2010年10月25日月曜日

秋のスケジュール、盛り沢山!

   (22日、アサヒビールタワーから観た東京スカイツリー)
     (洒落た「園遊会」の誘い)








 古希記念文集が無事発刊し、上岡敏之のコンサートが終わったと思ったら、飲み会等が待ち構えていた。




 10月22日(金) 千代田会・墨田区吾妻橋アサヒビールレストラン(オーディオ関係)




 10月31日(日) 菜の花会・千葉稲毛(会社・OB)




 11月 3日(水) 園遊会・千葉八潮(母校後輩自宅)




 11月 9日(火) パソコンクラブ(東京・浅草橋)




 11月11日(木) F君定年祝い(東京・八重洲)




 11月20日(土) ゲヴァントハウス・音楽関係(竜ヶ崎市)




 12月15日(水) カナダ会・会社OB(東京・浅草橋)




 12月未定    千代田会忘年会




 12月未定    松本英語塾忘年会








と言うことで、体と財布がもたないので、ベテランズクラブ、グランドゴルフ等、会費は納めているが、地元の行事は全てお断りしている。




恐らく、10年後には東京の飲み会はお断りして、地元中心になっているのではないかと思う。

2010年10月19日火曜日

2日続けて上岡敏之の指揮を聞く

       (上岡の表情は曲によって、少年から夜叉へと千変万化)



               (横浜のホールは日本丸の近くにある)


    (終演後、鳴り止まぬ拍手に一旦退場したオケを引き連れて再登場)



 クラシック通の間で話題になっている、上岡敏之指揮ヴッパータール交響楽団が来日。2日続けてそのコンサートを聴いた。




 17日(日)14時~横浜みなとみらいホール。ワーグナープロ(神奈川・山北に住む弟と聴く)




 18日(月)19時~サントリーホール。マーラー・交響曲第5番(家内と聴く)




まず、上岡の指揮ぶり。彼は全身を使って指揮をする。跳ねる、腕をグルグル回す、仰け反る、その姿は猫か豹のようである。顔の表情は夜叉から少年の笑顔まで千変万化。作曲家の魂が乗りうつったのではないかと思うほど。聴いている(観ている)方もエキサイティングになり、叫びだしたくなる瞬間もあった。




 でてくる音楽は予想できないような間があったり、聴こえないようなピア二ッシモがあったり、突如急テンポになったり、ジェットコースターに乗っているようである。




 ただ、来日前に録音されたCDで同じ曲を聴くと、知的できめ細かく、美しい。奇をてらったところは全くない。上岡は今まで遭遇したことのない、天才指揮者だということがわかる。




 17日、ワーグナープロが終わってからのアンコールがベートーヴェンの「英雄」の葬送行進曲。それもアンダンテではなく、アレグロで演奏。これが結構名演。




 横浜でも東京でも終演後(オケ退場後)、鳴り止まぬ拍手に上岡は再びステージに登場したが、楽員も引き連れてきた。こんなカーテンコールをみたのも初めてである。普通、オーケストラ演奏のカーテンコールは指揮者だけである。




 横浜では終演後シコタマ弟にご馳走になった。東京では開演前、昔のANAホテルでカレーを食べたがカレーの横に分厚い牛肉のヒレ肉が乗っていたのには驚いた。やっぱり東京は違うな・・・。

2010年10月15日金曜日

51年目にして分かった事


 手紙は古希記念文集の礼状である。

「嬉しいことがだんだん少なくなっている折」とある。

 これは古希近くなった男女共通の心境だろう。

 そこに届いた、記念集。そこに自分の原稿も掲載されている。

「ダイヤモンドのように輝いてみえた」という。

そして「私の宝物」として大事にします。とある。

 おそらく、彼女はこれから幾度も文集をみて、勇気をもらうはずである。


 ところで、文集の中で彼女の作文は最も感動を呼んだのではないかと思う。

 在学中、彼女に「お父さんはどんな仕事をしているの?」と尋ねたことがある。彼女は答えに窮していた。その訳が今回の彼女の作文をみてはじめてわかった。

 「運動会など、砂ぼこりが舞い上がる所で、イチゴやバナナの形をしたアメ売り。トーフ製造と配達。アイスキャンデーの仕入れと販売。中華そば店。ブタや鶏の飼育など、ありとあらゆる仕事をやり生きるのに精一杯の毎日でした。」

 お父さんは復員兵で、職を求めて秋田にきたのだが、土地もなく満足な職にもつけなかった。

2010年10月9日土曜日

「飛翔70年」好評!

    (感動の手紙、メールが連日届いております)
 「飛翔70年」を寄稿してくれた同窓生等、50名に送って1週間経った。

連日、メール、手紙、電話で反響があった。反響がある度に最初は半分怖かった。クレームではないかという心配である。校正も一人でやったので見落としがあったかもしれない。(本を出版するのは怖い)しかし、幸いなことにクレームは一件もない。校正ミスも今のところ軽微で名前を間違えるなどの致命欠はないようだ。

 「予想以上に凄い本なので驚いた!」というのが共通した反応である。

 やはり母校出身のオリンピック選手、高橋大斗選手のジャンプ姿を表紙に採用したアイディアとデザインは自分がいうのもどうかと思うが俊逸である。写真が豊富で、それがカラーというのも豪華である、224頁というボリュームも25名の同窓会誌としては異例である。

 その豪華な本に自分の原稿が掲載されたというのは感激だと思う。電話の向こうで声を詰まらせる同窓生もいたし、「自分の宝物です」という手紙も数通あった。

 今日(9日)、母校の閉校式がある。昨夜、これに参加する同窓生が「”飛翔70年”を携えて皆にみせびらかす算段です」というメールを秋田行きの深夜バスからメールしてきた。

2010年10月3日日曜日

「飛翔70年」古希記念文集、遂に完成


 高校同窓会の古希記念文集「飛翔70年」が遂に完成した。

9月30日、製本が完成し、印刷所に受け取りに行く。本を見て、思わず「オッ」と思った。

 B5版、本文224頁、本文にはカラーもふんだんに使用している。

 データを支給して本を作ってもらっても100万円はかかる内容だと思う。

 それが22万でできた。

 22万といえば、海外旅行一回分の値段である。

 このブログを打ち込んでいる最中に電話のベルが鳴る。

 記念誌に寄稿していただいた恩師からである。

 「やあ、凄い立派な本で驚いた。ところで地元の新聞社には送ったのか?、同僚の教師に見せたら、やあ、懐かしいと評判だよ。ところで何部作ったの、すぐ無くなってしまうよ」等々。

 一回の海外旅行の費用で、恩師にまでこんなに喜んでいただけるとは・・・。

 光栄である。