2022年12月28日水曜日

末期ガンにかかった友人(4)教養クラブ

 


末期ガンにかかったKさんからメールをいただいたのは12月4日だった。そのメールにはこうあった。「今のところ体調は比較的安定しており、明日(5日)CT検査受診に行ってきます。12日にその結果(治療効果)の診察説明を受けに病院再訪の予定」とあった。結果がどうだったのか、現時点でなんの報告もない。10月初旬のメールで「果たして来年の正月を超すことができるかどうか不安がよぎります」とあったので心配である。

12月20日、Kさんと同じ平沢工場・人事課にいたSさんと3年ぶりにお会いした。Kさんのこともあるので急遽面会したのである。

Sさんは昭和38年頃、Kさんとほぼ同時期に本社に転勤になった秋田の先輩。3人とも市川にある独身寮住まいだった。独身寮は3畳一間でトイレは共同だった。われわれ3人に鹿児島出身のMさん、静岡出身のRさんの5人は仲が良かった。Sさんは、この5人組に「教養クラブ」という愛称をつけた。教養クラブの話題はもっぱら上司と女子社員の情報交換だったような気がする。(後から長野出身のYさんが加入した)

Sさんに聞くとKさんの入社時の仕事は給与計算だったという。算盤と手回しの計算機を使っての給与計算していたという。当時、TDKは職務給の導入を検討していた。年齢や学歴、性別ではなく、職務によって給料を決めようという考えである。その前提として職務評価をやることになり、職務評価委員会が発足。Kさんは、委員会の事務局員に抜擢され、本社に転勤になったのだという。職務評価委員会の指導に当たったのは横浜国立大学の藤田教授だった。几帳面なKさんの仕事ぶりを藤田教授を高く評価していたという。



2022年12月21日水曜日

2万ヘルツの世界を語る

 8月、20年ぶりに乙黒さんと中山さんと、一緒にお会いした。
お2人とは50年くらい前からのお付き合いである。20年前、私が定年の時にお会いしてからご無沙汰していた。

乙黒さんは80才も半ばだが、外山雄三指揮大阪交響楽団の録音を担当している。現役なのである。中山さんは今年、「バイロイトのフルトヴェングラー」という本を出版された。
そんなこともあって、近況を語り合うことになったのである。
「3人の会」は盛り上がり、定期的にやろうということになり、その第1回が10月開催されることになった。ステレオ時代の澤村編集長に「こんど”3人の会”をやるよ」と話たところ、「やあ、畠山さんは顔が広いですね。参加していいですか」ということになった。
ステレオ時代には昨年末、秋田にある「TDK歴史みらい館」でTDKカセットテープのマーケティング戦略を取材していただき、2月発売になった20号に「TDKはこうして世界一になった」という記事に仕上げていただいた。
 続けて、誌面にでるのはどうかとも思ったが、これは私が決めることではなく、澤村さんが決めることである。
 会は10月21日、なんと、日本橋にあるTDK本社で行われた。なんと、というのはTDK本社は高島屋三井ビルの26階にある。オフィスビルとして超一級なのである。広報・大須賀さんのご厚意だった。
 

澤村さんから「3人の会」の名前はないんですか?と聞かれ、一晩考えて「2万ヘルツの会」にしようと思った。乙黒さん、中山さんのご了解をいただく。
2万ヘルツは人間の可聴領域の限界点である。つまり、オーディオと音楽の限界に挑んできた乙黒さんと中山さんの話に相応しいと思った。
 22号が発売された。出来上がった記事を見ると、乙黒さんと、中山さんの秘話が4頁にコンパクトに編集されており、さすが澤村さんだと思った。
 この記事を一人でも多くのオーディオ・音楽ファンに読んでいただけば幸いである。
 澤村さんから次回の「2万ヘルツの会」はいつやるんですか?と声がかかれば成功ということだろう。どうなりますか……。


