2010年12月26日日曜日

戦争の重みが伝わる自分史


 先週、思いもかけず、伊勢信子さんから自分史「野菊」をいただいた。

伊勢さんにお目にかかったのは地元の文藝同好会「刈谷いしぶみの会」に2年前入会した時である。しかし、残念なことに伊勢さんはご高齢を理由に今年退会された。

 伊勢さんは今年88歳。13年間にわたって、「いしぶみ」に投稿された原稿を今回編集して「野菊」として出版された。84歳の時にマスターしたパソコンが今回の「野菊」の出版に役立ったいう。


 伊勢さんはご主人とともに、教師人生を歩んだ。戦時中、伊勢さんは教育者として戦争に協力した。「国民の一人として、天皇の赤子を育てる義務をこの上なく名誉なことと思って薙刀道場に通い、戦争童話を作って(子供たち)聞かせたのだ。今にして思えば、誠にくやしい限りである。」「数々の戦争を”聖戦”と信じこませたものに対する大きな憤り、それよりも、そのことを信じて疑わなかった自分の不甲斐なさ、愚かさに対する自己嫌悪に悶々とした日々が続くのだった。」疎開先の生活も肌理細かく描写される。「空いていた炭焼き小屋を改造した建物を家賃10円で借りることが出来た。八畳と六畳に台所がつき、トイレは外からしか入れない所謂外便所で、穴を掘って板を二枚渡しただけのもの」「夫にミシンを組み立ててもらい、娘を赤ちゃんの着物姿から洋服スタイルに変えて見ようと、私の学生時代の制服やオーバーで娘の上着とズボンを作った。」


 小生は昭和17年生まれ。戦争の記憶は全くない。今まで戦争の悲惨さ不条理については本や映画などで見聞きしてきた。しかし、今回の伊勢さんの文ほどグサリと突き刺さるものはなかった。その陰には伊勢さんが当時女性教師だったという経験の重さある。正に生き証人である。

 伊勢さんの自分史を通して、私は自分の母の苦労を垣間見た気もした。私の母は93歳だが、まだ健在。母にも「野菊」を見てもらいたいと思った。


 最近の文学作品というと、ゲームのような筋書きと肌触りの良い文章のものが多い。反面、経験を基にした自分史はゴツゴツしているが商業文学にはない重みがある。

2010年12月22日水曜日

武道館、5千人の第9に参加

指揮の西本智美
東京交響楽団(右側)

大合唱団の一部


 最初、武道館の第9なんかに行くもんかと思った。家内に意向を聞いたら、「”カジュアルシート”というのは面白いんじゃない」という。

 チケットは3種類ある。合唱に参加する「スタンダード」。ソプラノ、アルト、テノール、バスと分かれている。これはオーディションがあり、ドレスコードもある。リハーサルにも参加しなければならない。「カジュアルシート」。これはオーディション、ドレスコードもない、つまり服装も自由。リハーサルもない。合唱は歌える部分だけ歌えばいい。「一般シート」。これは一階席で聴くだけの席である。

 私は「楽譜は読めない」「ドイツ語が分からない」「極端な音痴」ときている。合唱団員としては三重苦である。しかし、家内がいうように「カジュアルシート」であれば他人に迷惑はかけない。なにしろ、「スタンダード」4千人、「カジュアル」千人の大合唱団である。一人くらい、調子はずれでも分からない。

 それでも、いざ参加するとなると、一応予習をしなければ・・・。楽譜のドイツ語にカナをふり、日本語訳を書き、CD、DVDを10回くらい見る。予習をする度に音楽をやるには、楽譜を読めるだけではダメ、言葉が分かるだけでもダメ、その両方が理解できないとダメだということを痛切に感じた。それと、自分自身のスキル。(歌唱力)。そしてこの曲を作曲したベートーヴェンの偉大さを痛感する。

 会場は合唱団席5千名、一般席5千名、計1万名で満席。武道館はコンサート会場でないため、換気音が聴こえ条件はあまり良くない。しかし、さすが第9である。会場は祝祭的な雰囲気に包まれた。

 合唱の冒頭のFreude!(歓喜)から最後のGoterfunken!(神々の火花)までの間、半分くらいは大合唱になんとかついていった。ほとんどが口パク。曲が終わるとバーンと音がして、ステージから客席に金銀のテープがぶ。”神々の火花”のつもりなのであろう。武道館ならではの趣向だと思った。

 このコンサートには「TOKYO FM 開局40周年記念・夢の第九コンサートin日本武道館」と銘打たれていた。

2010年12月21日火曜日

房総カントリー、忘年ゴルフ

     (親睦会の会場「社員倶楽部・楽多館」)
 
 17日、房総カントリーで、CSGの忘年ゴルフコンペが開催された。
CSGの意味合いは良く理解していないが多分、頭文字のCはカセットテープ(Cassette Tape)のCだと思う。

 1980年(昭和50年)頃、カセットテープ全盛の頃、テープの営業所は全国の主要都市にあった。当時の営業所長が中心になったゴルフコンペである。当時のリーダー、市販部長・川上岩男さんは78歳。ドライバーショットは衰えず、190ヤードは飛ばす。ゴルフでも全員のリーダー役である。はるばる北海道から藤田孝男さんが参加した。

 私は当時、営業ではなくスタッフだったが、仲間に入れていただいている。

 当日の参加者は19名、スコアを見て驚いた。104、97、103、90、100、110、125、104、92、110、102、113、106、120、105、100、122、109。つまり、100を切ったプレーヤーは3人しかいない。10年前はおそらく半分以上が100を切ていたと思う。古希クラスが大半であることを考えると無理はない。しかも私の知るところ、4名は癌などの大病経験者である。

 夜は御宿にある社員倶楽部「楽多館」に宿泊した。6時から懇親会&成績発表、終了後カラオケルームでカラオケ大会。音痴の私は一曲歌って9時過ぎに退散したが、終演は11時だったという。歌った曲目は60曲。皆さん元気である。

 幹事の髙橋栄三さん、幹事役お疲れ様。山本守雄さん、カラオケでの名司会、いつもながら見事でした。90のベスグロおめでとうございます。

 不況の中、社員倶楽部「楽多館」が維持されているのも嬉しい。

 

2010年12月16日木曜日

カナダから上田先輩来日

      (銀座「山野楽器」から見た4丁目交差点方向)
 
15日(水)10時 日本記録メディア工業会訪問
宮田事務局部長と四方山話。別れ際の会話
「畠山さん、来年、各社のメンバーと会いましょうよ。松本さんによろしく」
「松本さんと今晩会いますよ。TDK柳橋倶楽部で」
「え、実は私も今晩、飯崎さんのお世話で柳橋倶楽部へ行くんですよ!世の名狭いですね」

その後、11時30分から銀座で昔お世話になった取引先の営業マンと会う。 
「中国には白い金と灰色の金と黒い金というのがあるそうですね」
「石川達三の”金環蝕”なんか読むと、日本の昔の政官業の裏話も凄いね」
「贈答品の靴下の底に商品券を入れるとかありましたよ。私の知ってる営業マンは取引先へ渡す商品券をチケットショップで換金して自分のポケットに入れてしまった。後でバレたが、彼が正直に白状したので首にはならなかった」そんな時代でした。

