学卒業、F写真フィルムに入社。絵に描いたような順風な人生を送った。同社の同僚の方々は定年後、海外旅行をするとか優雅な老後を送っている。しかし、高山さんは一味違う。余生を送るのではなく、余生に挑戦しているのである。
 今夏のツーリングは、3,750メートルの高地、未舗装道路、宿泊所・ホテルなし。しかも銃を持った監視兵がつくという。65才にもなって、なんでそんな無茶なと思う。しかし、小生にはこれが男の余生の生き方の理想像に映る。
 男の生き方として、小生と高山さんの価値観は共通すると思っている。次元が違うが小生がシルバーセンターのバイトをしている事に高山さんは共感された。機会があれば自分もやってみたいと・・・。
 近隣に高山さんのような挑戦者がいるのは心が躍る。高山さんには、是非、ツーリングの模様を本にまとめてもらいたい。それが、残された男の人生の生き方の事例になる。
 それにしても、高山さんの冒険を見守る奥様、ご家族に敬意を表したい。

2012年8月7日火曜日

レコード製作者との愉悦の一時

昨日(6日)午前はシルバーセンターの掃除。雨でびしょ濡れとなった。

 午後、東京へでかける。3時、中野坂上に住んでいる友人を訪ねる。
 彼の自宅(マンション5階)に入って驚いた。リビングにはオーディオファン垂涎のタンノイのスピーカ。窓の外には新宿副都心が広がる。(写真)そして上品な奥様。幸せな奴め・・・。そんな彼につきあっていただける、小生も幸せである。

 6時、レコードメーカーOBのAさん、現役レコード製作者のBさん、Cさんと、新宿駅南口の「響」で会食。わが町牛久ではお目にかかれない料理とお酒をご馳走になりながら音楽談義。懸案の伝説の音源のCD化が順調に進んでいるとのこと。Aさんの話によると、まだまだ幻の音源があるとのこと。
 その後、指揮者のバレンボイムがロンドンオリンピックの開会式でオリンピック旗を持って登場したことが話題になる。イギリス出身ではサイモン・ラトルとか、コーリン・デービスなどの名指揮者がいるのになんでバレンボイムなの?等々,話題は尽きず、終わったのは11時近く。
 牛久に到着したのは終電。12時30分。

シャワーを浴び、「なでしこジャパン」の先制ゴールを視て、布団に倒れ込む。

2012年8月4日土曜日

95才、母の紙細工

(95才の母が作った紙細工)

7月31日、11時からの佐藤竹夫君の葬儀、および同級生による偲ぶ会は1時30頃終了する。
その後、市街から5キロほど離れた実家に向かう。
実家には95才になる母と兄夫婦3名が住んでいる。
実家はお寺の本堂のように広い。真夏でも涼しい風が吹き込んでくる。母がだしてくれた甚平を着て大の字になる。深夜バスの疲れもあり目を覚ました時は5時近かった。兄が愛聴している、イヤースピーカを頭にかけてみる。いい音がする。やがて、寝たきりになったらお世話になる道具かもしれない。その時まで耳が健在であればなどと思っていたら、兄がシャワーからでてきたので、続けて、シャワーを浴びる。
サッパリしたところで、仏様を拝み、兄と久しぶりにビールを飲みかわす。兄嫁が作った料理が美味しい。家の山で採れたという筍(たけのこ)汁と蕨(わらび)が絶品だった。久しぶりに兄とクラシックの名盤の思い出を語る。
時計を見ると、間もなく7時である。
母が土産にと「紙細工」、兄嫁からは山菜をいただく。母は95才であるがマメである。また、色っぽいと思う。
兄嫁の運転する車で羽後本荘駅へ。8時の列車で秋田駅に向かう。
9時10分、東京行きの深夜バスが発車した。車中、大地震の夢を見る。「またか!」地震はなかなか収まらない。地震速報を見ようとテレビをつける。ここで目が覚めた。通路側の肘掛を枕に寝こんでいたのだ。大地震の震源はバスの振動だった。
深夜バスは1日午前7時、無事、大東京に到着した。電車へ乗る。行きかう上りの列車はどれも通勤客で寿司詰めだった。

