(日本海に沈む太陽。夕陽の右側に飛島が見える)
「TDK歴史みらい館」の見学が終わったら、3時過ぎだった。
私は淡路島ご出身の上田さんを象潟に案内した。
今から320年以上前、松尾芭蕉は松島に次いで、象潟を旅している。この頃、象潟は潟であり、九十九島が浮かんでいた。芭蕉は「おくの細道」に『松島は笑うが如く、象潟は憾(うら)むが如し』と記している。その百年後、地震で隆起して潟はなくなったが、田圃に島が点在し、昔の面影を偲ぶことができる。
道の駅「ねむの丘」6階展望室に昇る。東側に鳥海山を背景に九十九島が広がる。西側を見ると日本海、ちょうど日本海に夕陽が沈むところである。私は急いで展望室をでて、海辺でシャッターを切った。
翌日、田沢湖に車を走らせた。車は15年乗り続けている、三菱の「エアトレック」(走行距離10万キロ)。今回の旅に合わせてタイヤを交換した。快調である。
田沢湖は水深423メートル、日本一の深さである。湖畔に昭和43年、高村光太郎の弟子、舟越保武作による「たつこ像」が建つ。金色の像で実に美しい。たつこは田沢湖の水を飲んで龍になったという。観光バスから中国人のご婦人達が降りてきて賑やかである。
秋田駒ヶ岳を望む高原のホテルに泊まる。夜の静寂は格別である。音といえば「シーン」という音・・・。朝起きると、駒ヶ岳山頂が雪で白い。麓の紅葉と見事なコントラストを描いていた。
上田さんと過ごした2泊3日の旅行だった。上田さんは慶応ボーイで国際ビジネスマン。年は小生より2歳年上。知識の豊富なのに驚く。2人の共通の話題は音楽だった。
2016年10月25日火曜日
2016年10月24日月曜日
秋田の旅(中)80年の歴史と未来「TDK歴史みらい館」
(写真、右上から、みらい館入口、ゲストハウス入口、ハウスでご馳走になった昼食)
TDKは1935年、日本で発明された磁性材料「フェライト」を工業化する為に誕生した。創業したのは秋田県にかほ市出身の斎藤憲三氏。そのTDKは今年創業80周年を迎える。売上1兆円。従業員9万名(全世界)の大企業に成長した。
創立70周年を記念して創設された「TDK歴史館」が80周年を迎える今年、TDK Museum「TDK歴史みらい館」として10月7日、リニューアルオープンした。この館をオープンするに当たっては、TDK秋田ОB、千崎さん、本社・広報部長、小暮さんの並々ならぬ努力があった。
資料の収集等については、磁気テープ事業部ОBの私、海外資料の収集については元・TDKアメリカの社長、上田さんが協力した。そんなご縁もあって、今回、小生と上田さんは秋田の旅を行った。秋田県南、日本海岸の国道7号線を走って驚くのは、にかほ市、由利本荘市に展開するTDKの工場群である。その数9拠点。従業員数5,000名。
「TDK歴史みらい館」(入場無料・月曜日休館)では、TDKの80年の歴史と未来を体感できる。TDKの名前を全世界に広げた、カセットテープの全商品も展示されている。「フェライト」から端を発した磁性材料関連商品が、テレビ、ラジオ、パソコン、自動車等にどう役立ち、今後、どう貢献していくかも体感できる。一度では見切れない。
「TDK歴史みらい館」のある場所はTDK創業の頃からある平沢工場の跡地である。私は高校を卒業して1960年(昭和35年)TDKに入社した。配属されたのは平沢工場の総務課だった。1961年秋田国体が開催された。その時三笠宮妃殿下が来工された。当時の山﨑社長、小松工場長と並んで、妃殿下と共に、私も記念写真に収まった。
本荘の実家から平沢のTDKに羽越線で通勤した。鳥海山の北側にある日住山から昇る朝日、日本海に沈む真っ赤な夕日。そんな朝日と夕日を見ながら3年間、TDKに通勤した。
秋田の旅(上)月産40億個、本荘産、積層チップコンデンサ
TDK-МCC・本荘工場と積層チップコンデンサ(右上)
10月19日~20日、秋田を訪れた。
