2023年12月30日土曜日

年の瀬(忘年会、グランドゴルフ、小津安二郎)

2023年12月後半はこうだった。
20日(水)、17:30~兄弟会・忘年会。つくばに住む妹がホテルの和室をセッティングしてくれた。来年は母の一回忌に合わせ、やはり昨年亡くなった姉のお墓のお参りをすることにした。
23日(土)、17:00~NPO法人・龍ヶ崎ゲヴァントハウス・忘年会。クラシック音楽ファン15名が参加。関西からかけつけた会員も。終わったのは21:00。後で参加した会員の方からメールが届いた。「畠山さん昭和17年生まれだそうですね。私の父も同じ年生まれです」。年代が違っても話がはずむのが「趣味の会」の醍醐味である。そういえば私はこの会の最長老。開催場所は徒歩20分の華屋与兵衛・牛久店だった。
25日(水)、27日(金)8:30~グランドゴルフ。32名の老々男女が集い、霜の降りたグランドで球を打つ。グランドゴルフは実力60%、運が40%。誰が勝かわからない。それが面白い。
25日(水)~28日(金)テレビをつけても、大谷君とバラティ番組のオンパレード。
録画しておいた小津安二郎の映画を観る。「東京物語」「お早う」「秋刀魚の味」。どれも、どこの家庭でもありそうな平凡な物語。それを芸術作品まで仕上げる手腕は非凡である。三作品とも笠智衆(1904~1993)がでてくる。彼は後年、山田洋次監督の「男はつらいよ」の御前様を演じた。小津、山田の作品は何度観てもあきない。私の老後の楽しみである。


2023年12月18日月曜日

座談会「巨匠・外山雄三の最後の軌跡」に参加

 

指揮と作曲の二刀流で、日本の音楽界に大きな功績を残した外山雄三先生が7月11日、亡くなった92才だった。私は晩年、大阪交響楽団を指揮した先生の演奏のCD化をレコード会社に提案し実現した。12月18日発売された「ステレオ時代」neo3号の誌上にCD化関係者の座談会が掲載された。
参加者は元・大阪交響楽団楽団長、二宮光由さん、CD化ディレクター、乙黒正昭さん、キングインターナショナル・企画営業部長、大川健さん。小生、畠山も末席をケガした。(写真)

 10月30日、「外山雄三さん お別れの会」がサントリーホールブルーローズで開催された。「何で音楽にのめりこまん、この言葉は今でも私の心の中で強く響き渡っています。
世界の中の趨勢に迎合しない姿勢、強靭な心、嘘、詭弁、偽善といった人間の堕落した生き方にあらがう。先生の背中を見つめていると、その偉大な生き方は私の心に深くつきささります。現在、人類の愚行の繰り返しの日々、激しさを増しています。私たち音楽家もただなすすべもなく、飲み込まれているようにしか思えません。世界は一体どこへ行くのでょうか。平和を切望されていた先生にはどう見えていらっしゃるのでしょうか」弟子の指揮者・広上淳一の追悼の言葉は30分以上も続いたという。(産経新聞より転載)

2023年12月14日木曜日

秋葉原で忘年会(話題はウラ金、ⅬGBT)

 12月も早半ば、今月は毎週、忘年会がある。
5日(火)、第1回の忘年会が秋葉原であった。会社OB6人による忘年会。幹事は小生。開催時刻は昼。場所は現役の頃通った和風の居酒屋「赤津加」。
メンバーは6名なのだが、1名は出欠の連絡なし、もう一名は急用ができたというので、直欠。残った4名の内、1名は89才で目の不自由なHさんである。固いところ3名かと思っていたら、なんとHさんが現れた。これには感動した。Hさんは奥さんが亡くなられて一人暮らしなので忘年会を楽しみにされていたようだ。五体満足でも秋葉原で店に辿りつくのは至難である。Hさんの顔は真っ赤で、汗だくだった。Hさんに「テレビも新聞もご覧になれない生活での楽しみはなんですか」と聞いたところ、「ラジオを聴くことだという」。なるほど、その手があったか。自分の老後の参考になった。帰り肩に手を添えて、電車のホームまでHさんをお送りした。
12日(火)はパソコンクラブの忘年会だった。場所は秋葉原の「銀座ライオン」。駅を出て振り向くとビルの壁一面に「少女の絵」。(写真)現役の頃、電気街だった秋葉原はアニメ・マンガ・ゲーム、そしてメードカフェの街なのである。
忘年会の話題は政治の裏金問題。私も個人的に裏金を蓄えているが、これは孫のためだったり、旅行の資金だったり・・・。政治家も私利私欲でなければ、堂々と裏金づくりの背景を語れば良い。もう一つの話題はⅬ=レスビアン(女性同性愛者)、G=ゲイ(男性同性愛者)、B=バイセクシュアル(両性愛者)、T=トランスジェンダー。日本でもⅬGBT容認論があるが、LGBT先進国北欧の女性刑務所で女性が数人妊娠してあわてているという。
この問題、島国育ち昭和生まれの私はついていけない。

2023年12月8日金曜日

続 窓ぎわのトットちゃん/戦争の悲惨さ伝える

 

