(左から私、妹、弟。高橋さん撮影。春風萬里荘で)
5月は伊藤家と秋保温泉、教養クラブの高尾登山、高校同窓ゴルフコンペ(さくら市)とお付き合いが続いたが、仕上げは兄弟会となった。
30日(火)山北(神奈川県)にいる弟が、常陸国出雲大社(笠間市)で開催されている「現代アート展」をみにくるという。弟がわざわざ神奈川から茨城に来るというのに同行しないわけにいかない。しかも同大社の宮司、高橋さんは義弟である。
昼近く、弟と私は出雲大社に到着。高橋夫妻と4人で昼食をとった後、境内の桜林館にあるギャラリー桜林で開催されている「現代アート展」を見学。私は音楽について多少の見識はあるが絵画については素人である。しかし、弟は音楽にも絵画にも造詣が深い。展示品を見て、東京芸大教授OJUNさんの作品を買い求めた。
「現代アート展」の後、高橋さんの愛車ベンツに乗せてもらい、市内にある春風萬里荘に向かう。ここは陶芸、書、料理などの世界で活躍していた北大路魯山人がアトリエとして使用していた建物を鎌倉から移築したもの。魯山人自身の設計による茶室「夢堺庵」で庭を眺めながら抹茶をいただく。ついで、隣接する笠間日動美術館に向かう。ドガ、モネ、セザンヌ、ピカソ、シャガール、梅原龍三郎、岸田劉生、佐伯祐三など、絵画に素人の私でも知っている日欧絵画の巨匠の作品が展示されている。野外彫刻庭園も素晴らしい。笠間にこんな素晴らしい美術館があったのかと感嘆!
再びベンツに乗って、大洗海岸へ。妹が兄弟が集うということで、大洗ホテルを予約した。9階展望風呂から眺める太平洋が素晴らしい。
18時15分から会食。一代で常陸国出雲大社を築いた高橋さんの武勇伝を聞きながら料理とお酒を楽しむ。「ところで、今日の会費は?」と聞くと「いいわよ、兄さん」と妹。ベンツに乗る高橋さん、絵画を購入する弟。皆偉くなったものだ・・・。
2017年5月31日水曜日
2017年5月26日金曜日
高校同窓コンペ。名門紫塚ゴルフに挑む
しかし、プレーは難行苦行だった。距離が長い上、アップダウンがキツイ。打ち下ろしのショートホールでは後1歩のところで、池ポチャ。打ち直しをしたがまたまた池ポチャ。パー3、が10になってしまった。前半(氏家コース)61、後半(葛城コース)59でトータル120。いつもの大叩き、それでもゴルフは面白い。
優勝は秋田から参加した阿部秀夫君。トータル100。夜は隣接するコテージに場所を移して、大宴会。(飲み会に山形から村上廣美君かけつける)
今回、初めて参加した中村辰雄君には驚いた。ゴルフもうまいが、なんとロータリークラブの会員だという。慈善事業を行なっている。偉い!