15時、銀座「山野楽器」でCDコーナーを覗く。1920年~70年、米国で活躍したフランチェスカッティのベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の海外盤が目にとまる。フランチェスカッティは田舎(秋田)の兄
の愛聴盤である。買い求める。クリスマスプレゼントになれば幸いである。

 18時、TDK柳橋倶楽部。カナダから来日した「上田さんを囲む会」が開催された。当日の参加者は13名。上田さんは慶応大学の出身であり、現在カナダで住宅会社を経営している。その前にTDKに在籍していた。部署は違うが私の先輩である。当日の参加者に慶応出身者が5名いた。私は慶応とは縁も縁もないが、なぜか、上田さんから幹事の役を仰せつかった。私は司会は慶応出身で退社後も業界のカリスマとして人望を集めている松本さんに司会を依頼した。松本さんの名司会で会は大いに盛り上がった。メンバーの中に現役が3名いた。その内の1名、吉野君の挨拶は嬉しかった。彼は定年後、某国立大学の講師を依頼されているという。もう一人の岡部君は当日会場になった倶楽部を傘下に収めるTDKサービスの社長である。山形の40年ものの古酒を差し入れてくれた。日本酒でありながら琥珀色で紹興酒に似た味がした。もう一人は参加者の中で最年少の田村君。彼も慶応出身。イケメンである。「もう51歳です」と本人は照れるが70歳前後のOB族にとっては心強い。

 9時10分頃、会は田村君の締めで閉会。私は宮田さんがいる宴席にうかがう。「やあ、畠山さん!」
宮田さん、飯崎さんの他、富士写真、三井化学、リコー等の幹部が笑顔で迎えてくれた。


柳橋倶楽部を出ると、外は肌を刺す寒さ。私は大先輩の浜崎さんと並んで浅草橋駅に向かう。
「最近は睡眠と、排泄が課題なんです」
私もこんなことを話題にする年になった。
「そうなんだ。朝早く目が覚めるし、トイレに一時間もいるときがある」
浜崎さんも同様のようである。
といいながら、この日の心と体は十分満たされていた。
久しぶりに気の会う会社の先輩後輩、業界の方々とお会いすることができた。

2010年12月12日日曜日

刈谷新自治会館落成

現在の会館
新会館玄関

新会館全景


 私は牛久市の刈谷に住んでいるが、今日、刈谷の新自治会館の落成式があった。
落成した新自治会館は建坪125坪である。現在の会館の約1.5倍の広さになる。屋上には太陽発電のシステムが設置されている。

 一昨日、NHKの番組で「縮む日本」という番組があった。事例として秦野市、習志野市が取り上げられていた。人口の縮少により公的施設の統廃合が進んでいるという番組だった。そんな中での竣工。恵まれていると思った。

 落成式で池辺市長が祝辞を述べた。「私はこれからは”子育て”と”助け会い”が大事であり、その為には自治会活動が大事である。この新自治会館がこれからの自治会活動の拠点になるように・・・」と語った。刈谷地区は自治会ができて30年。1,509世帯が住んでいる。自治会の積立金約4千万、市からの補助金約2千万によってこの新自治会館が完成した。

 私は刈谷地区の役員を1期経験して、今年の4月に退任した。したがって、役員の方々のご苦労はあるていど理解できる。新会館建設に携わった方々のご苦労は大変なものだったと思う。その反面、その苦労を住民の方々がどれだけ理解しているか気になる。

 国も地方も予算が厳しくなっている昨今、住民のボランティア活動に対する期待が高まっている。が、本当に行政はボランティアの方々の苦労を知っているのだろうか・・・というのも気になる。
 
 いずれにしろ、行政サービスはわれわれの税金でまかなわれている。住民は行政に厳しい目を向けるとともに、自分自身、行政に負担をかけないよう、自分を律しなければならないと思う。

2010年12月5日日曜日

朝日新聞掲載・広告の校正ミス?


 ブログ、本づくりをやっている小生にとって”校正ミス”は怖い。しかし、自分の性格上、また加齢現象の関係で”校正ミス”は日常茶飯事。


 今日、新聞(朝日)を開いたら、「同窓会コンサート」という広告が掲載されていた。全面広告であり、しかもわが青春時代の歌手のコンサートということで、見とれた。アレアレ、開催日を見て、アレアレである。2010年2月6日(日)とある。コンサートを聴いたファンのコメントも掲載されているので、今年のコンサートの紹介広告かとも思ったが、チケット販売目的の広告である。

 2011年とするところが2010年になってしまった。校正ミスのようだ。念のため、2010年2月6日は土曜日である。やはり校正ミスだ。この広告の校正は小生のような年金生活者がやっているわけがない。それでも校正ミスがでてしまう。
 校正ミスは見出しなどデッカイところで出てしまう。2010年と記述されていても、校正者は2011年と早合点してしまう。年号など分かりきったところは間違うはずがない、見出しなどのデッカイ活字で間違うことはないという先入観がある。

 それにしても一流紙の広告での全面広告、しかもこんなデッカイ活字の校正ミスは珍しい。意外に読者の方も2010年なのに2011年と読んで気がつかないかもしれない。

2010年12月2日木曜日

わが身にも事業仕分けの影響


 先日、中小企業の社長さんとお会いしたら事業仕分けの影響もあり、1万円前後の仕事から事前に見積もりを出さなければならず大変だという話を聞いた。仕事はやりにくくなっていると思うが、民間会社であれば当たり前のことである。

 他人ごとと思っていたその事業仕分けの影響が私にもふりかかってきた。

 私は現在、市のシルバーセンターの仕事をしているが、そのシルバーセンターから手紙が舞い込んだ。「事業仕分けの影響で補助金を減額するという指示が国からきている。ついては反対の意見書を厚生省に提出するので署名して欲しい」というのである。私は事業仕分けには賛成の立場なので署名するべきかどうか迷った。家内は署名しなと首になるよ!と茶化す。

 結論としては署名はしたが、センターに事業改善をし、国の方針に従うよう、要望した。その先はセンターや役員に一任というポーズである。シルバーセンターの事業内容を私なりにみると改善の余地がありそうだ。だいたい組織というのは放っておくと拡大の方に進む。(補助金を獲得するのに)もっともらしい理屈をつけて活動分野を広げていく。

 予算を減らされるとなると、行政は関係団体に反対運動の署名を求める。結果、借金はますます増え、税金は高くなる。そして、行政改革は進まず、庶民の生活は苦しくなる。

 政府は政策の優先順位を明確にし、我慢するところは我慢するよう国民に説明し、リーダーシップをとって欲しい。時々、中国や北朝鮮が羨ましくなる。

 


2010年11月27日土曜日

佐渡裕・バーンスタインを語る

             (11月25日、朝日新聞)
 佐渡裕はあまり好きなタイプの音楽家ではないが(まだ聴いたことはない)、25日放送された番組は面白かった。

 バーンスタインはアメリカ育ちのユダヤ人。ジャズからクラシックまで愛し、指揮だけでなく、作曲までこなすマルチ音楽家である。

 佐渡の話によると、彼が作曲した「ウェスト・サイド・ストーリー」にはクラシック音楽の要素が随所に入っているという。一例としてベートーヴェンのピアノ協奏曲「皇帝」の第2楽章の旋律が巧みに取り入れられている。とピアノを弾きながら解説。また、オペラでは一般的な重唱が取り入れられているとも。そういえば、トニー、マリア等の主役たちが重唱し、ドラマを盛り上げていた。