2022年12月13日火曜日

ソニー、盛田会長との200年の誓い


  やあ、驚きました。                                 
アマゾンを検索し、「ソニー、盛田会長との200年の誓い」と入力すると、出ました、驚きました。サブタイトルは「1代で関東一といわれる神社を創った私の人生」とある。著者は高橋正宣、監修は畠山俊三。
今年の年初めに、小生が監修した「奇跡の一歩」ー全身ジストニアに翻弄された”私の青春”(幻冬舎)が出版されたが、それに続く監修・第2弾である。
今回の本は当初大手総合出版社が出版について名乗りをあげていた。監修も同出版社が推薦するプロの方が担当する予定だった。
著者である高橋正宣氏は笠間市にある常陸国出雲大社の宮司である。高橋氏の人生は多難を極め、今日に至るまで出雲の神社本庁との確執があり、ソニーとも盛田会長死去後、裁判を起こす事態が発生している。当初出版に手を挙げていた出版社もこの実情を知って尻込み、辞退してしまった。ということで、監修の仕事が小生に廻ってきたのである。出版に当たっては幸い「宗教問題」の小川代表が高橋宮司に共感。出版の陽の目を見たのである。
3月、私は発行責任者の権宮司・高橋正重氏より、宮司の書いた原稿、20年史、膨大な裁判資料を渡された、3月から5月の連休明けまでの2ヶ月、時には早朝4時起きをしてまとめあげた。
作業をしながら、高橋宮司イジメともとれるような神社本庁、盛田会長死去後のソニーの姿勢には疑問を感じた。また「法のもとの平等」を謳う司法にも大いなる疑問を感じた。
そのような逆境の中で、高橋氏は巨大な権力に敢然と対峙している。その高橋氏の先見性と情熱を一瞬にして見抜いたのが盛田昭夫氏だったのである。
 小生は神社界、司法界については全くの素人である。その私に監修を任せて下さった宮司、権宮司、および常陸国のスタッフの方々、宗教問題代表・小川寛大氏に深く感謝したい。

2022年12月12日月曜日

末期ガンにかかった友人(3)三笠宮妃殿下来工


 Kさん、昭和36年(1961)10月、三笠宮妃殿下が平沢工場に来工されたのは覚えておりますか。
この年、秋田国体が開催され、平沢はサッカー会場になり、三笠宮妃殿下がお見えになった。写真には斎藤仁賀保町長、松野県会議員、山﨑社長、小松工場長が写っている。入社2年目の小生も写っているのである。(右端)初めて背広というものを着たように記憶している。当時、東北大学の西沢潤一教授、衆議院議員の清瀬一郎、南極探検の西堀栄三郎、歌舞伎の市川左團次、野球解説の小西得郎も来工した。
 日本はテレビブームに沸きかえっており、その主要部品を作っていたTDKは注目を浴びていた。

 同年、本社から各事業所別に社内報(TDKタイムズ)の編集員を任命するよう指示があり8名の編集委員が任命された。私(後列・左端)を除いて、全て管理職の方々だった。学歴をみると、東大、一ツ橋、慶応、秋田大学と、仰ぎ見るような方々ばかりだった。私は高校時代、文芸部に所属していたのが幸いしたようだ。私のプロフィールを見ると、「入社2年目、若いに似ず、あらゆる点において・・・」とある。これが縁で、私は翌年、本社に転勤となり、本社で社内報の専属編集担当になった。
 Kさんとは秋田時代、ほとんど接触がなかったが、昭和38年、Kさんは職務分析委員として本社に転勤。東京で2人は急接近するのだった。
     




2022年12月9日金曜日

豊穣な招待旅行(山中湖、会員制ホテル)

6日、私と妻は義弟の運転する車で山中湖に向かった。牛久から山中湖までは約3時間かかる。妻と一緒に旅行をするのは1年ぶり。義弟の招待旅行である。山中湖のホテルは会員制のホテルである。義弟はたいしたものだ。ホテルに着くと。欧米でみかける大型のベンツが玄関に横づけになっている。ゲスト送迎用だという。

夕刻には山北に住んでいる弟も到着。夕食は6時からであるが、妹が「兄さん食前酒はどうですか」と気づかう。さすが、酒飲みの畠山家で育っただけのことはある。妹は2次会の酒まで準備していてくれた。義弟は酒はやらないが最後まで付き合ってくれた。懐が深い。
7日は晴天。部屋のベランダから秀麗富士山がクッキリと見える。ジクザク状の登山道も手に取るようである。双眼鏡があれば登山者の姿も見えるのは間違いない。義弟は何度もこのホテルから富士山を見たが、今日のように鮮やかな富士山ははじめてだという。
 裾野に見える茶色い部分は自衛隊の練習場だという。練習の時は60キロ離れた山北にも砲弾の音が聴こえると弟は言う。