家内の本棚をみたら、ベストセラーの「続 窓ぎわのトットちゃん」がある。
優しい文章で読みやすい。
しかし、その内容はドラマチックである。
トットちゃんこと、黒柳徹子は1933年生まれ90才。東京・乃木坂生まれのお嬢様である。
父はバイオリニストで新交響楽団(現・NHK交響楽団)のコンサートマスター、父の演奏する「第9」でコーラスを歌っていたのが母だった。
絵に描いたようなトットちゃんの生活環境は戦争で一変する。父は招集され、一家は青森の八戸に疎開する。疎開列車は寿司詰め状態。トイレも人で溢れており、トットちゃんは列車の窓を開けてオシッコをした。疎開先で母は一家を養うため、食堂を開いたり、行商もやった。
学校を卒業してNHKの劇団に入る。ラジオドラマ「ヤン坊ニン坊トン坊」の成功で、仕事が増え、昭和33年の紅白歌合戦で司会を務める。この時25才。同番組最年少の司会者だった。以降、目が回る忙しさで、ベットに入るのは3時間あればいい方だった。
極度の疲労に襲われたが、休むわけにいかない。病院の先生に「死ぬまで病気にならない方法」を尋ねる。先生は「自分の好きな仕事だけやって生きていくことです」と答えた。(当時はまだストレスという言葉がなかった)
トットちゃんは「男はつらいよ」の渥美 清から「なんだ、このアマ」「ああ、ヤダヤダ。この手の女は本当にいやだねえ」と言われた。しかし、いつの間にか「お嬢さん」「お兄さん」と呼び合う仲になった。
「徹子の部屋」は今年で48年目を迎えた。淡谷のり子さんが慰問の航空基地の話をした。ブルースを歌っている途中、一人の若者が席を立ち、敬礼をして(戦地へ)出て行った。涙がでて歌えなくなったという。

読後、感じたのは戦争の悲惨さだった。


2023年12月3日日曜日

グランドゴルフ、不倫のオペラ、外山雄三、本の監修佳境

遂に2023年も12月、年末を迎えた。                                                                  
1日(月)8:30~グランドゴルフ練習。2つのホールインワンがでてスコア71。71は試合の時3位まで入る可能性のある好スコア。打つ時に右足に重心をかけたのが良かった。球が真っすぐ飛んだ。練習の帰り、公園を通ると子供達の声、思わずカメラを向ける。(写真)。やはり子供はかわいい。年をとると、その思いは深くなる。

 帰宅してからワーグナーのオペラ「トリスタンとイゾルデ」第3幕(終幕)を観る。不倫を題材にした情念のオペラである。(写真)「2人は死んでも2人の愛は永遠に残る。生きるために死ぬ」全編4時間の大作。1日1幕。3日がかりで見終わった。
午後、依頼された本の監修作業、宗教がからんだ、場違いのテーマ。資料を読みながら、いかに読者にわかりやすく伝えるか。これはブログ書きで鍛えた腕の見せ場である。完成は来年の2月頃かな。
2日(火)パソコンを開くと、「ステレオ時代」編集長からメールが入っている。「”巨匠・外山雄三の最後の軌跡”校正刷りできました。5日まで返却して下さい」とある。7月亡くなった外山を偲ぶ座談会である。関係者3人による白熱の座談会。読んで感動した。音楽ファンへの私と編集長からの贈り物である。月末の発売が楽しみである。
午後、「龍ヶ崎ゲヴァントハウス」の例会。中川さん秘蔵のエアチェツクCDによるコンサートである。(入場無料)今年亡くなった演奏家特集。日本民謡(宮城県・ひえつき節)を題材にした外山雄三の自作自演が身に沁みた。ロシア生まれの指揮者テミルカーノフの粗暴とも思える豪快な演奏に驚いた。ロシア人の情念の籠ったパワーは恐ろしい。会場の募金箱に3千円。感動したゲストの志だった。


2023年11月26日日曜日

西宮さんのサイパン島、テニアン島、戦跡ツアー報告

 昨日、西宮聡彦さんから次のようなメールをいただいた。
「11月9日から13日まで、サイパン島、テニアン島の戦跡ツアーに行ってきました。
父の追悼集にも書きましたが、父は昭和15年陸軍士官学校を卒業し、松本50聯隊の見習い士官を経て少尉に任官しました。50聯隊は満州駐屯を経て昭和19年テニアン島に転戦となり、同年8月2日、緒方連隊長の元、テニアン島で玉砕しました。
幸い父はテニアン島転戦の前に、名古屋幼年学校の生徒監として内地に転勤となりました。内地勤務といっても、本当のところは本土決戦要員で、本土決戦があったら、小生は存在していなかったというわけです。(2023、5,27日「人間浴」-陸軍少佐と通信兵)
人生、紙一重ですね。というわけで、もしかして、父が玉砕したであろう地のサイパン、テニアンの戦跡ツアーに参加しました。
サイパンはハワイより近いため、バブルの時代は賑やかだったとのことですが、今はJAL便も廃止になり、少しさびれたとのこと。廃墟になったショッピングセンターやホテルなど点在しておりました。しかし、景色は素晴らしく、悲惨な戦争との対比がなんともいえませんでした。」
19枚の写真が添付されており、どれもリアルなものでした。西宮さんのご厚意により、広島、長崎に原爆を投下した米軍機が飛び立ったテニアン島(上)と、サイパン島に残された日本陸軍戦車の残骸(下)をご紹介します。


2023年11月21日火曜日

新人作曲家&産総研出資会社のリーダー

昨日は81才の年金生活老人にとって、驚愕の日だった。
9:30分、牛久発。先週は富田先輩の告別式で新宿を目指したが、この日は渋谷だった。
指定された場所はセルリアンタワーホテル、ガーデンキッチン「かるめら」。牛久在住の田舎者は舌をかみそうである。
お目にかかったのは新人作曲家の中堀海都さん。12月18日、豊洲文化センターで開催される真鍋尚之雅楽アンサンブル(写真)の作曲を担当したという。 中堀さんはニューヨークと東京を拠点に活躍している作曲家である。平田オリザと組んでシアターオペラの作曲もしている。雅楽からシアターオペラまで、その視点は広い。
そのような、才能豊かな作曲家に素人の老人が助言できることなどない。早く、所属音楽事務所を見つけなさい。レコードメーカーともコンタクトをとりなさい。公演の収録をしてくれるよう放送局に働きかけなさい。といったアリキタリのことしか言えなかった。
この場をセッティングして下さったのはニューヨークから来日中の佐藤さんご夫妻だった。ご両人とも国連職員OBである。

