2024年11月21日木曜日

老人クラブの宴、鮎バス旅行/孫娘の一言

11月14日は刈谷シニアクラブの「秋のバス研修旅行」だった。研修とは名目で、参加者の目的は、烏山落石観光やな・ひのきやでの鮎料理を食べながらの宴である。
8:00自治会館前出発。参加者36名。市の大型バスなので、2人分の座席を一人占めして王様気分。天気は雲一つない秋晴れ。つくば牛久インターで常磐高速に乗り、那珂インターで降りて一般道へ。栃木県烏山を目指してひた走る。観光やなやに11時到着。
すでに囲炉裏には赤々と輝く炭火を串刺しされた鮎が囲んでいる。老人達が意気込んで囲炉裏を囲む。ビール瓶が配られ、日本酒の一升瓶の口が空く。「それではいいですか乾杯の音頭を長老の酒井さんお願いします」87才の酒井さんがコップを掲げて「乾杯!」。この為に3時間かけて烏山まできた老人達は無言で酒を飲み、鮎料理を頬張る。
一息付いたところで、自己紹介タイムとなる。男女がお互いに相手を指名し、氏名された老人は自己紹介をし、近況を語る。私を指名する女性は現れず、私が自己紹介のトリを飾ることとなった。「幹事の皆さんありがとう。佐竹の殿様が茨城の美人を秋田に連れていったので茨城には美人がいないといいますが、そんな事はありません・・・」とかなんとか、言ってましたね。
帰りは近くのリンゴ園に寄って、5時に牛久着。
自宅に帰ると久しぶりに娘が2人の孫を連れてきていた。テレビに環境問題国際会議のニュースが流れている。「トランプが大統領になると国際会議も大変だな」と呟くと「爺ちゃん、トランプは自分の代は影響がないから勝手なこと言っているのよ」「そうか、なるほど」とうなずく。孫娘ももう大人だと実感。

2024年11月13日水曜日

渡部さんの”プロジェクトⅩ”「大気汚染と排ガス処理技術」


地元の飲み仲間、渡部輝雄さんから本をいただいた。
「大気汚染と排ガス処理技術」という技術専門書である。
渡部さんは1941年生まれというから今年83才。一杯飲むと、「オレは会津若松の落ちこぼれ」と語るが、そんなことはない。本を見ると謙遜だとわかる。
1965年3月、中央大学理工学部工業化学科卒業。学士論文の指導は東畑平一郎教授とある。1986年3月、住友重機械工業(株)化工機事業部入社。集塵装置の設計を担当。1978年6月~乾式脱硫脱硝装置の設計および活性炭の開発担当1998年10月、日本吸着学会より技術賞受賞「活性炭を循環使用し排ガスからダイオキシンを除去する技術」。2001年6月、住友重機械(株)退社。
「大気汚染と排ガス処理技術」は次の3章からなる。
第一章 神武景気(1954~1957)、岩戸景気(1958~1961)/大気環境と集塵技術
第二章 いざなぎ景気(1965~1970)/大気環境と脱硫・脱硝
第三章 ダイオキシン類対策特別措置法(1992)/大気環境と炭素利用技術
渡部さんは日本の高度経済成長に伴う大気汚染のもとになる塵埃、排ガス、ダイオキシンと格闘してきた、この本は渡部さんの「プロジェクトⅩ」である。渡部さんは必ずしも体調万全とはいえない状況の中で、この本を上梓した。その会津魂に敬意を表したい。身近な例として、わが町牛久にもクリーンセンターがある。そのお陰で、わが町の環境が守られている。その陰には渡部さん技術力が生きているのである。渡部さん、出版を祝して一杯やりましょう。
 

2024年11月8日金曜日

38年ぶり、世界最高峰ウィーンフィルを聴く


 昨日は特別な日だった。
世界最高峰のオーケストラ、ウィーンフィルを聴いた。
午後4時、自宅出発。会場であるミューザ川崎シンフォニーホールに向かう。
ウィーンフィルを聴くのは何年ぶりだろう。日記を見ると、37年ぶりということになる。
若い頃は良くコンサートに行った。子供達にもコンサートを味わって欲しいと連れて行った。秋田の兄貴もクラシック好きだったので、お付き合いで聴きに行った。
しかし、コンサートの値段も高くなった。1987年頃にはウィーンフィルの来日公演のチケットが1万9千円と、2万円近くなった。意欲がなくなった。
今回のウィーンフィルのチケットはS席45,000、私が買うことができたB席は35,000。そのうち耳も聴こえなくなるに違いない。冥土の土産のつもりで買った。買えて良かった。その後、プレミアムが付いて、8万円になったプログラムもでた。
会場に着くと、「完売御礼」のポスターが貼られていた。川崎市市制100周年記念事業&ミューザ川崎シンフォニーホール開館20周年記念公演とある。
座席は4階の天井桟敷。3万5千円でこの席か。オーケストラが豆粒のよう、勿論、指揮者の表情は分からない。
でも、ウィーンフィルのまろやかな音は天井桟敷にも届いた。素晴らしい経験だった。驚いたのはなんと、アンコールにウィンナワルツを2曲も演奏してくれた。会場は沸きにわいた。毎年、ウィーンからテレビ中継されるウィーンフィルの「ニューイヤーコンサート」そのワルツが、日本でナマで聴けるなんて思わなかった。バンザーイ!と叫びたくなった。こと年まで生きていて良かった。また明日からがんばろう。ネルソン指揮のウィーンフィルに乾杯!

