2022年12月28日水曜日

末期ガンにかかった友人(4)教養クラブ

 


末期ガンにかかったKさんからメールをいただいたのは12月4日だった。そのメールにはこうあった。「今のところ体調は比較的安定しており、明日(5日)CT検査受診に行ってきます。12日にその結果(治療効果)の診察説明を受けに病院再訪の予定」とあった。結果がどうだったのか、現時点でなんの報告もない。10月初旬のメールで「果たして来年の正月を超すことができるかどうか不安がよぎります」とあったので心配である。

12月20日、Kさんと同じ平沢工場・人事課にいたSさんと3年ぶりにお会いした。Kさんのこともあるので急遽面会したのである。

Sさんは昭和38年頃、Kさんとほぼ同時期に本社に転勤になった秋田の先輩。3人とも市川にある独身寮住まいだった。独身寮は3畳一間でトイレは共同だった。われわれ3人に鹿児島出身のMさん、静岡出身のRさんの5人は仲が良かった。Sさんは、この5人組に「教養クラブ」という愛称をつけた。教養クラブの話題はもっぱら上司と女子社員の情報交換だったような気がする。(後から長野出身のYさんが加入した)

Sさんに聞くとKさんの入社時の仕事は給与計算だったという。算盤と手回しの計算機を使っての給与計算していたという。当時、TDKは職務給の導入を検討していた。年齢や学歴、性別ではなく、職務によって給料を決めようという考えである。その前提として職務評価をやることになり、職務評価委員会が発足。Kさんは、委員会の事務局員に抜擢され、本社に転勤になったのだという。職務評価委員会の指導に当たったのは横浜国立大学の藤田教授だった。几帳面なKさんの仕事ぶりを藤田教授を高く評価していたという。



2022年12月21日水曜日

2万ヘルツの世界を語る

 8月、20年ぶりに乙黒さんと中山さんと、一緒にお会いした。
お2人とは50年くらい前からのお付き合いである。20年前、私が定年の時にお会いしてからご無沙汰していた。

乙黒さんは80才も半ばだが、外山雄三指揮大阪交響楽団の録音を担当している。現役なのである。中山さんは今年、「バイロイトのフルトヴェングラー」という本を出版された。
そんなこともあって、近況を語り合うことになったのである。
「3人の会」は盛り上がり、定期的にやろうということになり、その第1回が10月開催されることになった。ステレオ時代の澤村編集長に「こんど”3人の会”をやるよ」と話たところ、「やあ、畠山さんは顔が広いですね。参加していいですか」ということになった。
ステレオ時代には昨年末、秋田にある「TDK歴史みらい館」でTDKカセットテープのマーケティング戦略を取材していただき、2月発売になった20号に「TDKはこうして世界一になった」という記事に仕上げていただいた。
 続けて、誌面にでるのはどうかとも思ったが、これは私が決めることではなく、澤村さんが決めることである。
 会は10月21日、なんと、日本橋にあるTDK本社で行われた。なんと、というのはTDK本社は高島屋三井ビルの26階にある。オフィスビルとして超一級なのである。広報・大須賀さんのご厚意だった。
 

澤村さんから「3人の会」の名前はないんですか?と聞かれ、一晩考えて「2万ヘルツの会」にしようと思った。乙黒さん、中山さんのご了解をいただく。
2万ヘルツは人間の可聴領域の限界点である。つまり、オーディオと音楽の限界に挑んできた乙黒さんと中山さんの話に相応しいと思った。
 22号が発売された。出来上がった記事を見ると、乙黒さんと、中山さんの秘話が4頁にコンパクトに編集されており、さすが澤村さんだと思った。
 この記事を一人でも多くのオーディオ・音楽ファンに読んでいただけば幸いである。
 澤村さんから次回の「2万ヘルツの会」はいつやるんですか?と声がかかれば成功ということだろう。どうなりますか……。


2022年12月13日火曜日

ソニー、盛田会長との200年の誓い


  やあ、驚きました。                                 
アマゾンを検索し、「ソニー、盛田会長との200年の誓い」と入力すると、出ました、驚きました。サブタイトルは「1代で関東一といわれる神社を創った私の人生」とある。著者は高橋正宣、監修は畠山俊三。
今年の年初めに、小生が監修した「奇跡の一歩」ー全身ジストニアに翻弄された”私の青春”(幻冬舎)が出版されたが、それに続く監修・第2弾である。
今回の本は当初大手総合出版社が出版について名乗りをあげていた。監修も同出版社が推薦するプロの方が担当する予定だった。
著者である高橋正宣氏は笠間市にある常陸国出雲大社の宮司である。高橋氏の人生は多難を極め、今日に至るまで出雲の神社本庁との確執があり、ソニーとも盛田会長死去後、裁判を起こす事態が発生している。当初出版に手を挙げていた出版社もこの実情を知って尻込み、辞退してしまった。ということで、監修の仕事が小生に廻ってきたのである。出版に当たっては幸い「宗教問題」の小川代表が高橋宮司に共感。出版の陽の目を見たのである。
3月、私は発行責任者の権宮司・高橋正重氏より、宮司の書いた原稿、20年史、膨大な裁判資料を渡された、3月から5月の連休明けまでの2ヶ月、時には早朝4時起きをしてまとめあげた。
作業をしながら、高橋宮司イジメともとれるような神社本庁、盛田会長死去後のソニーの姿勢には疑問を感じた。また「法のもとの平等」を謳う司法にも大いなる疑問を感じた。
そのような逆境の中で、高橋氏は巨大な権力に敢然と対峙している。その高橋氏の先見性と情熱を一瞬にして見抜いたのが盛田昭夫氏だったのである。
 小生は神社界、司法界については全くの素人である。その私に監修を任せて下さった宮司、権宮司、および常陸国のスタッフの方々、宗教問題代表・小川寛大氏に深く感謝したい。

