2011年8月29日月曜日

西宮家・熱海別荘でPCオーディオ聴く

     (西宮家の帰り、MOA美術館に寄る”ムア広場”)
     (西宮家・別荘のオーディオシステム)
 27日、友人の西宮聡彦さんの誘いで、熱海にある西宮家の別荘へうかがう。
この日の午前は、シルバーセンターの掃除のバイトで汗を流したので、午前と午後の行動の格差は相当のものである。
 午後1時30分東京発のアクティ乗車。3時過ぎに熱海に到着する。西宮さんと、吉原恵さんの出迎えを受ける。恵さんというと女性のようだが、彼は法律家で、PCオーディオの研究家でもある、そして料理人でもある。(ということがわかってくる・・・)
 駅近くで吉原さんが食材を購入。車は急坂を上って別荘へ。
 別荘へ着くと、私は客人よろしく、ソファにもたれ、窓外の緑を眺めながら、LPレコードでカバリエ(ソプラノ)のアリア集に耳を傾ける。LPレコードを聴くのは20年ぶりかもしれない。やはり、アナログの音は素晴らしい。CDという便利で中途半端にいい音のCDが登場してこの方、ジックリオーディオの音に耳を傾けたことがなかった。
 私が至福のひと時を味わっている時、吉原さんは台所で夕食の準備をし、西宮さんは、風呂や寝室の準備をする。
 西宮家は四十四代続く名門。什器、備品が全てが質の高いものばかり、棚の上には銘酒が並んでいる。その銘酒をいただきながら夕食。旅館の家族風呂を思わせる立派な風呂に入れていただき、就寝。二人は私が寝てから、SPレコードの音をPCに取り込む作業に没頭。明け方までかかったという。
 熱海からの帰り、日本経済新聞の最終面・文化欄を見たら、偶然であるが、黒崎政男(東京女子大教授)の「オーディオ熱ふたたび」というエッセーが掲載されていた。黒崎さんんもCDがでてから、オーディオを聴かなくなったという、PCオーディオの登場で、昔の巨大なオーディオシステムと向い会うようになったという。

2011年8月23日火曜日

ホキ美術館、ビューホテル、成田山

        (成田山新勝寺の三重の塔)
   (写実絵画300点が収納されている「ホキ美術館」)
 息子夫妻が双方の両親を招いて、食事会をしたいというので、21日、成田ビューホテルへでかけた。
 成田に行くのであれば、ついでに行ってみたいところがあった。
 千葉市にある「ホキ美術館」である。
 日本で最初の「写実絵画専門美術館」である。
 この美術館、千葉といっても、東金市の近く。最寄の駅は土気駅である。
 午前、タイヤを交換。午後1時牛久駅出発。
 408号線、409号線を経由して目的地に着いたのは午後3時を過ぎていた。
 思いの他、時間がかかったので、駆け足で展示物をみる。
 
 土気から成田へは東金道路、東関道と高速を使用。タイヤが新品なので、車が道路に吸い付くようで快適。40分くらいで、成田インターに着く。
 成田ビューホテルで3人の孫の顔を見ながら、息子の嫁の父親である北條保夫さんとオヤジ談義。スカイバーで小雨に煙る成田国際空港を展望しながら2次会。
 翌朝、生後6ヶ月の孫の顔を見る。実にかわいいのであるが、写真にとると、どうしても平板になる。マシュマロのような頬の感じなどがでない。ここで、ホキ美術館を思いだした。
結局、人間が生でみる景色を写真で表現することはできない。そこで登場したのが写実絵画ではないかと思った。事実展示されていた風景や人物画は生でみるようにナマナマしかった。
 翌朝、息子家族、北條ご夫妻と別れ、家内と成田山新勝寺に行く。幸い護摩祈願の時間と遭遇。真言密教の修法を体験した。大本堂全体に響き渡る冒頭の巨大な太鼓の響きによって、魂は現実の世界から幽玄な世界と導かれる。実に貴重な体験だった。

2011年8月15日月曜日

コンサートの梯子(川崎、青葉台)


 14日。8時から高校野球観戦。秋田・能代商対香川・英明高校。一回の表裏を見て、英明の投手力、打力が勝っており、同じ負けるにしても恥ずかしくない負け方をと思って観ていたら、能代商が2対0で勝ってしまった。
 10時30分、自宅出発。なにしろ、今日は15時から川崎で東京交響楽団の演奏会。19時から田園都市線・青葉台で辻本智美のピアノリサイタルである。
 川崎駅から会場の「サンピアン川崎」まで歩く。川崎市役所、競輪場の次が会場だった。歩くのは実によい。町の風情が良くわかる。東京交響楽団のアンサンブルは実に素晴らしい。しかし、会場は最悪。空調音の騒音が高く、折角のピアニッシモが騒音に埋もれてしまう。もともとこのコンサート、川崎市自慢の音楽ホールでやる予定だったのが、東日本大震災でホールの天井が落ちて、会場が変更になった。予想もしないところで、震災の余波を実感した。
 その点では、辻本のコンサートも震災の影響を受けた。このコンサート、実は4月2日開催の予定が震災があったため、今日になった。
 会場は高級住宅地の青葉台駅前のフィリアホール。音楽専用ホールである。何回か彼女の演奏を聞いたが今日の「ドビュッシーの世界」は今までの彼女のコンサートでも最高の仕上がりだった。眼前に色彩豊かなドビュッシーの世界が広がった。ピアノリサイタルでは巨匠ポリー二以来の感動である。日本には無名でも優れたピアニストがいることを再確認した。
 残念なのはお客さんが少なかったこと。
 指揮者の世界で佐渡裕がベルリンフィルを指揮したことで、知名度が上がっているが、彼クラスの指揮者は日本に沢山いると私は思う。結局はマスコミに頼らず、自分で聴くしかないようだ。
 