由利本荘市にある巨大な工場(TDK-MCC・本荘工場)からレポートしよう。この工場、私の生まれた鮎瀬部落の隣にある。実家で農業をやっている兄が「TDK、随分大きな工場作ったな」と感嘆の声をあげていた。TDKのご厚意で見学することができた。
敷地面積7万5千坪(東京ドーム2棟分)、工場面積1万7千坪、工場の大きさは幅110m、長さ352m、従業員1,400名。工場の中に入ると、廊下の長い事、ながいこと、向こうから歩いてくる社員が豆粒のよう。元気な時で良かった。
この工場で作っているのは積層チップコンデンサ。コンデンサは電圧を安定させ、ノイズを取り除き、電気信号を取り出す電子機器に不可欠な電子部品、スマホには500個、パソコンには1,200個、TVゲームには700個のチップコンが使用されるている。
この積層チップコン、大きさは米粒ほど、最近は砂粒ほどに極小化されている。この微小なチップが300層~700層になっているというから驚く。月産生産量40億個というのにも驚いたが、この砂粒の特性、外観すべて全数検査しているというから驚きを超えて呆れてしまった。(お米は一粒づつ検査しませんよね)
生産は一貫方式。2ミクロン(1/1000)の誘電体ペーストと電極ペーストを交互にコーティングし、焼成、切断、加工し、検査する。極微の世界だけにその製造設備、方法はノウハウの塊である。検査時間も1個、1秒以下の高速スピードだった。
廊下で行きかう社員は故郷の後輩達である。すれ違う社員が私達に丁寧に頭を下る、その姿に胸が熱くなった。私が少年の頃「江戸で相撲とる本荘米」という言葉があった。工場を見て「世界で相撲をとる本荘産チップコン」という言葉を連想した。本荘米も斜陽の傾向にあるが、この工場によって本荘米が再起する事を願う。
2016年10月15日土曜日
ゴルフコンペで優勝!「桜林館」「君の名は」
(「柴塚ゴルフ倶楽部」のホテル)
春と秋、高校時代の同級生とゴルフコンペを行っている。
13日のコンペで初優勝!恐らく小生の生涯で最初で最後の記録になるであろう。
スコアは116。3桁で優勝なんてありえない。つまり、私は過大なハンディキャップをいただいていた、という事である。今年の5月のコンペでは123も叩いて最下位だったので同級生が気を使ったのである。
それにしても前半のプレーは信じられない。最盛期の頃と変わらない好ショットが続いた。特に2番ホール、235ヤード、パー3では2オン、10メートルのパーパットをねじ込んだ。ひょっとしたら、最近続けているグランドゴルフの成果かもしれない。
ゴルフ場は杤木県さくら市にある「柴塚ゴルフ倶楽部」。コースも良いが、隣接するホテルが素晴らしい。リゾートホテル顔負けである。豪華な温泉付き、食事も美味しかった。
翌日はさくら市から、笠間市へのドライブを楽しむ。山間を走りながら、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を聴く。至福の一時である。
笠間市にある「出雲大社」による。境内にある「桜林館」で展示会が行われている。今注目されている画家の代表作を集めたものだ。その見事さに圧倒される。(11月27日まで。入場無料)
その後、イオンモール水戸内原店による。ここの映画館で上映されている「君の名は」を観る。「君の名は」といっても岸恵子と佐田啓二のリバイバルではない。アニメ映画である。最後のシーン、魅かれあった若者同志が「君の名は」と尋ねるシーンは74才の私でも胸が詰まった。
ところで、「桜林館」で見た絵画と「君の名は」に共通点を感じた。それは私には想像できない現代の作家(制作者)達の発想であり、精緻で美しい表現力である。
春と秋、高校時代の同級生とゴルフコンペを行っている。
13日のコンペで初優勝!恐らく小生の生涯で最初で最後の記録になるであろう。
スコアは116。3桁で優勝なんてありえない。つまり、私は過大なハンディキャップをいただいていた、という事である。今年の5月のコンペでは123も叩いて最下位だったので同級生が気を使ったのである。
