2015年1月24日土曜日

「マッサン」の頃のTDK

NHKの朝の連続ドラマ「マッサン」を見て、毎日「血湧き肉踊る」思いである。そういえば、私が勤めたTDKにも「マッサン」のようなドラマがあった。

TDKの創立者は秋田県生まれの斎藤憲三。地元では「ホラ憲」といわれていた。
ホラ憲は昭和10年、繊維のトップメーカーである鐘紡の津田信吾社長と会う。憲三は開口一番、津田に問う。「日本に本当の工業はありますか?」津田は言葉に詰まる。当時の日本の産業はほとんどが欧米のマネだった。「私は日本人が発明したフェライトを工業化したい。出資して欲しい」。斎藤の情熱に共感した津田はその場で10万円の出資を約束する。
その金で斎藤が設立したのがTDKである。
フェライトは東京工業大学の加藤与五郎、武井武両教授が発明。当初は用途がなかったが、後、トランジスタラジオ、テレビに不可欠の部品として使用され、TDKは急成長。第2のソニーといわれる。さらに磁性材料の技術はカセットテープ、VHSビデオテープに応用され、TDKは磁気テープの世界トップメーカーとなり、”TDK”は不動のブランドになる。
 現在TDKを率いる7代目の社長、上釜健宏氏もブランド力に魅かれて入社したと語っている。

昨日(23日)、TDK・OB有志で構成する「TDK社友会」の新年会が東京で開催された。(写真)参加者164名。参加者の殆どが斎藤憲三、加藤・武井両先生、および二代目社長、山﨑貞一、常務、高尾三郎等、創業者当時の方々に直接薫陶を受けたメンバーである。TDK急成長の同志である。酒が進むごとに「俺がTDKを大きくしたんだ・・・」60才~80才代の顔が青春のように輝く。
(大石会長他、社友会を運営するメンバーの方々に感謝)

TDKの社是は「創造によって世界の文化・産業に貢献する」である。TDKに限らず、日本の産業界が生き残る為には、今後も”創造”がキーポイントになると思う。

2015年1月11日日曜日

かけがえのない人生に感動!「いしぶみ」編集作業

正月明けから今春出版する地域の自分史「いしぶみ・9号」の原稿が続々入稿。編集担当の小生は正月からフル回転。ボケる暇がない。
10日は、「ひたちの牛久」のスターバックスで山中さん(土浦市在住)にお目にかかり、原稿をいただく。山中さんは今年から入会された。昭和18年1月生まれ。小生と同学年である。原稿を拝見して山中さんがどうして「いしぶみの会」に入会されたか。胸に突き刺さった。原稿のメインは亡くなられた奥様が残された「詩」や「日記」。病床生活の寂しさが赤裸々に語られている。山中さんは分かれ際、「畠山さんにお会いできて本当に良かった」と語った。それは、これで奥様との思い出が本になり、後世に残せるという、安堵感からくる感謝の言葉だった。
大正14年生まれの中村さんからは郵送で原稿をいただいた。中村さんは昨年発行された8号で小生が生れる前の東京・銀座を活写され、近衛兵との初恋を披露して下さった。今回の原稿のタイトルは「写仏との出会い」である。写仏(しゃふつ)とは、仏様を写すことだそうだ。平成四年、埼玉県日高市にある「瀧泉寺」に六十四畳もある天井曼茶羅絵図が完成した。10年の歳月をかけて杉板に228枚の絵が描かれたという。(写真)その内の4枚が中村さんが書いたもののだという。中村さんはとんでもない才能の持ち主である。
文集「いしぶみ」は同じ町内(牛久市刈谷町)の鈴木さん(新潟市・津南出身。昭和5年生れ)が主催して発行している。
石山千代子さん、ビクターOBの西郷さん、中国で医師をされていた父を持つ堀井さんからも素晴らしい原稿をいただいた。(6日ブログ参照)「いしぶみ・9号」はかけがえのない人生記録で満たされる。

2015年1月6日火曜日

新年、明けてビックリ、玉手箱(日記)


1日  ●7:30分から3時間、スーパーの掃除。店長「今日は元日でゴミの収集車来ないからよろしく」 ●午後、孫6名にお年玉をあげる。夕食、いつも2人だけなのに今日は10名。”家長”の実感。

2日  ●小4と小2の孫を連れてゲームセンターへ。2人のメダル投入のスピードに驚く。 ●「孫は畠山家と北條家(嫁の姓)、日本の宝」と息子に言う。自分の言っている事が亡くなった父とそっくりな事に気がつく。