夜、TDK・OBの後輩、逢坂さんにお会いした。逢坂さんは専務まで登りつめた逸材である。
TDK退任後の名刺をいただいて驚いた。株式会社AIST Solutionsの代表取締役社長とある。
AISTは産総研100%出資の会社である。産総研とは国立研究開発法人 産業技術総合研究所である。AISTは科学技術・イノベーション創出の活性化に関する法律に基づく法人でり、今後の日本の科学技術の活性化をはかる使命を帯びている。逢坂さんは日本のトップ企業の社長と今後の日本のあるべき姿について議論しているという。
TDK・OBの後輩がこのような要職につくなど、驚きである。

2023年11月15日水曜日

東京ガザ地帯と生成AI

「ステレオ時代」の取材でお世話になった、富田先輩(90才)が亡くなった。
       
告別式に参加することにした。14日、午前10時~渋谷区にある「代々幡斎場」で行われる。牛久発7時37分の電車に乗る。斎場の最寄り駅は京王線の幡ヶ谷駅が近いという。9時10分に新宿に到着。これからが大変だった。JR新宿駅の改札をでて京王新線に乗り換える。通勤客の人混みをかき分けながら前進。途中大江戸線という表示が現れる。どっちへ行けば京王新線なのかわからない。案内板を持った駅員が2人立っている。つまり、駅員の案内者がいるほどの迷路なのでる。京王新線にのると、エレベーターが下へ下へと潜る。鳩ケ谷駅は新宿駅から3つ目なのに、電車に乗るまでが大変なのである。ここで私はパレスチナ自治区のガザを思い起す。人口密度といい、複雑な地下の構造といい、東京はガザ地区とソックリではないか。何しろ、大江戸線の最深部は地下42mだとう。ビル10階分に相当する。
9時30分、やっとの思いで幡ヶ谷駅に到着。ここは高級住宅地というが、とんでもない。昔からの木造家屋の密集地である。かの国からミサイルを撃ち込まれたら一瞬の内に火の海になってしまう。都民は先を争って、地下鉄に避難するであろう。
告別式が終ると、浅草橋に向かう。TDKパソコンクラブの例会が13時30分から開催される。都内に住むメンバーから告別式の場所を聞かれたので、「代々幡斎場」と答えると、「よく取れたな」とのこと。東京の斎場は逼迫しているようである。
今日のパソコンクラブのテーマは「生成AIの実情、検証」。「昭和10年代の日本の農村風景」(写真)「日本のパソコン教室」とAIに質問すると、AIが画像を提示する。どの画像にも日の丸がでてきたり、富士山がでてくる。質問にもよるかもしれないが、生成AIは発展途上という印象を受けた。

2023年11月13日月曜日

楽、音、酒、食、友、秋深まる

 クラシック音楽を趣味にする「NPO法人 龍ヶ崎ゲヴァントハウス」の集いが11日(土)開催された。今回はオーディオ評論家の新 忠篤先生をお迎えした。講演テーマは「”焼かつおスピーカー”で聴く大ピアニスト~クラウディオ・アラウの芸術~」
”焼かつおスピーカー”とは、新先生が廃品を利用して造ったスピーカーである。円筒形の焼かつおの空カンの上部に廃棄されたオーディオセットから取り出したスピーカー・ユニットを上向きに取り付けたもの。スピーカーを取り付けた空カンの下に空カンを6個重ねたという。(写真・上)つまり、原価ゼロのスピーカーである。このスピーカーが南米チリ生まれのピアノの巨匠、クラウディオ・アラウの名演を見事に再現。会場を埋めつくした会員とゲストを唸らせた。
コンサートの後、牛久沼湖畔にある和風レストラン「山水閣」で新先生を囲んで懇親会。秋の夕暮れは早い。牛久沼に沈む夕日のほとぼりの中で乾杯。懇親会の席上、新会員の方々、福島、大阪から参加された会員の挨拶が続いた。
帰り、JR龍ケ崎市駅で新先生とお別れしたが、先生の手荷物は10キロほどあった。先生のご自宅までは2時間かかる。遠路お出でいただいた先生にはただただ、感謝である。




2023年11月5日日曜日

南紀旅行③パンダがいるテーマパーク

 南紀旅行の旅程はこうだった。
10月29日(日)JAL226 羽田空港12:50発→関西空港14:10着
JR紀勢本線で和歌山→白浜 クリスタルエグゼ南紀白浜Ⅱ泊
12月30日(月)テーマパーク「アドベンチャーワールド」見学
ホテル「川久」スタンダード泊
12月31日(火)JAL214 南紀白浜空港13:20発→羽田空港14:25着
①まず驚いたのは羽田空港。ゲート口が50もある。何しろ日本全国の空港に飛んでいるのだ。
②羽田を飛び立ち、飛行機が高度を上げている途中で富士山がみえ、高度7千メートルに達した時はもう名古屋。名古屋を通過すると下降をはじめ着陸態勢に入る。関西空港までアットいう間だ。
③関西空港から和歌山までは一時間ほど。和歌山は大阪圏というイメージだった。和歌山からJR紀勢本線に乗り換えたが、ここから白浜までが長かった。特急「くろしお」で一時間30分。ホテルに着いたのは6時。日はトップリ暮れていた。
➃テーマパーク「アドベンチャーワールド」へ。10時開場。同行者待望のパンダに対面。上野動物園でパンダを見る場合、抽選でチケットを買い、長時間並んで、パンダとの面会時間は1分ほどだが、ここでは好きなだけ見られる。パンダが竹を噛む「バリン」という音も聞こえた。                                     
⑤帰りの南紀白浜空港から東京行の飛行機は一日3便。アドベンチャーランドから空港までは3キロ。空港からランドの観覧者が見える。(写真・上)



