2021年7月31日土曜日

東京オリンピック③心を打った尾身会長の言葉


 東京都のコロナ感染者が3千名を越した。政府は30日、緊急事態宣言を埼玉、千葉、神奈川首都圏3県と大阪府に発令することを決定した。
 この事態を受けて菅総理、小池東京都知事、尾身会長(新型コロナ分科会)が会見し、テレビ等で報道された。

菅総理は「今回の宣言が最後になる覚悟で、政府を挙げて全力で対策を講じていく」と発言。
小池都知事はオリンピック開催が感染拡大の要因になり得るかと聞かれたのに対し、「オリンピックの試聴率は20%超えており、ステイホームに一役買っていると」と否定した。
尾身会長は「みんなが危機感を共有していないのが一番

の問題。みんなが一つになって感染対策に取り組めば、感染は必ず下火になる」「それでもダメな場合は次の対応を検討しなくてはならない」と、踏み込んだ。分科会ではロックダウン(都市封鎖)を可能とする法整備の話がでたという。
尾身会長は「感染の原因はハッキリしている。普段合わない人と会うのをなるべく控えて欲しい」と身近な言葉で締めくくった。
感染力の強いデルタ株に対し、3人の指導者はそれぞれの立場で対応策(見解)を語ったが、尾身会長の言葉が一番身に沁みた。
 国民の一人として、この難局を乗り切るために、ステイホームにこころがけたい。幸いテレビでは連日、オリンピックが放送され、次の日本、世界を背負う若人の健闘を味わうことができる。

2021年7月27日火曜日

東京オリンピック②運動会は中止なのに、どうしてオリンピックはやるの・・・?。

 

東京オリンピックがはじまる前、「なぜ、オリンピックを特別扱いするのか・・・」という論調がマスコミに流れた。この流れの中で「コロナで運動会は中止になったのにオリンピックはなぜやるのか?」と子供に聞かれて答に窮したという父親の言葉が紹介された。
 1964年、21才の時に東京オリンピックを経験した私にとって、オリンピック自国開催の印象は強く、日本の誇りでもあった。(この年、東海道新幹線が開通した)今更オリンピックの意義について語る必要はないと思っていた私にとって、「なぜ、オリンピックを特別扱いにするのか・・・」という論調には違和感があった。
 こんな事になった元凶はやはり「コロナにある」。コロナがなければ国論は2分されず、スムースに開催までこぎつけたはずである。
 マスコミにはコロナに惑わされず、丁寧にオリンピックの意義について掘り下げて報道していただきたい。オリンピックに「祭」というようなレッテルを貼るのは命がけで参加しているアスリートに失礼である。
 オリンピックについて丁寧な報道がされていれば「運動会は中止になったのに、どうしてオリンピックはやるの?」という子供の疑問も起きなかったし、父親が答えに窮するという事はなかったと思う。参加選手にオリンピックを中止するよう声を上げて欲しいという事案が発生し、選手が当惑した。というニュースには本当に驚いた。
 東京オリンピックが開幕した。世界の国々を代表して参加した選手達の激闘はやはり凄い。57年前の感動が蘇った。
 オリンピックの意義については「語るよりも体感するのが一番である」。自国開催を体感してない方はこの機会に是非体感して欲しい。(写真は27日の朝日新聞)

2021年7月23日金曜日

東京オリンピック①「命」と「オリンピック」とどちらが大事・・・。



 いよいよ、今日「東京オリンピック2020」が開会式を迎える。
コロナでいろいろなことがあった。
「オリンピックをやるべきか、中止すべきか」で世論は2分された。
 偉い政治家の先生達が「命」と「オリンピック」とどっちが大事なんですか?と問いかける。これにマスコミが乗っかって大混乱。「オリンピックを政治に利用している」とか、IOCの幹部に「オリンピック貴族」というレッテルを貼ったりして、議論の本質を見失いますます混乱。
 幸か不幸か「オリンピック中止」の大規模なデモも起こらず、開会式までたどり着いた。
日本は誰でも自由に自分の意見が言えるので、それがいい意味のガス抜きになり、平穏のうちにあるべき方向に集約されたのだろうか・・・。
 

私の教養レベルでは「命」と「オリンピック」はどちらか比較するものではなく、繋がっている。という認識である。確かに人間は「命」があっての人間である。では人間らしさとはなにか?それは「生きがい」である。「オリンピック」はその象徴である。「オリンピックで躍動するアスリートの姿を見て、人間は感動し、勇気を得て、自分の目指す生きがいを模索し、挑戦する」。「命」と「オリンピック」は繋がっている。
 「東京オリンピック2020」については、いろいろな問題が表面化した。閉会式までいろいろなことが起きるだろう。予測不能なコロナ禍である。無事終わらないかもしれない。
 それはこれからの日本、日本国民、および今後のオリンピックに向けての教訓になる。
 17日間、世界200ヵ国・地域から参加する1万1090人のアスリートの活躍を楽しもう。
 参加国の国旗を見て、日の丸を再認識する。「世界の中の日本」、「世界と日本」を認識するまたとない機会でもある。
  (写真は23日の読売新聞から)