2024年11月1日金曜日

水素車 トヨタMIRAI で帰宅

昨夜(10月31日)は、ハイソサェティの集いだった。
都内の会場に集まったメンバーは20名。小生を除いて、一流企業の幹部OBの集いだった。
彼らの話を聞いていると、「ドジャース・大谷の試合を見にロスまで行きましたよ」「ヨットが趣味なんですが、陸地が見えなくなると不安ですね」「明石家さんまの番組にでたんですが、さんまさんに先生と呼ばれて、照れましたね」・・・メンバーの中に年収が1億を超える方が3名いた。
小生はこの会の幹事の依頼で「カセットテープを初めて発売したメーカーはどこか?50年ぶりに分かった真実」いうテーマで15分ほど話をさせていただいた。幸い皆さん関心を示して下さりホッとした。
帰り、大企業の外部取締役役員だというA氏が、帰宅の方向が同じなので、私の車に乗りなさい。と誘って下さった。玄関口に止まっていた車は、トヨタのMIRAIではないか。日本で、数えるくらいしか走っていないCO₂排出量ゼロという水素車である。
A氏は車中でいろいろ話をされた。「やはり中国が心配です。中国との取引が多いので習近平体制がどうなるかですね」「生成AIがこれからの日本経済にどういう影響を与えるかですね」「グローバル指向の中で、経営のやり方が、ゼネラル化、画一化していく傾向がある。私は日本ならではの経営のやり方があると思うんですがね」「政治家のものの見方は短期的でいかん」A氏は私と同じ82才。現役経営者として押し寄せる課題に立ち向かうA氏の気迫に圧倒された。
「畠山さん、牛久まで乗って行って下さい」お言葉に甘えて、MIRAIでわが家に向かう。
下車する時、運転手さんが後部座席を開けて下さった。それは建売のわが家と不釣り合いなマナーだった。(乗車したMIRAIの車体は黒だった)




2024年10月26日土曜日

民謡王国、秋田/首都圏秋田県人連合会70周年

 24日、昼食後、東京へ。今日は浅草で「首都圏秋田県人会連合会創立70周年記念・ふるさと秋田芸能まつり&懇親会」がある。
秋田芸能まつりが行われている浅草公会堂に着いたのは3時近くだった。この芸能まつり、第一部がはじまったのは10:30分である。秋田県出身(首都圏在住)の芸能自慢100名近くが出演。私が聴いたのは第三部の終り近く。秋田とえば民謡である。三味線、尺八、太鼓の伴奏で民謡自慢の方々が次々に登場。(写真・上)秋田おばこ、秋田船方節、秋田長持歌、秋田馬子歌、本荘追分…幼少の頃、聴いた民謡が次々に歌われる。懐かしさで胸が一杯になった。
一番感動したのは「秋田の伝統と文化を学ぶ会」が演じた「西馬音内盆踊り」、深い編み笠、黒い頭巾で顔を隠した、秋田おばこが躍る盆踊りは妖艶である。(写真・左)この盆踊り、ユネスコ無形文化遺産に登録されている。東京でその片鱗に触れることができたのは幸運だった。
芸能まつりが終了したのは4:20,懇親会がはじまるのは6:00,この間隙を縫って、「東京スカイツリー」に登る。多勢の外人観光客に混じって、展望台から東京の夜景を見る。(写真・右)
懇親会の会場は浅草ビューホテルだった。参加者は70名ほどで、ほとんとが、芸能まつりに参加した方々。その方々の余興を見、聴きながらのお酒を楽しむ。私の隣の席は「新庄節」を歌った矢口さん。「新庄なば、秋田と兄弟だ」「んだすな。一山超えれば山形だ」。矢口さんと来年の再会を約して会場を後にした。

2024年10月16日水曜日

憲法は「ウソをつかない」の1行で良い/住井すゑ

 
先週の後半は高密度のスケジュールだった。
10日(木)笠間の常陸国出雲大社へ。宮司と弁護士の打合せに同席する。「先生、この案件、引き受けていただけますか」と宮司。「う~ん、どうするか、組立ててみましょう」と弁護士先生。東京の偉い弁護士を笠間まで呼びつけるのだから宮司はただものでない。
11日(金)TDK本社へ。カセットテープの頂点といわれる「MA-R」(写真・上)を開発した石田俊彦さんの取材である。「ステレオ時代」の澤村編集長がカメラマンを帯同してかけつける。この商品、私が商品企画の責任者だった時代に開発された商品だが、石田さんの部品一個一個に心血を注いだ苦心談を聞き、「採算を度外視しても良いから最高のモノを作ってくれ」と号令だけかけていただけの自分が恥ずかしくなった。
12日(土)音楽グループ、龍ヶ崎ゲヴァントハウスの例会。音楽評論家・金子建志先生の講演会。演目は「生誕200年のブルックナー」。終了後、親睦会。(写真・左)隣の席に座った滝沢さんに「お父さんお元気ですか」と声をかける。滝沢さんのお父さんは、私と同じ昭和17年生まれである。
13日(日)前日、ゲヴァントハウスの例会に参加した弟を「牛久市住井すゑ文学館」に案内する。住井さんは「牛久沼のほとりで」という本の中で、憲法は「ウソをつかない」という1行だけで良い。と書いている。住井さんは平成9年6月16日、95才で旅だった。代表作は「橋のない川」。