2023年11月3日金曜日

南紀旅行②「ホテル川久」はミュージアム・ホテル。全て別格

 
「ホテル川久」は外観やロビーだけではない。
客室、レストラン、温泉、宴会場、全てが世界の名匠が手掛けたものであり、ホテル全体がアートである。”川久ミュージアム”と呼ばれている。
宴会場の天井にはイタリアの画伯ジョルジョ・チェリベルティが「愛と自由と平和」をテーマにした絵が描かれている(左・上)マイクを使用しなくとも声が届くよう音響的なは配慮もされているという。中2階の廊下にはホテルの蒐集品である、ダリ、シャガール、横山大観(左・中)等、世界の巨匠の絵画が展示されてる。                           
温泉はロイヤルスパ「温泉サロン」というテーマで設計されている。白浜温泉は日本三古温泉(白浜・有馬・道後)の一つだという。オーシャンビューの大浴場は”永遠の優しさと強さ”をテーマにしているという。(写真・上)、この他、”悠久の森”をテーマにした中国風の温泉サロンもある。レストランの夕食のテーマは「王様のビュッフェ」がテーマ。和食、中華、洋食から好きな料理を選ぶ。和食の場合、寿司職人、天ぷら職人等が目の前で調理する。コンシェルジェは若い女性職員で統一。部屋の案内から会計まで、懇切丁寧だった。
人手をかけないデジタル対応のホテルが増える中にあって、「ホテル川久」は人間の温もりを感じた。
ネットでは「ホテル川久」は”お化けがでる”という投書もある。一部屋30坪もあるので、広すぎるのである。私の部屋にはリビングコーナー(左・下)とベットルームコーナーのそれぞれ大型テレビが設営されていた。2人以上で泊まった方がよい。



2023年11月1日水曜日

南紀旅行①ギネスが認定した世界一のホテルに驚愕!

 10月29日~31日、南紀旅行にでかけた。

目的は同行者の希望によるパンダ見物だった。
しかし、パンダの前に2日目に泊まった「ホテル川久」について語らなければならない。(写真・上)
タクシーの運転者が「お城」に入ります。と一言。タクシーは壮大な赤レンガの門をくぐる。目の前に巨大な西洋風の建物が現れる。「門をくぐったらベニスだった」という方がわかりやすい。
ガラス張りの玄関ドアが開くと、目の前に現れたのはバチカンの宮殿を思わせるロビー。(写真・下)このロビーはヴェルサイユ宮殿等の修復を手掛けた”金箔の世界一の名工”と称されるフランスの人間国宝ファブリス・ゴアールが手掛けた生涯の傑作だという。2020年この天井の金箔表面積はギネスによって世界一に認定された。
「ホテル川久」は、1989年、日本のバブル絶頂期に始動。建築家永田祐三氏が監修し、中国、ヨーロッパ、イスラム、日本と世界各地の匠の技術を融合させている。建築期間2年、総工費400億だという。ちなみにロビーの両側に立ち並ぶ柱は1本、1億円だという。
 旅行プランを練る時、ホテルは3ヶ所あったが、1日目はリゾートタイプにし、2日目は、折角だからと高級ホテルにしたのだが、「ホテル川久」がこんな凄いホテルだとは知らなかった。


2023年10月27日金曜日

パンダを見に和歌山に行きます。


今月上旬、「たまには旅行へ行こうか?どこへ行きたい」と聞いたところ、「和歌山へパンダを見に行きたい」とのこと。
最初、年末くらいがいいかと思っていたが、スケジュールを見ると、10月下旬が空いている。「善は急げ」である。
パンダがいる白浜のアドベンチャーワールドは南紀白浜空港の近くであり、日帰りの弾丸ツアーというのもあるが、何しろ私は81才の高齢、同行者も高齢である。
月末の昼の飛行機で行くことにした。夕方着、白浜に一泊。翌日アドベンチャーワールドを見て、一泊。翌日の昼の便で帰ることにした。
天気が心配だったが、幸い天気は良さそうなので一安心。
アドベンチャーワールド行きの団体旅行が見当たらないので、旅行会社の個人旅行にアクセスして手続きをした。驚いたのは飛行機の座席指定までできることだった。
しかし、行きの関西空港は初体験。空港から白浜行の電車はどうなっているのだろう。白浜駅からホテルまでの交通はどうなんだろう。と疑問が次々に湧く。これが個人旅行の厳しいところであり、楽しみでもある。
料金は事前引落、2人で162,000。因みに、同じ旅行社の11月初旬出発同条件コースの料金を確認したところ、212,400とある。諸物価の高騰で料金が高くなったのだろうか。
アドベンチャーワールドには4頭のパンダがいるとのことだが、4頭ともアドベンチャーワールド産だという。同ワールドのパンダの飼育は大したものだと思う。
写真は2018年8月14日生まれの「彩浜」さいひん(メス)。2000年生まれの「良浜」らいひん(メス)の愛情を受け、懸命に生き、ケガ・病気もなく、すくすく成長しているという。現地で見るのが楽しみだが、「彩浜」と「良浜」の違いがわかるかどか・・・。同行者にはわかるのだろうか・・・。


2023年10月21日土曜日

牧野富太郎の絵本(社友会バス旅行その2)

 
「国営ひたち海浜公園」の次の見学地は「茨城県植物園」だった。あまり期待していなかったが観光バスが何台か止まっている。NHK朝ドラ「らんまん」効果なのだろう。
朝ドラで「らんまん」がはじまった時、植物学者が主人公でドラマができるのかな?と疑ったが面白かった。作者である長田育恵さん(1977生まれ)の力によるところが大きいと思う。朝ドラにしろ、大河ドラマにしろ、この分野における女性作家の活躍は目覚ましい。大したものだと思う。

展示室に行くと牧野富太郎(1862~1957)のコーナーがあり、植物図鑑が展示されていた。(写真・上)図鑑のタイトルは「牧野新日本植物圖鑑」(北隆館)。確かに美しい。因みにこの図鑑、ネットで検索したら中古で¥17,000~¥60,000だった。
帰りは「水戸ドライブイン」に寄って、東京に帰ることになる。途中、錦糸町にも停車するので、錦糸町で降りた方が良いかもしれない・・・と考えていると、バスは高速から降りて一般道に。「水戸ドライブイン」は高速のドライブインだと思っていたら一般道だった。隣にコンビニがあったので、近くにJRの駅があるかと聞いたところ、内原駅があるという。皆さんと分かれ50号線を笠間方面に向かって歩く。30分ほど歩くと左手遠方に常磐線の特急列車が走っているのが見えホッとする。さらに歩を進めると、イオン内原店の看板が見える。ドライブインを出たのは16:05、17:00に内原駅に到着。18時16分、牛久駅に到着した。バスは18:20東京着だったので、1時間早い到着となった。翌日、滝口さんから「畠山さん、水戸で降りて正解でしたね。首都高で事故があり京葉道路で帰りましたよ」というメールが入った。色んなことがあったバスの旅でした。