2022年12月12日月曜日

末期ガンにかかった友人(3)三笠宮妃殿下来工


 Kさん、昭和36年(1961)10月、三笠宮妃殿下が平沢工場に来工されたのは覚えておりますか。
この年、秋田国体が開催され、平沢はサッカー会場になり、三笠宮妃殿下がお見えになった。写真には斎藤仁賀保町長、松野県会議員、山﨑社長、小松工場長が写っている。入社2年目の小生も写っているのである。(右端)初めて背広というものを着たように記憶している。当時、東北大学の西沢潤一教授、衆議院議員の清瀬一郎、南極探検の西堀栄三郎、歌舞伎の市川左團次、野球解説の小西得郎も来工した。
 日本はテレビブームに沸きかえっており、その主要部品を作っていたTDKは注目を浴びていた。

 同年、本社から各事業所別に社内報(TDKタイムズ)の編集員を任命するよう指示があり8名の編集委員が任命された。私(後列・左端)を除いて、全て管理職の方々だった。学歴をみると、東大、一ツ橋、慶応、秋田大学と、仰ぎ見るような方々ばかりだった。私は高校時代、文芸部に所属していたのが幸いしたようだ。私のプロフィールを見ると、「入社2年目、若いに似ず、あらゆる点において・・・」とある。これが縁で、私は翌年、本社に転勤となり、本社で社内報の専属編集担当になった。
 Kさんとは秋田時代、ほとんど接触がなかったが、昭和38年、Kさんは職務分析委員として本社に転勤。東京で2人は急接近するのだった。
     




2022年12月9日金曜日

豊穣な招待旅行(山中湖、会員制ホテル)

6日、私と妻は義弟の運転する車で山中湖に向かった。牛久から山中湖までは約3時間かかる。妻と一緒に旅行をするのは1年ぶり。義弟の招待旅行である。山中湖のホテルは会員制のホテルである。義弟はたいしたものだ。ホテルに着くと。欧米でみかける大型のベンツが玄関に横づけになっている。ゲスト送迎用だという。

夕刻には山北に住んでいる弟も到着。夕食は6時からであるが、妹が「兄さん食前酒はどうですか」と気づかう。さすが、酒飲みの畠山家で育っただけのことはある。妹は2次会の酒まで準備していてくれた。義弟は酒はやらないが最後まで付き合ってくれた。懐が深い。
7日は晴天。部屋のベランダから秀麗富士山がクッキリと見える。ジクザク状の登山道も手に取るようである。双眼鏡があれば登山者の姿も見えるのは間違いない。義弟は何度もこのホテルから富士山を見たが、今日のように鮮やかな富士山ははじめてだという。
 裾野に見える茶色い部分は自衛隊の練習場だという。練習の時は60キロ離れた山北にも砲弾の音が聴こえると弟は言う。

帰りは山北の弟の家に寄る。秋田の実家の秋田杉をふんだんに使用した「鮎瀬亭」である。居間にはイギリスのスピーカーの名器タンノイが鎮座し、グランドピアノが目の前にあるように豊に響く。弟が総代を務める種徳寺を訪れた後、蜜柑狩り。蜜柑狩りはわれわれ夫婦も義弟夫婦も初体験。楽しかった。
義弟も弟も豊な老後を送っている。その豊穣に触れた心温まる旅行だった。                                  
                                 
                                  


2022年12月5日月曜日

末期ガンにかかった友人(2)職場は秋田美人


 K君から昨日メールをいただいた。「入社の頃を思い出す記事もあり、感慨深いものがありました」「小生は昭和35年~37年まで快明寮(男子独身寮)に入寮しました。半年ほど矢島の実家から汽車通勤したこともあります」とある。私のブログが役に立ったようである。ということで、入社の頃を引続き振り返ってみた。                     

私は総務課庶務係に配属された。総務課は工場の窓口である。受付、守衛、電話交換、テレタイプ、清掃、車両管理、秘書等を担当する社員のグループである。女性が圧倒的に多い職場だった。私は車両管理、会議室の管理、掃除のおばさんの手配等から仕事をはじめ、工場見学の案内と守備範囲を広めていった。近隣の小・中学生が頻繁に工場見学に訪れたのである。  当時の朝礼の写真が残っていた。(写真・上)朝礼で係長が服装点検をしている場面である。当時はまり感じなかったが、美人ぞろいである。大卒の新入社員が工場実習にきた時、「秋田は美人が多い」というのもうなずける。                            工場の裏は日本海だった。休日は、釣り船を持っている社員が誘ってくれた。(写真・下。右から2番目が小生) 

                               
      





2022年12月3日土曜日

末期ガンにかかった友人(1)高卒、同期入社


 10月初旬、同期入社のKさんからメールをいただき驚いた。
「小生、胃がんにかかってしまいました。一部リンパ節にも転移がある末期ガンです。(ステージ4)人生80年にして始めて患った大病に驚いております。来年の正月が超えられるかどうか、不安がよぎります。不謹慎ながら小生にもし万一のことがあった場合、あなたにそれなりの”メッセージ”をお願いすることを含み置き下さい。息子に伝えておきます」
Kさんに対して、私にできることはないか?試行錯誤した結果、昔の思い出をブログに書いてみようと思った。幸い、Kさんはメールができる。元気であれば読んでいただける。
私とKさんは同期入社である。昭和35年(1960)2人はTDK・平沢工場(秋田)に入社した。秋田には平沢工場と琴浦工場があった。平沢工場ではテレビの偏向ヨーク等に使用されるフェライト(磁性材料)、琴浦工場ではコンデンサを作っていた。
 社内報・秋田版によると、昭和35年、平沢工場に94名(写真)、琴浦工場に238名が入社している。いずれも中・高卒である。(大卒は東京本社で採用していた)琴浦工場はほとんとが中卒。いわゆる女工さんだった。
Kさんは地元の普通高校卒業。配属先は人事課。エリートだった。小生といえば、地元の農林高校卒業。営林署や測量士補の試験に落ち(実は受からないのは分かっていたので受験すらしなかった)縁故で入社させてもらった。(祖父は近隣、石沢村の村長。平沢工場長は石沢村出身。父は衆議院議員TDK創立者・斎藤憲三の支持者)総務課庶務係に配属された。
私は実家から平沢工場に通っていた。母は私の弁当を作るために4時起きしていた。その母は105才。施設に入っているが、元気である。
K君は小生の実家より遠い矢島町の出身。当時実家から通っていたのか、それとも平沢町(現在・にかほ市)にある独身寮に入っていたのか?知りたい。