2017年5月23日火曜日
教養クラブ、高尾山に登る
(右から栗林さん、柏倉さん、平田さん、私)
私の飲み仲間に「教養グループ」というのがある。
会社の独身寮時代(1964年~)からの仲間である。
会の代表は柏倉哲(81才)秋田出身。元社労士、人事担当。会の名づけ親。平田幸紀(77才)長野出身。技術職。NCRに転職した逸材。栗林和彦(70才)静岡出身。人事畑から子会社の社長に。そして小生(75才)秋田出身。テープの商品企画担当。
あれから、53年、よくぞ続いている。
今回(22日)は柏倉さんの提案で、高尾山(標高599m)に登ることになった。なにしろ、柏倉さん、まだ高尾山に登ったことがないという。81才の年齢を考えると、これが最後のチャンスかもしれない。ご本人も「冥途の土産」と語る。75才の私とて、その思いは同じである。
幹事は八王子在住の平田さん。
平田さんは今回の登山に備えて事前調査を行ったという。まずはケーブルカーを降り、そこから1キロにある薬王院まで行き、そこから頂上を目指すかどうかは、皆の体調を考慮して決めようという2段構えだった。薬王院を参拝したところで「どうします?」と平田さん。「柏倉さん、どうします?」と私。「折角だから頂上まで行こう」と柏倉さん。
「ヨイショ、ヨイショ」と掛け声をかけながら、遂に頂上に到着。残念ながら薄曇りで富士山は見えなかったが、近郊の山々、遥かな市街地の眺望は素晴らしかった。
それよりなにより、空気の美味しいこと、水の美味しいこと。
高尾山は大東京のオアシスである。
来年は栗林さんが幹事。今から楽しみです。
(追伸)高尾山に向かう途中、私と柏倉さんは立川の至誠ホームに入院されている渋谷敏則先輩を見舞う。渋谷さんは我々の顔を見て、うなずいて下さった。
私の飲み仲間に「教養グループ」というのがある。
会社の独身寮時代(1964年~)からの仲間である。
会の代表は柏倉哲(81才)秋田出身。元社労士、人事担当。会の名づけ親。平田幸紀(77才)長野出身。技術職。NCRに転職した逸材。栗林和彦(70才)静岡出身。人事畑から子会社の社長に。そして小生(75才)秋田出身。テープの商品企画担当。
あれから、53年、よくぞ続いている。
今回(22日)は柏倉さんの提案で、高尾山(標高599m)に登ることになった。なにしろ、柏倉さん、まだ高尾山に登ったことがないという。81才の年齢を考えると、これが最後のチャンスかもしれない。ご本人も「冥途の土産」と語る。75才の私とて、その思いは同じである。
幹事は八王子在住の平田さん。
平田さんは今回の登山に備えて事前調査を行ったという。まずはケーブルカーを降り、そこから1キロにある薬王院まで行き、そこから頂上を目指すかどうかは、皆の体調を考慮して決めようという2段構えだった。薬王院を参拝したところで「どうします?」と平田さん。「柏倉さん、どうします?」と私。「折角だから頂上まで行こう」と柏倉さん。
「ヨイショ、ヨイショ」と掛け声をかけながら、遂に頂上に到着。残念ながら薄曇りで富士山は見えなかったが、近郊の山々、遥かな市街地の眺望は素晴らしかった。
それよりなにより、空気の美味しいこと、水の美味しいこと。
高尾山は大東京のオアシスである。
来年は栗林さんが幹事。今から楽しみです。
(追伸)高尾山に向かう途中、私と柏倉さんは立川の至誠ホームに入院されている渋谷敏則先輩を見舞う。渋谷さんは我々の顔を見て、うなずいて下さった。
2017年5月21日日曜日
日本モーム協会誌に掲載された小生のメール
先週、飯澤 正さんから封書をいただいた。
開けてみると、日本モーム協会会誌「CAP FERRAT」13号が表れた。飯澤さんの作品が掲載されているに違いないと思い、ページをめくってみると、ありました、ありました、その後がアレレである。タイトルが「この夏のメールの遣り取りから・・・」とあり、読み進むと、昨年交した私(hatashun)と筆者のメールのやりとりがそのまま掲載されている。(事前にうかがっていたが、本当だった…。光栄である)
