2023年7月28日金曜日

暑中お見舞い/利根の渡し船

 今月はじめでした。                                
友人と取手で会って昼飯を食おうという約束をしていました。
「それでは明日」というように確認のメールを入れたんですが、返事がありません。

当日、約束の時間に取手駅東口で待っていたんですが、友人は現れませんでした。
私の年頃になると、友達も若くないから、こんなことは予想の範囲です。折角、取手まできたので、利根川沿いを散歩してみようと思いました。
まず、驚いたのは駅前から利根川方面に抜ける細い通りの飲食街。いや驚きました。居並ぶお店は閉まっているだけでなく、廃屋通りといった感じでした。どこの旧市街も惨憺たるものなんですね。
土手伝いを歩いていると、小堀(おおぼり)の渡し方面という矢印がありました。矢印に沿って歩いていくと「運行中」の旗が見えます。ひょっとして渡し船に乗れるのではないかと、トキメキまし
た。
「お客さん、船がでますよ」の船頭さんの声につられて乗船。往復400円を払い、船上の人になりました。全く思いがけない船遊びでした。救命袋を背負うのもはじめて、乗客は私一人で。船は川上の常磐線、国道6号線方面の船着き場に寄った後、引き返し、
川下に進み、対岸にある船着き場に寄り、出発地に戻りました。約1時間の船遊びでした。
 数日経って、友人から「先日は申し訳ありません。急病になってしまいまして」無事で良かった。自分だっていつドタキャンやるかわからい。

「小堀(おおほり)の渡し」は大正13年(1914)運行開始。来年は110周年になる。午前9時から1時間おきに出航する。終航は午後4時。毎週水曜、年末年始、強風や増水の時は欠航になる。
https://www.toride-kankou.net/page/page000009.html

2023年7月25日火曜日

炎暑のイベント(下)ドクター住田さんのセミナー

 小山実稚恵さんの名演に酔った翌日、18日(火)も35度を超える猛暑だった。
この日も意を決してでかけた。13:30~浅草橋のTDK柳橋倶楽部でTDKパソコンクラブのセミナーがある。講師はTDK・OBの住田成和さん。住田さんは米国MIT(マサチューセッツ工科大学)でドクターの資格を取得した逸材。私は住田さんとゴルフをご一緒したことがあり、機会があったら是非、専門分野のお話をうかがいたいと思い、パソコンクラブに提案したのであった。
講演のテーマは「楽しく学ぼうTDKの最先端技術”スマホから宇宙まで”」①スマートフォン(第5世代移動通信システム)②PC(小型軽量・高速大容量・高機能)③TV(高密度・高精細//4K8K/16K32K)④自動車(EV/HEV/PHEV/FCV/自動運転)
住田さんの話によれば、これからの車の動力と機能は電子部品、電子デバイスの集合体となり、走るコンピュータになるという。電子部品メーカーであるTDKの役割はますます大きくなるとのこと。それだけ技術競争もは激しくなるということでもある。
現在、住田さんは理工系大学院生に講義をしている。技術屋でない私には住田さんの話の半分も理解できなかったが、理工系の大学院生になったように気分が高揚したのであった。
終ってから住田さんは「今日、セミナーができたのも畠山さんにお陰です」と挨拶にこられ、お酒も飲めないのに、終了後の「懇親会」に参加して下さった。常に謙虚さを失わないドクターである。住田さんありがとう。(写真、右が住田さん、左が畠山)





2023年7月22日土曜日

炎暑のイベント(上)燃え上がった小山実稚恵

17日、うだるような暑さである。気温35度。気合を入れて駅に向かう。3時から水戸でNHK交響楽団のコンサートがある。N響のコンサートだったら東京でも聴ける。ただ、N響を東京で聴くとなると良い席が取れない。今回は19列目のセンターの席が獲れた。しかもお値段は5,500円である。

曲目の前半はラフマニノフ作曲ピアノ協奏曲第3番。ピアノ協奏曲の中で、技術的にも音楽的にの難曲中の難曲といわれる曲である。小山実稚恵が弾く。バックは広上淳一指揮のN響。小山が燃えた。フォルテの部分では、全身をバネのように使って鍵盤を叩く。オケの最強音と融合した強烈な音がホールを満たす。独奏部分では研ぎ澄まされた美音がジェットコースターのように駆け回る。小山はラフマニノフに取りつかれたように弾きまくる。衝撃的な演奏だった。
後半、広上淳一が指揮したベートーヴェンの交響曲第7番も良い演奏だったが、予測の範囲。音は抜群。このホール、客席数1,500名。しかも私の座った席は1階席でもせり上がったところの中央である。左サイドから第1ヴァイオリン群、右サイドから第2ヴァイオリン、チェロ、コントラヴァスが聴こえる。ピアノは中央。まさにステレオサウンド。どんな高価なオーディオ装置でも再現できない音場空間だった。
N響はザルツブルグ音楽祭にも参加しているオケだある。その名人芸を十分味わうことができた。
帰り、5時34分水戸発の電車に乗る。奮発してグリーン車2階席へ。冷たいビールをいただきながら、窓外を見る。夕焼けの逆光の中に真っ黒な筑波山が浮かぶ。
東京では味わえない、贅沢な演奏会であり、その余韻だった。



