2023年5月27日土曜日

陸軍少佐と通信兵(1/2)


 友人の西宮聡彦さんから荷物が届いた。開くとご尊父の追悼集「壱百参年の人生」だった。
父・陸軍士官学校53期生・元陸軍少佐・西宮正泰は、昨年10月18日103歳にて旅立ち、11月22日に母(満寿子)の眠る、御殿場の冨士霊園に納骨を無事済ませました。という挨拶文が入っていた。
 父正泰は大正8年(1919)、富山県射水郡新湊町(現射水市)西宮神社の神職の子として生まれたという。中学2年の時、軍事教練の配属将校、板津陸軍少佐より呼出があり、「君は幼年学校を受験しなさい」と命令口調で言われたという。幼年学校の募集人員は150名。応募者は8千名。53倍の狭き門だった。正泰は見事合格。北日本新聞に「閣下の卵、幼年学校難関突破」と掲載される。当時幼年学校出の将校が富山聯隊に居られるというので挨拶に行ったところ、その人は陸軍少尉瀬島龍三(後の関東軍参謀、終戦時陸軍中佐、終戦後伊藤忠商事会長)だった。正泰が、入学した時期(昭和9)は軍縮で、幼年学校は東京陸軍幼年学校1校だけだったが戦時色が強まる中、昭和15年に幼年校は全国6校となる。特筆すべきは外国語教育に力を入れていたことで、露、仏、独、英が各校に割り当てられた。正泰は仏を選択した。第一次世界大戦後の世界情勢を反映している。
 幼年学校の校長は陸軍中将(その後陸軍大将)の阿南惟幾(あなみこれちか)だった。阿南は終戦時陸軍大臣として第二次世界大戦で本土決戦を主張する陸軍を代表し、終戦に反対し続けるが、最後は昭和天皇の聖断に従って賛成に転じ、玉音放送の朝、自決する。

陸軍のエリートとして激動の人生を生き抜いた正泰は92歳の時「万葉集探訪」を出版する。イギリス人がシュークスピアを、ドイツ人がゲーテのファストを必読しているように、日本人も「万葉集」を国民の必読書にすべきという思いからだった。

ところで、わが父一男は大正12年(1913)、農家に生まれた。1943年出征、45年復員。通信兵だった。千島列島におけるソ連兵とのシュムショ(占守)の戦いで地獄絵を見る。1999年死去。86才。残した言葉は「感謝」だった。
 一男と正泰の共通点、それは温顔と筆まめである。父には万葉集を嗜むような教養はなかったが、家を離れた子供達に頻繁に手紙を書いた。
(写真は西宮正泰氏。2019,12.8 陸軍士官学校第53期同期会冒頭挨拶・当時100歳)


2023年5月22日月曜日

総工費7億5千万円。新社務所完成

 21日、笠間市福原で「常陸国出雲大社御鎮座三十周年記念奉祝祭」が行われた。私は氏子ではないが、同大社の高橋宮司とは縁戚関係にあり、招待された。
同大社は三十周年事業として2千万円かけて大注連縄の掛替を行い、この度、新社務所を建設した。この社務所、当初3億円の見積もりだったが、資材の高騰、耐震構造の強化な
どで、最終的に7億5千万になった。これを高橋宮司は無借金でやり遂げたというから驚く。
高橋宮司は20日の茨城新聞に全面見開きで、奉祝広告(写真・上)を掲載した。この広告には大井川・茨城県知事、山口・笠間市長の「祝辞」が掲載されている。今や同大社は茨城県、笠間市にとって、観光資源としても期待の星なのである。
高橋宮司は1947年、栃木生まれ。1971年、國學院大學神道学科卒業。裸一貫、「神への思い」だけで、関東一ともいわれる神社を創り上げたのである。
これだけの神社を創るには三代かかるといわれる。それを三十年でやってしまった。高橋宮
司は「神道」は日本の精神文化を支える根幹であり、世界の中で日本が生き残り、日本が世界をリードしていくには「神道」をもう一度見直すべきだという信念を持っている。                 
高橋宮司の歩みはまだ止まらい!                           
★大鳥居から社務所にいくには急階段が待ち受ける。(写真・左)社務所を左折すると拝殿である。21日、奉祝祭で挨拶する、山口・笠間市長と高橋宮司(写真・右)






2023年5月20日土曜日

途中集中豪雨で中止、昨日の土浦カントリー

 