モームの作品を一度も読んだ事のない私に、飯澤さんは「月と6ペンス」を読むように勧める。74才の私は「月と6ペンス」を読む。その感想はこうだ。「読み始めた。実に面白い。ある画家の、私の想像を超えた破天荒な生き方が描かれている。最近、人間の生きがいってなんだろうと思う時がある。モームの作品はこの迷いに示唆を与えてくれそうだ。というと哲学書のようだが、とんでもない。読みだしたら止められない面白い本なのである」
ところで、メールも活字になって、このような本に掲載されると、自分の手を離れて、一つの作品のような存在感を持つ。SNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)ということで、キーボードで文字を打ち、画面で文字を読む時代である。しかし、活字文化を忘れてはいけない。「人は逝くが、記録は残る」その記録とはネット上の記録ではない。紙に印刷されたものであり、本であり、それはこれからも変わらないと思う。ネット上の文字は簡単に改変され、信頼性に欠ける。信頼できるのは活字である。閲覧性の上でも活字は優れている。
冒頭に掲載されている、会長 行方昭夫氏(英文学者・東京大学名誉教授)の特別寄稿「モームと私、最初から今まで」が興味深い。行方先生は1951年大学進学。モームを原書で読む読書会に参加。「最初の頁から引きこまれた」という。
2017年5月17日水曜日
伊藤家、秋保サミット
15日と16日、仙台の秋保を舞台に妻の兄弟の親睦会が行なわれた。参加したのは義兄、伊藤憲夫妻(名取)、私と妻(牛久)、義弟、猛夫妻(ひたちなか)の3家族。幹事は兄さん。
会場は秋保温泉「伝承千年の宿 佐勘」。半年前、兄さんから電話があった。「場所は佐勘にしたよ」。”佐勘”という名前に熱がこもっていた。佐勘は伊達家の御殿湯として有名だが、昨年5月、G7仙台、財務大臣中央銀行総裁会議という国際会議の会場にもなった。
15日9時、牛久を出発。午後2時過ぎに佐勘に到着。和風つくりの玄関と”佐勘”の垂れ幕が迎えてくれた。(写真・上)チェックインをする。ロビーの広いこと。係の方に案内されて鯉の泳ぐ庭を見ながら、エレベーターに乗る。そのエレベータの上昇の静かなことに驚く。10階の部屋に到着。窓外の眺望に溜息が漏れる。新緑の山が両翼に広がり、眼下に名取川が流れる。「佐勘流のおもてなし」の序章である。温泉、食事、全てに心がこもっていた。これぞ伝統の日本旅館である。
翌日は、秋保カントリーでゴルフ。8時にスタートし、休憩なしでワンラウンド。驚いたのは兄さんのティーショット。パンチショットの打球は低い弾丸で、200ヤード近く真っすぐ飛ぶ。79才とは思えないパワーである。猛さんのアイアンショットの鋭さにも驚いた。私も166ヤードの谷越えのショートを無事通過。ヤレヤレ・・・。
男性陣がゴルフの間、女性陣は秋保の観光をした後、”佐勘”で昼食。(旦那さんの話で盛り上ったのでは・・・?)2時、伊藤家のサミットは予定通リ終了。7時に無事牛久に帰宅した。
元建設会社の仙台支店長を務めた兄さんの”おもてなしサミット”は万全だった。兄さん、伊藤家の皆さん、ありがとう。
2017年5月11日木曜日
母さん(100歳)ありがとう!
三男、幸三の孫に囲まれた母(2017、5、秋田の実家で)
私の母、チヨミは1917年(大正6)生まれ。今年100歳になる。母は代々郵便局長を務める資産家の家に生まれた。19歳で父、一男と結婚。1999年(平成11)父、86歳で亡くなる。現在、兄夫婦と秋田(由利本荘市)の実家に住んでいる。
母は3人の男子と2人の女子に恵まれる。この中で一番母に心配かけたのが私である。
私の学校の成績は中と上の間を行ったり来たり、母は思いあまって担任の先生に手紙を書く。運動会といえば「ビリにだけはなるな!」と、激励。私生活では、小学生の頃まで寝小便を垂れていた。業を煮やした母は何度か蔵に私を閉じ込めた。
高校を卒業すると、隣町、平沢町(今のにかほ市)にあるデンカ(東京電気化学工業→TDK)に就職する。以下、1979年(昭和54)母からもらった手紙、「貴方が家からデンカの平沢工場へ通っておった時の事。私は4時に起きてご飯を作り、夜の明けやらぬ中を送り出しました。鮎瀬の橋の架け替えの時は舟で渡ったの。帰り夜遅くなった時、舟頭がいないので、自分で漕いで渡ろうとして、川に落ち、自転車もカバンもズブ濡れという事もありました」。
