2020年6月29日月曜日

鷹農は永遠!⑥郡立時代(明治)のエピソード

(小生の母校、秋田県立鷹巣農林高校は2010年、統合により廃校。卒業生の一人として母校を語り継ぐ)

鷹巣農林は明治43年、郡立農林学校として設立された。(写真)当時の学校職員や生徒の思い出が同窓会誌「農と林」創刊号(昭和4年発行)に掲載されている。
「私が郡立農林学校に奉職したのは、明治43年11月。校長は前田復二郎先生、教頭は農学士の中村胖先生。当時の学校職員と地元村民との親睦は非常に濃厚なもので、村民の冠婚葬祭は勿論、その他四季折々何かにつけて招待されたものです。後で沢口小学校長になられた千葉哲郎先生は婚礼の式に招待された時、あまりに歓待されて帰してくれないので、縁側から素足で逃げ出したことや、春先、妹尾館という部落で鯉料理をご馳走になった時は夜遅くなってもなかなか帰してくれない、出口に番人がついているという警戒ぶり。窓から逃げだしたら、窓の下は苗代になっており、泥まみれになって帰った先生もいた。」
「大曲で開催された県農会主催種苗交換会に日帰りで行きました。午前2時に起きて七日市村を出発。霜を踏んで2里(8キロ)、鷹巣駅到着。そこから汽車で大曲へ。見学を終えて大曲発の終列車で鷹巣へ。また、2里の道を歩いて村まで帰りました」
「当時の郡長さんは偉いものでした。町村長など比較にならない。その郡長が初代農林学校長でした。私の父は村長だったし、貴君には息子がいる筈、是非農林へ。といわれれば断れない。私たちは子供でした。なぜ、農林に入ったかわからなかった」

 農聖といわれた石川理紀之助翁が農林を訪れ書を残した。
「田をつくる家のおしえは鋤鍬を みづからとるの外なかりけり」

(9月1日予定されていた東京伊勢堂会はコロナ自粛に配慮し、中止となりました)

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