2022年11月27日日曜日

TDK、バッテリーに並ぶ宝くじ「世界陸上」


11月20日のブログ「スマホの中身は7~8割が日本製。140億で買収した会社の売上が1兆円に!」をご覧になった方から「TDKさんバッテリーやってたんですか?」という感想をいただいた。スマホのバッテリーのシェア40%というのは凄いことなのだが、認知度は低い。その一因はバッテリーがTDKの自社開発ではなく、買収した中国の会社が生産しているというところにある。                              
 しかし、自社開発でなくとも、17年前、揺籃期にあった中国のバッテリー会社を買収したという先見性はもっと高く評価されるべきだと思う。買収した会社から分離した会社は自動車用バッテリー部門で年間10兆円規模の売上を上げている。日本の一流企業がこの会社を目標に熾烈な開発競争を行っている。買収を決断したTDK6代目、澤部社長は「宝くじ」に当たったと謙遜されているが、もっと胸を張るべきである。
 TDKは今年創立87年目となる。フェライト等の自社開発の電子部品も1兆円の大台に乗った。8代にわたる社長が87年かけて達成したのである。それはそれで立派であるが、澤部さんが買収したバッテリーの子会社は17年、3代の社長で1兆円を達成したのである。
 ところで、TDKにはもう一つ「宝くじ」もののエピソードがある。それは「世界陸上」である。「世界陸上」は「ワールドサッカー」「オリンピック」と並ぶ3大スポーツイベントといわれている。TDKは「世界陸上」で冠スポンサー並みの扱いを受けている。男子選手のゼッケンはTDKのロゴ、100メートルスタートの背後には巨大なTDKの看板が掲示される。この背景には1983年の第1回大会から一貫して世界陸上を支援してきたTDKと世界陸連の信頼関係がある。日本の電通の力も大きい。
 電通は現在オリンピックからみで、マスコミに取り上げられているが、私が接した電通マンの皆さんは礼儀正しく優秀だった。「世界陸上」については改めて記してみたい。



2022年11月20日日曜日

スマホの中身は7~8割が日本製。140億で買収した会社の売上が1兆円に!

11月4日の読売新聞に”米アップルのスマートフォン「iphone(アイフォーン)」の人気は揺らいでない”いう記事が掲載された。この記事で”分解してみると日本企業存在感”とある。超小型部品「積層セラミックコンデンサー」も大量に搭載され、村田製作所や太陽誘電、TDKが供給しているという。「多くの部品を日本企業が提供しており、部品点数では首位の7~8割に上る」”とある。                          
 最近、半導体産業と並んで電子部品産業が注目されているのにはこのような背景がある。
 TDK・OBとして嬉しかったのは同記事に掲載された図(写真・上)にバッテリーの供給先として、TDKの名前がでていたことである。TDKは現在、年間売上2兆円であるが、その半分の1兆円をバッテリーが占めている。このバッテリーはTDKが買収した中国の子会社アンプレックステクノロジー(ATL)が作っている。
ATLはTDKの6代目社長である澤部肇さんが買収した。同氏の自伝「神田のサンマとニューヨークの青空」(日本経済新聞)によると、澤部さんはこう語っている。「宝くじに当たったようなものだった。振り変えれば、私に電池の知見を与えた斎藤さんの功績であり、レイモンドの功績である。授業料の50億円を入れても投じたお金は140億円ほど、その会社がスマートフォン用の電池で半分近いシェアを握り、ドローン用でもトップを走る。途中分離独立した自動車用電池のCATLは、今や業界で世界最大の会社になっているから驚きだ」
 TDKがATLを買収したのは2005年、それから17年で、年間売上1兆円の会社に成長する。いくら経営勘に秀でた澤部さんでも予測できなかったであろう。”宝くじに当たった”としかいいようがなかったものと思う。


2022年11月11日金曜日

ゴルフ産業界へ。環境サポートの提案


 9日、久しぶりのゴルフだった。コースは牛久から25キロの霞台カントリー。
メンバーであるYさんに誘っていただいた。成田にお住まいのSさんも一緒だった。
スタート、346m、パー4,第1打はチョロ、ただし、第2打以降は素晴らしい当たりでダブルボギー(6)に収まった。2番ホール、90m池越え打ち下ろし、パー3,ここで3人の明暗が分かれた。Sさんはピン側50センチにつけて,バーディ(2)。Yさんはグリーンを外したが、見事な寄せでパー。さすが、メンバーである。小生は珍しくグリーンにワンオンしたが3パットでボギー(4)

