2017年4月4日火曜日

稲作時代からの日本を語る、名匠・小津安二郎

映画ファンである野原さん、「音楽と同じように映画の世界も奥が深い。この本を読んで下さい」。渡されたのが前田英樹が書いた「小津安二郎の喜び」(講談社)である。

 前田は語る”小津が日本間のシーンで用いる水平のローポジションは、畳の上に座る人物の視線と重ならない。キャメラの位置は、必ずそれよりも低い。人物が立っている時も、椅子に腰かけている時も、必ずその人物の視線の下にキャメラは沈む。・・・なぜ、その位置は、人間の上ではなく<下>なのか。・・・<下>で水平に構えられたキャメラは潜在的なもの、それ自体に在るもの、一切を生み出しながら持続しようとする<永遠の現在>を視ようとする。言い換えれば、それは神を視る視線である。・・・それは稲作民の神であり、「畳の上で暮らしている日本人」の神だと言ってよい。”
 前田が「あとがき」で言っているように、この本に書かれていることは誠にわかりにくい。ただ、小津が監督した映画の印象と合わせて考えると合点がいく。「東京物語」「早春」「小早川家の秋」等に共通しているのは、日本の家屋、和服、日本人の振る舞い、風習の穏やかさであり、美しさである。小津は日本の美しさを永遠に語り継ごうとし、前田はその為に用いた撮影技法などを説こうとしてしているのではないか。
 前田は語る”そもそも、都会のビルで働くサラリーマンとは、何者であるのだろう。彼等の仕事は、近代の工業化された産業を前提に成り立ち、貨幣という記号による抽象的な、奇怪極まる投機市場の流れのなかで、その日その日を綱渡りしながら暮らしてる。・・・小津安二郎が映画のなかで描き続けたサラリーマン生活は、だいたいのところ、こういったものである。”小津が映画を作っていた1930年~50年代、日本はまだ農業、漁業等の第1次産業が隆盛で、稲作時代の伝統が息づいていた。小津の目から見たサラリーマンは異端だった。映画は時代を映し出すものでもある。
 「小津安二郎の喜び」を読んで、小津作品を見直し、日本人とはなにかを問い直したいと感じた。

0 件のコメント:

コメントを投稿