2023年10月20日金曜日

国営ひたち海浜公園(社友会・バス旅行その1)

 
18日、社友会が主催するバス旅行に参加した。出発地は東京。行先は「国営ひたち海浜公園」と「水戸植物園」。茨城の牛久にいながら、茨城の観光地に行くために東京まででかけることになった。まあ、でも、暫く会っていない会社の友人に会える。これが社友会の旅行に参加する目的の一つである。
旅行の幹事役は磁気テープで一緒だった滝口さん、藤ノ木さんご夫妻もいた。7時30分出発。バスの座席、隣は経理の具志堅さん、同じく経理の松崎さんだった。具志堅さんの話をうかがい、その他芸ぶりと活躍に驚いた。趣味はフルート。2本フルートを持っているという、1本は60万円で購入したとか。線画もやっており、佐倉市の文化人である。その傍ら、経理、パソコンの能力が評価され、自治会の仕事を手伝っているという。
バスは東京スカイツリーを見ながら常磐高速を目指す。そういえば、現役時代、接待が終り、この経路を通って牛久までタクシーで帰ったことが何度かあった。経理の方には大目に見ていただき感謝である。
11時、那珂湊着。土産を買った後昼食。透き通るようなネタが載っいるスーパーの寿司と違い、食べ応えがあった。
昼食後、「国営ひたち海浜公園」へ。この公園、第2次世界大戦後、米軍の水戸射撃場だったという。1973年(昭和48)返還された。350ヘクタールと、とてつもない広さである。みはらしの丘に咲く真っ赤なコキアと秋桜はやはり見事である。天気にも恵まれ、みはらしの丘から見る太平洋の青とのコントラストはまさに”絶景”だった。


2023年10月13日金曜日

カセット無償契約の功労者は松下幸之助と大賀典雄

 7月11日のブログに「先輩(91才)の証言、カセット事業草創期」9月5日のブログに「TDK磁気テープ事業”暗黒時代”」を書いた。
7月6日、今年91才になる富田哲夫先輩に対する取材があった。私は日本のカセットも含めた磁気テープ事業の生き証人である富田先輩の体験談を是非記録に残したいたいと思い、「ステレオ時代」の澤村編集長に持ちかけ、それが実現したのであった。取材場所はTDK本社だった。(写真・右)
8月31日、取材をセッティングしてくれたお礼ということで、富田さんは私を経堂に招待して下さった。この場で7月6日、語り切れなかったことを熱っぽく語った。また、大腸癌が見つかり近々手術されるという話もうかがった。6回目の手術だという。
9月に入って取材記事の校正がはじまった。富田さんから毎日のように電話があった。病室からだった。「お任せ下さい」といったが、「畠山さん、良く聞いて下さい」。その指摘は文言の訂正にまでおよび、その指摘が的確なのに驚いた。富田さんの執念を感じた。
取材記事が掲載された「ステレオ時代」が10月12日ついに発売された。
記事の中で「カセットの標準化契約が無償になったのは松下幸之助と大賀典雄の功績だった」と富田さんは語っている。私は今まで標準化契約を無償にした「フィリップスはさすが懐が深い」と感心していたが、実は違っていた。富田さんはフィリップスの出先機関であるIDCCと大賀典雄が対峙した現場にテープ工業会会長・高尾泰弘(TDK常務)のカバン持ちとして立ち会ったという。まさに‟生き証人”である。
富田さんは慶応ボーイ。部下である私にも謙虚であった。


2023年10月8日日曜日

さあ~さあ~お立合い!「ガマの油売り」

 
5日(木)わが町の老人会「刈谷シニアクラブ」の特別講座ということで、筑波山に伝わる「ガマの油売り口上」が演じられた。演じたのは保存会の有志。スラリとした長身で誠に格好いい!
「さあ~さあ~お立合い!ご用とお急ぎでなかったら、ゆっくりと聞いておいで。遠目山越えは笠の内、聞かざる時は物の出方・善悪・黒白がトーンと分からない」。
江戸末期に始まったこのパフォーマンスは、筑波山の名物となり、つくば市の無形文化財に指定されている。そもそも「ガマの油」が使われ始めたのは戦国時代、筑波山中禅寺の住職が大阪冬の陣、夏の陣に従軍。負傷した兵士に塗ったところ、血がすぐに止まり、痛みが治ったとか。地元に帰った兵士がその話を伝え、全国に広まった。それから百年以上の後、筑波山の農民の子、永井兵助がガマの油を江戸で売ろうとガマ石に座り一週間考えて口上を思いつき江戸で販売すると大成功。大金持ちになったという。
明治、大正、昭和になって、筑波山の商店街や旅館の町おこしとして「ガマの油売り」は大々的にPRされるようになった。筑波山ガマ口上保存会が受け継ぐのは「正調筑波山がま油売り口上」といわれるもの。1769年初代永井兵助から代々「名人」が任命され、現在は20代目だという。保存会ができたのは19年前、全国に120人の会員がいるという。
「一枚が二枚、二枚が四枚・・・」と紙を刀で切り、切った紙を紙吹雪にして飛ばす。最後に刀で腕を切ると、真っ赤な血がふきでる。傷口にガマの油を塗るとアーラ不思議。真っ赤な血は消え、傷口も消えている。
「さあ~て、お立合い、買った、買った。本来であれば一貝、二百文でありますが、男は度胸で女は愛嬌、坊さんお経で、山じゃ、鶯ホウホケキョウ、筑波山の天辺から真逆様にドカンと飛び降りたと思って半額の百文だよ!」