2024年10月9日水曜日

高倉 健、没後10年展「高倉 健に、なる。」

 昨日(8日)は雨だった。でも「TDK社友会パソコンクラブ」の例会があるので東京へ行かなくてはならない。小生パソコンオンチなのに幹事なのである。
当日の朝、読売新聞本社で「高倉健、没後10年展」が開催されている、ということに気がついた。「まだボケてないな」パソコンクラブは昼から。没後10年展は10時から。シメシメである。8:30分出発する。
読売新聞本社は大手町にある。東京駅から徒歩15分。立派なビルである。ビルに入って驚いたのは吹き抜けのロビーに「読売巨人軍リーグ優勝おめでとう」の垂れ幕が下がり、いたる所に、お祝いの花が陳列されていたこと。(写真・下)祝の樽酒もズラリと並んでいた。
エレベーターで三階のホールに着くと、その一画がギャラリーで没後10年展の展示場だった。「八甲田山」「幸福の黄色いハンカチ」「南極物語」「鉄道員(ぽっぽや)」「網走番外地シリーズ」「君よ憤怒の河を渉れ」「野生の証明」「動乱」「駅」「あなたへ」「ホタル」・・・。
高倉健は男が惚れるほど格好いい。そして、あの孤独感がたまらない。没後10年展には愛用のサングラスや、グッチの旅行鞄、書き込みの入ったシナリオなどが展示されていたが、撮影禁止。
高倉健の映画は何度でも観たい。観ると、いつも、生きることの味わい深さを感じ、勇気が湧いてくる。(高倉健、2014年11月10日歿。83才)


2024年10月5日土曜日

TDK元社員を公安部が書類送検!電子部品「MEMS(メムス)」とは?

今朝、新聞を広げ、「TDK営業秘密持ち出し」の大きな見出しに、TDK・OBの小生はビックリ!いろいろな思いが頭を過った。
私が勤務していた昭和時代はカセットテープが花形。電子部品部門は松下さん、東芝さん等セットメーカーさんの要求に合った部品を作っていた。従って、警視庁公安部の捜査対象になるような先端技術にはタッチしてなかったように記憶している。
 現在の日本の電子部品業界は世界の最先端を走っている。半導体産業ほど規模は大きくないのでのマスコミにでる機会は少ないが、日本が誇る産業である。
 今回、元TDK社員が退職前に不正に持ち出したのは電子部品「MEMS(メムス)」の開発データだという。MEMSとはMicro Electro Mechanical Systemsの略で、機械要素部品、センサ、アクチェータ(電気信号を物理的運動に変換)、電子回路を一つのシリコン基板、ガラス基板、有機材料の上に微細加工技術によって集積化したデバイスである。
 スマホが小型化、高性能化し、自動車が自動運転となり、ドローンが空中を舞う現代だが、その陰には半導体と並んでMEMSの貢献があり、中国等から大きな注目を浴びている。

写真・上はTDK/MEMS商品の一例。極超小型スマホ用MEMSマイクロホンの内部構造である。サイズ2~3ミリ、厚さ1ミリのマイク(左)と内部構造。音圧が音孔からキャビティに伝わると、振動板が動いてバックプレートの電極との間の静電容量が変わる。これを信号として検出する。



2024年9月29日日曜日

技術者の鑑、石田俊彦さんの取材決定

9月も終わろうとしている。
今月、嬉しかった成果は「ステレオ時代」誌の取材が決まったことである。
8月6日、TDK社友会・千曲川支部の納涼会に参加。カセットテープづくりを一緒にやった技術者や生産部門の方々と35年ぶりに再会した。この模様をブログに掲載した。このブログを見た「ステレオ時代」澤村編集長から、当時の技術者の取材したいので、是非プロデュ
ースして欲しいとの依頼があった。
交渉の結果、カセットテープのシンボル商品であるMA-R用ハーフ「RSメカニズム」(写真・右)を開発した石田俊彦さんに参加していただけることになった。
石田さんは上智大学理工学部機械工学科卒業。船舶用エンジン開発を夢みたが、実現せず、TDKに入社した。RSメカニズムには、石田さんが学生時代に学んだ工作機械のアイディアが盛り込まれている。
石田さんは3才で母親を失った。以来、今日まで「自己実現」に向けて努力を続けている。定年後は佐久地区の技術アドバイザーとして、同地区の中小企業の指導にも当っている。
石田さんは謙虚な方であり、現役の頃は自己実現に信念を燃やす方だとは思わなかった。今まで聞けなかったような深い話を澤村さんが引き出してくれると期待に胸はずむ。
取材は10月11日、TDK・日本橋本社で行われる。「ステレオ時代neo7号」(⒓月16日発売予定)に掲載される。(写真・上)佐久市の隣、小諸市にある「島崎藤村記念館」

