2012年8月31日金曜日

神の領域、ワーグナー「パルシファル」

この年(70歳)になると、プッチーニの「トスカ」「蝶々夫人」「トゥーランドット」など軟弱である。時にはヴェルディの「椿姫」さえも・・・。

 その点、ワーグナーの楽劇は今だに汲めども尽きない。もっとも、どの作品も長すぎて相対する機会も少ないのだが・・・。
 そのワーグナーという作曲家、人間的には自己中心的で、鼻つまみものだったらしい。かのニーチェは自著の中で「彼は人間ではない、病だ」と評している。
 その彼だからこそ、「神々の黄昏」「パルシファル」といった神の領域を感じさせるオペラ(楽劇)を創ることができたのだろう。

 8月26日、NHK/BSで、8月11日上演されたばかりの「パルシファル」(バイロイト祝祭歌劇場)が放送された。この作品は舞台神聖祭典劇と命名され、ワグナーの死の前年(1882年)上演された。この祭典劇には槍と杯が登場するが、この槍はキリストが磔にされた時、脇腹を刺したもの、杯はその時流れた血を受けたもの、というから恐れいる。

 物語はこの槍(聖槍)と杯(聖杯)を守るべき王が悪の誘惑に負け、槍を奪われた上にその槍で射され、その傷が癒えず、苦しみ抜くというストーリーである。その苦しみは作曲家ワーグナーの苦しみのようである。鼻つまみものだった彼の苦しみ、懺悔の念は尋常なものではなかったはずだ。

 それにしても、第一幕の荘重な前奏曲からして、この楽劇は神の領域のオペラだと感じさせる。人間業を超越している。

 


2012年8月25日土曜日

文章は、その方の全存在の表現


 8月16日、牛久市の板前料理「ふしみ」で、「刈谷いしぶみの会」の暑気払いが行われた。
この会は私が住む刈谷団地の鈴木敏正さんが主宰する自分史の会である。
 私の向いの席は新しく入会された中村たかさんである。炎暑の中、神立からいらして下さった。
帰り、平成6年発行の「ふみつき」を手渡された。中村さんが足立区にお住まいの頃の同人誌である。「驚くわよ」と中村さんは言われた。
 「ふみつき」をみて、中村さんが内閣府に勤められていたこと、芥川賞作家の重兼芳子さんに師事されていたことを知った。確かに驚いた。
 私はあわてて牛久図書館に行き、重兼芳子さんの「さよならを言うまえに」を読んだ。この中に次ぎのような記述があった。
 「このあいだ『初めて文章を書く』(主婦の友社)という本を書きましたが、その中で、文章はハウツーでは教えられないということを何回も書きました。それはなぜかというと、文章というのは、その方の持っている全存在の表現だからなんですね。」

 同じく 「いしぶみの会」のメンバーである下遠野さんから見せていただいた本に渡辺昇一さんが、こんな事を書かれていた。
 「今の民主政治をよく見てください。民主政治と言いながらも、今生きている人たちだけですべて物事を決めてしまいます。-略ーそこには先祖が築いてきた伝統や遺産というものが考慮されておりません。あるいはこれから生まれてくる子どもたちのことが忘れさられております。百年前の祖先のこと、二百年後の子供たちのこと、そこに目を向けることこそが、本当の意味での民主主義だと思うのです。」

 お二人の言葉の重さ、深さを忘れない為にブログに書留ました。

2012年8月20日月曜日

刈谷団地・盆踊り大会、放送担当

(櫓上段で太鼓を叩くのはモナコからきたフィリップさん)

18、19日、私の住む牛久・刈谷団地で「第33回ふるさとづくり盆踊り大会」が行われた。

私がこの団地に引っ越ししてきたのは1980年(昭和55年)、従って、その前年から盆踊り大会は開催されたことになる。当時の世帯数は200ほど。現在は1,600世帯、5千名が生活する大団地になった。

私は平成20年から盆踊りの放送を担当している。
午後5時~午後9時まで、住民、ゲストの要望に応えて盆踊りの曲を流し続ける。当初、曲はカセットとCDだった。しかし、カセットは曲出しが面倒なので、最近は全てCDRに作りかえて使用している。機材はレンタルだが、毎年、プレーヤが違う。CDRの場合、プレーヤによって、再生できない場合がある。そこで、今回は自分のプレーヤを持ち込んだ。

アナウンサーはベテランの酒井さん、五十嵐さん。酒井さんによると、五十嵐さんは元・ミス牛久とのこと・・・ということで、CDRプレーヤが快調だと、放送席は両手に花で特等席である。

18日の特別老人ホーム元気館の「よさこいソーランチーム」による、”マツケンサンバⅡ””よさこいソーラン”の唄と群舞は迫力満点!19日は磯節全国大会で優勝した岸田千恵子先生が自作の「牛久ハッピー音頭」を熱唱。櫓の周りに大きな踊りの輪ができ、先生から放送席にアンコールのサインがでた。
(祭りが始る前「刈谷和太鼓クラブ」の厳しい訓練が行われる)


