2019年9月4日水曜日

家訓「修身斎家治国平天下」


村長だった祖父は「修身斎家治国平天下」という言葉を良く口にした。三十代以上続く畠山家の「家訓」である。実家(秋田)の大広間・床の間にはこの掛け軸がある。(左は牛久・畠山家所有。真言宗西明寺住職・加藤宥真氏揮毫)
 NHK”街道をゆく”プロジエクト「司馬遼太郎の風景」にこんな下りがある。
『日新館(会津藩)が教える朱子学は、儒(孔子)の教えの中でも、ひときわ身を律することにきびしい学問である。前に、四書五経の一つ「大学」を引いて、●其の国を治めんと欲する者は先ず其の家を斉(とと
の)う。と書いたが、朱子学はさらにそれを発展させ、●修身、斉家、治国、平天下。としている。天下を平(たいら)にして、国を治めるためには、家内をととのえ、その上にまだ、わが身を律して学を修めなければならないという。くりかえすことになるが、儒教とは、精神の高揚をひたすらうたった学問なのである。儒教は、学問、ないしは思想の類(たぐい)であって、政治の理想には寄与しても、生(なま)の政治の舞台では役に立たない。そういう意味において、容保(たかもり)”会津藩主・松平容保(写真)”は精神の潔癖な学者肌の人間だったといっていい』
 この下りを読んで、われわれ三兄弟を連想した。兄は農家の長男であるが、国会議員の弁士を務めるなど弁もたった。周囲からは政治家になるのではといわれたが、農業一筋で人生を終わろうとしている。自分はサラリーマンになったが「頑固で保守的だ」と評された、弟は教育者になった。容貌も含め一途なところは容保に似ている。
 明治維新は革命に近い国家的変革だった。西郷隆盛は徳川慶喜の首をはねるのが目標だったが、慶喜の方が役者が上だった。勝海舟に全権を与え江戸城を開城。その犠牲になったのが会津藩。会津藩は儒学の呪縛に拘束され「最後まで宗家(徳川)に忠義をつくす」。藩士だけでなく、婦女子までが弓・薙(なぎ)刀を持って戦い、武器をもたない女子どもは自害した。 
 乱世の時代の一途さは悲劇を生むこともある。

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