2024年9月23日月曜日

美女の前髪をつかめ!(後編)補聴器はマダマダ、自転車仲間の殿堂(電動)入り。

 
76才、77才、82才のシニア熱血漢でもやはり最後は体力の衰えに話が及ぶ。ところが、さすが工学部ご出身のSさん、Tさんの話は理論的である。
76才のSさん、「補聴器を試してみたんですがね、通常聴こえないノイズが入って、こんなもの使えるか」77才のTさん「そうでしょう。ボクも無料貸し出しというのを何点か取り寄せてみたんだがダメ。補聴器はまだ課題が多い」。
良く考えてみると、人間の耳の発達過程には3段階あるように思う。生まれたばかりの第1段階は物理的に音を感じるだけ。第2段階は判別レベル、つまり母親や父親の言葉がわかるようになる。第3段階が感性レベル。歌を聴いて上手下手がわかるようになる。耳と頭脳は連動していて、成長とともに複雑な音が判別できるようになる。多分、初期段階の補聴器は、会話も周辺ノイズも一緒に大きな音量にしてしまうから使いものにならない。理想をいえば、一人一人の感性に合った補聴器が必要なのである。が、現実には痴呆が進めば、人間の感性が衰えて、多少ノイズがあってもバアさんの声が聴こえれば良い、ということになりそう。ということで3人ともこの先、補聴器のお世話になると思う。
Tさんは、定年後、自転車でシルクロードを縦断したという自転車ツーリストのベテランである。(写真)ママチャリスの私は「空気不足の時と満杯の時では全然走りがちがいますね」とバカな質問をする。「空気不足の時は路面との接触面積が大きくなるから抵抗が大きくなるんです。パンクの原因にもなりますよ」。空気をパンパンにするとパンクしやすくなると思っていた技術オンチの私は目からウロコだった。
Tさんの自転車仲間も最近は高齢化し殿堂入(電動)の方が多くなったとか。スイスイと坂道を登って行って、そのまま永遠の殿堂に入る方もいらっしゃるようである。

2024年9月16日月曜日

秋田マドンナも欠席。シュリンクする高校同窓会

 わが母校、秋田県立鷹巣農林高校、令和6年度・第45回・東京伊勢堂会が9月1日、銀座ライオン七丁目店で開催された。わが母校、鷹巣農林は豊かな秋田杉が茂る伊勢堂の杜に囲まれていた。東京伊勢堂会の名称の由来である。
参加者は36名。前回、令和元年の例会参加者は52名だったので16名の減少である。前回華やかさを添えていた伊勢堂マドンナ(写真・上)は、今回1名だった。開会の冒頭、司会の幹事長・本橋さんは、コロナ禍で休会していた5年間に13名の会員が亡くなったことを紹介。黙祷を捧げた。
鷹巣農林は林業科、農業科、普通科、家庭科の総合高校だが、参加者は林業科と農業科に2分されている。しかも、東京へでてきて林業や農業に従事してる方は少ない、自営業や私のように電子部品メーカーに勤務したとか、農林に関係ない仕事で頑張ってきた人が多い。
鷹巣農林は2013年に閉校になったが、東京伊勢堂会が続いているのは岩崎準志郎さん(昭和41年、林業科卒業)の母校愛のお陰である。第45会懇親会も岩崎さんの音頭による「なつかしの応援歌」が銀座に轟いて幕となった。(写真・右)
次回は、オリックスの中嶋監督(昭和62年、林業科)に参加していただき、参加者の減少傾向に歯止めをかけて欲しい。



2024年9月14日土曜日

美女の前髪をつかめ!(前編)熱血シニア集合

13日、土浦のホテルマロウド筑波に3人の熱血シニアが集合した。
3人とはSさん(76才)Tさん(77才)、小生(82才)である。
きっかけはSさんがV社OB会の会長に就任されたというので激励しようというものだった。
Sさん国立大学工学部出身。成績上位だったので、恩師から日立、東芝、NHKにのような大きな会社に就職しなさい、と勧められたのにV社に就職したという大のⅤ社ファン。しかし、入社してみると、その非効率な仕事ぶりに落胆。
V社をなんとか立て直ししたいと労組の執行委員長になって経営者と対峙したというから凄い。どの経営者も頼りなかったが、業界でも名経営者といわれたT氏の言葉は忘れないという。それは「美女の前髪をつかめ」というもの。つまりビジネスで成功するためには、後を追っていても追いつかない。他社の先を行け!ということだった。
Sさんは結局、V社を退社。日立に転職。日立に就職して驚いたのは①会議は5分前集合。たとえ社長に呼ばれても会議があると断る②主催した会議の議事録はその日のうちに仕上げる。V社にはない厳しい社風だったという。V社を見限ったSさんだが、定年後、Ⅴ社OB会の会長に祭り上げられたのだから縁とは不思議なもの。SさんはミスターVなのである。
 Tさんも国立大学工学部出身。年間売上3兆円とう優良企業OB。入社同期の交遊録を出版。母校(高校)OB会の支部長に就任。支部活動のモットーは「一人ボッチを出さない」。同校出身落語家の支援もやっている。「15日の”新婚さんいらっしゃい”に立川志のぽんが出演します」と結んだ。
82才の小生といえば広報活動一筋。現在、理不尽な広報活動している会社があり、場合によっては「意見広告を出す」と息巻くと、Tさん「恐ろしい」と笑う。
ホテルマロウド筑波の13階の展望レストランは素晴らしい。(写真・上)ランチも前菜(写真・左)にスパゲッティ、食後のコーヒー飲み放題で¥1,800だった。ところで、土浦駅から徒歩15分のホテルなのにどうして”筑波”と付いているのだろう。