昼食後、の13番ホールで痛い目に会った。ここは358mのパー4。左に池がありグリーンは砲台グリーン(写真)。手前にバンカーがある。池を避けて、3打で砲台グリーンの下まで運んだ。大き目のクラブでフルスィング。ボールは高々と上った。飛びすぎだと直感した。グリーンに駆け上がったがボールがない。グリーン奥のバンカーに落ちてしまったのだ。そこからが阿修羅、バンカーの綱渡りでギブアップ。最後の18ホールも酷かった。なんと、ボールの頭を叩いてのチョロが5回も続いた。疲労でスィングが乱れたのである。会心のプレーは15番463mのパー5だった。クラブのフェース面をやや内向きにして降ったところ、ビューンと飛んだ。勿論、200m近く飛ばすYさん(70才代)にはかなわないが、近くまで飛んだ。続く2打、3打も会心の当たりりで4打でグリーンに載った。
 終ってみればトータルスコア117打。いつも120以上叩く小生としては上出来だった。途中、手が震えてティになかなかボールを載せることができないとう場面もあったが、まだやれるという自信がついた。

80才にして広い大地で友人とボールを追いかけられる自分はなんと幸せなのだろう。

今、世界は環境破壊による、干ばつや水害、森林火災で悲惨な日々を送られている方々が沢山いる。食べるのがやっとで、スポーツどころでない。
ゴルフは美しい自然環境を前提にしたスポーツである。ゴルフ産業界はもっと環境サポートに力を入れても良いのではないか?そのためであればゴルファーも協力すると思う。
環境破壊がゴルフ産業に陰を落とす日がくるかもしれない。


2022年11月1日火曜日

著名企業のOBは語るー記録メディア工業会OB会


 現役の頃、日本記録メディア工業会の業務委員長を仰せつかっていた。そのご縁で、10月26日(水)TDK柳橋倶楽部でOB会を開催した。
工業会の常務理事だった日立マクセルのKさんが米寿(88才)を迎えられたのである。それを祝たいと思った。しかし、直前になってKさんがドクターストップ。中止しようかとも思ったが、6人の方から参加の返事をいただいている。実施することにした。
参加者の方の話が面白かった。
日本ビクターOBの技術者Sさん。「VHSビデオの大成功によって皮肉にも会社全体のタガが緩みはじめ、さらにデジタル化の波に乗り遅れて商品力が弱体化。涙ながらに早期退職(定年6年前)する決心をした」それは誰よりもビクターを愛したが故の決断だったという。
A社OB、Tさんの話。「今だからいいますが、実は工業会に提出する出荷数量を実際より一時低く出していました。トップグループメーカーを油断させるためです」
TDKのOさん。「えっ、そうだったんですか?急にA社さんのシェアが上ったので、どうなっているんだ!と上司に叱られましたよ」
日本コロムビアのSさん。「当社はシェア下位メーカーでしたが、常務理事のKさんは差別なしに暖かく接してくれましたし、いい業界でした」。
フジフィルムのTさんは定年後、自転車でシルクロードを旅した話を披露。Tさんは現在同社の屋台骨を支えるデータカートリッジテープを開発した技術屋さんである。この工業会、今回は欠席されたが、ソニーさん、松下電器さんもメンバーである。
工業会OBの平均年齢も70才後半になったが、昔の話になると熱を帯びる。現在も本を出版するなど皆さん意気軒高である。
 異業種との交流が活力になるといわれるが、工業会OB会はその実例である。高齢者の話題の中心である健康の話はでる余地がない。

2022年10月28日金曜日

TDK本社、それから「高校OB”傘寿会”」


 10月21日(金)、東京で2件のイベントがあった。
13:30~TDK本社でオーディオ誌の取材対応
17:30~TDK柳橋クラブで高校OB傘寿会(80才)
牛久発11:44発に乗車すれば間に合うのであるが、用心をして11:25の電車に乗る。これが良かった。常磐線は事故があり、遅れたのである。東京駅に着いたのは13:10だった。TDK本社は日本橋高島屋三井ビルでイングの26階である。(写真・上)このビル実に格調が高い。TDKは現在売上2兆円の国際企業。このようなビルに入居できるようになったのである(TDKは本社自社ビルを所有しない主義)。感慨一入である。取材は16:30無事終了。
高校OB傘寿会の開催場所であるTDK柳橋クラブに向かう。同クラブは浅草橋にある。
傘寿ともなると、参加者は4分の1になる。25%はすでに死亡。25%は無音。25%は欠席。残りの25%が出席。参加者はブラスバンド部の佐藤君、弁論部の簾内ご夫妻。(奥様、優子さんは文芸部)郷土史研究部の則子さん、卓球部の田口君、小生(文芸部)。お祝いに後輩、尺八60年の成田さん、スキー部の斉藤さんがかけつけてくれた。ありがとう。(写真は文芸部ウメ子さんの逞しい筆跡)
友人にも学友、社友、趣友、といろいろあるが、学友はいいものである。男どもは二次会ということで浅草橋の居酒屋へ。羽振りのいい田口君がご馳走してくれた。ありがとう。
傘寿会の次は米寿(88才)だが、開催できるだろうか……。



2022年10月15日土曜日

畠山家を守る八幡神社


 9月下旬だった。秋田にいる姉(85才)から電話があった。
「父さんが無事、戦争から帰ってこられたのは八幡様のお陰だよ。隣の家が火事になった時も、八幡様が家の屋根に上って、火の粉を払い、延焼を食い止めたんだよ」
9月16日行われた父の23回忌についてブログに書いたものを姉にコピーして郵送した。それに対しての返事だった。
姉は19才で嫁いで畠山家を離れたが、日頃、父母から畠山家の守り神

である八幡様の加護について聞かされていたという。
畠山家の八幡様は1219年(承久元年)建立された。重忠の子、重保の妻信子は奥州に落延びる。信子は自身が崇拝していた鎌倉にある鶴ヶ岡八幡神社を落延びた秋田に建立したのである。秋田に着いて14年目である。
八幡神社建立の日、信子は懐にかくまって育ててきた重保の子供に重光(畠山家三代目)と命名。重光は武士を捨て「右ェ門」と名乗り開墾に従事する。四代目から「又右ェ門」と称し、現在に至っている。