2012年8月3日金曜日

映画のワンシーンのような葬儀

7月29日、電話のベルが鳴った。
「俊だが、新市だ。タッケ死んだ。火葬終わって、31日葬儀だ、まんず連絡まで・・・」
秋田の中学時代の同級生、佐藤新市君からの電話だった。同級生の佐藤竹夫君が亡くなったというのである。前から癌だときいていたので、「やはり」と思った。彼は地元由利本荘市の市会議員である。われわれ同級生の出世頭である。
スケジュールを確認すると幸い、30日から1日は急ぎの用事がない。30日、東京発の深夜バスで秋田へ向った。なんと、このバス、在庫整理とのことで往復で6,800円。深夜バスは安いが体力が必要。12名ほど乗車していたが、小生以外は全て若者。
31日、11時、由利本荘市のグランドホテルに到着。葬儀場に着いて驚いた。300名ほどの参列者で満席。由利本荘市市長、市議会議長と地元名士の弔辞が続く。同級生の畠山良造君も弔辞を述べた。良造君の話によると、竹夫君が遺書を残しており、その中で弔辞についても段取りをしていたという。
葬儀が終わると、われわれ同級生に対して、膳が用意されていた。奥様のお話によると、これも竹夫君の指示だったようだ。20数名の喪服の同級生が膳を囲んだ。(写真・下)
帰宅して葬儀の写真をプリントしてみた。立派な葬儀、そしてスッカリ、ジジ、ババになった同級生達。それは現実のものではなく、映画のワンシーンのように思えた。

2012年7月30日月曜日

オリンピックの功罪

27日、第30回ロンドンオリンピックが開幕した。定年後3回目のオリンピックである。
第29回北京大会、第28回アテネ大会ともほとんど記憶に残っていない。
これではいけないと思って、ブログに書き残すことにした。

27日、(日本時間28日早朝)の開会式を見て、オリンピックの認識を新たにした。今回の参加国・地域は204ヶ国に及ぶ。選手の入場行進は1時間30分に及んだ。つまり、丸い地球に住む全ての人種の代表が集うのである。こんな光景はオリンピックでなければ見ることはできない。
 地球はこれら参加国・地域みんなの物であり、戦争したり、汚染してはいけないと思う。

次に感じたのは開会式の見事な演出である。
イギリスは人口も、国民総生産もちょうど日本の1/2である。それなのにこれだけ立派な開会式ができる。国の力は人口や国民総生産だけではない。国が小さくとも知恵があればどんな事でもできる。人間の知恵は無限だということを感じた。

日本の新聞は日本はメダルを何個獲れるか予想する。
最近のゴルフ大会を見ると、男女とも韓国勢が上位を独占。オリンピックではどうだろう。興味のあるところである。開会式前から競技の始まった、男女サッカーの日本の活躍には心が躍る。深夜にかかわらず、テレビを観る。
しかし、テレビが連日オリンピック番組に埋め尽くされるのはどうだろう。
日本は課題山積である。日常を忘れてはいけない。
日常だけ放送する局があっても良い。

2012年7月24日火曜日

介護保険料、19%アップ


市役所から「介護保険料のしおり」というパンフレットが送られてきた。
表紙を見ると、老人を囲む明るい家庭のイラストである。

70才を迎えた小生にも夢のある通知のようである。
しかし、右下に「平成24年度から介護保険料が変わりました」とある。
経済状況の厳しい昨今、値下げはありえないので、値上げの通知ではないかと思った。
パンフレットの中を見ると、新しい保険料が印刷されている。しかし、昨年までの保険料が記載されていないので、どれぐらいの値上げ(値下げ)なのかわからない。
一緒に小生自身への新保険料の通達が入っていた。
これを見るとかなり大幅のようだ。しかし、これにも何%アップなのか数値が書きこまれてないので、市役所へ問い合わせた。なんと19%のアップだという。

消費税にしても電気料金にしてもマスコミ、国民上げてその是非が議論されている昨今、19%大幅アップという具体的な記述のない、パンフレットによって一方的に通知されるとは・・・。市の姿勢を疑う。介護保険料は年金受給者の場合、その年金から引き落とされる。
 このような大幅な値上げがまかり通ると、年金受給者の生活はますます逼迫し、健康的な生活が阻まれる。


市のホーム頁にアクセスし、介護保険事業の中身を見ると、こんな事業にも使われているのかというものもある。行政や関係者は「介護福祉事業」を「聖域視」し、この分野のチェックが甘くなっているのではないか。
税金頼みの介護福祉事業を見直し、介護保険料の値上げを抑える。その一方で老人に自立を要求する。それがこれからの行き方であり、その方が老人も活きいきとするのではないか。

2012年7月20日金曜日

佐藤しのぶ、由紀さおり、中村紘子

日本を代表するアーチスト、3名(4名)が立て続けに牛久市・中央学習センター文化ホールで公演する。

7月22日(日) 佐藤しのぶ(カルメン・ファンタジー) 17:00~(3千~5千円)
8月12日(日) 由紀さおり・安田祥子(童謡コンサート) 14:30~(3千5百、4千円) 
9月 8日(土) 中村紘子(ついてなかったブゾーニ氏について) 14:30~(3千5百、4千円)