2024年9月5日木曜日

うまくできた障子貼り。ツゲはトラ刈り。

 
7月から8月にかけて、屋根、外壁の塗り替え、テレビドアホンの交換、クーラーの増設と、工事が重なった。この際、和室の障子の張替えもやろうと思って、見積もりをとったら高かったね。幅広クーロン紙 @12,000×2枚=24,000+現場配送費一式10,000、合計¥34,000
いくらなんでも高いと思い、自分でやることにした。障子紙+ノリ代=¥3,000でできあ上がった。
自分でやるのは結構楽しい。思いの他うまくいったのは古い障子紙の剥がし。水で濡らしたところ、ロール状に綺麗に剝れました。障子の桟が十分に乾いてからノリ付け。昔は刷毛で桟にノリを付けていたが、今はチューブにガイドの付いた専用のノリがあり、桟にガイドを合わせてチューブを絞るだけなの簡単。出来上がりはプロがやったような仕上がりになった。
わが家は隣家との間にツゲの目隠しがある。新芽が50センチほど伸びてきたので、剪定をした。剪定に当たって一番注意したのは、梯子からの転落。ツゲの高さは3mあるので、梯子に登って移動させながらの作業になる。出来上がりはプロ並みとはいかない。ご覧の通りのトラがり。
気がついたら、風呂桶のフタのフチが黒づんでいる。床や壁は都度掃除をするが、風呂桶のフタには気づかなかった。カビキラーを吹き付けて水洗い。これを3回ほど繰り返したら、綺麗になった。それが済んだら、綺麗だと思っていた壁や床の一画もカビで黒ずんでいるのに気がつく。

庭の草はとってもとっても生えてくるし、日々やることに事か欠かない。


2024年8月29日木曜日

なに、牛久でオペラ「アイーダ」をやる?

8月は迷走を続ける台風10号で幕を閉じようとしている。
8月は株の大暴落ではじまった。株の利益を遊交費に充てている老人にはショック。まあ、生活が引き締まっていいか。と思っていた9日、音楽仲間の集い、龍ヶ崎ゲヴァントハウスのホーム頁を見たら「牛久のアイーダ」という案内に出会った。
 なに、わが町・牛久でヴェルディのオペラ「アイーダ」をやる?人口8万の町でオペラをやるの、信じられん。入場料は6千円だという。主催者は何を考えているのだろう?お客さん何人入るかな?良くて500名、300名くらは入るかな。6千円の臨時出費は大きいが、11日(日)2時、会場の牛久市の文化ホールにかけつけた。驚きました。駐車場が満杯。会場に入ると900席(1階)が埋まっている。和服を着たご婦人もおりオペラ気分が充満。
幕が上がると、字幕付きのセミステージ。歌手は日本の一流歌手ということで、朗々と美声が響わたる。有名な凱旋行進曲ではトランペットが咆哮し、40名の合唱団が唱和する。法悦の一時である。
このオペラ、主催は「一番星」、後援がつくば市、土浦市、牛久市の三市である。牛久のオペラといっても実質は茨城県南のオペラファンが支えており、固定客もいるようだ。
オペラといえばなんといってもカーテンコール。ソリスト、合唱団、アンサンブル、指揮者、演出者が何度も呼び出される。東京のコンサートホールにいるような気分を味わった。(写真・右)
ネットには「牛久のアイーダ、片道2時間40分かけて行って良かった!現在日本で望みうる最高のキャストだった。大感動~」という書き込みがあった。この公演を知らせてくれたゲヴァントハウスの加来さん、ありがとう。

2024年8月22日木曜日

パリから東京へ。「2025世界陸上」北口榛花、連続金メダルへ!

8月16日から「2025年世界陸上・東京大会」チケットの先行販売がはじまった。
同大会は来年9月13日~21日にわたって東京・国立競技場で開催される。
チケットの値段が午前のセッションが¥2,500~¥15,000、午後(土日祝)のセッションが¥5,000~¥50,000と聞いて、そんな高額なチケット売れるのかなと思った。昨日、ネットで調べてみたところ、20日、21日、¥50,000のチケット完売とある。あわてて、20日の¥20,000のチケットを購入した。運が良かったといわざるを得ない。今日、ネットで見たところ、21日は全席完売。20日もほぼ完売となっている。
世界陸上は私が勤務していたTDKが第1回ヘルシンキ大会(1983)の時からスポンサーとなっている。第2回ローマ大会(1987)の時は私が担当としてローマに出張した。大会ではテレビ番組ゲストコメンテータの長嶋茂雄さんにもお目にかかった。(写真・右)長嶋さんにとっても来年の東京大会は意義深いものだと思う。20日は男子4×100mの予選が行われる。日本チームは決勝まで進めるか?女子やり投げに北口榛花が登場。パリオリンピックに続いて金メダル有望である。国立競技場に日の丸が揚がり「君が代」が流れる。歴史的瞬間である。

