(雨天の中、行われた”重忠まつり”。正面はお墓)
8日、夜、携帯のベルが鳴る。「熊谷の曽根です。明日(9日)”重忠まつり”があります。今日の明日で失礼とは思いましたが、お知らせいたします。」「明日ですか・・・おうかがいします。」
畠山重忠は平安時代末期から鎌倉初期時代の武将。源頼朝に臣従し、治承・寿永の乱では先陣をきる。重忠は埼玉県深谷市の生まれ。地元では「坂東武士の鑑」と崇拝されている。その深谷市が「重忠まつり」と銘打って、その面影を偲ぶという。重忠を初代とし、畠山家32代・洋三の弟である私は先祖に導かれるように曽根悦夫さんのお話しにのった。
曽根さんにお目にかかったのは2015年7月。TDK時代「世界のカセット」を目指して世界のライバルメーカーと戦った戦友、内野森一さんの誘いだった。内野さんも熊谷在住。この時は埼玉大学・清水先生の「畠山重能・重忠と源平の内乱」という講演会だった。この時、曽根さんを紹介された。
曽根さんの運転する車で熊谷から深谷に向かう。会場である「畠山重忠公史跡公園」に着くと、満開の桜、祭りの幟が目に入る。雨にもかかわらず、多くの市民が詰めかけていた。重忠に対する市民の心情に胸が熱くなった。祭りの実行委員会、高橋会長に「重忠の子孫です。茨城から来ました」と挨拶。31代・畠山一男の本「感謝」を手渡す。
曽根さんは、その後、嵐山にある重忠の居城「菅谷館跡」を案内して下さった。曽根さん元関東財務局勤務のお役人、今は悠々自適の日々を送られてる。内野さんのお陰で素晴らしい方と知り合うことができ、お世話になった。
1205年(元久2年)重忠は長男・重保ともども北條一族に討ち取られる。しかし、畠山家32代・洋三は東京農業大学で北條家の流れを汲む北條文次郎氏と会い「村の会」に集い、農業の将来を語り合う。次男俊三の息子暁は文次郎の弟保夫氏の長女訓子と結婚する。縁とは不思議である。ご縁は大切にしなければならない。
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