2011年2月28日月曜日

胸躍る先祖・畠山重忠の生涯

                (編集中の畠山重忠の章)





 父の没後13回忌に因んで「記念誌」を編集中である。



わが家の祖先は畠山重忠だと言い伝えられている。その根拠は「過去帳」の記載である。
 それによると畠山重忠から数えて、兄の代で32代ということになる。
この際、「記念誌」に畠山重忠についても記しておこうと調べはじめた。

ネットで畠山重忠を検索すると、彼の出生地・館のあった深谷市が詳細な記述をしている。
 それを中心に読みこんでみると実に面白い。

 1184(元暦元年)源平合戦で、重忠は義経と断崖絶壁から平家を奇襲攻撃する。世にいう鵯越である。この時、重忠は「馬を損じてはならず」と馬を背負って、絶壁を下った。また、宇治川で、木曽義仲の愛妾の女武者・巴御前と一騎打ちをする。

 1186(文治2年)鶴岡八幡宮で静御前が白拍子の舞をしたとき、重忠は銅拍子を打って伴奏する。

 つまり、彼は文武両道の鎌倉武士だったのである。

 1205(元久2年)重忠は計略に会い、戦死するが、相手は北条連合軍、約一万、重忠軍はわずか134名だったという。

 調べている内に重忠が本当に先祖のように思えてきた。”ように”と書いたのは畠山家は公式な記録では1205年に絶滅しているからである。わが家の過去帳も本当のことは分からない。私の子孫が読んで間違っていると思ったら、その時点で修正してくれればいい。語り継ぐことによって、歴史はより確かなものになっていくと思う・・・。



 

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