 カラヤンとバーンスタインの違いについて、カラヤンは自分の腕の中に理想のオーケストラがいるように抱えこんで指揮する。一方、バーンスタインは楽員に「一緒にマーラーをやろぜ!」といった感じで全身で指揮をする。

 バーンスタインの指揮の極意として、拍子をとるとき、水平に振るのではなく、垂直に振る。そこで音楽が抉られ彫りが深くなる。アダージョでは日本の能のようにほとんど静止しているように指揮をする。

 バーンスタインは同じユダヤ人作曲家マーラーの指揮を得意にしていた。マーラーの作曲した交響曲第6番には「悲劇的」という副題がついている。この曲の終楽章にハンマーの音が3回でてくる。1打目は「家庭の崩壊」2打目は「地位の崩壊」3打目は「命の崩壊」だという。マーラーが自分でこの曲を指揮した時、3打目のハンマーを躊躇したという。バーンスタインは3打目も叩かせるのだが、バーンスタインは「命の崩壊」があっていけないと否定の願いを込めて叩いたと思う。と佐渡は語る。

 バーンスタインは1990年来日。既に癌に襲われていた。この時、シューマンの交響曲第2番を指揮するが、この映像は鬼気せまるものがあった。
 成田を発つとき、見送りにきた佐渡裕にバーンスタインは「ビック、グッバイ」といい、佐渡は号泣。それから3ヶ月後、彼は逝く。72歳。

 佐渡裕は今年、日本でバーンスタインの失敗作と言われたオペラ「キャンディート」を上演し、大喝采を浴びる。佐渡はこの光景を恩師バーンスタインに見せたかったと結ぶ。

 私が佐渡をあまり好きではなといったが、それは、佐渡にバーンスタイン仕込みのアメリカ流の言動があるからだと思う。私に限らず、日本のクラシックファンはヨーロッパ流を好む。しかし、佐渡は来年ベルリンフィルを指揮するという。小澤征爾以来の快挙だ。ベルリンフィルはバーンスタインの再来を期待しているのかもしれない。成功を祈る。

2010年11月22日月曜日

躍動!井上道義のショスタコ10番

   (ショスタコーヴィチ第10番を指揮した井上道義)
     (終演は15時30分、イルミネーションが輝いていた)

 昨日(21日)15時~つくばのノバホールで井上道義指揮東京音楽大学シンフォニーオーケストラのコンサートがあった。家内とでかけた。前半は椿姫の抜粋、後半はショスタコーヴィチの交響曲第10番。前半の椿姫はテノールの佐野成宏が風邪で欠演、残念。しかし、後半のショスタコ10番は期待に違わぬ名演。オーケストラも学生オケとは思えぬ快演だった。井上のショスタコは深刻ではなく終始躍動感に満ち溢れていた。若いオーケストラが影響していたのかもしれない。
 開演前、井上がマイクを持って舞台に登場し、「今日は痺れるような演奏をします」と宣言。アンコール曲の選曲と演奏の素晴らしさが相俟って、聴衆は楽しさに痺れた。
 それにしても、座席は空席が目立った。A席2千5百円という超低料金なのに。(小生は千5百円のB席)研究学園都市のホールというわりには寂しい。

 20日は14時~竜ヶ崎市の音楽愛好会「ゲバント・ハウス」のCDコンサートがあった。これは小生のプロデュースによる特別企画「1977年カラヤン来日ベートーヴェン全集CD化の秘密」である。
 講師にキングインターナショナルの大川健さんを迎え、ゲストとしてアルトゥスレーベル斎藤啓介さん、日本コロムビアの岩垂靖樹さんも参加した。3人とも手弁当である。CDコンサートを聴き、改めて77年カラヤン・ベルリンフィルのベートーベンの素晴らしさに圧倒された。大川さんいわく「躍動する重低音」が会場に響いた。最近のベルリンフィルおよびベートーヴェン演奏はこの演奏と比較すると軽量化している。
 終わってから講師陣とゲバント・ハウスメンバー、ファンが焼き鳥屋で懇親会。福島からかけつけたファンはブルックナーを聞きながら農作業をやっているとのこと・・・。クラシックファンはマイノリティ。この時だけは主流派のように盛り上がった。
 
 「つくば市」と「竜ヶ崎市」は牛久市の隣町。つくばがイルミネーション輝く近代都市なのに竜ヶ崎は超レトロ。昭和時代の面影が残っている。今回のコンサートを通じて両都市の違いにも思いを馳せた。

2010年11月14日日曜日

日本コロムビアに行きました。

     (日本コロムビア受付のディスプレイ)
 
先週はいろいろありました。

 ●9日(火)14時、日本コロムビアへ(CDの企画の話がありました)。同社の場所は虎の門・江戸見坂。アメリカ大使館、ホテルオークラが近い。APEC間近とあって至るところ警備員。16時、浅草橋・TDK柳橋倶楽部でパソコンクラブ例会。テーマは年賀状の作成。目的の半分は18時からの飲み会。

 ●11日(木)13時、上野・昔お世話になった広告代理店の方と会う。15時、御茶ノ水でTDK・OBのNさんと会う。終わってからディスク・ユニオンによって中古CD漁る。昔の小澤征爾のCDが7枚組で1,500円。これは安い。18時、東京八重洲口のDEN東京でF君の定年退職祝い。昔、20万~30万くらいの価値かなと思って書いたコピーが200万で売られた。(コピーライターUさんの回顧談)

 ●日本コロムビアから送られてきたDVD、ワーグナー・「ニュルンベルグの指輪」視聴。15時間の大作。大感動。生演奏を含めてこんなに感動したことはない。演出クプファー(ドイツ人)


2010年11月9日火曜日

「桜田門外の変」。昔も今も同じ


 8日、家内と久しぶりに映画を観に行った。

茨城県が企画から携わったという「桜田門外の変」、同じ茨城県人として観たいと思っていた。

 期待以上の映画だった。

 なぜ、水戸浪士が井伊大老を討とうと思ったのか、その時代背景が分かりやすく描かれる。また、井伊大老を討った後の浪士達の悲惨な最期、幕府にも、水戸藩にも罪人として厳しく追求される彼等。井伊大老を討ったために浪士だけではなく、彼等の支援者までもが悲惨な最後を遂げる。

 主役の水戸浪士、関鉄之助を演じる大沢たかおの正義感に溢れた凛とした生き方が素晴らしい。徳川斉昭を演じる北大路欣也、井伊大老を演じる伊武雅刀も貫禄十分。

 この物語の背景には米国をはじめ、ヨーロッパ諸国から開国を迫られる、日本の姿があることもよくわかった。

 幕末と同じように、 今の日本の政治は揺れている、尖閣列島、TPP等々。

 ”温故知新”いずれにしろ、わが国はグローバルな視点での国のグランドデザインを描かなくてはいけない。幕末と違うのは今の日本には武力で対抗するという考えはない。では、どうするのか・・・。

2010年11月6日土曜日

「園遊会」帰り、千鳥足で10キロ


 昨日(5日)ブログを書いている時、時計を見たら4時30分。この日、つくば在住の旧友である佐藤さんと5時に会う約束をしていたので、あわててブログを「・・・続」にして牛久駅前の居酒屋へ向かった。