「又右ェ門」は鮎瀬貝堤(古四天王)、矢積(妻屋)等、移住。1594年、現在の鮎瀬部落に転居する。現在の八幡神社(写真・上)は1920年(大正9)、酒田大山宮大工家清の作といわれている。
 神社の中には、畠山重忠の木彫りの像(写真・中左下)があるが、弟の話によると、これは昔からあったものではなく、義弟、高橋正宣氏が重忠の出身地である深谷市を訪れた時に入手し、父・一男(31代)に寄贈したものだという。
(写真・下、左から姉、父、母、高橋、妹)
*写真上・中は沖津桃代さんが撮影されたものです。




2022年10月10日月曜日

宗教、信じても頼ってはダメ


 9月22日の読売新聞に『改めて問われる宗教とは』という記事が掲載された。
曹洞宗禅僧の南直截(みなみ・じきさい)、東京女子大学長の神学者、森本あんりの2氏に取材した記事である。
「信じることは”賭け”だ。カネをかけると、神さま仏さまから相応のものが返ってくると思うのは”取引”だ。捨て金になるかも知れないが、気持ちのために祈る。超越者と人間の等価交換ではない。”取引”が行き着く先は”このままだと地獄に落ちる””先祖がたたってる”と、高額なものを売りつける偽の宗教になる。人間の生と死なんてわからないのに、そこに理由を与えて根底の不安を拡大させてくる」
「宗教は物事を解決するものだと捉えない方がいい。信じるのはいいが頼ってはだめ。苦しくとも、生きられるようにするのが宗教の役割。”問題は解決しないけど大丈夫だ”と。宗教は杖になっても、おんぶはしてくれないものだ」
「社会から厳しい目を向けられている宗教者は、自分の足元と原典を見直すのが先だ。信仰の基となるものを確かめ、見直すべきだ」「宗教を信じるときに大切なのは、神や仏が真理を与えると思わないこと。切なく苦しい私に、どのように生きるのか、どうするのかを我々に問いかけていると思った方がいい」
 

10月1日、常陸国出雲大社(写真・左)で新社務所の上棟祭(写真・右)が行われた。同大社は設立して30周年になる。これを記念して新社務所を建設する。総事業費数億円。資材の高騰等で事業費は倍になったという。高橋宮司は出羽国米沢藩9代藩主、上杉鷹山の「なせばなる、なさねばならぬ、なにごとも」の覚悟を込めてエィ!と裂ぱくの気合を込めてボルト締めを行った。
 

工事は無借金でやり抜くという。大国主の大神に奉仕はするが、大神に頼るなどのという考えは微塵もない。ましてや信者に費用を分担させるなどありえない。
 高橋宮司の「大神を信じているが頼らない。奉仕こそは無上の喜び」という心情を実感させる一時だった。
 新社務所は来春竣工するという。

2022年10月7日金曜日

鮎の炉端焼き堪能!老人会研修旅行


 5日(水)刈谷ベテランズクラブ(老人会)「鮎研修バス旅行」開催。関東の嵐山といわれる栃木県烏山にある観光やな「ひのきや」で、天然鮎を食べながら一杯やろうというもの。
コロナの関係で、ここ2年間、中止になった。
久し振りのお出かけ、飲み会である。バスの隣の席は勢木(せき)さん。82才。鳥取のご出身だという。「島根と鳥取はどちらが北でしたっけ」「どんな観光地がありましたっけ」と矢継ぎ早にうかがう。お聞きしながら「鳥取砂丘」等を思い出す。小生は秋田県、同じ日本海沿いの県ということで話が弾んだ。
8時、牛久を出発したバスは11時には目的地に着く。「ひのきや」は那珂川の清流に面している。座敷には囲炉裏が並んでおり、既に真っ赤な炭火を串刺しになった鮎が囲んでいる。鮎のから揚げ、鮎の刺身と次々と料理が運ばれる。会長の挨拶が終わるやいなや「乾杯!」とビールをかざす。(写真・上)
参加者は総勢34名。内女性15名。「美味しい、また来なくっちゃ」と初参加の女性の声。12時30分、お開きになったが、足元がおぼつかない同僚も数名。
名目は研修旅行である。

帰り、バスは大田原市にある雲巌寺に寄る。このお寺「啄木(きつつき)も庵(いほ)はやぶらず夏木立(なつこだち)」という芭蕉の句で有名。日本の禅宗四大道場と呼ばれるだけあってさすがの風格である。吉永小百合主演のCM「大人の休日倶楽部」の舞台にもなった名所である。(写真・下)
帰りのバスは、勢木さんとの話の続きになった。「鳥取は日本で一番人口が少ない。57万名」「勢木という苗字の人は全国で110名しかいない」。そうだったのかと再認識。
バスは日もトップリ暮た7時、牛久に着いた。


2022年10月4日火曜日

オリ、奇跡の2連勝!中嶋監督は母校の後輩です。

 

3日の新聞「パ・リーグは2日、レギュラーシーズン最終戦が行われ、オリックスが2連覇を決めた。マジック1としていた首位ソフトバンクがロッテに敗れ、1ゲーム差で追う2位オリックスが楽天に勝利。勝率が並び、直接対決で勝ち越すオリックスが頂点に立った。オリックスは5月に首位と最大11.5ゲーム差をつけられたが、山本ら安定した先発投手陣を中心にした戦いで白星を重ね、最後に逆転した」「こんなことが起こるのかと、本当に信じられない」と歓喜の輪に加わった中嶋監督は選手達と抱き合った。
 中嶋監督は小生と同じ秋田県立鷹巣農林高校出身。同校は2011年、近隣の3校と統合され、消滅。北鷹高校が新しく誕生した。ただ、中嶋監督の活躍のお陰で、「昔の名前」が新聞でも報道され、実家の兄や知人からもおめでとうといわれた。
 中嶋 聡(なかじまさとし)は1969年、北秋田郡鷹巣町(現・北秋田市)生まれ。昭和62年、鷹巣農林・林業科卒業。(小生は同科35年卒業)当時(1986)、同校は甲子園県予選で準々決勝まで進んでいる。中嶋はNBPドラフト会議3位指名で阪急ブレーブスに入団。プロ野球の世界に入る。
 私が中嶋監督の名前を知ったのは2021年、オリックスの監督に就任した時だった。
鷹農の卒業生がプロ野球の監督になるなど信じられなかった。しかも就任1年目にして優勝監督となる。「運が良かったのだろう、2年目はそうはいかないだろう」と思っていた。それが奇跡の2連勝である。
 勝利のコツは「つなぐ野球だという」。”木を植え、育てる”という「鷹農精神」ここにあり。
 