それにしても前半のプレーは信じられない。最盛期の頃と変わらない好ショットが続いた。特に2番ホール、235ヤード、パー3では2オン、10メートルのパーパットをねじ込んだ。ひょっとしたら、最近続けているグランドゴルフの成果かもしれない。
ゴルフ場は杤木県さくら市にある「柴塚ゴルフ倶楽部」。コースも良いが、隣接するホテルが素晴らしい。リゾートホテル顔負けである。豪華な温泉付き、食事も美味しかった。
翌日はさくら市から、笠間市へのドライブを楽しむ。山間を走りながら、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を聴く。至福の一時である。
笠間市にある「出雲大社」による。境内にある「桜林館」で展示会が行われている。今注目されている画家の代表作を集めたものだ。その見事さに圧倒される。(11月27日まで。入場無料)
その後、イオンモール水戸内原店による。ここの映画館で上映されている「君の名は」を観る。「君の名は」といっても岸恵子と佐田啓二のリバイバルではない。アニメ映画である。最後のシーン、魅かれあった若者同志が「君の名は」と尋ねるシーンは74才の私でも胸が詰まった。
ところで、「桜林館」で見た絵画と「君の名は」に共通点を感じた。それは私には想像できない現代の作家(制作者)達の発想であり、精緻で美しい表現力である。
2016年10月5日水曜日
美酒に負け、記憶喪失!
(観光やな「ひのきや」で一杯)
10月4日(火)6時前、目が覚めた。
なんだか、おかしい。着ているものを見ると下着のままである。どうしてだろう?顔を洗っていると、家内が起きてきた。「あなた大丈夫?芝田さん弁当届けてくれたわよ」
なんの事をいっているんだろうと思った。家内の話によると、昨日の夕方、芝田さんの奥様がバスに私が下妻で買った弁当を忘れたので届けて下さったのだという。
私は下妻の「道の駅」に止まったのは記憶しているが、以降、今朝までの事が全く記憶にない。バスが下妻を出発したのは夕方4時頃、牛久には5時頃到着したのだが、4時以降の記憶が全くないのである。今朝までの約14時間である。
10月3日(月)、私が住む、牛久市刈谷地区ベテランズクラブ(老人会)恒例の「鮎研究会」が行われた。昨年から私は幹事を仰せつかっている。行先は栃木県那須烏山市の観光やな「ひのきや」。牛久から100キロ、休憩を入れて約3時間の行程である。
8時、刈谷町出発。幹事席は一番前。私は民生委員の芝田さん、OGの酒井さんに挟まれた席。社会的にも信頼できる方を両翼に於いた最高の席。これがオットドッコイだったのである。
バスが刈谷をでて、6号線に入ると、芝田さんが左の方からどうぞとキンキンに冷えた缶酒を出す。右手から酒井さんが「おつまみも必要ね」と柿の種を差し出す。私は朝からアルコールをいただくという習慣がない。ましてや日本酒はほとんど飲まない。しかし、冷たさに汗をかいた「菊正宗」の缶はいかにも美味しそう。「いただきます」やはり美味しい。日本酒もいいもんだ。1缶目が無くなると、芝田さんが冷凍庫から取り出す。
「ひのきや」では、鮎を肴にビールをいただく。塩焼きの鮎は頭から丸ごと食べても柔らかく、実に美味しい。帰りのバス。また、芝田さんに缶酒をすすめられる。そして遂にノックダウンとなったのである。私にとっても家内にとっても、今回の記憶喪失は初めての経験だった。
芝田さん、酒井さん、酒に負けないよう体と心を鍛えますので、これからもよろしく。
10月4日(火)6時前、目が覚めた。
なんだか、おかしい。着ているものを見ると下着のままである。どうしてだろう?顔を洗っていると、家内が起きてきた。「あなた大丈夫?芝田さん弁当届けてくれたわよ」
なんの事をいっているんだろうと思った。家内の話によると、昨日の夕方、芝田さんの奥様がバスに私が下妻で買った弁当を忘れたので届けて下さったのだという。
私は下妻の「道の駅」に止まったのは記憶しているが、以降、今朝までの事が全く記憶にない。バスが下妻を出発したのは夕方4時頃、牛久には5時頃到着したのだが、4時以降の記憶が全くないのである。今朝までの約14時間である。