3日 ●年賀状の整理。オーディオ・ヴィジュアル評論家、麻倉先生のご活躍(写真上)に驚く。 ●三ヶ日に失礼かなと思いつつ、レコードメーカーと放送局の方々にメール。 地元音楽愛好会「ゲヴァント・ハウス」から今年の講師の交渉依頼するようにとの指示。

4日 ●ひたちの牛久の「スタバ」で堀井さんから自分史「いしぶみ」の原稿いただく。戦時中、中国で医師をされていた父親を回顧するもので、昭和史の貴重な断片。●自宅に帰り、パソコンを開くと水戸の西郷さんからも原稿が入稿していた。西郷さんはビクターOB。憧れのビクター入社までの努力は素晴らしい。●秋田の兄から電話あり。「6月に父の17回忌と祖父の100回忌をやるのでよろしく」。

5日 ●笠間にある常陸国・出雲大社に初詣で。神官装束の高橋宮司自ら電動カートを運転。私と家内を乗せ、3万坪の境内を案内。初詣客の注目を浴びる。出雲大社へ向う高速道路、行きも帰りも出口を間違う。私も神仏に近づいてきた・・・。 ●高校同窓会、新年会の会場、「佐藤養助・銀座店」予約。 ●ニューヨーク在住の政治ジャーナリスト、佐藤さんから電話。「安倍総理の日本国家の将来 ヴィジョンに注目している」との事。
(出雲大社・御本殿正面)

    

2014年12月25日木曜日

クリスマス前の意外な贈り物。長谷川等伯、狩野永徳

クリスマスイブ前日の23日、弟から宅急便が届いた。
弟は山北町(小田原市の隣)在住。66才。私立高校の教師をやっている。定年を過ぎているのに学校にひきとめられているとは本人の弁。
荷物はズシリと思い。10キロ近い。中を開けてみると、長谷川等伯と狩野永徳の画集と、安倍龍太郎作「等伯」上下2巻(第148回直木賞受賞作品のタスキあり)が入っていた。

偶然であった。
私は7日~9日、牛久在住の友人と能登半島の旅行に出かけた。その時、驚いた事があった。七尾市に行った時、ガイドが「ここは能登・畠山家の城下町です」と語った。隣の席の中田さんが「畠山だって」と私の顔を見た。私はこの時まで七尾が畠山家の城下町だったことを知らなかった。
弟に能登に行ったとメールする「七尾には行ったか?」と問いかけられた。弟は「等伯」を読んで、七尾市がかつて畠山家の城下町だった事を知っていたのだった。

弟はこの機会に私に能登・畠山家を知ってもらいたい。また、家臣である奥村家の子として生まれた長谷川等伯(1539~1610)の絵と、等伯とライバル関係にあった狩野永徳(1543~1590)の絵の素晴らしさも知ってもらいたいと思ったのだった。

なお、私の実家の祖先は能登・畠山家ではなく、重忠で有名な秩父・畠山家だと伝えられている。

*画集の作品は著作権上添付できないので、画集の表紙を添付した。(写真・上)
等伯画集の表紙を飾るのは「松林図屏風」(国宝・東京国立博物館)、永徳画集の表紙を飾るのは「唐獅子図屏風」(宮内庁三の丸尚蔵館)

2014年12月18日木曜日

私のノーベル賞


ノーベル賞というと格別なもののように思われるが、小生は総ての人がノーベル賞に値いする仕事をしていると思う。結果がたまたまノーベル賞だったり、科学技術庁長官賞であったり、社長賞だったり、あるいは無冠だったり・・・これはご縁だと思う。

仕事に打ち込む姿勢に差別はない。

定年後12年、小生の場合、幸運にも現役時代の仕事が「ステレオ時代」vol,3号に掲載された。実に嬉しい。小生が現役時代、カセットテープの最高峰といわる「MA-R」を開発した。通常プラスチックで作られているカセットハーフにダイキャストを使用し、しかも中のテープが見えるという画期的なものだった。勿論音質は抜群!45分のテープが1,750円もしたのに飛ぶように売れた。

この商品、私が一人で開発したものではない。営業、技術、製造、デザイン部門の総力で出来あがったものである。ただ、賞をいただいたり、誌面に取上げられたりする時は代表者が脚光を浴びる。これもご縁である。

