友人の西宮聡彦さんから荷物が届いた。開くとご尊父の追悼集「壱百参年の人生」だった。
父・陸軍士官学校53期生・元陸軍少佐・西宮正泰は、昨年10月18日103歳にて旅立ち、11月22日に母(満寿子)の眠る、御殿場の冨士霊園に納骨を無事済ませました。という挨拶文が入っていた。
父正泰は大正8年(1919)、富山県射水郡新湊町(現射水市)西宮神社の神職の子として生まれたという。中学2年の時、軍事教練の配属将校、板津陸軍少佐より呼出があり、「君は幼年学校を受験しなさい」と命令口調で言われたという。幼年学校の募集人員は150名。応募者は8千名。53倍の狭き門だった。正泰は見事合格。北日本新聞に「閣下の卵、幼年学校難関突破」と掲載される。当時幼年学校出の将校が富山聯隊に居られるというので挨拶に行ったところ、その人は陸軍少尉瀬島龍三(後の関東軍参謀、終戦時陸軍中佐、終戦後伊藤忠商事会長)だった。正泰が、入学した時期(昭和9)は軍縮で、幼年学校は東京陸軍幼年学校1校だけだったが戦時色が強まる中、昭和15年に幼年校は全国6校となる。特筆すべきは外国語教育に力を入れていたことで、露、仏、独、英が各校に割り当てられた。正泰は仏を選択した。第一次世界大戦後の世界情勢を反映している。
幼年学校の校長は陸軍中将(その後陸軍大将)の阿南惟幾(あなみこれちか)だった。阿南は終戦時陸軍大臣として第二次世界大戦で本土決戦を主張する陸軍を代表し、終戦に反対し続けるが、最後は昭和天皇の聖断に従って賛成に転じ、玉音放送の朝、自決する。
陸軍のエリートとして激動の人生を生き抜いた正泰は92歳の時「万葉集探訪」を出版する。イギリス人がシュークスピアを、ドイツ人がゲーテのファストを必読しているように、日本人も「万葉集」を国民の必読書にすべきという思いからだった。
ところで、わが父一男は大正12年(1913)、農家に生まれた。1943年出征、45年復員。通信兵だった。千島列島におけるソ連兵とのシュムショ(占守)の戦いで地獄絵を見る。1999年死去。86才。残した言葉は「感謝」だった。
一男と正泰の共通点、それは温顔と筆まめである。父には万葉集を嗜むような教養はなかったが、家を離れた子供達に頻繁に手紙を書いた。
(写真は西宮正泰氏。2019,12.8 陸軍士官学校第53期同期会冒頭挨拶・当時100歳)
お疲れさまです!相変わらず先輩の範囲は広い!ありがとう!
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