100歳まで頑張るといっていた義父が逝った。5月3日、97歳で力尽きた。
3月下旬、入院。余命一ヶ月と宣告されていた。4月上旬退院。自宅療養を行っていた。
5日から7日、家内の実家である横手市(秋田)に行き、義父を見送った。
「今まで、一言も感謝の言葉をいったことがない父が下の世話が終わると”ありがとう”と言ってくれた。この一言で私も家内も救われた。」と長男。
「見舞いにいった時、父が好きだった雑魚料理を作り、食べてもらった。”うまい”といってくれた。」と三男。
「私の車で退院した。家について、体を支えようとしたら”いいから”と振り払った。(家について元気がでた。)」と4男夫婦。
「アメリカ(米国在住の次男・学者)が見舞いにきたとき”早く帰って研究しろ”とたしなめた。」と長男。
一人娘の私の家内は別れの時、棺に千羽鶴を入れた。4日、遊びにきていた孫と織ったものだった。
義兄は父のために納棺師を手配した。その手さばきは手品のように鮮やかだったという。
葬儀は自宅で行われた。親戚縁者が集い、時間を忘れて義父を偲んだ。お膳には山海の料理が山のように盛られ、手土産も準備された。都会とは違う、濃密な集いだった。都会のように事務的でサラリとしたものではなかった。この集落では老人の孤独死など想像できない。
集った親類縁者は大半が70歳を過ぎていた。彼らが就学時のときは同級生が10名以上いたという話を聞かされた。今は児童が少なく、学校はすでに廃校になっている。
義兄は数年前、急峻な山にあった墓地を平地に移し替えた。また、今回は自宅で濃密な葬儀を行った。先祖を敬い、集落を守る農家の長男の苦労は想像を絶するものがある。しかし、農家の長男の生活は次三男と比較して厳しいケースが多い。「名ばかり長男」ではいけない。
葬儀の日一泊した温泉宿の裏山をみて驚いた。新緑と梅、桜、桃の花が競っている。その美しさに息を呑んだ。義父のために天が作った天然の祭壇のように見えた。
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