2011年8月13日土曜日

孫、水鉄砲で遊ぶ

          (竹で作った水鉄砲)
 12日、お盆ということで佐倉にいる息子の団子(男子)3兄弟が来宅。小1、幼稚園、生後半年。
 
 今日(13日)小1と幼稚園児の二人の希望で、近所の牛久自然観察の森へ行く。
 9時森に到着。森の入口にあるネイチャーセンターで、マンツーマンで学生アルバイトのボランティアが2人の相手をして下さる。2人はこのセンターで一時間半ほど、ゲームなどに興じる。
 
 森に入ると、休憩所に水鉄砲があり、女性ボランティアが使い方を教える。2人は水鉄砲に夢中。それが終わると、「竹細工グループ」のメンバーが竹細工の風車を作ってくれる。
 昼近くになったので帰ろうとしたが、2人はネイチャーセンターで昆虫の塗り絵をしたいという。結局帰宅をしたのは1時。
 
 帰宅すると、柏にいる娘の美人3姉妹が来宅しており、6人の孫が勢ぞろいとなった。

2011年8月9日火曜日



4日間、朝5時から放送された世界ゴルフ選手権をテレビ観戦した。
なんと、石川遼が3日間、60台でまわり、最終日はオーストラリアのアダム・スコットとともに最終組で回った。凄い。もし19歳の彼が優勝したら最年少優勝だという。最終日は家内も5時起きだった。
 日本ツアーと違って、世界ツアーは厳しい。日本ツアーだと石川遼は最終日はスーパーショットを連発してギャラリーを沸かせるのだが、この日はスコットの力の差を見せつけられた。スタートは1打差、前半、並んだが、最終的には5打差となり、4位タイに終わった。
 日本ツアーではスタイル抜群の遼もスコットと比較すると小さい。体力差からくるスタミナ不足はなんともしがたいと思ってしまう。しかし、遼はまだ若い。努力家である。その内、きっと、世界ツアーでも優勝するだろう。
 それにしても「なでしこジャパン」「世界ゴルフ選手権」とスポーツは勇気を与えてくれる。熱戦が続く、高校野球をみていると、日本はこれからも大丈夫と思う。

2011年7月31日日曜日

田宮虎彦著「足摺岬」

      (足摺岬にある田宮虎彦の文学碑)
 四国旅行をしてズッとひかかっていた。
田宮虎彦の書いた「足摺岬」である。若い時に読んだのかもしれない。しかし、ストーリーなど全く思い出せない。
 図書館から借りて読んだ。
 素晴らしい。感動した。切ない内容だった。
 
 今回の旅行では、土佐清水から険しい山道をバスで超えて岬のある温泉まで行ったが、小説を読むと、主人公は清水から二里ほど歩いたとある。また、馬車に乗ったとも書いている。いずれにしろ、難行苦行である。この本が書かれたのは昭和24年10月とある。今回の旅行でも足摺岬は秘境だと思ったが、当時は本当に地の涯だったと思う。
 
 主人公が足摺岬を目指した目的、それは自殺だった。泊まった宿屋でのお遍路、売薬屋、宿屋の女将、娘との交流が描かれる。出てくる登場人物、それぞれが暗い、切ない。
 
 小説・足摺岬の背景には高知出身の父の厳しい教育があったようだ。なお、虎彦の次男はトランペット奏者の田宮堅二だという。今は桐朋学園の教授とのことだが、NHK交響楽団で彼のトランペットを聴いた記憶がある。
 昭和29年、足摺岬は映画化されている。監督・新藤兼人、主演、木村功、津島恵子。是非映画も観たものだ。

2011年7月22日金曜日

中曽根に原発で影響を与えた男

(斎藤憲三は地元秋田では”ホラ憲”と呼ばれていた。気宇壮大。凡人では理解不能)
 7月17日(日)付、朝日新聞に「原発国家・中曽根康弘編」という記事が掲載されている。
この記事を読むと”54年3月に提出された日本初の原子力予算も、野党改進党の予算委理事だった中曽根が主導したといわれている。ー中略ーだが、中曽根は中心人物ではなかった。原子力予算の構想は、直前にあった改進党秋田県連大会から帰京の車中で、TDK創始者の斎藤憲三や、のちに法相となる稲葉修らが描いたものだった”
 斎藤憲三は国会議員随一の科学通だった。原子力のみならず、宇宙開発、海底資源開発、バクテリアの研究と広範な知識を有し、科学技術庁の初代の次官として活躍した。
 私はTDKに入社したお蔭で、丸の内の先生の事務所に何回かお邪魔した。先生の事務所は別名、研究室と呼ばれ、顕微鏡や試験管が並んでいた。時には先生は研究用の白衣を着用されていた。
 斎藤憲三は渡米した時に原子力潜水艦の製造をしていたゼネラルダイナミックのホプキンズ社長に会う。斎藤は社長に「原子力の終局的目標は何か」と尋ねる。社長は「原子力により電気は無限になる、原子力による無限動力」と答える。
 現在、日本は原子力による無限被害におののいている。
 原子力の可否はさておき、原発事故を機に斎藤憲三という巨人が懐かしい。斎藤が健在だったら、今回の原発事故にどういうコメントをしたであろうか・・・。