2024年8月17日土曜日

90年前の欧米旅行。東大出身エリート官僚の旅


 知人の小金郁三(いくみ)さんが「アメリカへの旅、ヨーロッパの旅」(百年書房)という本を出版した。小金さんが父の書棚に、父の叔父である小金義照が書いた「アメリカへの旅」「ヨーロッパの旅」があるのを発見。これを復刻したのである。義照は明治31年(1898)神奈川県足柄上郡開成町に生まれた。1922年、東京帝国大学法学部卒業。農商務省に入省。後政治家となり郵政大臣となる。
著書は官命を受けて1934年(昭和9)、船で米国に渡り主要都市を視察。続いてヨーロッパ主要都市を視察した模様を描写したものである。1934年というと3年前には満州事変、前年には国際連盟脱退。第二次世界大戦に向けての時代である。ドイツではヒットラー率いるナチスが権勢を奮っていた。つまり、日本国ここにありに燃えていた時代であり、その国の官僚としての豊穣の旅である。各国の政治・経済事情だけでなく生活、食文化まで描写されている。
「欧州でも、イギリス婦人は重厚味を感じさせる。ドイツには美人が少ないように思えた。特に、ビールを飲んだ女は腰が太すぎて美しいよりも逞しさが感ぜられる。パリジェンヌは概して腰が細い。パリは、やはり、世界第一、女の美しい都であろう」
義照の写真を見るとハンサムである。海外でももてたのではないだろうか。各都市には東大出身の官僚や商社マンが常駐し、義照をシッカリとフォローしている様子が描かれている。
義照はTDKを創立した齋藤憲三の後任として、衆議院科学技術振興対策特別委員長となるが、憲三は早稲田、その人脈は東大卒の義照に遠く及ばないと感じた。

2024年8月12日月曜日

千曲川支部納涼会③TDKカセットの哲学「MA-R」

 
納涼会で私との再会を心待ちにしていたという技術者の一人が石田俊彦さんだった。「畠山さん。見て下さい」石田さんは古ぼけた青焼きのカセットハーフの図面をとりだした。昭和46年(1971)に作成されたカセットハーフと、石田さんが書き起こしたMA-R(1985発売) のハーフ(開発名HX)のアイディア図面(下)だった。

石田さんは理工学部出身。卒業論文は「船舶用ディーゼルエンジンの動弁機構シュミレーションの確立」。TDKに入社して与えられたテーマは「カセットテープ高精度化のための設計を行うこと」だった。

石田さんはカセットテープからオープンテープ並みの音質を引き出すためには、テープ走行の安定性が大事、そのためにはハーフ本体を金属にするという大胆な発想をする。金属フレームはカメラボデーに使われている亜鉛ダイキャストを採用、テープ走行を可視化するために半導体プロセスに使用されているシリコン塗布技術を使用した透明シートを開発。TDKカセットのみならず、世界のカセットテープのシンボル商品ともいえる「MA-R」の開発を成し遂げる。石田さんは「当時は各自それぞれの分野でベストを尽くし、お互いに共振して大きなな成果を上げましたね」。と結ぶ。

 音楽や音響学の専門家でもない私が商品企画という立場で10年間、仕事ができたのも石田さんはじめ千曲川工場の皆さんの支えがあったからだということを身に沁みて感じた。私は定年後もTDKカセットテープの広報(ボランティア)をやらさせていただいているが、これも千曲川の皆さんのお陰である。


2024年8月11日日曜日

千曲川支部納涼会②「世界のカセットTDK」の生産基地

 納涼会が開催される佐久グランドホテルの最寄駅である小海線の中込駅についたのは5:35分。開会の6時まで間がない。駅舎を出ると「やあ、畠山さん」と声をかけられた。畔上さんだった。35年ぶりなのにちっとも変っていない。畔上さんの先導で、6時10分前にホテルに無事到着した。畔上さんはSA,MAというヒット商品を開発した技術者だある。
千曲川工場ができたのは1969年、月産生産能力200万巻だった。(写真・右)この工場にはカセットテープづくりの職人が集結していた。当時の技術者の多くがこの地に住み着き、定年後の今でも年に数度集まり旧交を温めているのである。今回の納涼会の参加者は56名というから凄い。(写真・上)
カセットテープの生産工場は千曲川の後、米国カルフォルニア、ドイツ、ルクセンブルクに建設された。千曲川工場は基幹工場だった。
TDKのカセットテープは最盛期には年間売上700臆円を超えた。TDK全社の25%、利益では50%に達した。TDKカセットテープの世界シェアは30%~40%とトップ。「世界のカセットTDK」といわれた。TDKは世界陸上のゼッケンスポンサーを続けているが、この地位を獲得できたのもカセットテープがあったからである。
私は1975年~1987年カセットテープの商品企画を担当。千曲川工場ができてからは毎月工場に出張し、千曲川工場の技術の方々と商品化の検討を進めた。私は「聴感評価」を重要視した。技術の方々も私と同じ考え方だった。カセットテープも料理と同じ。”味”である。どんな音のテープを作るか。「世界最高の音」を求めてわれわれは切磋琢磨した。


2024年8月8日木曜日

千曲川支部納涼会①行きは鈍行。碓氷峠越えは国鉄バスで

 
6日(火)、TDK社友会千曲川支部納涼会に参加。納涼会の開催は午後6時~である。牛久駅を10時出発。上野発11:05分発の高崎線に乗り熊谷に向かう。(高崎線と宇都宮線が同じ5番線なので間違えないよう注意する)鴻巣を過ぎると、車内はガラ空き。ちょうど昼時なので、上野駅で買っておいた缶ビールを明け、弁当を食べる。車窓を眺めながらノンビリと。
熊谷で高崎行きの電車に乗り換える。高崎に着くと駅周辺にビルが建ちならび大都会である。あ、そうか、高崎は群馬県の県庁所在地か。(後で調べたら県庁所在地は前橋だった)高崎で信越線に乗り換え横川に向かう。安中あたりから左手に化学工場が立ち並ぶ。そして、いよいよ妙義山の山影が見える。(写真)横川である。
50年前、長野県佐久市にカセットテープの一貫生産工場千曲川工場が完成。毎月、佐久に出張した。出張の帰りは必ずお土産に横川の釜めしを買った。思い出深い場所である。
1998年の長野オリンピックに合わせて、1997年に長野新幹線が開通すると、信越本線は横川、小諸間が閉鎖になってしまう。横川から軽井沢までの碓氷峠超えは電車の保守管理も大変だということでバスになってしまった。横川駅を降りると、国鉄バスに乗り換え、碓氷峠を超える。約30分で軽井沢駅に到着。軽井沢駅はさすが立派。避暑をする上流階級の方々で賑わっていた。軽井沢は新幹線(今は北陸新幹線という)の停車駅である。
 ここで「しなの鉄道」に乗り換え、小諸駅に向かう。小諸駅に到着したのは軽井沢で道草したこともあり、3時30分だった。時間はかかったが、それだけの価値のある鈍行ならではの贅沢な旅だった。