 居酒屋のメニューを見て思いだした。

 3日、岩崎宅でご馳走になった時、モツ煮込みの前に手作りのイカの塩辛がでてきたのだった。これがまた旨かった。さすが岩崎の奥様。長年、酒豪であるご主人の為に料理を作り続けた成果なのだと納得した。

 何時に岩崎宅を退去したか定かではないが、(いずれにしろ8時間くらいは飲み続けだったと思う)お土産の「山崎」をバックに入れ、手には”だまこ”を持っていた。岩崎さんに駅前のカラオケ店に案内していただいた。誰がなにを歌ったか、誰が支払ったか(私でないことは確か)定かでない。

 八潮駅でつくばエクプレス下り方面に乗る。「おおたかのもり」で下車する。ここから徒歩10分のところにあるマンションに娘家族が住んでいる。3人の孫がいる。珍しい秋田の”だまこ”を食べてもらいたいと思った。玄関先で”だまこ”を娘に渡す。彼女の元気な顔をみて安心した。

 さて、どうやって帰ろうか?国道16号線を5~6キロ行けば常磐線の柏駅である。16号線を歩きながらタクシーを拾をうと思った。しかし、タクシーは通らない。えい、歩いてしまえ。ということで、柏駅まで歩く。柏駅へ着いた時は12時近く。なんとか下りの最終電車に間に会った。

 ところが、気がついたら、牛久駅の次の駅(ひたちのうしく)だった。深夜である。タクシーはない。えい、歩いてしまえ。ということで牛久まで千鳥足で歩く。ご帰還は午前2時。

 おおたかのもり→柏駅、ひたちのうしく駅→うしく駅、酩酊の後、10キロくらい歩いてしまった。
 無事帰還したが、年を考えないとと反省・・・。

 それにしても岩崎さんお世話になりました。本橋さん、斉藤さん、またお会いしましょう。

2010年11月5日金曜日

文化の日、高校「園遊会」

    (小生・前列左、岩崎さん・前列右、斉藤さん・後列左、本橋さん・後列右)
 3日、文化の日、首都圏在住の高校同窓会「東京伊勢堂会」の幹事長・岩崎さん(昭和41年卒業)が「園遊会&だまこ会」と称して、ご自宅でプライベートの飲み会を開催。これに招待された。恐らく、昭和35、36年卒業同窓生の古希記念文集「飛翔70年」発刊の慰労の意味もあったのだと思う。

 八潮のご自宅にお邪魔して嬉しかったのは案内された客室に仏壇と神棚がある。秋田の田舎の家には必ず仏壇と神棚がある。秋田に帰ったようである。さすが、同窓会の幹事長、同窓会旗も張られている。

 集まったメンバーは副幹事長の本橋さん(昭和43年卒業)、幹事の斉藤さん(昭和44年卒業)、昭和35年卒業の小生の4人。

 12時宴会開催。でてきた料理が旨い。お酒に会う。特にモツの煮込みは絶品。量も山盛り。奥様に「食べきれませんよ」といったら「ゆっくりやってください」とのこと。ビールに続いてでてきた、能代の銘酒「喜一郎の酒」がまた旨い。先輩、先輩と持ち上げられながら、盃が重なる。この盃のなんと大きいこと。ところで肝心の”だまこ”がなかなかでてこない。つまり、昼から飲みはじめて、”だまこ”は夕食時にでてくるようだ。この”だまこ”幹事長自ら新米を潰し、お孫さんが丸めたのもだという。

 実は肝心の”だまこ”がでてきたころにはスッカリ酩酊状態。

 たぶん、8時頃”だまこ”をお土産いただき、高級ウィスキー「山崎」をカバンに入れて幹事長のご自宅を後にした。・・・続く。

 

 

2010年11月2日火曜日

東京の別荘地、千葉・稲毛で遊ぶ

       (27階にあるSさん宅から見た夜景)
     (神谷伝兵衛の別荘。ワイン工場は牛久にある)


          (千葉市・花の美術館)

 東京近郊の別荘地というと、鎌倉、大洗などが有名だが、千葉県の稲毛もその一つ。

稲毛はメッセで有名な幕張の一つ千葉市より。東京湾に面した小高い砂防林の中に著名人の邸宅があった。今では海が埋め立てられ、別荘地から海を眺望するのは困難である。
この稲毛でOB会の一つである「菜の花会」が開催された。

この会、稲毛在住のSさん、飯田橋在住のFさん、我孫子在住のSさん、牛久在住の小生の4人の会である。今回は稲毛在住のSさんが幹事。
 11:30稲毛駅集合。12:00千葉市・花の美術館、14:20神谷伝兵衛別荘、14:50愛心覚羅薄傑邸、15:40千葉市科学館・プラネタリウム、17:00親睦会
 どこも地元の人でないと分からない隠れた名所。素晴らしかった。

最後の親睦会はなんと、稲毛駅前にあるタワーマンション27階のSさんのご自宅だった。
奥様の手料理でスッカリご機嫌になり、帰りは牛久駅を乗り越し、ご帰宅は24時。

 それでも翌日は6時30分に起床。8時からのスーパーの掃除に向かった。



2010年10月25日月曜日

秋のスケジュール、盛り沢山!

   (22日、アサヒビールタワーから観た東京スカイツリー)
     (洒落た「園遊会」の誘い)








 古希記念文集が無事発刊し、上岡敏之のコンサートが終わったと思ったら、飲み会等が待ち構えていた。




 10月22日(金) 千代田会・墨田区吾妻橋アサヒビールレストラン(オーディオ関係)




 10月31日(日) 菜の花会・千葉稲毛(会社・OB)




 11月 3日(水) 園遊会・千葉八潮(母校後輩自宅)




 11月 9日(火) パソコンクラブ(東京・浅草橋)




 11月11日(木) F君定年祝い(東京・八重洲)




 11月20日(土) ゲヴァントハウス・音楽関係(竜ヶ崎市)




 12月15日(水) カナダ会・会社OB(東京・浅草橋)




 12月未定    千代田会忘年会




 12月未定    松本英語塾忘年会








と言うことで、体と財布がもたないので、ベテランズクラブ、グランドゴルフ等、会費は納めているが、地元の行事は全てお断りしている。




恐らく、10年後には東京の飲み会はお断りして、地元中心になっているのではないかと思う。

2010年10月19日火曜日

2日続けて上岡敏之の指揮を聞く

       (上岡の表情は曲によって、少年から夜叉へと千変万化)



               (横浜のホールは日本丸の近くにある)


    (終演後、鳴り止まぬ拍手に一旦退場したオケを引き連れて再登場)



 クラシック通の間で話題になっている、上岡敏之指揮ヴッパータール交響楽団が来日。2日続けてそのコンサートを聴いた。




 17日(日)14時~横浜みなとみらいホール。ワーグナープロ(神奈川・山北に住む弟と聴く)




 18日(月)19時~サントリーホール。マーラー・交響曲第5番(家内と聴く)




まず、上岡の指揮ぶり。彼は全身を使って指揮をする。跳ねる、腕をグルグル回す、仰け反る、その姿は猫か豹のようである。顔の表情は夜叉から少年の笑顔まで千変万化。作曲家の魂が乗りうつったのではないかと思うほど。聴いている(観ている)方もエキサイティングになり、叫びだしたくなる瞬間もあった。