2023年10月2日月曜日

外山先生を偲んで神楽坂で献杯

 7月11日、指揮者であり作曲家でもあった外山雄三先生が亡くなった。92才だった。
私は2019年、外山先生と大阪交響楽団によるライヴCD化事業に携わった。         
外山先生を偲んでライヴCD化に携わった関係者による座談会をやり、記録に残したいと思った。この企画を「ステレオ時代」の澤村編集長にお話したところ、心よく引き受けて下さった。
9月26日、関係者が江戸川橋にあるキングインターナショナルに集合した。元・大阪交響楽団楽団長・二宮さん、録音ディレクターの乙黒さん、CD化プロデューサーの大川さん、宮山さん、司会は板倉さん。錚々たるメンバーが勢ぞろいした。
外山先生は関東では人気が今一だったが、関西で実力を発揮。「何も足さない、何も引かない」ベートーヴェン、ブラームス、チャイコフスキーを演奏。まさに巨匠の風格だった。というのが参加者の一致した意見。二宮さんは5月27日、パシフィックフィルハーモニア東京を指揮した最後の演奏会、シューベルト「グレート」の模様を語った。外山先生は途中で体調が悪化し、指揮台から退席されたが、音楽は何事もなかったように最後まで奏でられたという。外山先生の意図が楽団員全員に浸透していたのである。鳴りやまぬ拍手に外山先生は車椅子に乗って登場したという。
座談会終了後、大川さんの案内で神楽坂へ。(写真・上)神楽坂には路地が多く、奥まったところにしゃれたレストランや日本料理店が軒を連ねる。著名なお蕎麦屋さんに入り、外山先生を偲んで献杯した。
この日の昼は東京に向かう途中、我孫子に下車。柏倉先輩にうなぎをご馳走になったのであった。(左下の写真は昼の神楽坂。ウィキペディアより)

2023年9月24日日曜日

105才で亡くなった母を追い、姉も逝く。

 105才の母が亡くなったのは今年の3月13日だった。その母を追って、9月19日、姉工藤セイ子が旅だった。86才だった。
最後に私に電話があったのは8月26日だった。声に力がなかった。「死にたくないが、苦しくて生きるのが辛い。9月9日、曾孫の結婚式があるので、その時まで生きたい。家族にはアリッタケ(とてつもない)迷惑をかけている」絞り出すように語った。
看病に当たっていた長女の清子さんは医師から「モルヒネを口からではなく、点滴で投与して良いか」と聞かれる。それから2日目、姉は帰らぬ人となった。
母が亡くなった時は、ブログを書いていても、平常でいられたが、こうやって、ブログを打っていると涙がこみ上げる。「さぞ、無念だったろう」。でも、今はあの世で先に逝った父や母、夫と再会し、安らかなのではないだろうか。そうあって欲しいと思う。
私のような次男と違い、農家の後継ぎの苦労は想像を絶する。家を護り、家業を護り、生活していかなくてはならない。姉は19才で工藤家に嫁いだ。頼りにしていた夫に先立たれた後は一人で3人の子供達を一人立ちさせるとともに、工藤家を護ってきた。
20日火葬、21日通夜、22日葬儀が行われた。
工藤家は由利本荘市藤崎の名門である。姉は長年、民生委員を務めたということで、親戚の方々や多くの住民の方々が参列した。長女の清子さん、喪主の隆夫さんを中心に家族一丸となって、火葬、通夜、葬儀を仕切る。その姿を見て、安心するとともに、感動した。姉の死去は残された工藤家の団結を強くしたのではないだろうか。
世の中は核家族化し、結婚、葬式は簡略化される一方である。しかし、農家の旧家に残る昔からの伝統、家と家業を護り、親族、地域住民との絆を大切にする。このあり方はできるだけ長く続いて欲しい。実はそれが少子化問題の解決のヒントである。と、私は思う。


2023年9月17日日曜日

天然鮎で乾杯!佐竹が美人を秋田へ連れて行った?

13日(水)恒例の地元、刈谷シニアクラブの「鮎研修旅行」が行われた。8時刈谷団地出発。ところが、出発が30分遅れた。参加者の1人が時間になっても現れない。電話をしても通じない。後でわかったことだが、この方、ディサービスとダブルブッキングをしていて、ディーサービスの方にでかけたという。平均年齢80才近いクラブならではのアクシデント。
バスはつくば牛久ICから常磐高速に乗り、1時間ほど走ったところの那珂ICで一般道に入る。常盤大宮を抜けて目的地の那須烏山市に向かうのである。
一般道に入ったところで、お待ちかね、幹事である森田さんの「歴史講話」が始まる。「水戸は昔佐竹藩でした。ところが、関ヶ原の戦いの時、佐竹藩が徳川家に付かなかったため、佐竹藩は秋田に国替えとなりました。領地も54万石から20万石に減らされました」「佐竹が美人を秋田に連れて行ったために、茨城の美人は少なくなったという説もあります」(笑)「今、通過している常陸大宮には佐竹の残党が沢山住んでおります」「秋田の佐竹の末裔は2009年から県知事となり、今でも殿様と呼ばれております」(拍手)
11:30には時間通り那珂川(写真・右)の川端にある、観光やな「ひのきや」に到着。焼き鮎、鮎の刺身、鮎のから揚げをいただき、ビールと日本酒を飲み交わす。一息ついたところで、祖父さんと祖母さんが、相手を指名しながら、合コン(婚ではなく懇)。アッとう間の2時間だった。
つくば牛久ICに着いたのは5時。一般道を走っていると、隣の座席のUさん、「あの倉庫、オレが作ったんだ。あの時は接待でお客さんを東京まで連れて行ったよ」。と道路際の倉庫を指さす。確か、Uさんは紙屋だと言っていた。その他にもいろいろやっていたようである。6時前というのに外は暗い。スッカリ日が短くなった。