2024年8月5日月曜日

TDK利益4倍、そう甘くはない、史上最大の株暴落

 

7月31日(水)の日本経済新聞を見て驚いた。「TDK純利益4倍」の見出しである。TDKが30日発表した2004年4月~6月期の純利益が前年同期比4倍の590億円だったという。スマホ向けの電池が伸びたという。生成AI(人工頭脳)を搭載したスマホが販売されたのに加え、買替需要が追い風になったという。そういえば、25日お目にかかった同社広報責任者の現況を語る口調がなめらかだった。それにしても4倍というのは凄い。TDKと同じ電子部品の優良企業である村田製作所の増益率は32%なのである。

このおめでたい記事に水を差したのが、8月5日(月)の史上最大の株暴落である。5日の東京株式市場は終値が前週末比4,451円安の31,458円だったという。下落幅は1987年のブラックマンデーの下落3,836円を大きく超えた。8月1日から3営業日連続して値下がりし、7,600も値下がりしたという。値下がりの原因は米国の景気後退懸念だというが、日本もアメリカも民主国家であり、情報公開が進んでいるはず、何でこんな事態が発生するのか、不思議である。
少額投資非課税制度(NISA)で株式投資をはじめた人など、不安を抱えていると思う。300万投資したが、今回の大暴落で90万の含み損を抱えたという主婦の声も報道されている。政府は緊急対応をし、早急に混乱を鎮めるべきである。
 7月31日、10,500円だったTDKの株価も今日5日の終値は7,831円である。利益4倍の報道を見て、TDKの株を買った方はあわてているに違いない。

パリオリンピックが終ると、日本の総裁選、アメリカの大統領選挙と続くが、その前に株式市場の混乱を食い止め、正常化して欲しい。




2024年7月28日日曜日

TDK本社訪問。昔と今では大違い。

 25日(木)、日本橋にあるTDK本社に行った。
この日の朝7時のNHKニュースを見て驚いた。
私が生まれた秋田が大洪水に見舞われている。なんと、私の実家の近くを流れる石沢川が氾濫。実家のある鮎瀬部落に濁流が押し寄せているという。鮎瀬部落から日本海側にカメラがパーンしたら、TDKのハイテク本荘工場が水に浮かんでいるではないか。(写真)
私に同行したYさんが、「昔は、本荘高校を卒業していれば、名前を書くだけでTDKに入社できたそうですね」。地元の農林高校、それも縁故で入社した私は笑うしかなかった。私が入社した64年前のTDKの売上は30億円、今は2兆円。従業員も3千人が10万人にもなった。
高島屋・銀座アスターで昼食をとりながらの打合せとなった。開口一番「本荘工場の水害は大丈夫ですか」と聞いたところ「お陰様で浸水はしてません」ということで一安心。用件は「カセットテープの広報について」。カセットテープというと82才の小生でも役に立つようだ。光栄なことである。
国際企業になったTDK広報は業務内容が多岐にわたり、多忙を極めていることをヒシヒシと感じた。短時間でいかに現役の方に自分の思いを伝えるか?銀座アスターの料理を味わう余裕はなかったので前菜を写真に収めた。
30年前、私が広報にいた頃の人員は4~5人だったが、今は20数名。しかも英会話ができるのは当たり前。朝、毎、読クラスの大新聞社から移籍された方もいるという。ローマ字でやっと名前が書ける程度の私は通用しない。


2024年7月21日日曜日

職人さんありがとう。蘇ったわが家

6月21日から始まった壁と屋根の塗装工事が15日終了した。
最初の2週間は辛かった。足場が組まれ、雨戸は締められてしまった。朝起きても雨戸を開けることができない。青空が見たかった。外の空気を吸いたかった。それがかなわない。牢獄に入れられるというのは、こういうことかと思った。
しかし、私より辛かったのは職人さんだったと思う。6月下旬は真夏のような日が続いた。極暑の中で、足場を頼りに職人さんは塗装作業を続けた。日によっては朝8時~夜7時まで作業は続いた。日射病で倒れるのではないかと心配だった。
14日、足場が解体され家の全景が現れた。新築のようである。
営業の方に「職人さんには本当に良くやっていただいた」とお礼をした。「彼は中学を卒業すると、塗装職人だった父親の後を継いでやっているんですよ。塗料も目分量ではなく計測してやっています。軒下が腐っていて上手く塗装ができなというので大工も入れました」
職人は日本の宝だと改めて感じた。