 でてくる音楽は予想できないような間があったり、聴こえないようなピア二ッシモがあったり、突如急テンポになったり、ジェットコースターに乗っているようである。




 ただ、来日前に録音されたCDで同じ曲を聴くと、知的できめ細かく、美しい。奇をてらったところは全くない。上岡は今まで遭遇したことのない、天才指揮者だということがわかる。




 17日、ワーグナープロが終わってからのアンコールがベートーヴェンの「英雄」の葬送行進曲。それもアンダンテではなく、アレグロで演奏。これが結構名演。




 横浜でも東京でも終演後(オケ退場後)、鳴り止まぬ拍手に上岡は再びステージに登場したが、楽員も引き連れてきた。こんなカーテンコールをみたのも初めてである。普通、オーケストラ演奏のカーテンコールは指揮者だけである。




 横浜では終演後シコタマ弟にご馳走になった。東京では開演前、昔のANAホテルでカレーを食べたがカレーの横に分厚い牛肉のヒレ肉が乗っていたのには驚いた。やっぱり東京は違うな・・・。

2010年10月15日金曜日

51年目にして分かった事


 手紙は古希記念文集の礼状である。

「嬉しいことがだんだん少なくなっている折」とある。

 これは古希近くなった男女共通の心境だろう。

 そこに届いた、記念集。そこに自分の原稿も掲載されている。

「ダイヤモンドのように輝いてみえた」という。

そして「私の宝物」として大事にします。とある。

 おそらく、彼女はこれから幾度も文集をみて、勇気をもらうはずである。


 ところで、文集の中で彼女の作文は最も感動を呼んだのではないかと思う。

 在学中、彼女に「お父さんはどんな仕事をしているの?」と尋ねたことがある。彼女は答えに窮していた。その訳が今回の彼女の作文をみてはじめてわかった。

 「運動会など、砂ぼこりが舞い上がる所で、イチゴやバナナの形をしたアメ売り。トーフ製造と配達。アイスキャンデーの仕入れと販売。中華そば店。ブタや鶏の飼育など、ありとあらゆる仕事をやり生きるのに精一杯の毎日でした。」

 お父さんは復員兵で、職を求めて秋田にきたのだが、土地もなく満足な職にもつけなかった。

2010年10月9日土曜日

「飛翔70年」好評!

    (感動の手紙、メールが連日届いております)
 「飛翔70年」を寄稿してくれた同窓生等、50名に送って1週間経った。

連日、メール、手紙、電話で反響があった。反響がある度に最初は半分怖かった。クレームではないかという心配である。校正も一人でやったので見落としがあったかもしれない。(本を出版するのは怖い)しかし、幸いなことにクレームは一件もない。校正ミスも今のところ軽微で名前を間違えるなどの致命欠はないようだ。

 「予想以上に凄い本なので驚いた!」というのが共通した反応である。

 やはり母校出身のオリンピック選手、高橋大斗選手のジャンプ姿を表紙に採用したアイディアとデザインは自分がいうのもどうかと思うが俊逸である。写真が豊富で、それがカラーというのも豪華である、224頁というボリュームも25名の同窓会誌としては異例である。

 その豪華な本に自分の原稿が掲載されたというのは感激だと思う。電話の向こうで声を詰まらせる同窓生もいたし、「自分の宝物です」という手紙も数通あった。

 今日(9日)、母校の閉校式がある。昨夜、これに参加する同窓生が「”飛翔70年”を携えて皆にみせびらかす算段です」というメールを秋田行きの深夜バスからメールしてきた。

2010年10月3日日曜日

「飛翔70年」古希記念文集、遂に完成


 高校同窓会の古希記念文集「飛翔70年」が遂に完成した。

9月30日、製本が完成し、印刷所に受け取りに行く。本を見て、思わず「オッ」と思った。

 B5版、本文224頁、本文にはカラーもふんだんに使用している。

 データを支給して本を作ってもらっても100万円はかかる内容だと思う。

 それが22万でできた。

 22万といえば、海外旅行一回分の値段である。

 このブログを打ち込んでいる最中に電話のベルが鳴る。

 記念誌に寄稿していただいた恩師からである。

 「やあ、凄い立派な本で驚いた。ところで地元の新聞社には送ったのか?、同僚の教師に見せたら、やあ、懐かしいと評判だよ。ところで何部作ったの、すぐ無くなってしまうよ」等々。

 一回の海外旅行の費用で、恩師にまでこんなに喜んでいただけるとは・・・。

 光栄である。

2010年9月26日日曜日

ベートーヴェン演奏の原点




 昨日、レコード会社から宅急便が届いた。


1977年カラヤン・ベルリンフィル来日公演「ベートーヴェン交響曲全集」である。


 聴いてみて、これがベートーヴェン交響曲演奏の原点だと思った。


 揺るぎのない構成力、安定したテンポ、低音部のシッカリした音。


 さすが、カラヤン・ベルリンフィルである。


 


 このコンサートの模様は、当時FM東京の「TDKオリジナルコンサート」という番組で放送された。


 貴重なコンサート記録なので、レコード会社は何回もCD化に関係機関と交渉。小生もTDK退職後、そのお手伝いをした。レコード会社の努力の甲斐があって遂にCD化が実現した。




 当時の収録の模様は「伝説のクラシックライヴ」という本に詳しく紹介されている。


 この本の出版は小生が企画し、あちこちの出版社をかけずりまわり、TOKYO FM出版から出版してもらった。2005年の発売だがまだ売れ続けている。




 昔の仕事が時々蘇って、注目を浴びるのは嬉しい。

2010年9月22日水曜日

92歳の母からもらった千羽鶴


 8月26日、秋田に行った時、92歳(10月で、93歳)になる母から千羽鶴をもらった。子供達の長寿を祈って織ったのだという。

 ちょうどいいタイミングだった。

 製作中の「古希記念文集」に掲載することにした。

 「発刊について」の後半に掲載した。

この古希記念文集、印刷、帳合が終わり、昨日、製本のために印刷屋に納品した。

 7ヶ月にわたる作業(2月中旬から打ち込み)がやっと終了した。

 ホッとした。肩の荷が降りた。

 ところで、本つくりでは校正も怖いが帳合作業がもっと怖いということを感じた。

頁が抜けてたり、向きが逆さまになっていたり、汚れたものが入っていたりしたら本にならない。

 (落丁、乱丁はお取替えします)になってしまう。

と、いうことで、帳合の確認はプロの印刷屋にお願いすることにした。

2010年9月17日金曜日

古希記念文集、224頁の大作

   (150頁の印刷に使用したインク)
 我が家は9月8日からパッタン、パッタンというプリンターの音が絶えない。家内が「印刷屋さんになったみたいね。」という。

 それもそのはず、古希記念文集の打ち終わったデータに頁を入力したところ、224頁となった。よくぞ入力したものだ。しかも、印刷にも挑戦。8日間で150頁に到達。発行部数100部、製本屋から歩留まりをみて105部、印刷してくれという。つまり、今日まで150頁×150部で22,500枚印刷したことになる。それに使用したインクが写真である。残り74頁なので峠は乗り越えた。最後までパソコン、プリンターともトラブラないで頑張って欲しい。