5月13日のブログ「右肩骨折から1ヵ月」の反応は大きかった。「えっ、そうだったの。全然気がつかなかった」「あの議事録、左手で打ったの」「80才にしては治りが早い」等々。
 4月7日骨折し、ついに昨日(5月12日)は水戸の近くの涸沼で行われたグランドゴルフにでかけた。と書いたが、実は4月27日にはゴルフ(霞台カントリー)にでかけていたのである。骨折から20日目であり、まだ、うまく手が上らず、肩にサポータをしてのゴルフだった。さすがにこのことはお医者さんにも言わず、ブログにも書けなかった。
昨日のゴルフ(土浦カントリー)は骨折から42日目。右肩もほぼ自由に動くようになり、サポータなしでクラブを振ることができた。ただ、通常時のようにクラブを振ることはできず、スコアは散々。昼食後は雨模様だった。3ホール目で、集中豪雨に見舞われた。幹事役のYさんがカートを運転してクラブハウスに向かう。カート道路を雨が滝のように流れ怖かった。冷静に考えてみると、恵の雨だったかもしれない。午後も最終ホールまでやっていたら、骨に負担がかかったかもしれない。
それにしても、こんな私とゴルフをしてくれる仲間がいるのは嬉しい。Mさんはプロ並みの飛ばし屋である。250ヤードは飛ぶ。他人事ながら、ビューンと飛んで行くボールを見るのは爽快である。
Yさんとは往復の車で経済談義。株価が3万円になるなんて、私もYさんも予想できなかった。電子部品メーカーの中で、ニデック(日本電産)、京セラ、TDKが2兆円企業になった。純利益10%以上をあげていた超高収益企業、村田が苦戦している。スマホ需要の落ち込みで2024年3月期は35%の減益予想。これも予想でききなかった。
帰宅して、G7,広島サミットのニュースをみる。宮島をバックにG7の首脳が顔を揃える。雨でなくて良かった。20日はゼレンスキー大統領も来日するとか。日本リードで戦争のない世界への道筋ができればと思う。
(土浦カントリー、南1番ホール。真中の松が、目障りである)

2023年5月13日土曜日

右肩骨折から1ヵ月


 4月7日、つくばのK先生(植物病理学者)宅を訪れた。(写真・上)先生は大のクラシックファンで、一緒にCDを聴きましょう。ということだったが、お話をおうかがいするのが主になり、音楽を聴かずに時間切れになってしまった。
その帰り、牛久駅から自転車に乗っての帰宅途中、自転車がパンクし、ハンドルをとられて横転。右肩を痛打。翌日、整形外科に行ったところ、骨折しているとのこと。それから1ヵ月、サポータをしての生活になってしまった。
なにしろ、右手が上らない、右手に力が入らない。布団の上げ下げは左手で抱えながら、食事の時も右手を左手で支えながらという状態。一番困ったのはパソコン。右手が使えないので、左手でポツン、ポツンと打つしかない。
有難いのは日々回復するのがわかること。1週間ほどたって、なんとか自転車にも乗れるようになり、3週間ほどで、両手で顔が洗えるようになり、4週間目には、両手で布団の上げ下げもできるようになった。パソコンも右手がなんとか使えるようになった。
幸い、足、と口は達者なので、4月14日のゲヴァントハウス例会(金子先生講演会)、5月9日のTDKパソコンクラブ例会(東京)には参加した。

ついに昨日(5月12日)は水戸の近くの涸沼(写真・下)で行われた牛久グランドゴルフ大会に参加。前半39、後半43、合計82で廻ることができた。
一緒にプレーしたのはOさん(84才)、Fさん(78才)、H嬢(79才)、小生(81才)。4人の中ではOさんが72のハイスコア。前半、小生が1打リードしていたのだが、後半、Oさんが2つのホールインワンを達成したのである。年齢、性別関係なく、誰が勝かわからないのがグランドゴルフの面白いところ。
それにしても、健康第一である。次回はO先輩に勝ちたい。
 それにしても、小生は運がいい。自転車で横転した時に頭だったり、顔面だったりしたら、見る影もない。今回一番ホッとしたのは整形外科の先生がレントゲン写真を見ながら「手術の必要はありませんね」と、おっしゃった時。これで、世間に「自転車で横転した」ことは隠せると思った。


2023年5月4日木曜日

末期ガンにかかった友人⑤ご子息からのメール


 昨年、12月3日、ブログに「末期ガンにかかった友人①」を掲載した。
昭和35年(1960)、高校を卒業して、一緒にTDK・平沢工場(秋田)に入社した今野隆君が、胃ガンにかかってしまった。ステージ4だという。来年の正月を迎えられるかどうか、不安がよぎる、とあった。
私は12月のブログに、入社当時の思い出等、4回掲載した。
年明け、同期入社の知人の訃報があり、今野君から「彼は優秀だった」とのメールをもらったので、今野君は快方に向かっていると思っていた。
昨日、今野君からメールが届いた。ホッとしながらメールを開いた。
発信者はご子息だった、
「父は残念ながら、4月24日(月)午前7時6分、亡くなりました。病気が判明してから7ヵ月、本人も頑張って闘病してまいりましたが病気に打ち勝つことはできませんでした。」「4月からは食事ものどを通らなくなり、衰弱していくのが目に見えておりましたが、お二人にメールを送りたいと4月13日にはパソコンに向かっておりました。きっと死期が近づいているのが分かり、最後のお礼を伝えたかったのだと思います。結局、これまでのようにメールを打つこも難しくなり、未送信のままでした」

 今野君と最後に会ったのは2019年6月15日(土)である。恒例の「教養クラブ」(TDK独身寮時代の仲間)の例会だった。当日、集まったのは、柏倉先輩、今野君、栗林君、小生の4名だった。
 13:30分発の”はとバス・東京湾クルーズ”。生憎の雨だったが、東京湾を眺めながらの生ビールは美味しかった。17:00~「がんこ上野本店」で夜の研修会。久しぶりにお世話になった諸先輩、同僚の棚卸で大盛り上がり。「今度は秋田で」と今野君。「へば、また」ということで解散。
その後、コロナ禍で「へば、また」を迎えるこができず、今野君の訃報となった。「へば、また」は天国で、ということになってしまった。(写真・手前から柏倉先輩、栗林君、今野君)