帰りは山北の弟の家に寄る。秋田の実家の秋田杉をふんだんに使用した「鮎瀬亭」である。居間にはイギリスのスピーカーの名器タンノイが鎮座し、グランドピアノが目の前にあるように豊に響く。弟が総代を務める種徳寺を訪れた後、蜜柑狩り。蜜柑狩りはわれわれ夫婦も義弟夫婦も初体験。楽しかった。
義弟も弟も豊な老後を送っている。その豊穣に触れた心温まる旅行だった。                                  
                                 
                                  


2022年12月5日月曜日

末期ガンにかかった友人(2)職場は秋田美人


 K君から昨日メールをいただいた。「入社の頃を思い出す記事もあり、感慨深いものがありました」「小生は昭和35年~37年まで快明寮(男子独身寮)に入寮しました。半年ほど矢島の実家から汽車通勤したこともあります」とある。私のブログが役に立ったようである。ということで、入社の頃を引続き振り返ってみた。                     

私は総務課庶務係に配属された。総務課は工場の窓口である。受付、守衛、電話交換、テレタイプ、清掃、車両管理、秘書等を担当する社員のグループである。女性が圧倒的に多い職場だった。私は車両管理、会議室の管理、掃除のおばさんの手配等から仕事をはじめ、工場見学の案内と守備範囲を広めていった。近隣の小・中学生が頻繁に工場見学に訪れたのである。  当時の朝礼の写真が残っていた。(写真・上)朝礼で係長が服装点検をしている場面である。当時はまり感じなかったが、美人ぞろいである。大卒の新入社員が工場実習にきた時、「秋田は美人が多い」というのもうなずける。                            工場の裏は日本海だった。休日は、釣り船を持っている社員が誘ってくれた。(写真・下。右から2番目が小生) 

                               
      





2022年12月3日土曜日

末期ガンにかかった友人(1)高卒、同期入社


 10月初旬、同期入社のKさんからメールをいただき驚いた。
「小生、胃がんにかかってしまいました。一部リンパ節にも転移がある末期ガンです。(ステージ4)人生80年にして始めて患った大病に驚いております。来年の正月が超えられるかどうか、不安がよぎります。不謹慎ながら小生にもし万一のことがあった場合、あなたにそれなりの”メッセージ”をお願いすることを含み置き下さい。息子に伝えておきます」
Kさんに対して、私にできることはないか?試行錯誤した結果、昔の思い出をブログに書いてみようと思った。幸い、Kさんはメールができる。元気であれば読んでいただける。
私とKさんは同期入社である。昭和35年(1960)2人はTDK・平沢工場(秋田)に入社した。秋田には平沢工場と琴浦工場があった。平沢工場ではテレビの偏向ヨーク等に使用されるフェライト(磁性材料)、琴浦工場ではコンデンサを作っていた。
 社内報・秋田版によると、昭和35年、平沢工場に94名(写真)、琴浦工場に238名が入社している。いずれも中・高卒である。(大卒は東京本社で採用していた)琴浦工場はほとんとが中卒。いわゆる女工さんだった。
Kさんは地元の普通高校卒業。配属先は人事課。エリートだった。小生といえば、地元の農林高校卒業。営林署や測量士補の試験に落ち(実は受からないのは分かっていたので受験すらしなかった)縁故で入社させてもらった。(祖父は近隣、石沢村の村長。平沢工場長は石沢村出身。父は衆議院議員TDK創立者・斎藤憲三の支持者)総務課庶務係に配属された。
私は実家から平沢工場に通っていた。母は私の弁当を作るために4時起きしていた。その母は105才。施設に入っているが、元気である。
K君は小生の実家より遠い矢島町の出身。当時実家から通っていたのか、それとも平沢町(現在・にかほ市)にある独身寮に入っていたのか?知りたい。