「街道を行く」の面白さは自分が生まれた県の部を読むと良くわかる。え!と驚くような視点が次からつぎへと現れる。″寒風山の下″を読んでみよう。(要約)
狂言ふうにいえば「これは、はるか遠国(おんごく)方の旅の者でござる。寒風山に登らばやと思い立ってござる」ということになるだろう。
標高354,7メートルといった小さな山にすぎないが、平地に立ちはだかって、元気よく空を画(かく)している。木という衣装をまとっておらず、日本海の荒風をうけてふるえている。この山の大いなる長所は、東方をむいたときに感ずる。八郎潟の美田が眼下に見下ろせるのである。
八郎潟は水ばかりの潟(海跡湖)だったのに、うずめられてしまったのである。
秋田市に農林省干拓調査事務所がおかれたのは昭和27年だった。たれもが、飢えの記憶をもっていたし、米はタカラものだという伝統の信仰をもっていた。(しかし)昭和40年代になると政府も米をもてあますようになった。(でき上った)大潟村という大農場は、米がだぶつき、政府が″食管赤字″になやむ時代になって完成され、その後五次にわたる入植者を迎えつづけたのである。
(大農場は)私ども子供のころの農村風景からみれば外国としか言いようがない。理非曲直を超えて、頼もしく思い、誇らしく思う気持ちを抑えらきれない。「もうこれで日本(米)は、大丈夫だ」という理性を超えた気持ちといっていい。
この感動は、過去のなにかの情景と似ている。たとえば、むかし建造中の戦艦「大和」をみたひとも、私が大潟村で感じたような感動をもったのではないか。「大和」の建造は、たしかに寓行だった。海軍の先覚者には当時からわかっていた。八郎潟の干拓が計画された昭和20年代には、たれもが寓行とは思わなかった。
旅をする時は事前に「街道を行く」を読もう!と決めた。
0 件のコメント:
コメントを投稿