牛久市の場合、今までは、これくらいの大物になると、年に1回の公演があるかないかといった程度だった。したがって、牛久住民の私としては彼女達のファンであるとともに興業的な面で関心があるのである。

牛久市の人口は8万名。いくら大スターでも3ケ月続くと息切れしてしまう。
おそらく、主催者側はつくば、土浦、竜ヶ崎、取手あたりまで視野に入れているのだと思う。
牛久のホールは駅から徒歩15分。駐車場は無料。高速のインターからも近い。ホールのキャパシティは1,200名と手頃である。

三公演とも成功してもらいたい。


2012年7月13日金曜日

98才、吉田秀和の遺稿


音楽評論家(文化勲章受章)、吉田秀和が死去した時、朝日新聞が一面トップ、文化欄、社会面で詳しく報じた。

しかし、追悼記事の圧巻はなんといっても「レコード芸術」7月号(音楽の友社)”追悼特集・吉田秀和”である。
死の前日(5月21日)、編集担当が鎌倉のご自宅に原稿をとりに行ったのだという。その時の先生とのやりとり、そして、渡された手書きの原稿(写真)を見ると、吉田は死の前日まで矍鑠としていた事がわかる。
吉田の手書きの原稿を見ると、文字自体が楷書で美しく流れるようだ。しかも修正箇所があると、文字数がオーバーしないように次の行で調整している。これらの作業は瞬時に行なわれ、次に書き進む。一気に書かれたものだと推察される。98才、しかも死を間近にした人間が書いたものとは思えない。

原稿の内容は「神のヴァイオリン弾き」とうハイフェッツのDVDを見た感想から始まる。一般的に演奏者を評する時、演奏解釈、演奏技術が論じられるが、ハイフェッツは別次元の奏者だというのである。彼の場合、その発する音だけで聴き手を魅了した「ある絶対的なもの」だというのである。

この原稿を読み終わった後、思わずハイフェッツのCDを取り出し、久しぶりに絶対的なものを味わった。


2012年7月8日日曜日

北アルプス・飛騨高山の旅と小説・氷壁(7/7)

上高地を訪れたのは二回目である。
第一回目は多分1968年(昭和43年)26才の時である。TDKの千曲川工場が長野県佐久にあり、この工場にお得意先を招待した時にタクシーで上高地を訪れた。駆け足だったので、当時の記憶は定かでない。従って、今回が初めての上高地行きといっても良い。
 4時頃、上高知を後にして帰途についた。帰りのバスは誠に順調、驚いた事に首都高で一度も渋滞がなかった。向島を通過する頃、右手を見ると、東京スカイツリーの左手に月が見えた。と間もなく、ツリーと月が重なった。都会の情景の素晴らしい瞬間だった。守谷に9時頃到着、牛久の我が家に着いたのは10時前だった。
(河童橋と穂高連峰をのぞむ)

 小説・氷壁は1958年(昭和32年)映画化された。魚津は菅原謙二、小坂は川崎敬三、八代美那子は山本富士子、小坂かおるは野添ひとみが演じた。野添ひとみの粒らなひとみと、初々しさは今でも記憶に残っている。
今回読み直してみて井上靖の構成力、心理描写の緻密さに圧倒された。
「氷壁」によって、今回の旅行は一段と意義深いものとなった。

上高知と小説・氷壁(6/7)

7月2日、乗鞍岳スカイラインを降り、平湯で一服した後、2時頃、いよいよ上高地に入る。
上高地もマイカー乗り入れ禁止である。
大正池でバスを降りる。ここからウォーキングコース梓川に沿ってを歩く。今回の旅行のハイライトである。
天気は快晴。大正池の左手に焼岳が聳える。田代池を通って、ウェストン碑を見、河童橋に至る。一時間半かけてゆっくり歩を進めた。山、梓川の清々しさを写真に収めた。

 さて、小説・氷壁の方だが、魚津恭介はいつの間にか、人妻であり、亡き友人の恋人である八代美那子に心を惹かれる。その一方で小坂乙彦の妹かおるに愛を告白される。これらの複雑な関係を清算する為に上司・常盤大作の心配を余所に一人で穂高に向かう・・・。
梓川と六百山(標高2,470メートル)

乗鞍岳と小説・氷壁(5/7)