2021年7月14日水曜日

真夏のゴルフとNHKのど自慢


16日(金)、10才年下のYさんに誘われてゴルフにでかけた。
ゴルフはプレーは勿論だが、昼のビール、終わってからのシャワー、パートナーとの会話 も楽しみである。
 車中でYさんが思いがけない話をした。「先週、日曜日(11日)放送されたNHKのど自慢に応募したんですよ」「えー」「実は応募は3回目です。今回も本番には残れませんでした。今回の大会(茨城県牛久市)の応募者は500名。書類審査があるんですよ。ゲストが布施明だったので、”布施明のファンです”と書きました。この作戦が実って書類審査通過。予選会に残ったのは150名。早速カラオケに行って練習しましたね。キーを調整して、うまく歌えましたよ。予選会は前日の土曜日。本番と同じように小田切千アナで進行。ここでアレレでしたね。カラオケのキーが原曲(布施明)のままで、私用には調整してくれない…。残念!本番に残ったのは18名でした」「客席は空席が多かったね」「基本的に無観客なんです。入場が許可されたのは出演者の親戚や友人です。60才代、最後の年ということで、恥と汗をかきました」
 ゴルフで恥と汗をかいたのは私。例によって123の大叩き。しかし、今回は収穫がありました。ドラーバーショット全てがフェアウェイまで飛んだ。(勿論、白杭ティですよ)1度はパートナーと同じ飛距離だった。スプーンでも会心の当たりが一発。150ヤードは飛んだね。スタンスをクロスにしたり、並行にしたり、ボールとの間隔を調整したり、創意工夫。非力ではあるが、まだまだ工夫の余地あり。
 記念写真。真ん中が私・畠山です。10才違いのパートナーと比較すると、明らかに老化の影が…。体も小さくなった。でもまだまだがんばるぞ。
 真夏のゴルフ。さすがに疲れました。普段は夕食時までビールは飲まないのですが、相撲を見ながら、缶ビールのフタを開けてましたね。夕食時は勿論、ビールをいただき、その後、冷たい日本酒。翌朝、目が覚めたら、ゴルフ帰りのTシャツ姿でしたね。

「FM放送エアチェツク60年」今や文化遺産

 隣町に、クラシック音楽愛好家グループ「NPO法人 龍ヶ崎ゲヴァントハウス」がある。この法人の活動の中心は「CDオリジナルコンサート」である。
コンサートに使用される音源は過去にFMで放送された国内外演奏家によるライヴコンサートである。
音源は同法人のNさんが保有しているものである。Nさんは60年にわたって、NHKおよび民放FM局で放送されたクラシックのライブ番組をほぼ完璧に収録し、ライブラリー化している。保管CD、DVDの枚数は2万枚近くになる。中には放送局にないものもあり、文化遺産といって良い。
7月10日(土)のコンサートは「追悼ー名指揮者ジェームズ・レヴァインを偲んで」だった。
レヴァインは今年の3月、77才で亡くなった。レヴァインは1943年、アメリカのシンシナティでユダヤ系の音楽家の家庭に生まれた。若くして欧米の一流交響楽団を指揮。1976年にはメトロポリタンオペラの音楽監督に就任。2004年にはボストン交響楽団音楽監督に就任。2006年同交響楽団との演奏会終了直後にステージから転倒。手術と療養生活。その後セクハラ疑惑でメトの芸術監督を解雇されるなど晩年は不遇だった。
10日のコンサートは、レヴァインが最も輝いていた頃(1982~2002)の演奏をNさんが編集したもの。ライヴならではの生命力に満ちた演奏がくり広げられた。

FM放送によるライヴ収録の音は実際のコンサートの音に近く、終了後の聴衆の拍手はライヴ感を盛り上げる。当日の演奏会の聴衆の拍手は熱狂的だった。
次回のオリジナルコンサートは
8月7日(土)テーマは「没後50年 イーゴリ・ストラヴィンスキー」
http://gewandhaus.sakura.ne.jp/wp/cd-concert-plans/


2021年7月9日金曜日

ブログ自動広告でチャリーン!