 ところで、パソコンの素晴らしいことは印刷しながら並行して他の作業ができることである。メールのチェックをしたり、データの修正をしたり、インターネットを見たり・・・。その合間にパッタン、パッタンを聞きながら印刷が上がった分から帳合の作業を進める。ここで印刷の具合なども同時にチェックする。

 FM放送からは音楽が流れる。

 やはり、小生にとっては至福の時間である。

 ところで、昨日は凄い豪雨だった。その中でバイトであるスーパーの掃除をした。合羽を着ていたがパンツまでずぶ濡れだった。

 

2010年9月9日木曜日

飛翔70年とパソコントラブル

       (製作中の「飛翔70年」)


 古希記念文集「飛翔70年」の編集が佳境に入った。


原稿も出揃い、あとは打ち込みと編集、印刷。全て自分でやることにしている。


 B5版、200頁、オールカラー。100冊作る予定。


 毎日、パソコンと格闘している。


 トラブル発生。打ち終わったファイルを閉じようとしても閉じることができない。ムリに閉じようとすると、作成中のデータが消えてしまう。サポートセンターに電話して2時間もああだ、こうだ。


 インク代を節約するため、補充インクを使用していたら、目詰まり発生。


 昨日、新しいプリンターを購入しようと、台風豪雨の中、ケーズデンキに走る。


 できるだけインクの安いプリンターにしようと思った。


 プリンター売り場に行って、コピーとディスク印刷もできるものを。といったらキャノンの新製品しかない、という。この新製品、聞いてあきれた。インクも新タイプだという。そのインク、同梱のものだけで


、インク単体の発売時期はハッキリしないという。弾がないのに鉄砲だけ売る商法ってあるの?


 弾がいつ入荷するかわからないプリンターを買うわけにいかないので、購入は断念した。


 結果的にこれが良かった。


 昨日から今日にかけて、今のプリンターをクリーニングし、インクを全て純正品に交換したら復旧した。目詰まりの原因は本体ではなく、インクカートリッジのヘッドの目詰まりにあったようだ。




 パソコンも自分でトラブルにブチ当たりながら習得するしかないようだ。

2010年9月4日土曜日

民謡大国の古希祝い


 (写真は本荘追分・日本一、長谷川洋子さん。撮影は同級生の大場恵二君)

 8月27日、私が卒業した石沢中学校(秋田県・由利本荘市)第10期卒業生の古希祝いが行われた。名簿をみると卒業生93名、内死亡者14名、当日の参加者36名である。


(70年前と比較すると、現在の石沢地区の小学生の数は1/10くらいに激減しているようである。これは由々しき問題である)


 古希祝いといっても例年通り、飲んで歌って、踊って終わりだろうと思っていたらとんでもない、神事、記念撮影と厳かに会は進んだのである。そして乾杯の音頭は光栄にも小生。調子に乗って、中学生当時の話をしてしまった。「走ればビリ、勉強は中の上、実は中学生まで寝小便を垂れていた。自慢は皆勤賞くらい。同窓会でも皆勤賞はとりたい」。よくぞ、70歳まで元気にこられたものだ。


 宴会では予想もしないような大イベントが待っていた。民謡大会である。本荘追分、馬子唄など地元本荘で行われる全国大会の優勝者が出場。これに地元由利高校(女子高校)OGによる手踊りが加わった。参加者36名、会費¥11,000の同窓会でこれだけのイベントができるとは、さすが民謡大国秋田の古希祝いだと思った。


 厳粛で豪華、郷土色豊かな古希祝いに元気をもらいました。これからも頑張ろう!

2010年8月30日月曜日

観覧者80万、大曲花火見る

        写真を拡大して会場の壮大さを実感してください。(畠山撮影)
      クライマックスの連発(朝日新聞より転載)

 秋田県仙北市で開催される大曲の花火大会は日本一といわれる。過去70万人以上の観覧者が集まったという。その観覧者の多さに恐れをなして今までは行く気がなかった。


 だが、今回、中学校の同窓会(古希の祝い)が花火大会の前日(27日)開催され、しかも家内が一度大曲の花火大会が見たいというので出かけることにした。


 大曲は秋田の東南中央にあり秋田市、角館、横手、湯沢から50キロ圏内にあるが、これらの市の旅館やホテルは全て満員。奥羽線の湯沢駅から30キロ離れた小安峡温泉に宿をとった。つまり、大曲近郊に車を置くことは不可能なので、湯沢近郊に車を駐車し、湯沢からJR線で大曲まで乗り込むという作戦である。


 この作戦は図に当たり、花火が上がる6時30分には花火会場へ到着した。今まで花火大会というと土浦の花火大会を桟敷席でみて感激したが、そのスケールの大きさは段違いである。桟敷席の長さは1,000メートル。その後方の土手と左右に一般観覧席が置かれている。駅から会場に向かう途中の橋の上、空き地、通路、ありとあらゆるところに観覧者が溢れている。


 花火も3ヶ所から次から次へと打ち上げられる。


 大曲の花火会場は豊かに流れる雄物川をはさんで両側に広大な敷地が広がる。この恵まれた地形に全国の花火師と観客が吸い寄せられ、今日の隆盛に至ったということを実感した。


 帰りの混雑を避けるため、8時に退散。大曲駅発9時20分の臨時列車に乗車。車窓から最後のクライマックスの100連発の花火を垣間見ることができた。

2010年8月24日火曜日

盆踊り・放送係

     (盆踊りの放送席。小生の他に女性アナウンサー2名の陣容)
 今年の3月で自治会の役員は降板したが、盆踊りの放送係は引き続きやって欲しいという要請があった。

 スポット的な依頼についてはお引き受けして地域のお役にも立ちたいと思っていたので引き受けた。

 まず、盆踊りの曲目を順番にCDRに記録するという作業からはじまる。カセットテープが持ち込まれるケースがあるがカセットだと頭だし等、操作が大変なのでCDRにしておく。ただ、CDRは突如として音が出なくなったりするので、予備のCDR、プレーヤが不可欠。

 幸い当日(21、22日)は天候にも恵まれ、機材も故障がなく順調だった。

 アナウンサー嬢、来賓の紹介が大変。元いや、前衆議院議員、市長、県会議員、市議、区長など次々といらっしゃる。肩書き、お名前を間違えないようにするだけでも大変。その他、駐車違反の注意、落し物等々。盆踊り、ビンゴゲーム、抽選会といった正式プログラムの他の曲目に飛び込みの雑多なアナウンスをこなさなくてはならない。

 5時の前奏の音だしから始まって、9時の終了まで放送係はテンテコ舞。

 終わって、自宅に帰りシャワーを浴びてからのビールは格別。

 盆踊りの放送席で遠慮しながら飲むビールも美味しいが自宅のビールは最高!後は寝るだけ。

2010年8月17日火曜日

猛暑・孫と遊ぶ

             (14日は家の近くの農地を散歩)
 孫は女の子であれ、男の子であれ可愛いが爺ちゃんと遊んでくれるのは、やはり男の子。

息子の孫がお盆休みで遊びにきた。4歳と6歳の男の子である。

 14日は日中の温度も30度くらいで比較的凌ぎやすかった。

 家の近くの小川を渡った、農地を散歩。

 15日は35度を上回る猛暑。

 2人とも外ででることができないので、クーラーの効いた室内で大暴れ。

 彼等も欲求不満だろうと思い、昼食後、「外へ行こうか」と6歳の男の子を誘ってみた。

 「帽子を被っていけば大丈夫だよね。」と二人とも行く気である。

 「マジ、おじいさん」

 と母親がたじろいだ。

 そこは男同士、2人の孫を連れて、車で出発。

 「自然観察の森」に行く。

 着いた途端、2人はワーイと森の中へ駆け出す。

 森の中にあるネイチャーセンターはガンガン冷房が効いて、虫、動物、魚、天体とコーナーが分れ、見所一杯。サファリルックのお姉さん、お兄さんが子供達の世話をしてくれる。2人は夢中で遊ぶ。

