2024年8月29日木曜日
なに、牛久でオペラ「アイーダ」をやる?
2024年8月22日木曜日
パリから東京へ。「2025世界陸上」北口榛花、連続金メダルへ!
チケットの値段が午前のセッションが¥2,500~¥15,000、午後(土日祝)のセッションが¥5,000~¥50,000と聞いて、そんな高額なチケット売れるのかなと思った。昨日、ネットで調べてみたところ、20日、21日、¥50,000のチケット完売とある。あわてて、20日の¥20,000のチケットを購入した。運が良かったといわざるを得ない。今日、ネットで見たところ、21日は全席完売。20日もほぼ完売となっている。
世界陸上は私が勤務していたTDKが第1回ヘルシンキ大会(1983)の時からスポンサーとなっている。第2回ローマ大会(1987)の時は私が担当としてローマに出張した。大会ではテレビ番組ゲストコメンテータの長嶋茂雄さんにもお目にかかった。(写真・右)長嶋さんにとっても来年の東京大会は意義深いものだと思う。20日は男子4×100mの予選が行われる。日本チームは決勝まで進めるか?女子やり投げに北口榛花が登場。パリオリンピックに続いて金メダル有望である。国立競技場に日の丸が揚がり「君が代」が流れる。歴史的瞬間である。
2024年8月17日土曜日
90年前の欧米旅行。東大出身エリート官僚の旅
知人の小金郁三(いくみ)さんが「アメリカへの旅、ヨーロッパの旅」(百年書房)という本を出版した。小金さんが父の書棚に、父の叔父である小金義照が書いた「アメリカへの旅」「ヨーロッパの旅」があるのを発見。これを復刻したのである。義照は明治31年(1898)神奈川県足柄上郡開成町に生まれた。1922年、東京帝国大学法学部卒業。農商務省に入省。後政治家となり郵政大臣となる。
著書は官命を受けて1934年(昭和9)、船で米国に渡り主要都市を視察。続いてヨーロッパ主要都市を視察した模様を描写したものである。1934年というと3年前には満州事変、前年には国際連盟脱退。第二次世界大戦に向けての時代である。ドイツではヒットラー率いるナチスが権勢を奮っていた。つまり、日本国ここにありに燃えていた時代であり、その国の官僚としての豊穣の旅である。各国の政治・経済事情だけでなく生活、食文化まで描写されている。
「欧州でも、イギリス婦人は重厚味を感じさせる。ドイツには美人が少ないように思えた。特に、ビールを飲んだ女は腰が太すぎて美しいよりも逞しさが感ぜられる。パリジェンヌは概して腰が細い。パリは、やはり、世界第一、女の美しい都であろう」
義照の写真を見るとハンサムである。海外でももてたのではないだろうか。各都市には東大出身の官僚や商社マンが常駐し、義照をシッカリとフォローしている様子が描かれている。
義照はTDKを創立した齋藤憲三の後任として、衆議院科学技術振興対策特別委員長となるが、憲三は早稲田、その人脈は東大卒の義照に遠く及ばないと感じた。
2024年8月12日月曜日
千曲川支部納涼会③TDKカセットの哲学「MA-R」
納涼会で私との再会を心待ちにしていたという技術者の一人が石田俊彦さんだった。「畠山さん。見て下さい」石田さんは古ぼけた青焼きのカセットハーフの図面をとりだした。昭和46年(1971)に作成されたカセットハーフと、石田さんが書き起こしたMA-R(1985発売) のハーフ(開発名HX)のアイディア図面(下)だった。
石田さんはカセットテープからオープンテープ並みの音質を引き出すためには、テープ走行の安定性が大事、そのためにはハーフ本体を金属にするという大胆な発想をする。金属フレームはカメラボデーに使われている亜鉛ダイキャストを採用、テープ走行を可視化するために半導体プロセスに使用されているシリコン塗布技術を使用した透明シートを開発。TDKカセットのみならず、世界のカセットテープのシンボル商品ともいえる「MA-R」の開発を成し遂げる。石田さんは「当時は各自それぞれの分野でベストを尽くし、お互いに共振して大きなな成果を上げましたね」。と結ぶ。
音楽や音響学の専門家でもない私が商品企画という立場で10年間、仕事ができたのも石田さんはじめ千曲川工場の皆さんの支えがあったからだということを身に沁みて感じた。私は定年後もTDKカセットテープの広報(ボランティア)をやらさせていただいているが、これも千曲川の皆さんのお陰である。