今回は偶然の重なりでもある。まずは、「ステレオ時代」というオーディオ誌が存在した事。この雑誌が昔のオーディオ商品を取上げた事。TDKに取材を申込んだ時、広報部長の脳裏に小生が浮かんだ事・・・。小生が健在だった事。

広報部長から電話を頂いて、2~3、会話をしたところ「あ、大丈夫ですね。取材お願いします」ときた。広報部長は小生の前歴を調べるとともに、小生が現在、取材に応えらるかどうか(ボケてないか?)試したのだった。

という事で小生にとってのノーベル賞である記事が「ステレオ時代」vol,3に掲載された。同誌は現在書店で発売されている。

2014年12月11日木曜日

冬の能登半島一周。厳しい海岸美と歴史の重み!


 7日~9日、牛久の友人、中居さん(鹿島建設OB)中田さん(海上保安庁OB)と冬の能登半島に出かけた。2人とは2年前、シンガポールへ旅したので、今回が2回目である。シンガポールの旅は陽光に恵まれ、身も心もリラックスできた旅だったが、今回の能登半島はズシリと心に響くものだった。(長野から輪島まで雪道だったが半島に雪はなかった。)

秋田生まれの私は「久し振りに雪見酒でも・・・」と思ってでかけたのだが、能登の冬はあまりにも厳しく、美しい。秋田には男鹿半島があるが、それとは比較にならない厳しさである。特に松本清張の「ゼロの焦点」の舞台になったという”ヤセの断崖”は高さ35mの断崖絶壁。突風に飛ばされないよう足を踏ん張った。”千枚田”(写真・下)こんな狭い断崖に田んぼを作るとは、能登の厳しい農業を想像した。それにしてはどの民家も黒瓦の立派な家が並んでいる。しかし、ほとんど空き家だという。
”輪島塗り”数百万という作品の制作舞台裏をのぞかせて貰った。

思いがけなかったのは、曹洞宗の祖院を見学できたこと。秋田の実家が曹洞宗だけに感慨深い。さらに驚いたのは能登・畠山家の城下町である七尾市に寄る事ができた事。これは全く予想していなかった。ガイドさんから「畠山氏の城下町だったが上杉謙信の侵攻に会い滅亡した」との説明に「そうだったのか!」と驚いた。七尾市は小京都と呼ばれているとか。”一本杉通り”は600年以上続くという商店街、歴史的建造物が軒を連ねたいた。

能登半島旅行は輪島により、和倉温泉に泊まって帰るコースが一般的だという。今回は半島の突端、禄剛崎(ろっこうさき)燈台(写真・上)まで足を延ばした。本当に良かった。幹事の中田さん、ありがとう。

2014年12月3日水曜日

わが畠山家の歴史。子や孫にも伝えたい。

先月22日だったと思う。秋田の実家の兄から電話があった。用件は「畠山重忠の父親の本が出版されたので注文した。」というものだった。私もネットで検索して購入した。今読み終えたばかりである。
 兄は2001年(平成13)「鮎瀬畠山家累代事歴」という資料をまとめた。それによると、私の実家は畠山重忠(しげただ)の末裔であり兄は第32代目になるという。資料によると800年前、坂東武者であった畠山一族(埼玉県深谷市)は滅亡するが、重忠の長男である重保(しげやす)の妻信子は幼子を抱いて、日本海にでて秋田の海岸に辿りつく。その後由利本荘市・鮎瀬に住み着いたというのである。
 畠山重忠の父親、重能(しげよし)の本、「名は惜しめどもー畠山重忠の父」北澤繁樹著(さきたま出版会)を読むと、重忠の長男重保は結婚しなかったとある。これは兄の資料と異なる。ただ、北澤氏は末尾にこう記している。″畠山重忠一族の男たちの行末は、不思議なほど明らかでない。一族の多くが、滅びもせぬのに、姿を消した″とある。今後の検証に注目したい。
 筆者の北澤さんは長野県大町市生まれ、さきたま出版会はさいたま市にある。畠山一族に対する視点が実に暖かい。重能にしろ、重忠にしろ、武勲に優れているだけではなく、人情にも厚い。また、武蔵国の自然描写や当時の武家生活の描写が素晴らしい。当時随一の動力であった馬への愛着溢れた表現も見事である。
 読み終わって、亡くなった父や兄も性格が重能、重忠に共通ているところが感じられ、鮎瀬・畠山家が重能、重忠の子孫であるという実感が沸いてきた。
 わが、牛久・畠山家の子や孫にも伝えていきたい本である。