 折角、森へきたのだからと、ネイチャーセンターをでて、森の中を歩き始めたのは4時近く。森の中にある寒暖計は30度。今日は本当に猛暑である。

 森の中の休憩所には剣玉、輪投げ、水鉄砲などがあり、爺ちゃんにも懐かしい。

 日が翳ってきたので、帰ろうと2人を促したが、ドジョウとザリガニがいる池を離れようとしない。

 というわけで、タップリ遊んで家に戻ったのは5時30分近く、

 「面白かったね」と4歳の孫も大満足だった。

2010年8月13日金曜日

カセットテープ、昔話


 現役時代の上司が会いたいという。

 用件は町内会でカセットテープの話をするので、資料等提供して欲しいというのである。

 11日、松戸でお会いする。

 上司の沖山さん。小生が秋田工場から東京本社へ転勤するのを認め、しかも磁気テープ部門(カセット、ビデオを生産・販売)へ勧誘してくれた大恩人である。

 昔話に花が咲いた。

 沖山さんは月に一回は朝礼を開き、業績の話をされたが、毎月「売り上げ、利益とも目標を上回りました。」というのが決まり文句だった。なにしろ、電子部品メーカーだった会社がオーディオ・ビデオテープで世界一になったのだから躍進ぶりはすさまじいものだった。工場もたちまち欧米、東南アジアにできた。コマーシャルではステービー・ワンダーを起用し、世界陸上のゼッケンスポンサーになった。

 その躍進ぶりは先年NHKの「プロジェクトX」でも取り上げられた。

 当時のTDKは日経優良企業ランキングでベストテンの常連だった。

 ところで、国内でオーディオカセットは何巻くらい売れていたろうか?

 1989年がピークで5億巻(年間)、2006年は約1/10になり5,500万巻、今年はさらに縮小し、1,500万巻ていどと思われる。

 1989年ころはカセットでFM番組を録音するのが若者の間で流行していた。エアチェックブームという社会現象が起きていた。

2010年8月8日日曜日

同感!日本人の無責任体質

   (感銘を受けたラジオ深夜便。荻昌弘さんの講演)
 夕べは寝苦しかった。4時頃かと思って、時計を見たらまだ1時過ぎ。

しょうがないので携帯ラジオを聞いた。NHKの「ラジオ深夜便」である。誰かの講演会のようだ。思わず聞き耳をたてた。


①いつの時代にも良い面と悪い面(毒)がある。

②戦時中だって良い面があった。それは「緊張感」である。

③今は全く緊張感がない。今の毒はなんでも人のせいにして(自分では)「しない」ことである。

④教育の目的は毒を認識し、それを是正することである。

⑤日本語は美しい表現には向いているが、理論的な表現には向いていない。

⑥「教育の船」というのがあって20数カ国の若者が乗船した。海外の若者は自分の主張(なすべき事)を明確にするが、日本の若者は聞いているだけで、自分の主張ができない。これではコミュニケーションがとれたことにならない。

⑦日本人は自分の立ち位置を明確にし、社会の毒に対して(行動)「しなくてはいけない」


 この話を聞いて、最近起こっている高齢者の行方不明問題を思い出した。個人主義が跋扈し、個人情報保護法なるものまで登場した。そうであるなら、個人個人が自立し、死ぬまで自己責任を貫き、他人や行政に迷惑をかけるべきではない。一方、住民の所在を把握するのは、行政の基本である。民生委員に責任転嫁するようなことがあってはいけない。


ところで、深夜便の講演者は昭和63年に死去した映画評論家の荻昌弘氏。講演は昭和60年に行われたものだそうだ。日本人の個人主義による無責任体質は既にこの頃から台頭していたことになる。

2010年8月4日水曜日

孫からの手紙


 孫から手紙をもらった。

 孫自慢になるが、小学4年生にしては文字も文章もシッカリしている。

 自分が小学校4年のとき、これくらいの手紙が書けていただろうかと思うと自信がない。

 もう一つ、嬉しかったのは、手書きの手紙をもらったということである。

 最近の子供達の手紙はほとんど携帯電話のメールだと思っていたので、手書きの手紙は意味があると思った。

 孫の手紙をみて、学校でもいわゆる作文をシッカリ勉強させているという事を感じて安心した。最も、作文の基礎がないと携帯電話のメールも打てないわけだけだから、国語の基礎をシッカリやる必要は昔も今も変わらないということになる。

 孫には直ぐに葉書で返事を出したが、この葉書はパソコンで打ったものである。

 本来であれば人生の先輩である、自分こそ手書きの手紙を書くべきだったと反省している。


 ところで、私の孫は現在5人いる。娘の方に女の子が3人、息子の方に男の子が2人である。来年は息子の方に3人目の子供が生まれる予定なので、6人になる。

2010年7月30日金曜日

真夏の古希記念文集づくり


 町内会の役員も今年の3月に退任して、高校同期会の古希記念文集づくりに没頭している。

高校時代の後輩である、スキー複合選手、高橋大斗君に「古希祝いのメッセージ」をお願いしたら、メッセージのサインと一緒にジャンプの写真をいただいた。

 彼は今年バンクーバーオリンピックにも出場した複合のエースの一人なのだ。

 ジャンプの写真が素晴らしいので表紙に使用させていただく事にした。

 記念文集のタイトルも”ありがとう、いつまでも”から”飛翔70年”に変更した。


 7月から本格的な打ち込みに入った。外出の無い日は猛暑の中、半日はパソコンの前に座っている。130頁くらい打ち終わった。同期生の原稿締め切りは8月末である。最終的には200頁を超えそうである。

 印刷まで自分でやる決意である。

 印刷を外注するとモノクロとカラーでは値段は違う。自分でやると、カラーにしてもインク代が上がる程度なので、カラー頁が増えるのはチットも気にならない。

 ただ、インク代も高いので補充インクを使用する予定。補充インクを使用すると、プリンターのノズルが詰まるという情報もある。

 8月後半から印刷に入る予定。どうなることやら・・・。

2010年7月25日日曜日

愛読誌「レコード芸術」の危機?