2022年9月24日土曜日

多彩な体験、東北、バス旅

 9月15日~17日、父の23回忌があり、実家(秋田)に行った。秋田に行くといえば、車か新幹線、飛行機が一般的だが、今回はバスを利用した。
15日、牛久駅発5:33分発の始発電車で東京へ。5:20分頃、牛久駅に着くと、ホームには多くのサラリーマンが並んでいる。並ばないと着席できないのである。現役時代は私も並んだものである。今回はグリーン車に乗る。2階席でコーヒーを飲み、朝刊を広げた。

池袋バス停近くの喫茶店で駅へ急ぐ通勤客を眺めながら朝食。8:10、仙台行きのバス出発。幸い隣の席は空いていた。乗客は全て、学生風の若者。なにせ仙台までの乗車料金は3,700である。最初の停車地は新装なった佐野サービス

エリア。仙台到着は13:45分。14:00盛岡行きのバスに乗り換える。盛岡から田沢湖線に乗り18:22角館着。
駅前の旅館で夕食。燻りガッコをつまみにビールをいただく。メインは稲庭うどん。さすがに本場はうまい。(写真・上)
角館は前にもきたことがあるが、スッカリ忘れてしまってい

る。16日、早朝武家屋敷見学。東北の田沢湖近くに、このような武家屋敷ができたのはミステリーである。(写真は武家屋敷通りと、青柳家に展示されている甲冑)
17日(土)、羽後本荘始発5:29の電車で酒田へ。2両編成。前の車両は私一人だけ。日本海を右手に見て電車は走る。贅沢な気分。多分平日は学生さんが乗っているのだろう。酒田駅の待合室でサンドイッチを食べ7:40の仙台行きバスに乗る。バスの乗客は若い女性客でほぼ満席。仙台への買い物だろうか?11:35仙台着。昼食後、市内散策。仙台発13:20のバスに乗車。19:55新宿着。
新幹線はスピードが速すぎて途中の景観を楽しむことができない。その点、バスの旅は多彩な体験ができる。と言っても80才の老人には体力的にややキツイのも事実である。

2022年9月19日月曜日

父の23回忌


 9月16日は父の命日。 23回忌だった。
父は1999年(平成11年)9月16日、心筋梗塞で急逝。享年86才だった。
父は畠山家31代目である。家系図によると初代はNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13名」に登場した畠山重忠だと言う。
父の子供は5名。長女85才、長男82才、次男80才(小生)、三男74才、次女71才の5名。長男と長女は実家で

ある秋田に住んでいるが、次男、三男、次女は関東である。
9月16日、「悠峰院一顆透禅清居士23回忌法要」が多宝山大蔵寺(秋田県由利本荘市)で行われた。(写真)
墓参をした後、実家に寄る。久しぶりに座敷を見ると海部総理の感謝状が目に入った。旧軍人として戦った父への慰労だった。父は千島列島、シュムシュ(占守)島でソ連軍と対峙し、地獄絵を見た。「最果てのシュムシュの兵舎凍て尽きてふるさと思う北斗七星」父の詩である。もう一枚。安倍総理からのものがあった。平成27年、百歳を迎えた母へのものだった。
沈静化したとはいえ、コロナ第7波の時期であり実行が危ぶまれ
たが、この機を逃しては兄弟姉妹が顔を合わせることはないかもしれないという施主(兄)の思いがあった。幸い天気にも恵まれ、父の思い出を語りあうことができた。次女の伴侶である常陸国出雲大社の高橋宮司も参加し華を添えた。
 残念ながら施設にいる母(104才)への面会は実現しなかった。
 18日(日)、大河ドラマ「鎌倉殿の13名」で畠山重忠は北条義時と生死をかけた一騎打ちをした後、非業の最後を遂げる。それは武士の名誉と誇りをかけた見事な散り際であり「武士の鏡」と後世に伝えられることになった。


2022年9月12日月曜日

茨城発の日本総合伝統芸能集団「喜楽座」

 

11日(日)日本総合伝統芸能集団、井坂斗絲幸社中「喜楽座」の公演が牛久市中央生涯学習センター大ホールで開催された。午前、午後と2回開催されたが、いずれも満席だった。
この集団は牛久市の隣町である阿見町に拠点をおいており「津軽三味線全国大会3年連続2部門優勝!」の快挙を達成した。日本の伝統を守り次世代に受け継いでいくという高邁なポリシーを掲げている。津軽三味線のみならず唄、太鼓、舞踊、箏、時には洋楽器も取り入れ、日本の音楽をより親しみやすく発信する。
同団体は「牛久」「土浦」「阿見」「龍ヶ崎」「つくば」「広島」「浅草」に点在しており、45年間、井坂氏の指導のもとに研鑚を積んできた。当日の企画・総合演出は井坂氏によるものであり、若者達が演奏し、唄い、踊る舞台は聴衆を圧倒した。
同団体はNHK総合テレビにも出演。全国ツアーを実施。日韓交流イベントにも参加している。茨城県が世界に誇る芸能集団である。今後の活動に注目したい。
 写真は当日の舞台。秋田県民謡「新タント節」より。
(この集団、5月12日、私の住む「刈谷ベテランズクラブ」でも、公演の一部を披露。老人達に夢と勇気を与えた。当日のブログで紹介)