10月3日(月)、私が住む、牛久市刈谷地区ベテランズクラブ(老人会)恒例の「鮎研究会」が行われた。昨年から私は幹事を仰せつかっている。行先は栃木県那須烏山市の観光やな「ひのきや」。牛久から100キロ、休憩を入れて約3時間の行程である。
8時、刈谷町出発。幹事席は一番前。私は民生委員の芝田さん、OGの酒井さんに挟まれた席。社会的にも信頼できる方を両翼に於いた最高の席。これがオットドッコイだったのである。
バスが刈谷をでて、6号線に入ると、芝田さんが左の方からどうぞとキンキンに冷えた缶酒を出す。右手から酒井さんが「おつまみも必要ね」と柿の種を差し出す。私は朝からアルコールをいただくという習慣がない。ましてや日本酒はほとんど飲まない。しかし、冷たさに汗をかいた「菊正宗」の缶はいかにも美味しそう。「いただきます」やはり美味しい。日本酒もいいもんだ。1缶目が無くなると、芝田さんが冷凍庫から取り出す。
「ひのきや」では、鮎を肴にビールをいただく。塩焼きの鮎は頭から丸ごと食べても柔らかく、実に美味しい。帰りのバス。また、芝田さんに缶酒をすすめられる。そして遂にノックダウンとなったのである。私にとっても家内にとっても、今回の記憶喪失は初めての経験だった。
芝田さん、酒井さん、酒に負けないよう体と心を鍛えますので、これからもよろしく。
2016年10月2日日曜日
遺された勲章と日記
(勲4等旭日小綬章と日記帳)
TDKの役員をされていたAさんのお孫さんからメールをいただいた。
「実は祖父の遺品があります。処分しようと思っているんですが、もしかしたら貴重なものかもしれません。一度見ていただけないでしょうか」という趣旨のメールだった。
お孫さんにお目にかかり遺品をお預かりした。日記、勲章、表彰状など、数点である。
博文館の日記帳を取り出してみた。日々の出来事が一日一頁全面にわたって綺麗な文字で書かれている。驚きである。
Aさんは、TDKの役員のかたわら、業界のトップを務めておられた。
当時の会社の状況、業界の状況が手にとるようにわかる。
私は当時30代前半だった。Aさんは雲の上の方だったが、われわれ一般社員にも笑顔で接して下さった。「そうか、あの時はそうだったのか」とうなずきながら拝見した。
それにしても、Aさんの交際範囲の広いのには驚いた。会社、業界のみならず、芸能・文化関係まで及ぶ。
Aさんが叙勲された勲章は「勲4等旭日小綬章」だった。
この勲章は国や公共に対して特に顕著な功績のあった方に贈られる。
このような勲章を叙勲された役員の遺品については会社に判断してもらうのが妥当だと私は思った。幸い、TDKには「TDK歴史みらい館」がある。
TDKの役員をされていたAさんのお孫さんからメールをいただいた。
「実は祖父の遺品があります。処分しようと思っているんですが、もしかしたら貴重なものかもしれません。一度見ていただけないでしょうか」という趣旨のメールだった。
お孫さんにお目にかかり遺品をお預かりした。日記、勲章、表彰状など、数点である。
博文館の日記帳を取り出してみた。日々の出来事が一日一頁全面にわたって綺麗な文字で書かれている。驚きである。
Aさんは、TDKの役員のかたわら、業界のトップを務めておられた。
当時の会社の状況、業界の状況が手にとるようにわかる。
私は当時30代前半だった。Aさんは雲の上の方だったが、われわれ一般社員にも笑顔で接して下さった。「そうか、あの時はそうだったのか」とうなずきながら拝見した。
それにしても、Aさんの交際範囲の広いのには驚いた。会社、業界のみならず、芸能・文化関係まで及ぶ。
Aさんが叙勲された勲章は「勲4等旭日小綬章」だった。
この勲章は国や公共に対して特に顕著な功績のあった方に贈られる。
このような勲章を叙勲された役員の遺品については会社に判断してもらうのが妥当だと私は思った。幸い、TDKには「TDK歴史みらい館」がある。
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