7月2日、10時過ぎ、飛騨高山を後にして乗鞍岳に向かう。
雄大なスカイラインを登る。日光などと違ってマイカー禁止。排気ガスが少ないので空気もうまい。標高2,702メートルの畳平で休憩。ここの駐車料金、バス1万円、タクシー2千円。自然保護に使用されるとのこと。畳平を出発したのは丁度12時、ツアーガイドの方が揺れるバスの中で弁当とお茶を配る。ツアーガイドの仕事は結構大変だということを実感。乗客は景色ら見ながら、下山。上高地に向かう。”写真は畳平とスカイライン(下)”
ところで、小説・氷壁の続き・・・。
魚津恭太は小坂乙彦の妹かおる共に、捜索にでかけるが、乙彦は発見できず、雪解けを待つことになる。小坂の郷里は山形県の酒田。魚津は小坂の母に仔細を報告する為に夜行寝台「羽黒」三等寝台で酒田に向かう。秋田生まれの私にとって、「羽黒」は懐かしい名前である。今でも、羽越線経由の山形(秋田)行き夜行寝台は健在である。ただし、名称は「あけぼの」に改称されており三等寝台は無くなっている。



2012年7月6日金曜日

飛騨高山と小説・氷壁(4/7)

7月2日、8時30分にホテル出発。2時間かけて、高山の朝市と名所を探訪する。
高山は元禄五年(1692年)幕府の直轄地「天領」になった。今でいうと「経済・文化特区」という位置づけになると思う。その象徴が高山祭である。この高山祭の時に町を練り歩く屋台が、屋台会館に展示されている。屋台を見ると、木工、塗り、彫刻、金具、人形など日本の伝統芸術の全てが結集されているという印象を受ける。ただただ圧倒され、言葉もでない。”美しい街並み(写真上)と屋台会館に展示されている屋台(写真下)”

ところで、「氷壁」の続き・・・。
 小坂乙彦遭難のニュースが報道されると、世間は「ナイロンザイルは切れたのか?」という話題で持ちきりとなる。ナイロンザイルは切れないと宣伝されていたため、ナイロンザイルを小坂が切ったのではないか?(自殺)または、魚津が自分が助かる為に切ったのではないか、という憶測も生まれる。そこで、実験をする事になるのだが、その実験を指揮したのが、小坂とただならぬ関係にあった美那子の夫、八代教之助だった。
 

2012年7月5日木曜日

高山・雲上露天風呂と小説・氷壁(3/7)

7月1日、午後5時、宿泊先である「ホテルアソシア高山リゾート」着。5つ星のホテルとあって、その豪華さに驚く。部屋に入って、カーテンを明けると、雨が上がりの高山市街が眼下に広がる。7階にある風呂は清潔そのもの。特に展望露天風呂には驚いた。あふれ出たお湯が、眼下に滝のように落ちているような錯覚に陥る。
(雲上・露天風呂。眼下に山々に囲まれた高山市街が広がる)

夕食は大きなテーブルを4組のツアー客が囲む。土浦、荒川沖、牛久から参加したご夫妻だった。小生の痛風エピソードを突破口に健康談義で盛り上がる。

ところで、小説・氷壁のその続き・・・。
魚津恭太は八代美那子との関係で不安定な心理状態の小坂乙彦とともに穂高の氷壁に挑む。二人はシッカリとナイロンザイルで結び合う。吹雪に見舞われ、頂上直前で小坂が滑落。谷底へ消える。その時、魚津はなんの衝撃も重力も感じなかった。二人を繋いでいたナイロンザイルが切れたのである。魚津は必死に捜索するも小坂は見つからず、失意の内に帰京する。

2012年7月4日水曜日

穂高と小説・氷壁(2/7)

道中、井上靖の「氷壁」を読みはじめる。
登山家の魚津恭太は親友の小坂乙彦と、年末から正月にかけて前穂高東壁に初登頂をする計画を立てる。その計画のさ中、魚津は小坂の思いがけない秘密を知る。小坂はふとしたきっかけで、八代美那子(人妻)と一夜を過ごす。その後、小坂は八代に横恋慕、美那子は困惑する。
魚津と小坂は12月28日登頂に出発。新宿22時45分の夜行に乗車。4時57分松本に着く。
新宿から松本まで6時間12分を要している。物語は昭和30年、当時は松本も遠かった。

<7月1日の穂高は雨。ケーブルカーの窓には雨粒(上)、山頂に咲く、キヌガサ草>

ツアーバスは諏訪サービスエリアで休憩をとった後、松本で高速を降りる。首都高速から松本までは3時間。「氷壁」の頃、6時間以上かかった松本は、今、車でも電車でも3時間で行ける。バスは松本から野麦街道(158号)を走る。平湯で471号に入り、新穂高を目指す。東京を発つ時、曇りだった天気は新穂高ロープウェイの乗車口に到着した時は本降りの雨となった。第1、第2ロープウェイを乗り継いで、標高2,156の西穂高口に着く。眼前に聳えるはずの穂高連峰は全く見ない。山頂に咲く高山植物、キヌガサ草が雨に濡れて美しい。
3時過ぎ、バスは新穂高を後にして高山へ。5時過ぎ、バスは飛騨高山の南高台に聳える、ホテルアソシア高山リゾートに到着する。