2022年9月10日土曜日

健さんとの「ピュア」な 一時


 もう、47年前の話である、私は磁気テープ事業部に新しく設置された商品企画課の責任者になった。商品企画はマーケティング部門である。お客様がどいう商品を欲しているか調査し、技術部門と一緒になって商品を開発し、でき上った商品をオーディオ評論家や専門誌を通じお客様に伝える。
お客様がカセットテープに求めているのは「良い音」だというのが私の方針だった。そのためには聴感評価が大事だというのが私の考え方だった。料理でいえば「味」である。
私の課に健さんがいた。
彼の耳は抜群だった。健さんは文化系の卒業だが「音」という感性を言葉にして表現し、電磁変換特性に落とし込んで技術者と会話することができた。彼のお陰で、音楽評論家やマニアに高い評価を得る商品を次々に開発することができた、「AD」「SA」「MA-R」がその代表作である。
健さんは佐倉市在住。6日、牛久市との中間にある喫茶店で健さんと会った。(写真・上)

久し振りのカセットテープ談義になった。2人の共通認識は「ノーマルポジション」のカセットが一番いい音がするね。だった。ハイポジションは確かに電磁変換特性は優れているが、レコーダとの相性が難しい。「SA」と「Nakamichi1000」の組合せは抜群で異次元の音がした。メタルポジションになると、優れた特性を引き出そうと試行錯誤している途中でCDRが登場し頓挫してしまった。ノーマルポジションのカセットが一番熟成し、音楽を自然に聞かせてくれるので、誰にでも安心してお勧めできるのである。
健さんから、健さんが開発した「オーデイオコード」をいただいた。銅と銀を素材にしたものだという。(写真・中)

健さんはオーディオが好きで、今も「ピュア」な音を求め続けている。人としても「ピュア」である。6日も「ピュア」な一時だった。
その点、自分はオーデイオについてはいいかげんである。晩酌が祟ったのか、痛風にかかってしまった。(写真・下は痛風と血圧の薬)


2022年9月2日金曜日

看板に偽り?エフエム東京開局40周年CD


「カラヤン ベルリン・フィル ライヴ・イン東京1977」というCDを聴いた。曲目はベートーヴェン作曲交響曲第6番「田園」第5番「運命」第9番「合唱」。収録会場は5千名収容の普門館。
キャチフレーズを見るとこうだ!「TOKYO FM開局40周年記念盤」「奇跡的に保存されていたカラヤンBPOのステレオ・ライブ。素晴らしい演奏!凄い音質!」
この演奏は同局の「TDKオリジナルコンサート」で放送されたものだが、そのような説明はない。そこに放送局開局40周年に対する並々ならぬ意気込みを感じる。
ところがである。CDを開封して解説書に掲載された録音プロデューサー東条碩夫氏のコメントを見ると、”これは「第9」をお聴ききになる方のために、あらかじめご諒解を得ておかなくてはならない。実はまさに本番の直前、それまで快調だった収録用のアンプが、突然トラブルを起こし、事実上使用不能になり、復帰も不可能になってしまった。ー略ーこういう場合、われわれがどれだけ惨めな気持ちになるかは、筆舌に尽くしがたい”つまり、録音プロデューサーとしては無念の録音だったと推測される。
実際CDを聴くと、演奏は素晴らしいという見当はつくし、聴衆の反応も良好である。ただ、音ということになると、東条氏の指摘した「第9」は別にしても全体的にクリアさがない。”凄い音質”とは言い難い。
発売元はキングインターナショナルである。同社には昔からお世話になっている。同社の付けるキャッチフレーズは素晴らしい。天才的である。つい買いたくなる。しかし、この度は看板と中身にかなり乖離があると感じたしだいである。
 カラヤン先生も”凄い音質!”だとは感じないと思う……。
 
 解説書に Special thanks to ということで、小生の名前も掲載されている。やや複雑な心境である。

2022年8月28日日曜日

「大切なのは金や権力ではなく子供である」/マイケル・コルレオーネ


 「大切なのは金や権力ではなく子供である」
これは映画「ゴッドファーザーⅢ」で老境に入ったマイケル・コルレオーネが語った言葉である。これは小生の信条と一致する。
8月、録画しておいた映画「ゴッドファーザーⅠ・Ⅱ・Ⅲ」を観た。やはり凄い作品である。
「ゴットファーザー」は第2次世界大戦直後、ニューヨーク五大ファミリーの一角で、最大の勢力を誇るイタリア系マフィア「コルレオーネ・ファミリー」のドラマである。
初代ヴィトー・コルレオーネ(写真・上)は犯罪組織の長であるものの、道徳心は強く、義理堅く、慈悲深い性格であり、部下だけでなく、一般人からも尊敬される。後を継いだマイケル・コルレオーネ(写真、中・下)も道徳心に優れており(麻薬には手をださない)、やがては犯罪組織から足を洗い、事業家となることを目指す。
ただ、犯罪組織でファミリーを守り、財産(シマ)を守り、事業家に転身するのは至難の業である。疑心暗鬼の中で、敵対するファミリーを暗殺、実の兄まで殺害してしまう。
 そして語った言葉が「大切なのは金や権力ではない子供である」だった。
 映画の終盤、犯罪組織の後継ぎを嫌い、オペラ歌手になった息子の晴れ舞台を家族で鑑賞。感動に浸って劇場から出たところで、マイケルは敵対するファミリーの殺し屋に襲われる。弾丸は最愛の娘メアリーに当たる。マイケルはメアリーを抱きしめ、慟哭の中で気を失う。
 時は過ぎ、金や権力より大切なメアリーを失ったマイケルは、誰に看取られることもなく息絶える。