2023年7月16日日曜日

八木節を世界に広めた巨匠。外山雄三逝く

7月14日の新聞に「戦後日本を代表する指揮者・作曲家として知られた外山雄三さんが11日、慢性肝臓病のため長野県の自宅で死去した。92歳だった」という記事が掲載された。                                             
外山雄三(1931~1923)といえば、岩城宏之(1932~2006)、小澤征爾(1935~)と並んで戦後日本のクラシック音楽界を牽引した巨匠として馴染み深いが、一般の方の認知度は低いと思う。                                        
 外山雄三を語る時、忘れてならないのは1960年(昭和35)のNHK交響楽団の世界一周演奏旅行である。戦後15年、NHK交響楽団の母体であるNHK開局35周年を記念して、インドを皮切りにソ連、ヨーロッパ、アメリカの12ヶ国、23都市での演奏旅行を行った。オーケストラによる地球一周の演奏旅行はカラヤン・ウィーンフィルに継ぐ史上2番目の快挙だった。当時、外国に行くというのは大変なことであり「もう日本へ帰ってこれないのではないか」と悲壮な決意をした楽員もいたという。                        
 この演奏旅行の指揮を任されたのが若干29歳の外山と28歳の岩城だった。外山はこの演奏旅行のために、アンコール曲として、急遽「管弦楽のためのラプソディ」を作曲した。この曲は「炭鉱節」「ソーラン節」「八木節」をモチーフにした曲だった。大太鼓、小太鼓、チャンチキなどあらゆる打楽器を駆使した日本民謡が演奏されると、どこの会場でも観衆は総立ちになり熱狂した。「フジヤマ、ゲイシャ」しか知られていなかった外国に日本文化の一端を実感させる演奏旅行となった。                          
 晩年は作曲のかたわら、大阪交響楽団を指揮した。ベートーヴェン、ブラームス、チャイコフスキーの交響曲を指揮した。偶然であるが、私の友人である乙黒正昭さんが録音を担当した。2019年大阪・シンフォニーホールで米寿を迎えた外山先生の「第9」を聴いた。立ったままの堂々たる指揮ぶりだった。                             

2023年7月11日火曜日

先輩(91才)の証言。カセット事業草創期

カセットテープでトップメーカーだったTDKに勤務していた私に度々取材がある。定年後も会社や社会のお役にたてるのはありがたい。カセットテープに感謝である。
7月6日、これまでにない「テーマ」の取材があった。そのテーマとは「カセットテープ事業草創期」。日本でカセットテープの生産が始まったのは1966年(昭和41)。私がカセットテープ事業に携わったのは1968年からなので私では対応できない。対応したとしても、先輩からの伝聞になってしまう。
当時テープ事業で活躍されていた方々はほとんどが亡くなられている。ただ、一人、T氏は健在だとう確信があった。
私はT氏に電話を入れた。電話口にでたT氏はお元気だった。
「カセットのことなら君が対応するのが一番いいと思うよ」
「でも先輩、昭和41年、私はテープの仕事はしておりませんし、フィリップスとの標準化契約の話なんか聞かれたら答えられません」「そうか。わかった」
T氏は昭和7年生まれ。私と10才違い。91才である。
T氏に電話をしたのは6月はじめである。7月6日の取材が待ち遠しかった。私もT氏も高齢である。二人ともそれまで倒れるわけにいかない。
取材は日本橋にあるTDK本社で行われた。26階の応接から銀座、晴海方面のビル街が見える。(写真)
「TDKもこんな立派なビルに住めるようになったのか」
T氏は感慨深げである。
私がT氏にお目にかかったのは1968年、TDKは神田の貸しビルだった。ビルの入り口で管理人の叔父さんが七輪でサンマを焼いていた。
カセットテープ草創期の生き証人T氏の記憶は確かだった。
テープメーカーだけでなく、レコーダメーカーも含めた業界の話が次々に飛び出し、取材記者も前のめりになった。


2023年7月2日日曜日

越後屋(三越)、創業350年の風格

6月28日(水)、出版社の取材があった。13:45分、Yさんと三越日本橋店のライオン前で落ち合う約束をした。20分前に着いた。                      
ビルの壁面に「創業350年」という看板がある。三越は江戸時代の1973年(延宝元年)ここ日本橋に呉服屋「越後屋」として誕生した。今年が350年目だというのである。正面入り口の左右にライオンの像があり、その間で丸に”越”の暖簾が揺れている。(写真・上)暖簾を潜り店内に入ると受付テーブルがあり、その脇に人工のミニ庭園があるではないか。(写真・下)岩を配した中を清水が流れている。暑さを忘れてしまった。
受付を通り抜けると、吹き抜けになっており、天女像が天上を目指して聳えている。名所旧跡にきたような気分になる。(写真・左)                               

三越日本橋の本館(1935年竣工)そのもが国の需要文化財だ。2頭のライオン像は大3年(1914)に設立。天女像は昭和35年(1960)完成。三越のお客様に対する基本理念「まごごろ」をシンボリックに表現したもので三越日本橋店の象徴。                   
私は昭和17年秋田生まれ。中学の修学旅行(昭和32年)は東京だった。皇居と並んで「三越」が観光コースに含まれていた。その同級生も、もう81~82才。彼ら、彼女らは、もう三越を見ることはあるまい。そう思うと胸が詰まる。
「やあ、お待たせ」Yさんが笑顔で登場。「へえ、創業350年。地下鉄の駅名に”三越前”というのがあるのだから、三越はやっぱり凄いわ」といってライオン像を撫でた。