 私がブログをはじめたのは2007年1月9日、65才の時である。
それから15年間、書き続けている。
最初は「シュンのドリーム日記」と題し、プロバイダーはyahoo。2009年「人間浴」に改題。プロバイダーをgoogleに変えた。

62才の時、自分史「ドリームⅩ」を書いた。ブログはその続編である。コロナで巣籠の日々が続く。回想を味わうことが多くなった。そんな時、自分史、ブログは本当に役に立つ。

ブログで収入を得ている人がいるということを耳にしたことがある。ある方は月20万ほどの収入があるという。そんな方は月数十万件のアクセスのある方だろう。月数百件のアクセスしかない自分には関係ない話だし、ブログを書く目的は収益のためではない。

とはいえ、暇があったので、イタズラ半分で、「$収益」をクリックしてみた。自動広告を申込みますかという問いがあったので、申し込んでみた。結果「審査があります。審査には数日かかることがあります」との回答。審査があるというのは知らなかった。数日どころか数時間で、「おめでとう!」という審査結果が届いた。これは嬉しかった。ブログ「人間浴」が評価されたのである。

調べてみると、ブログは今やテレビ、ラジオ、新聞、雑誌等と並ぶ情報媒体なのだそうである。テレビや新聞に広告が掲載されるようにブログにも広告が掲載されるのは当たり前なのだそうだ。

今月から私のブログに広告が掲載されるようになった。
私のブログに掲載された広告を読者がクリックすると、チャリーンと私の口座にお金が入る。ただし、1万円稼ぐには3万回くらのクリックが必要というから、小生には関係ない。googleに認めていただいたというこで満足である。


2021年7月6日火曜日

平和の象徴「聖火」、牛久市へ。

 

「東京オリンピック2020」まで、残すところ17日となった。
昨日(5日)、「聖火」が牛久市に到着した。
当日、「走行路警備」を任された、われわれグランドゴルフの仲間5名は11時30分、リレー会場である牛久大仏に到着。眼前に高さ120メートルの「牛久大仏」が聳える。
早朝の雨は小降りになり、まずまずのコンディション。

受付で、スタッフ用のパス、ビブス、キャップ、軍手、合羽、飲み物を受け取る。
 走行路スタンバイは13:10、リレー開始は13:30。それまでの間、走行路である大仏周辺の視察。担当走行路の確認を行い、コーン、コースロープを設置する。
 警備対応としては①地震・悪天候への対応②コロナ感染対応(ソーシャルディスタンスの呼びかけ等)③テロ

予告・不審者、不審物対応④サイバー攻撃対応等がある。
 13:00観客入場、13:10スタンバイ。祭太鼓が響き、やがて、大仏入口付近に先導の踊り手に続き、聖火を持った若者が登場。13:30リレースタート。観客から拍手が沸き起こる。
 リレーは大仏周辺を一周し、15分で無事終了。感動的な一時だった。

 私にとっては57年ぶりの「東京オリンピック」であるとともに日本で開催される人生最後のオリンピックである。世界平和の象徴でもある「聖火」が永遠に引き継がれるよう祈りたい。

 (写真)上から、牛久大仏を走る”聖火”、日本遺産「牛久シャトー」で引継がれる”聖火”、警備担当の私・畠山、スタッフ用パス。


2021年7月2日金曜日

寺内タケシ追悼セミナー


 6月20日頃だったと思う。スマホのメッセージに「音屋セミナー」という告知があった。
差出先はジャズ喫茶「ノーチラス」とある。同喫茶店で6月26日、19:00~行方洋一先生のセミナーを開催するという。テーマは”オーケストラの録音”。行方さんは小生と同世代。日本のポップス界の録音をリードしてこられた”音職人”。

26日、夕刻、ワクチンの接種(第1回)を受けてから会場に向かう。ノーチラスに入店すると、常連の方々で席はほぼ埋まっていた。(定員約15名)
行方さん「6月18日、寺内タケシさん(1939=2021)が亡くなられましたので、プログラムを変更して、前半はタケシさんの追悼にします」とのこと。
行方さんも寺内さんも土浦のご出身。ご自宅も近いとのこと。2人が知り合ったのは土浦の自動車教習所だった。60年も前ことである。お前なにやっているのと寺内さん「東芝レコードで録音をやっております」「そうか」。以来、寺内さんは行方さんを「同県人」と呼んだという。寺内さんはキングレコードの所属だったが、行方さんの企画で東芝レコードからレコードを出すことになった。寺内さんはブルージーンズとブルーコメッツの2つのバンドを引き連れてスタジオに登場。あまりの大音響にスピーカーがビビりそうなので、助手の坊やを重しがわりにスピーカーの上に座らせたという。
 行方さんの解説で「アパッチ」「キャラバン」など、寺内さんの演奏が次々と再生された。中でも小生の印象に残ったのは「さくらさくら」。シュッシュッというリズムはSLのような推進力があった。久しぶりにデンデケ、テケテケというロックバンドを満喫した。
 第2部のオーケストラ収録の話も面白かった。愛聴しているショルティ・シカゴ響のマーラーの「復活」のズズズーンという低弦音は会場の床が抜けるような響きだった。
 団伊久磨(1924-2001)作曲の「交声曲”元の理”」は行方さんがご自身の「宝」と呼ぶ名録音。トランペットのファンファーレが響くと、喫茶店は大ホールの音場空間に変化した。録音当日、真夏だったこともあり、行方さんは短パンにTシャツだった。「お前が録音するのか・・・」と、団伊久磨のひんしゅくをかったとのこと。