 音楽之友社が出版している「レコード芸術」誌、18歳頃から愛読している。ということは50年間読んでいることになる。”レコ芸”が発売される毎月20日は私の心の弾む日である。

 どんなCDの新譜がでているか?その中で特選盤になっているのはどれか、翌月の話題盤はなにか?海外ではどんなCDが発売されているのか?音楽評論家・諸氏はどんな論評をしているのか?興味がつきない。

 ところが、最近の”レコ芸”本の厚みが急に薄くなってきた。ちなみに昨年の同誌と比較してみると70頁くらいページが少なくなっていいる。

 最近、ジャズ専門誌の「スゥイングジャーナル」が休刊になったと聞く。もしかしたらクラシック専門誌の”レコ芸”も同じ道を辿るのではないかと不安になる。

 本が薄くなった最大の原因はCDの新譜が少なくなったことだと思う。それにともなって、レコードメーカーの広告も減る。

 読者も節約志向なので、立ち読みや図書館で済ませる。牛久の図書館でも”レコ芸”のバックナンバーはいつも貸し出し中である。熱心な読者はいるのである。

 そこで読者の皆さんに言いたい。

 ”レコ芸”の立ち読み、図書館での購読はやめよう。自分で買おう。月¥1250の出費を渋っていると、肝心の”レコ芸”そのものが無くなってしまうよ!

2010年7月15日木曜日

「橋のない川」住井すゑの生涯

       (右側は北条さんからいただいた葉書)
 
 住井すゑは当牛久市の作家である。

発行部数600万部という大作「橋のない川」を執筆した。

 牛久市住民としては地元作家の大作は是非読まなければと思いながら、読む時間を作らずに今日に至っている。

 住井すゑを知る機会が思いがけないところから転がりこんだ。


 私は秋田の出身だが、高校時代の恩師から、「僕の大学時代の後輩に住井すゑの研究家がいるよ」という便りが今年のはじめにあった。

 そして、6月、北条常久という方からお葉書をいただいた。

 この方が恩師のいう住井すゑの研究家だった。


 6月20日、住井すゑさんの居宅の敷地内にある「抱僕舎」で北条さんのお話を聞いた。

 その話が実にに面白い。

 その場で即売されていた北条常久著「橋のない川、住井すゑの生涯」を買い求めた。

 半分くらい読み進んだ。


 実に面白い。北条さんはたいしたものだと思った。この本を書くに当たって、住井すゑの郷里である奈良の取材は勿論、膨大な関連資料を読み、関係者を取材している。さすが文学博士である。

 北条さんは現在、秋田市立図書館長。

 

 住井すゑさんによって出身地の秋田と現住所の牛久に橋がかかった。

2010年7月11日日曜日

自転車盗難

       (この度、購入した新車・埼玉ホダカ社製)
 愛用の自転車が2回目の盗難にあった。

この自転車、確か定年になった時に買ったように記憶している。

 購入して2~3年経ってから最初の盗難にあった。

 盗難にあってからは自転車無しの生活を送っていた。

 3年ほど経過した、ある時、隣町の茎崎町(現在はつくば市)の主婦から電話がかかってきた。

 「あなたの自転車が集会所の空き地にあるので取りにきて欲しい」

 確かに3年前駅前に置いていて行方不明になった自転車だった。

 後輪の泥除けの金属カバーに「〇〇中学校××××」という表示があった。名前のところは、削って消した跡があり判別できない。

 つまり、〇〇中学校の生徒が盗んだ自転車に3年間、乗り続けたようだ。卒業して用が無くなったので放置したのだろう。

 幸か不幸か、この自転車には防犯ラベルが貼ってあったので、私のところへ帰ってきたという次第だ。

 タイヤが磨耗していたので、新品と交換し、今までこの自転車に乗り続けた。

 8日、駅前の「庄や」で懇親会があり、自転車ででかけた。帰る時に探したが見当たらない。
 誰かが軽い気持ちで一寸借りたのかもしれない。というケースも考えられるので翌日も探してみたがやはり見当たらない。
 
 実はこの自転車、ボロボロ。サドルを支える支柱の金属が折れて、サドルが外れている状態だった。

 盗んだ輩もとんでもない自転車をつかまされたと、後悔しているに違いない。

 あるいはまた、どこかに捨てられているかもしれない。

シルバーセンターでスーパーの掃除をしている小生にとって、今は自転車は必需品。

 10日、新品の自転車を購入した。購入価格は¥17,000

 この自転車いつまでもつかな・・・?


 

2010年7月5日月曜日

北陸旅行(3)善光寺

         東山魁夷館から善光寺方面を臨む
     善光寺仁王門から三門を臨む。本堂はその先にある。

 1日、8時20分はくたか5号に乗って金沢出発。


直江津で信越線に乗換えて長野に向かう。長野着11時50分。


カンカン照りの猛暑。歩いて善光寺まで行く方法もあるが、バスに乗る。


仲見世入り口にある「大丸」というそば屋で昼食。にしんそばを食べる。なかなか美味だった。


 参道を歩いていて、善光寺の近くに東山魁夷館があるのがわかり、これは是非とも観なければと思う。


 それにしても善光寺の本堂は巨大だ。間口24m、高さ30m、奥行き54mで東日本最大の大伽藍だという。宝永四年(1707)に再建され、もちろん国宝。ご本尊は百済から日本へお渡りになった日本最古の仏像で宗派を超えて全ての人々を受け入れているとのこと。善光寺の寺号は開山した本田善光卿の名に由来しているという。


 面白いことがあった。「お戒壇めぐり」である。ご本尊が安置されている瑠璃壇下の真っ暗な回廊を巡り、「極楽の錠前」を探り当てると極楽にいけるという。暗闇の中、小生は見事それを探り当てた。「あった」と小生がいうと、小生の手に生暖かいものが・・・。小生の前を進んでいたご婦人が後ずさりしてきて小生の手に触ったのだった。真っ暗な回廊から明るいところにでたところで「失礼しました」とご婦人はしきりに頭を下げ、きまり悪そうだった。


 東山魁夷館は善光寺は歩いて10分くらいのところにあった。まさか善光寺で魁夷の名画に会えるとは夢にも思わなかった。説明によると、魁夷の菩提寺はこの善光寺にあるという。


 14時27分、長野新幹線で帰路に着く。梅雨の季節だというのに、天候にも恵まれた北陸、充実の旅だった。永平寺や善光寺といったお寺に深い感銘を受けるようになったのも年のせいかもしれない。

2010年7月3日土曜日

北陸旅行(2)永平寺、金沢

         兼六公園のみごとな松。
       江戸時代を彷彿とさせる 金沢ひがしの茶屋。

               永平寺、参道


 30日深夜、サッカーワールドカップ、パラグアイ戦。旅館の布団の中でテレビ観戦。みごとな戦いぶり、久しぶりに肉食系日本人男子を感じる。やはり男はこうでなくっちゃ。



 7時朝食。仲居のれい子さんがかいがいしく給仕してくれた。



 9時20分JR芦原駅発のバスで永平寺へ。10時15分山門入り口着。日光東照宮に似て、杉の老木が迎える。宿坊だけあって、環境、建物すべてが清冽、荘厳。すれ違う修行僧は黙して語らず、隅々まで清掃が行き届き、清々しい。さすが曹洞宗大本山である。



 福井にでて同駅発12:03しらさぎ号に乗る。12:50分金沢到着。



 まずはひがし茶屋に行く。まるで江戸時代に迷い込んだよう。国重要文化財の郭「志摩」は実に粋だった。次いで、兼六園へ。さすが名園である。それぞれに風情のある松の老木が素晴らしい。



 ここは加賀百万石の城下町なにである。



 泊まりは昨日とは違って、駅前のアパホテル。機能優先の低価格ホテル。一泊4,000。大浴場が併設されている。サラリーマンの定宿らしく、エレベーターの中も大浴場もサラリーマンで一杯。