私が妻、タキ子と巡り会えたのも母のお陰です。母の同級生が仲立ちをして下さったのです。以下、母の手紙の続き「洋三(兄)がよく話ております。”俊三(私)の子供達は坂部(妻の出身地)に似て、育ちが違う”と。直子さんは大人しく、頭がよい。暁ちゃんも学校へ行ってハキハキと見違えるようになりました」。
母さん、ありがとう。秋の100歳、誕生パーティ楽しみにしております。
私の母、チヨミは1917年(大正6)生まれ。今年100歳になる。母は代々郵便局長を務める資産家の家に生まれた。19歳で父、一男と結婚。1999年(平成11)父、86歳で亡くなる。現在、兄夫婦と秋田(由利本荘市)の実家に住んでいる。
母は3人の男子と2人の女子に恵まれる。この中で一番母に心配かけたのが私である。
私の学校の成績は中と上の間を行ったり来たり、母は思いあまって担任の先生に手紙を書く。運動会といえば「ビリにだけはなるな!」と、激励。私生活では、小学生の頃まで寝小便を垂れていた。業を煮やした母は何度か蔵に私を閉じ込めた。
高校を卒業すると、隣町、平沢町(今のにかほ市)にあるデンカ(東京電気化学工業→TDK)に就職する。以下、1979年(昭和54)母からもらった手紙、「貴方が家からデンカの平沢工場へ通っておった時の事。私は4時に起きてご飯を作り、夜の明けやらぬ中を送り出しました。鮎瀬の橋の架け替えの時は舟で渡ったの。帰り夜遅くなった時、舟頭がいないので、自分で漕いで渡ろうとして、川に落ち、自転車もカバンもズブ濡れという事もありました」。
私が妻、タキ子と巡り会えたのも母のお陰です。母の同級生が仲立ちをして下さったのです。以下、母の手紙の続き「洋三(兄)がよく話ております。”俊三(私)の子供達は坂部(妻の出身地)に似て、育ちが違う”と。直子さんは大人しく、頭がよい。暁ちゃんも学校へ行ってハキハキと見違えるようになりました」。
母さん、ありがとう。秋の100歳、誕生パーティ楽しみにしております。
2017年5月4日木曜日
海外出張の思い出
5月連休、終活の一環として写真アルバムの整理中である。
まず、アルバムをどう分類するかが問題である。年代別にするか、家族、会社、学校、地域、趣味等の分野別にするか?いずれにしろ15冊くらいになってしまう。
会社関係の写真で際立つのは、海外出張の写真である。通算すると16回、海外出張している。私はカセットテープ、ビデオテープなど記録メディアの商品企画を担当していた。売上の半分以上は海外なので、商品計画を立案する時は海外市場をみて、販売サイドの意見も聞かなくてはならない。商品が出来上がると、海外の営業拠点を巡回して営業マンや、マスコミに商品説明をしなくてはならない。
海外出張の写真を整理していたら、大型のリムジンをバックにした写真が見つかった。そのリムジン、アメリカの大統領が乗るような威容である。(写真・上)え、こんな凄い車でお得意先をまわっていたの!確認したところ、1995年、ニューヨークで撮影したものである。この時は役員の方が一緒だった。それにしても凄い!
もう一枚は1983年、中近東の現地販売代理店の方々との集合写真である。(写真・下)この時はドバイ、クウェート、ジェッタ(サウジアラビア)の市場視察をした。当時、中近東市場はレンタルカセット、ビデオの全盛時代。信頼性の高いTDKテープはレンタルショップで高い評価を得、売上が急増していた。
海外の販売責任者が私の上司である澤野事業部長に尋ねた。「なぜ、畠山さんに商品企画を担当させるんですか?」(畠山は農林高校の卒業で、オーディオ・ビデオを学んだわけではない。それに語学力はゼロ)これに対して澤野さんは「畠山君はセンスがあるから」と、サラリと答えた。その澤野さんも、秋田工場にいた私を東京本社に呼んで下さった沖山さんも、もう、この世にいない。
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