(児玉さんは広島県能美島大柿町で生まれた)
町内の自分史同好会「いしぶみ」の大先輩、児玉伸彦さんからドサリと印刷物を手渡された。
タイトルは「私の人生」。児玉さんが自分の幼少期から今日までを綴ったものだった。
児玉さんは昭和6年生まれ、私より11歳年上。今年81歳である。
瀬戸内海に浮かぶ能美島で生まれた。今では高速艇で広島まで27分だが、当時は島々を回ることもあり、3時間以上かかったという。船も丸木を打ち抜いて作ったような木造船だった。お母さんは早世、お祖母さんに育てられる。お父さんが先生だったため、「先生坊ちゃん」と島の人々に呼ばれて育つ。私は幼少の章を読んで壺井栄の「二十四の瞳」を連想した。
やがて、児玉さんはお父さんの勤務の関係で東京へ転居するが、第2次世界大戦勃発。疎開先の広島で原爆の阿鼻叫喚を体験する。中学3年の時である。好事家だったお父さんは高校2年の時蒸発。継母(教師)の細腕で戦後の混乱期を生き抜く。奨学金をもらい、明治学院大学に入学。アルバイトもしたが、小遣いが足らず、青山の借家から大学のある白金まで歩いて通学したという。しかし、ムリがたたり、夢遊病者になってしまう。
大学は卒業したが、就職先が見つからず、林業関係の業界紙、個人の印刷会社を渡り歩く。何日も徹夜が続き、デパートでマネキンの足を踏み、女性と間違って「すみません」とマネキンに謝り周囲の人々に笑われたこともあった。
児玉さんは30歳で結婚するが、奥さんと渋谷の「名曲喫茶田園」でデートした時である、急に奥さんが下を向き、ハンカチで目元を拭きだした。理由を聞いたところ、児玉さんの服装があまりにも粗末だったのが理由だった。奥さんは泣きながら「あなたが可哀相で仕方がなかったの。私で出来ることなら、あなたを幸せにしてあげたい。」これを聞いて児玉さんは貧しくても彼女を大切にしなければならない、と思った。
児玉さんは自分史を「リアル文学」と呼んでいる。児玉さんの人生は波瀾万丈。読んで大きな感動に包まれた。現在、児玉さんは2人のお嬢さんとお孫さんに恵まれ、趣味の写真と文学で悠々自適の生活を送られている。
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