2011年1月27日木曜日

昭和、銀座のバー、さようなら


 年賀状をみていたら、銀座のバーのママからのものがあった。

メッセージがあった。「私も今年の3月で卒業します」とある。

 5千円で飲ませてくれるところだったので、定年後も時々顔をだしていた。

 19日、現役でこの店を利用している中西俊一さんと一緒にお邪魔した。

 たまにしか東京に来ない私にとっては最後の訪問である。


 カウンターの後ろにあるボトルを眺めていたら、昭和を代表する名歌手のラベルのついたボトルがあった。北島三郎、石原裕次郎、美空ひばり。

 昭和よ、銀座のバーよ、そして、私の青春よ「さようなら」である。

2011年1月18日火曜日

父の13回忌記念誌『感謝』

    (昭和38年以降、秋田の実家からの手紙)


 よくも「記念誌」のテーマがあるものだ。
今年は父の13回忌記念誌『感謝』に取り組んでいる。
昨年、足掛け2年かけて高校同窓生の古希記念文集「飛翔70年」を作ったばかりである。
 私は長男ではないので、父の13回忌記念誌となると、秋田にいる兄の同意が必要になるが、これはクリアした。
 発起人は秋田を離れて関東地方で一家を成している、私と弟、妹の三人とした。文集の費用は三人の分担とした。実家に対する恩返しの一旦である。製作は「飛翔70年」のノウハウを生かして、私がやることとした。

 幸い私の家には昭和38年、私が秋田を離れた時点から父が無くなる平成11年まで、実家から貰った手紙が保存されている。
 この手紙を年代順に整理して打ち込みをはじめた。最初は主要なものだけにしようと思ったが、どれも思い出が詰まっていて割愛できない。手紙だけで80頁くらいになりそうだ。「父の時代の畠山家大河ロマン」の体をなしつつある。

 今年一年は、この記念誌の製作によって充実した年になりそうだ。




 


2011年1月11日火曜日

牛久市民マラソン・ボランティア







 たまにはボランティア活動もしなくては・・・。

昨日(10日)市民マラソンのコース整理要員としてボランティア活動に参加した。
8時30分、指定された折り返し点に向かう。結構風邪が強い。体感温度零下が予想される。

厚い下着に身を固め、防寒コート着用。マスク持参の完全装備。
集合地点で、整理要員の一人が車道を横断しようとして車にはねられるハプニングがあった。

マラソンは中学生の部、小学生の部、一般の部、車椅子の部と4つに分かれており、全競技が終了して解散したのは11時30分。
寒風の中、休憩なし、飲み物なし、3時間立ちっ放しだった。
寒さは凌いでいたのだが、体の平衡感覚が麻痺したような感じがした。
冬山の遭難事故を連想した。

収穫としては若者達の元気に走る姿を見たこと。体の耐久テストになったのも収穫かもしれない。



 

2011年1月9日日曜日

オーディオ界の巨星逝く



 オーディオ評論家、斎藤宏嗣先生が亡くなられた。73歳だった。余暇にはスキーもやられスポーツマンで太陽のよに明るい笑顔を絶やさない方だったので意外だった。もう10年は活躍されると思っていた。

 斎藤先生にはカセットテープの聴感評価等でお世話になった。私は現役の頃カセットテープの商品企画を担当し、先生にご指導いただいた。定年後も当時お世話になった方々のお陰で悠々自適の生活をさせていただいている。先生は私の恩人の一人である。


 葬儀は1月7日、東京・三田の林泉寺で行われた。先生の遺影は見事なゆりなどの花に飾られていた。こんな美しい祭壇は見たことはない。オーディオ関係のメーカー、出版社の他、指揮者の小林研一郎、ジャズ奏者の北村英治など100名の方々からの献花だった。

 先生、安らかにお眠り下さい。


2011年1月6日木曜日

初詣と平成の開国


 5日、笠間市にある出雲大社・常陸に初詣に行った。

私の妹が同協会の会長に嫁いでいることもあり、今年もお参りの後、高橋正宣会長と懇談した。

 人口減少の中、神社の経営も大変だと思うが、常陸協会は高橋会長のアイディアで順調である。「霊園」「納骨堂」「樹木葬」と次々に新事業を展開している。将来は付帯設備として「現代アートミュージアム」の設立も視野に入れているという。

 高橋会長の経営手腕は全国に知れわたりつつあり、最近は東日本にある温泉街の建て直しについての相談まであるという。

 日本の国土保全という立場からみて、山里、温泉の保全は国としても重要課題である。高橋会長の偉いところは、こういったところで国に頼ろうとしない姿勢である。国に頼るということは税金を使うことであり、経営手法が束縛される。かといってみすみす外国資本の介入を許すのも癪に障る。

 ただ、一寸待てよ、である。冷静にみると、躍進を続ける企業の従業員の大半は今や外国人である。日本のゴルフ場の多くは経営母体をアメリカ企業に譲った。その結果なんとか営業が続いている。

 正月のマグロの初競で史上最高値3,249万が付いたが、これを落としたのは香港と銀座の寿司店の連合チームだった。これによって日本の漁業は息をついている。

 自動車や電機産業だけでなく、農業、漁業、観光産業もこれからは海外に目を向けないとやっていけない。里山や、温泉を守るために日本を閉じるのではなく、守るために、開国して海外の資金や人を呼び込む時代になったのではないだろうか。正に平成の開国である。

2011年1月3日月曜日

年賀状は早、孫の世代


 今年の年賀状を見て、目だったのは孫達のかわいい写真である。

年賀状はわれわれの子供の世代は終わり、一足早く孫の世代に移っている。

 その孫に対して、われわれお祖父さん世代は何ができるのだろう。何をすべきなのだろう。

 お年玉を上げるだけに終わってはいけない。

 かといって父親、母親をさしおいて、教育的なことを言ったら老害といわれる。

  

 私なりの結論は「家族愛」「人類愛」「無償の愛」ということを教えることではないか。ということである。

 父親、母親は孫達の入園、入学、進学といった目の前のでき事に対応することに追われ、経済的にも精神的にもゆとりがない。場合によっては親子の関係がギスギスしてしまう。お祖父さんはそれらを距離をおいて暖かく見守り、ギスギスするのは愛情のためであるということを諭さなければならない。孫と子供の間で誤解が生じては一大事である。


 もう一つは、これからはますますグローバル社会になるという視点である。われわれの時代は海外というと欧米だったが、これからは中国、インド、南米、中近東等も視野に入れなくてはいけない。そういった視点で孫の才能が最大限発揮されるように助言したい。大事な孫だから日本に留めておきたい。日本に居たい。という考え方では孫にとっても、親にとっても、日本にとってもマイナスだと思う。

mago