7日は、義弟の45日の葬儀があった。5月26日、名古屋から帰ると、家内から「弟が亡くなった」と知らされた。75才だった。家内は5人兄弟。義弟は一番年下だった。義父も義母も「なんだ順番が違うじゃないか」とあの世で驚いているだろう。義弟は茨城県ひたちなか市に居を構えていた。7日は親戚の方々が集まり思い出を語った。義弟は近所の方々、特にご婦人に人気があったという。奥様は元・教師。義弟は誰にでも優しい人だった。



2024年7月14日日曜日

懐かしのカセットテープ博物館/1,500種貯蔵

「懐かしのカセットテープ博物館」というのをご存知だろうか。
これはカセットテープのコレクターである加藤邦裕さんが個人で運営しているネット上の博物館である。入場無料。ネットなので毎日24時間入場できる。
博物館の目的にはこう書いてある。
”展示品をご覧いただいて、とにかく「懐かしい!」と感じていただけばうれしいです。1970年代のカセットを初めてみる方には「新鮮!」と感じるかもしれません。それをきっかけにして、昔に録音したカセットをあらためて聴き直したりして、懐かしい思い出を広げていただければ、さらに嬉しいですね”
展示館はSONY,TDK,日立Maxell,住友スリーエム,日本コロムビア,富士フィルム,BASF等メーカー別になっている。バックヤードの貯蔵庫には1,500種類のカセットテープがあり、(写真・左)見ているだけでも楽しい。この他、エルカセット展示館、8トラック
展示館、カセットデッキ展示館があり、興味が尽きない。
学芸部(加藤館長兼務)にはカセットデッキや測定器が設置されており、展示品の測定なども行っている。(写真・右)
この博物館はカセットテープの情報誌、音楽・オーディオ誌によるカセットテープ特集記事の発信基地にもなっており、「カセットテープ人気」を支えている。


2024年7月10日水曜日

難病ジストニアを克服した、三石未央さんがテレビ出演


 三石朋子さんからメールをいただいた。

”幻冬舎を通じて読売テレビから取材依頼があり、未央が取材を受けました。放送は7月20日(土)日本テレビ(読売テレビ)8時~9時25分、ウェークアップという番組です。この番組の中の「難治性疾患」という15分くらいの特集番組に出演します。番組ディレクターは図書館で「奇跡の一歩」を見つけ、未央の体験記に衝撃を受けたといっておりました”

このメールは私にも衝撃だった。「奇跡の一歩」は私が監修した本である。サブタイトルは”全身ジストニアに翻弄された私の青春””笑顔が未来を切り開く”。序章 臼蓋(きゅうがい)回転骨切り手術、第一部 生い立ち、第2部 全身ジストニア、 第3部 未央の日記 と続く。この闘病日記が痛々しい。

私は街の本屋さんであれば、数十万円でできるが、一流出版社に委託すれば、書店にも並ぶし、アマゾンでも扱ってくれる。といって幻冬舎を進めた。発売直後アマゾンの「書簡・日記部門の売れ筋ランキング」で2位に入ったが、高い買い物をさせたのではないかと、お母さんの朋子さんには申し訳けないという気持ちがあった。テレビ番組出演とのメールをいただいて、やはり、幻冬舎に頼んだのは間違いなかったと胸をなでおろしたのである。

真央さんは、2021年、カリフォルニア州立大学を卒業。医療環境にある子供や家族に、心理社会的支援をする専門職”チャイルド・ライフ・スペシャリスト”としてご活躍のはずである。その晴れやかな顔を見るのが楽しみである。

2024年7月1日月曜日

年間VIP500名、自宅にご招待!盛田家のおもてなし

盛田昭夫塾を運営している天涯文化財団から、昭夫氏の奥様、良子(よしこ)さんが書いた「おもてなしの心とおもてなしをうける心」という本が出版されているということを知った。新入りの盛田昭夫塾生としては読んでみたい。早速「アマゾン」を検索したがヒットしない。ということで天涯文化財団に直接申し込んだ。驚いたことに同財団代表理事の岡田直子さん(昭夫氏のお嬢さん)のお名前で本が届いた。読んでみて驚きました。
盛田家は年400人~500人のVIPをご自宅にご招待していたという。週に2~3回、ご自宅でパーティをやっていたという。それを仕切っていたのが奥様の良子さんだった。仕切るといっても自ら招待状を作り、招待客の料理の好みを調べ、自分で厨房に立ったというから驚く。VIPは元首相、元大使、現大使、大企業の社長、会長、文化人と多彩。ドイツの名バリトン歌手フィッシャー・デスカウやアンディ・ウィリアムス、レナード・バーンスタインを招待した時のエピソードなども語られており、興味深い。
パーティの開催に当たっては料理は勿論だが、席順も大切だという。5月26日、盛田塾を尋ねた時、食卓セットが展示されていたが、この本を読んで、はじめて展示の意図を知ったのだった。
私のような庶民は上流社会の社交界というのを知る機会はないが、この本によって、それを知ることができる。それも、その舞台裏を。
それにしても盛田家の民間外交は凄い。日本にも立派な経営者は数多くいると思うが、盛田家のレベルの方は少ないのではないだろうか。この本は政治家や官僚、企業のトップの方々にも是非読んでいただきたい本である。(写真は本に掲載されている盛田ご夫妻)
●「両親も喜んでいると思います」というもったいない言葉に続いて「この本で伝えたいことは、裕福な家庭だけに通用する話ではなく、誰にでも役に立つ”おもてなしの心”だと思います。というコメントを直子さんからいただきました。