2023年9月13日水曜日

「ノーベル賞」に挑戦しなはれ

昨日、NHK「魔改造の夜」に出演したTDKチーム、プロジェクトリーダー・佐藤さん(写真左)と北村さん(右)お2人によるセミナーが開催された。われわれOBパソコンクラブの為に、時間を割いて下さったのである。「魔改造の夜」に出演するきっかけは、以前同番組に出演した、リコーの紹介だったという。佐藤さんが、当時社長だった石黒さんに「番組に出たい」とメールをしたところ、「やってみなはれ」という返事が返ってきた、佐藤さんはこれに「見てくんなはれ」と回答。活動がスタートした。
番組から与えられたテーマはトラちゃんがウサちゃんにバトンタッチし、ウサちゃんがバトンを持って50m走る、という競技と、改良したトーストから鳩を飛ばし、8mの高さにある籠に入れるという2つ。これを京セラチームとヤマハ発動機チームと争うというものだった。
TDKは「トラちゃん、ウサちゃん50mリレー」で見事優勝した。
北村さんは、技術部門のトップから推薦された数名に、公募に応じた技術者を加えた25名の精鋭でチームを作った。はじめて顔を合わせるメンバーだった。このメンバーを適材適所で配置。一番大切なことはチームの目標を決めること「TDKの技術を見せつけよう」「TDKの部品をできるだけ多く使おう」「ゲームだから勝つことだ」と意見が分れた。北村さんは「勝つ」ことだと決断し、チーム一丸となって取り組んだ。取材は1ヶ月半の密着取材。TDKテクニカルセンター(写真左下)の1室を借り切って行われた。
番組の反響は大きかった。家族から「TDKっていい会社だね」といわれた。北村さんは母校の教授から「ちっとも変わらない(明るく、前向き)」というメッセージをもらった。最後に佐藤さんと北村さんから「皆さんが今40代だったらどうしますか」という問いかけがあった。私は「技術者だったらノーベル賞を目指す」と答えた。TDKも2兆円企業。ぜひ、デッカイ夢を見て欲しい。

2023年9月5日火曜日

TDK磁気テープ事業「暗黒時代」

私は昭和43年(1968)磁気テープ事業部に異動になった。最初の上司は富田さんだった。その富田さん、小生より10才年上、90才の大台である。その富田さんからランチのお誘いがあった。富田さんは世田谷にお住まいである。
31日昼、常磐線の牛久から小田急線の経堂におうかがいした。代々木上原で小田急線に乗り換えると、ご婦人方の服装もオシャレである。                                     
富田さん、さすがにやや前かがみにはなったが、話ぶりは55年前とかわらず、エネルギッシュだった。ランチは2時間くらいで終わるだろうと思っていたのだが、終わって経堂駅の時計を見たら3時30分だった。

富田さんは昭和30年、TDK入社。文科系大卒の第1号だったという。入社すると、フェライトを生産している秋田に実習に行ったという。東京の世田谷で生まれ育った富田さん、秋田の独身寮3畳の生活は身に沁みたのではないだろうか。その後、東京へ戻ると昭和28年生産開始した磁気テープの販売専任者になった。当時はオープンリールテープの時代でアメリカ3M社のスコッチブランドが品質、売上ともダントツ。国産の磁気テープは国策でなんとか息をしていた。赤字だったため、社内では赤字事業部と叩かれた。富田さんは「暗黒時代だった」と回想する。「カセットテープ黄金時代」しか知らない私に当時の苦労を伝えたかったに違いない。

経堂にうかがう前、東京の新国立競技場を見学した。(写真・上)この競技場で2025年、世界陸上・東京大会が開催される。TDKが世界陸上のゼッケンスポンサーになったのは1983年第1回ヘルシンキ大会からである。当時、TDKカセットは世界をほぼ制覇していた。世界陸上のゼッケンスポンサーの発案者は私を磁気テープ事業部に誘ってくれた沖山昭八さんだった。

2023年8月26日土曜日

『NYだより』③中曽根元総理とセオダー・ルーズベルト大統領家子孫

国連職員であった佐藤さんは、日米有力者の友好に尽力した。佐藤さんは中曽根元総理の知り合いだった。一方、佐藤さんはセオダー・ルーズベルト大統領家と35年にわたる付き合いがあった。セオダー・ルーズベルト大統領(ノーベル賞受賞)は中曽根元総理と同じ青年海軍将校だったことから子孫が中曽根元総理との面会を希望、佐藤さんの仲介で実現した。(写真は2009年、面会が行われた東京・砂防会館で撮影)

《以下、佐藤さんからのメール③》

コロンビア大学からTDKアメリカに帰り、仕事に復帰しました。会社に戻って2年ほどして、国際連合日本代表部から「国連に来て欲しい」という依頼が国連大使からあり、考えた末、引き受けることを決意しました。国連で働くことは、少年時代からの希望でした。

このような我が人生に誠に貴重な履歴を創ってくださった畠山さん、辻井 敞さん、齋藤英彌さんなどのテープ事業部の皆様に、心から、感謝を申し上げたいと思います。私の今日あるのは、皆様のおかげです。(了)

🔵佐藤さんの近況→佐藤さんは、国連で、後事務総長に就任するコーフィー・アナンのアシスタントだった。間もなく、ビジネスコンサルタント会社を設立し、日米企業のM&À、提携、マーケティング・リサーチなどに従事。現在はアメリカのビジネススクールの卒業生、若手芸術家とともに、ベンチャーの設立に励んでいる。なお、小生は1976年(昭和51)米国に出張したが、この時佐藤さんにアテンドしていただき、ニューヨーク、ワシントン、ボストン、クリーヴランド、シカゴ、サンフランシスコ、ロスアンゼルスの市場視察をさせていただいた。(畠山)



