末期ガンにかかったKさんからメールをいただいたのは12月4日だった。そのメールにはこうあった。「今のところ体調は比較的安定しており、明日(5日)CT検査受診に行ってきます。12日にその結果(治療効果)の診察説明を受けに病院再訪の予定」とあった。結果がどうだったのか、現時点でなんの報告もない。10月初旬のメールで「果たして来年の正月を超すことができるかどうか不安がよぎります」とあったので心配である。
12月20日、Kさんと同じ平沢工場・人事課にいたSさんと3年ぶりにお会いした。Kさんのこともあるので急遽面会したのである。
Sさんは昭和38年頃、Kさんとほぼ同時期に本社に転勤になった秋田の先輩。3人とも市川にある独身寮住まいだった。独身寮は3畳一間でトイレは共同だった。われわれ3人に鹿児島出身のMさん、静岡出身のRさんの5人は仲が良かった。Sさんは、この5人組に「教養クラブ」という愛称をつけた。教養クラブの話題はもっぱら上司と女子社員の情報交換だったような気がする。(後から長野出身のYさんが加入した)
Sさんに聞くとKさんの入社時の仕事は給与計算だったという。算盤と手回しの計算機を使っての給与計算していたという。当時、TDKは職務給の導入を検討していた。年齢や学歴、性別ではなく、職務によって給料を決めようという考えである。その前提として職務評価をやることになり、職務評価委員会が発足。Kさんは、委員会の事務局員に抜擢され、本社に転勤になったのだという。職務評価委員会の指導に当たったのは横浜国立大学の藤田教授だった。几帳面なKさんの仕事ぶりを藤田教授を高く評価していたという。