2024年8月11日日曜日
千曲川支部納涼会②「世界のカセットTDK」の生産基地
千曲川工場ができたのは1969年、月産生産能力200万巻だった。(写真・右)この工場にはカセットテープづくりの職人が集結していた。当時の技術者の多くがこの地に住み着き、定年後の今でも年に数度集まり旧交を温めているのである。今回の納涼会の参加者は56名というから凄い。(写真・上)
カセットテープの生産工場は千曲川の後、米国カルフォルニア、ドイツ、ルクセンブルクに建設された。千曲川工場は基幹工場だった。
TDKのカセットテープは最盛期には年間売上700臆円を超えた。TDK全社の25%、利益では50%に達した。TDKカセットテープの世界シェアは30%~40%とトップ。「世界のカセットTDK」といわれた。TDKは世界陸上のゼッケンスポンサーを続けているが、この地位を獲得できたのもカセットテープがあったからである。
私は1975年~1987年カセットテープの商品企画を担当。千曲川工場ができてからは毎月工場に出張し、千曲川工場の技術の方々と商品化の検討を進めた。私は「聴感評価」を重要視した。技術の方々も私と同じ考え方だった。カセットテープも料理と同じ。”味”である。どんな音のテープを作るか。「世界最高の音」を求めてわれわれは切磋琢磨した。
2024年8月8日木曜日
千曲川支部納涼会①行きは鈍行。碓氷峠越えは国鉄バスで
6日(火)、TDK社友会千曲川支部納涼会に参加。納涼会の開催は午後6時~である。牛久駅を10時出発。上野発11:05分発の高崎線に乗り熊谷に向かう。(高崎線と宇都宮線が同じ5番線なので間違えないよう注意する)鴻巣を過ぎると、車内はガラ空き。ちょうど昼時なので、上野駅で買っておいた缶ビールを明け、弁当を食べる。車窓を眺めながらノンビリと。
熊谷で高崎行きの電車に乗り換える。高崎に着くと駅周辺にビルが建ちならび大都会である。あ、そうか、高崎は群馬県の県庁所在地か。(後で調べたら県庁所在地は前橋だった)高崎で信越線に乗り換え横川に向かう。安中あたりから左手に化学工場が立ち並ぶ。そして、いよいよ妙義山の山影が見える。(写真)横川である。
50年前、長野県佐久市にカセットテープの一貫生産工場千曲川工場が完成。毎月、佐久に出張した。出張の帰りは必ずお土産に横川の釜めしを買った。思い出深い場所である。
1998年の長野オリンピックに合わせて、1997年に長野新幹線が開通すると、信越本線は横川、小諸間が閉鎖になってしまう。横川から軽井沢までの碓氷峠超えは電車の保守管理も大変だということでバスになってしまった。横川駅を降りると、国鉄バスに乗り換え、碓氷峠を超える。約30分で軽井沢駅に到着。軽井沢駅はさすが立派。避暑をする上流階級の方々で賑わっていた。軽井沢は新幹線(今は北陸新幹線という)の停車駅である。
2024年8月5日月曜日
TDK利益4倍、そう甘くはない、史上最大の株暴落
7月31日(水)の日本経済新聞を見て驚いた。「TDK純利益4倍」の見出しである。TDKが30日発表した2004年4月~6月期の純利益が前年同期比4倍の590億円だったという。スマホ向けの電池が伸びたという。生成AI(人工頭脳)を搭載したスマホが販売されたのに加え、買替需要が追い風になったという。そういえば、25日お目にかかった同社広報責任者の現況を語る口調がなめらかだった。それにしても4倍というのは凄い。TDKと同じ電子部品の優良企業である村田製作所の増益率は32%なのである。
このおめでたい記事に水を差したのが、8月5日(月)の史上最大の株暴落である。5日の東京株式市場は終値が前週末比4,451円安の31,458円だったという。下落幅は1987年のブラックマンデーの下落3,836円を大きく超えた。8月1日から3営業日連続して値下がりし、7,600も値下がりしたという。値下がりの原因は米国の景気後退懸念だというが、日本もアメリカも民主国家であり、情報公開が進んでいるはず、何でこんな事態が発生するのか、不思議である。パリオリンピックが終ると、日本の総裁選、アメリカの大統領選挙と続くが、その前に株式市場の混乱を食い止め、正常化して欲しい。