 自分はお金も権力もないが2人の子供と6人の孫に恵まれた。
 自分の最後はマイケルよりはマシなのではないかと思った。

 <監督>フランシス・フォード・コッポラ
 <出演>マーロン・ブランド/アル・パチーノ
 <受賞>1972年度アカデミー賞(作品賞、主演男優賞、脚色     賞)

2022年8月21日日曜日

コロナ対策の基本は快食快眠!再起動の8月

 
8月は猛暑とコロナ第7波の中、再起動の月となった。

4日→牛久市花いっぱいコンクール審査会(第4位)。老人クラブの先輩に誘われはじめて花壇づくりのお手伝いをした。真夏のカンカン照り。休憩時間の仲間との茶会が楽しかった。
4日→NPO法人・龍ヶ崎ゲヴァントハウス幹部と話し合う。80才を迎え、第一線を退くことにする。
9日→45年ぶりにOさん(元・ポリドール)、Nさん(元・大阪国際フェステバル協会)と三者会談(日本の音楽界について語る)。
12日→痛風再発。自宅から5分の中野医院へ。78才の院長、親身になって診察。
14日→息子、高3と、小6の孫を連れて来宅。秋田市の料亭「濱野の家」で取引先と会食したとのこと。息子の時代に変わっていること実感。
19日→コロナワクチン接種(4回目)
20日→JVC・ケンウッドのSさん、フジフィルムのTさんと、会社定年後のあり方について情報交換。
《これから》
29日→車検(見積、83,980円也)
31日→傘寿の会(高校・同窓生)申込〆切。17名に案内を出したが、参加申込者は現在
3名。「人生の店じまい」をした同窓生がほとんとのようである。
9月16日→父の23回忌で秋田へ。5人兄妹姉妹が集まるのはこれが最後か。
10月21日→「三人の会」「傘寿の会」26日「業界リーダー、卒寿を祝う会」 11月→小生監修の本、出版予定。

●8月はコロナということで老人会は活動中止。これも対策の一手法ではあるが、基本は「健康な日々を送ること」「快食快眠」だと思う。日々、グランドゴルフと散歩で活動し、妻の作った料理をいただき、十分睡眠をとり、ブログを書き続ける…。




2022年8月11日木曜日

「偏愛」=「生きがい」


現役の頃、お世話になった和泉賢二さんから「偏愛の70’s Collection」という展示会の案内をいただいた。
会場はさいたま市浦和区「柳沢画廊」とある。7月24日、でかけたのであった。
JR浦和駅に降りて「柳沢画廊」に向かう。途中、狭い道に商店街が並ぶ。画廊は商店街の一角にあった。展示場は1フロア10坪くらい。その2階と3階にコレクションが展示されていた。
展示場には粟津潔、池田満寿夫、篠山紀信、木村伊兵衛等、1970年代の巨匠の作品が並ぶ。そこで、ひときわ小生の目を引いたのは「横尾忠則」の作品である。怪しい雰囲気が漂う。(写真)案内の方によると和泉賢二さんの「横尾忠則」のコレクションは希少価値があるという。和泉さんが一番偏愛しているのは横尾なのではないかと感じた。

もう一点、感銘を受けたのが1964東京オリンピックのポスターである。亀倉雄策の作品。
今見ても圧倒的である。TDKのダイヤモンドマークの社章をデザインしたのも亀倉雄策だった。
デザイン、写真だけではなく、「偏愛」は各ジャンルに存在する。私が所属する音楽同好会のメンバーにも偏愛者は多い。LPレコードを収集し、聴くのではなく、盤を洗浄したり、ジャケットを眺めているだけというのは偏愛のジャンルだと思う。
この「偏愛」が本人にとっては「生きがい」である。
という自分も偏愛者の一人なのかも知れない。
それにしても「偏愛」コレクションを開催できる画廊のある浦和の文化度は高いと思った。


2022年8月2日火曜日

松尾芭蕉、鹿嶋紀行

 7月26日(火)、地元・老人会(刈谷ベテランズクラブ)の研修日帰りバス旅行が行われた。
第7波のコロナ禍でどうなるかと心配していたが、今回は行政からの自粛要請もなく予定通りの実施となった。参加者は32名。

7:45分、自治会館前集合。ドシャ降り。急いでバスに乗る。8:00予定通り発車。
行先は鹿嶋、潮来。研修テーマは「松尾芭蕉、鹿嶋紀行」。
松尾芭蕉は貞享4年(1687年)8月、鹿嶋根本寺の仏頂和尚に「鹿嶋の月」を見にこないかと誘われ、曽良、宗波と3人ででかけた。江戸・深川から舟で行徳に出て、鎌ヶ谷から布佐までは歩き、夜舟で鹿嶋に到着。根本寺(写真・上)を訪れて月見。鹿嶋神宮参拝。帰りは潮来の知人、本間自準宅を訪れて一泊。潮来長勝寺にも立ち寄った。

研修旅行のハイライトは長勝寺(国の需要文化財)だった。長勝寺は文治元年(1185年)源頼朝が創建したといわれている。(写真・中)創建の年号に因む文治梅(ぶんじばい)という古木の他、松尾芭蕉の「旅人と我名呼ばれむ初しぐれ」の句を刻した時雨塚あある。和尚の案内で寺の仏壇で手を合わせ、奥座敷に案内された。この部屋は江戸時代、徳川光圀が休憩されたとのことで築山

が美しい。(写真・下)
 
 昼食は、ビール、お酒もでて、久々に老人クラブの仲間と打ち解けることができた。
旅先では雨も止み、収穫の多い旅行だった。森田リーダー他、幹事の皆さんに感謝!