2018年3月4日日曜日

わが畠山家は一族の傍流

 私の実家畠山家(秋田)は兄・洋三が32代目である。初代は畠山重忠(1205年没)である。800年以上続いている。
そんな事もあり、昨日(3日)武蔵野大学講座「畠山一族の世界」(写真)を弟と受講した。
 重忠は1205年(元久2年)、北条氏の謀略により、二俣川(横浜市旭区)で闘死、庶子の重秀は自害。同年、嫡子の重保、由比ガ浜で謀殺。つまり、畠山家は滅亡する。その後、足利一門の畠山一族である泰国が武蔵国畠山郷(埼玉県深谷市川本町畠山付近)を引き継ぐ。
 再起した畠山一族は能登(石川県)、伊勢(三重県)、日向(宮城県)、尾張(愛知県)の守護大名(修理大夫)を務める。ということで講座は終了。秋田で営々と続いたわが畠山家の話は全くでてこなかった。文学部出身の弟は「わが畠山家は傍流なんだよ」と一言。やっぱり・・・。
 わが家に伝わる過去帳、部落古事録によると、二俣川の戦いの時、重忠の子、重保の妻信子は子重光を懐に抱いて逃亡。日本海に出て40日目に秋田市羽川海岸に着いたとある。かつて重忠に助けられたこの地の勇将、由利氏を頼ったようだ。実家の隣に信子が建立した「八幡神社」がある。

四ツ谷で行われた講座の後、東京駅にある「あべや」で弟と盃を酌み交す。弟に尋ねる「幸三、われわれ男兄弟は洋三、俊三、幸三と、下に三がつくけど、その訳知っている?」「兄貴、われわれの名前はお爺さんがつけたんだ。当時、男の場合、下に”ぞう”をつけるのが一般的だった。お爺さんの祖父も助三だった。三に特に意味はない。上の漢字に師範学校をでたお爺さんの思いがこもっている」
 そういえば、兄貴が生まれた昭和16年は太平洋戦争の前年。日本は海(洋)の向こうの大国を相手に戦をしようとしていた。もう分けてやる田畑はない。次男は自分自身の才覚(俊)で頑張って欲しい。三男が生まれた昭和23年は敗戦に続いて農地解放。地主だった畠山家は窮地に立たされた。”幸”を祈った。
 ●ブログを見た友人からのメール→「三」には①古代から(数が多い、より選んだもの)②「みっつ」が(充、満)③「ぞう」は「蔵」(蓄、納、秘)に通じる。という説あり。


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