2012年8月13日月曜日

男!残された人生

 今朝(13日)の朝日新聞、茨城版を見たら、高山了さんの記事が掲載されている。
高山さんは65才。定年後、シルクロード1万5千キロを10年かけて自転車で走破する計画をし、挑戦している。
 高山さんは地元(土浦)の進学校を卒業、T工業大学卒業、F写真フィルムに入社。絵に描いたような順風な人生を送った。同社の同僚の方々は定年後、海外旅行をするとか優雅な老後を送っている。しかし、高山さんは一味違う。余生を送るのではなく、余生に挑戦しているのである。
 今夏のツーリングは、3,750メートルの高地、未舗装道路、宿泊所・ホテルなし。しかも銃を持った監視兵がつくという。65才にもなって、なんでそんな無茶なと思う。しかし、小生にはこれが男の余生の生き方の理想像に映る。
 男の生き方として、小生と高山さんの価値観は共通すると思っている。次元が違うが小生がシルバーセンターのバイトをしている事に高山さんは共感された。機会があれば自分もやってみたいと・・・。
 近隣に高山さんのような挑戦者がいるのは心が躍る。高山さんには、是非、ツーリングの模様を本にまとめてもらいたい。それが、残された男の人生の生き方の事例になる。
 それにしても、高山さんの冒険を見守る奥様、ご家族に敬意を表したい。

2012年8月7日火曜日

レコード製作者との愉悦の一時

昨日(6日)午前はシルバーセンターの掃除。雨でびしょ濡れとなった。

 午後、東京へでかける。3時、中野坂上に住んでいる友人を訪ねる。
 彼の自宅(マンション5階)に入って驚いた。リビングにはオーディオファン垂涎のタンノイのスピーカ。窓の外には新宿副都心が広がる。(写真)そして上品な奥様。幸せな奴め・・・。そんな彼につきあっていただける、小生も幸せである。

 6時、レコードメーカーOBのAさん、現役レコード製作者のBさん、Cさんと、新宿駅南口の「響」で会食。わが町牛久ではお目にかかれない料理とお酒をご馳走になりながら音楽談義。懸案の伝説の音源のCD化が順調に進んでいるとのこと。Aさんの話によると、まだまだ幻の音源があるとのこと。
 その後、指揮者のバレンボイムがロンドンオリンピックの開会式でオリンピック旗を持って登場したことが話題になる。イギリス出身ではサイモン・ラトルとか、コーリン・デービスなどの名指揮者がいるのになんでバレンボイムなの?等々,話題は尽きず、終わったのは11時近く。
 牛久に到着したのは終電。12時30分。

シャワーを浴び、「なでしこジャパン」の先制ゴールを視て、布団に倒れ込む。

2012年8月4日土曜日

95才、母の紙細工

(95才の母が作った紙細工)

7月31日、11時からの佐藤竹夫君の葬儀、および同級生による偲ぶ会は1時30頃終了する。
その後、市街から5キロほど離れた実家に向かう。
実家には95才になる母と兄夫婦3名が住んでいる。
実家はお寺の本堂のように広い。真夏でも涼しい風が吹き込んでくる。母がだしてくれた甚平を着て大の字になる。深夜バスの疲れもあり目を覚ました時は5時近かった。兄が愛聴している、イヤースピーカを頭にかけてみる。いい音がする。やがて、寝たきりになったらお世話になる道具かもしれない。その時まで耳が健在であればなどと思っていたら、兄がシャワーからでてきたので、続けて、シャワーを浴びる。
サッパリしたところで、仏様を拝み、兄と久しぶりにビールを飲みかわす。兄嫁が作った料理が美味しい。家の山で採れたという筍(たけのこ)汁と蕨(わらび)が絶品だった。久しぶりに兄とクラシックの名盤の思い出を語る。
時計を見ると、間もなく7時である。
母が土産にと「紙細工」、兄嫁からは山菜をいただく。母は95才であるがマメである。また、色っぽいと思う。
兄嫁の運転する車で羽後本荘駅へ。8時の列車で秋田駅に向かう。
9時10分、東京行きの深夜バスが発車した。車中、大地震の夢を見る。「またか!」地震はなかなか収まらない。地震速報を見ようとテレビをつける。ここで目が覚めた。通路側の肘掛を枕に寝こんでいたのだ。大地震の震源はバスの振動だった。
深夜バスは1日午前7時、無事、大東京に到着した。電車へ乗る。行きかう上りの列車はどれも通勤客で寿司詰めだった。

2012年8月3日金曜日

映画のワンシーンのような葬儀

7月29日、電話のベルが鳴った。
「俊だが、新市だ。タッケ死んだ。火葬終わって、31日葬儀だ、まんず連絡まで・・・」
秋田の中学時代の同級生、佐藤新市君からの電話だった。同級生の佐藤竹夫君が亡くなったというのである。前から癌だときいていたので、「やはり」と思った。彼は地元由利本荘市の市会議員である。われわれ同級生の出世頭である。
スケジュールを確認すると幸い、30日から1日は急ぎの用事がない。30日、東京発の深夜バスで秋田へ向った。なんと、このバス、在庫整理とのことで往復で6,800円。深夜バスは安いが体力が必要。12名ほど乗車していたが、小生以外は全て若者。
31日、11時、由利本荘市のグランドホテルに到着。葬儀場に着いて驚いた。300名ほどの参列者で満席。由利本荘市市長、市議会議長と地元名士の弔辞が続く。同級生の畠山良造君も弔辞を述べた。良造君の話によると、竹夫君が遺書を残しており、その中で弔辞についても段取りをしていたという。
葬儀が終わると、われわれ同級生に対して、膳が用意されていた。奥様のお話によると、これも竹夫君の指示だったようだ。20数名の喪服の同級生が膳を囲んだ。(写真・下)
帰宅して葬儀の写真をプリントしてみた。立派な葬儀、そしてスッカリ、ジジ、ババになった同級生達。それは現実のものではなく、映画のワンシーンのように思えた。