2023年8月25日金曜日

『NYだより』②「なぜヒラリー・クリントンを大統領にしないのか?」出版


 佐藤さんといえば、キッシンジャーへのインタビューと並んで「なぜヒラリー・クリントンを大統領にしないのか?」(講談社)という本の出版である。本が出版されたのは2015年11月18日。その前日、東京永田町の永楽倶楽部で出版記念パーティが開かれた。パーティには著名な政治評論家の他、早稲田、コロンビア大学の卒業生など50名が参加した。(写真、小生と佐藤さんご夫妻)佐藤さんの奥様は長年国連の職員として活躍され、この年、外務大臣から表彰された。

《以下、佐藤さんからのメール①からの続き》

沖山事業部長から「アメリカのトップビジネススクールへの留学制度が作られた。各事業部から、一人づつ志願者を出さねばならないので、あなたにやってもらいたい」との話がありました。私は、「ダメもとでやらせていただきます。落ちても責めないでください」と申し上げ、志願しました。勉強不足の自分に自信がなかったのでした。そして、不思議にもコロンビア大学のビジネススクールに合格したのでした。しかし、入学してみると、それまでやらせていただいた仕事、経験がどれだけ役に立ったか計り知れません。深く、心から、TDKの皆様に感謝申し上げます。本当にありがとうございました。ここで私が特別感謝しなければならない方がいます。ぞれは、上司の上田和男さんです。「断りもしないで、勝手にどこかに飛び出していく。まったくビジネスマンとしてなっていない」と、おっしゃって私を特別厳しく育ててくださいました。私はまだ話題を求めて歩く新聞記者そのものだったのです。兄貴のように思いました。コロンビア大学を終わった時、上田さんは、一人でひっそりと会いに来てくださり、祝いのご馳走をしてくださいました。ありがたさに、目頭が熱くなりました。《③に続く》


2023年8月24日木曜日

『NYだより』①キッシンジャーにインタビューした友人


23日(水)ニューヨークの佐藤則男さんからメールをいただいた。メールは私との出会いの頃を綴ったものだった。ブログ「人間浴」を読まれている方の参考になるのであれば、転載しても良いとのことだった。佐藤則男さんといえば、思い出すのは新進気鋭のジャーナリストとして、ニクソン政権およびフォード政権期の国務大臣であり、ノーベル平和賞受賞者で
あるヘンリー・キッシンジャーへの取材である。(1988年)得意の語学力を駆使してキッシンジャーと渡り合う佐藤さんの雄姿は眩ゆいものだった。https://www.youtube.com/channel/UCXvLmdx1TpFEZUSpZtgkuvA
《以下、佐藤さんからのメール①》
ニューヨークよりお便り申し上げます。私の健康をご心配いただきまして、誠にありがとうございます。幸い、まだ働くことができそうです。ただ今、日米の間で、新しい価値観を持ち、一生懸命勉強している学生たちとともに歩んでいます。この頃、私がまだ未熟で、朝日新聞の英字新聞の記者で、新聞広告に志願しTDKに入社したころをよく思い出します。入社はさせていただきましたが、なにをしたらよいのか、全くわからず悩んでいる私を温かく迎え入れ、指導しくださいましたのが畠山さんでした。音響機器の扱い方を知らない私をご自宅まで、連れて行ってくださり、教えてくださいました。さらに、周波数特性、ノイズレベルなどの磁気テープの知識も教わりました。入社し、半年ほどでTDKアメリカに異動になりましたが、畠山さんは、陰に日向に支えてくださいました。
そして、私には、おもいもかけないことに気づかせてくれました。それは、大学時代勉強したマスコミュニケーションとマーケティングとは、同一の理論だということでした。英字新聞記者上がりでも、マーケティングで武装すれば、何とか生きていけるという自信が生まれたのです。子供の時から、独学し、身に着けた英語は、大きなプラスでした。このようなきっかけを作ってくださった畠山さんに、深く感謝しております。
TDKアメリカでは、マーケティング、セールスのほかに、なんでもやりました。在庫管理、出荷、受注、などの経営に必須な仕事、会社にまつわる一連の仕事、さらに、ファイナンスなど多岐にわたる仕事をさせていただきました。そのような仕事をしているとき、沖山事業部長が「アメリカのトップビジネススクールへの留学制度ができた。各事業部から、一人づつ志願者を出さねばならないので、あなたにやってもらいたい」との話がありました。②に続く。


2023年8月19日土曜日

国際派岩沢さんの直観力で決まった「TDKの神話・世界陸上」

 昨日、40年前、一緒に仕事をしていた岩沢さんから書類一式が届いた。「処分はお任せします」とのことだった。1983年「オーデイオ専科」10月号が同封されていた。
頁を開くとカセットテープメーカー各社のカラー見開き広告が目をひいた。カセットテープ
全盛期だった。マクセルさんが新商品「UD1」の紹介をされている。出席者は端山取締役研究室長(右)、と冨営業本部第1マーケティング部長である。TDKも同誌面で「ニューⅮ」の紹介を行っている。TDKは商品企画課長の小生と、広報課の岩沢さんである。(写真・右下)マクセルさんの意気込みの違いが出席者に現れている。思えば、小生の場合、カセットテープ一筋だった。81才になった今も会社から頼まれもしないのに引き継いでいる。
ところで、広報の岩沢さんである。TDKに入社する前はロンドンの日本大使館広報部に務めていたという才媛である。
TDKは1983年、第一回世界陸上ヘルシンキ大会のゼッケンスポンサーになるが、(写真・上)昨日、岩沢さんから送られてきた書類一式を見て、契約に際し、岩沢さんの直観力が大きく影響していたことを知った。世界陸上決定に当たっては役員会で「なんで陸上なんだ」という声もあった。英国大使館に勤務していた岩沢さんは国際的にみて陸上はメインスポーツであることを熟知していた。岩澤さんは絶対やるべきだという信念のもと関係者の説得につとめた。TDKが決定した1時間後、世界的に有名なF社が参加の名乗りを上げた。TDK決定はタッチの差だった。「TDKの神話」と呼ばれる世界陸上ブタベスト大会は今日開幕する。