高坂はる香さんが書いた「ピアニスト中村紘子の記憶」を読んだ。
中村紘子(1944年~2016年)は戦後日本が生んだ名ピアニストであるとともに、国内外のピアノコンクール審査委員長を歴任した。中村はこれらの活動を通じて、日本、日本人のあり方に疑問を投げかけている。
最近、日本のコンクールで韓国が上位を占めているという。
「(韓国の)国土の狭さも大きな影響を及ぼしていると考えられる。(中略)しかも地続きで北朝鮮が控えている。いつなんどきこの北のファイナテックな独裁者がミサイルを撃ち込むか分からない。そういった緊張感の中で彼らは暮らしているのである。(中略)韓国の才能ある若者たちは、狭く限られた国内よりも国外で生活するために成功を勝ち取ることを考えている。だから常に背水の陣で臨む。この辺りの気概が、のんびりした日本のピアニストの卵達と決定的に違うのではないか」
と、中村は語っている。これはピアノ業界の話だけではない。スポーツ、経済、政界も吟味すべきだと感じた。
中村は3才からピアノを習う。15才の時、日本音楽コンクールで1位特賞受賞。16才の時、NHK交響楽団初の世界ツアーのソリストに抜擢される。当時私は18才、N響の大ファン。岩城宏之指揮・N響と中村の協演に秋田の田舎から声援を送った。
高坂さんの著書を拝見して、青春時代を思い起すとともに、晩年の中村の世界を股にかけ、ピアノ業界の枠を飛び越えた活躍に驚いた。惜しくも中村は1昨年、大腸ガンにかかり亡くなった。
中村に敬意を表し、1990年、中村が46才の時に録音したチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を聴いてみた。(写真・左)録音のためか、ピアノがやや控え目に聴こえる。ただ、ピアノの高音の美しさと、憂いに満ちた表現に魅了された。バックのスヴェトラーノフ指揮ロシア国立交響楽団との相性も抜群!
2018年6月24日日曜日
2018年6月16日土曜日
18歳と81歳の違い
上田先輩から小噺のメールをいただいた。落語の大喜利で紹介されたもののようだが、なかなか面白い。私も(上田先輩も)70代後半。他人事とは思えない。
<18歳と81歳の違い>
●恋に溺れるのが18歳、風呂で溺れるのが81歳
●道路を暴走するのは18歳、道路を逆走するのは81歳
●心がもろいのは18歳、骨がもろいのは81歳
●偏差値が気になるのが18歳、血圧・血糖値が気になるのが81歳
●まだ何も知らないのが18歳、もう何も覚えていないのが81歳
●東京オリンピックに出たいと思うのが18歳、東京オリンピックまで生きたいと思うのが81歳
●自分を探しているのが18歳、皆が自分を探しているのが81歳
●家に帰らないのが18歳、家に帰れないのが81歳
<昔、銀座でウロウロ、今近所でウロウロ>
これは、同年代のモーレツセールスマンMさんの小噺。あの頃のママもマスターも皆引退してしまいました。銀座でウロウロしても行く店もお金もありません。
<昔、都心のマンション、今、河童の里うしく>
49年前の西荻窪のマンション、まだ健在(写真)。”河童の里うしく”の私の散歩道。スマホでラジオ、音楽を聴きながら楽しんでおります。(写真)
<18歳と81歳の違い>
●恋に溺れるのが18歳、風呂で溺れるのが81歳
●道路を暴走するのは18歳、道路を逆走するのは81歳
●心がもろいのは18歳、骨がもろいのは81歳
●偏差値が気になるのが18歳、血圧・血糖値が気になるのが81歳
●まだ何も知らないのが18歳、もう何も覚えていないのが81歳
●東京オリンピックに出たいと思うのが18歳、東京オリンピックまで生きたいと思うのが81歳
●自分を探しているのが18歳、皆が自分を探しているのが81歳
●家に帰らないのが18歳、家に帰れないのが81歳
これは、同年代のモーレツセールスマンMさんの小噺。あの頃のママもマスターも皆引退してしまいました。銀座でウロウロしても行く店もお金もありません。
<昔、都心のマンション、今、河童の里うしく>
2018年6月10日日曜日
私のアルバムから⑦24才の時、社長表彰
振り返ってみると、24才の時(1966年)「社長表彰」をいただいた。TDKの歴史の中でも最年少記録だと思う。
その時、私は社内報「TDKタイムズ」の編集担当だった。その社内報がPR研究会主催の「第6回全国社内報コンクール」に入賞したのである。審査員は野田一夫、十返千鶴子、三樹精吉、中村武志、池田喜作の5氏。授賞の理由は「編集者が足で取材した努力で紙面に活気を与えた」だった。
私は文章、編集とも素人だが、三交替要員、守衛さんたち、会社の陰で働く方達にも光を与えたいと取材に奔走した。その姿勢が評価された。
社長賞は賞状はなく報奨金だけだった。私は形に残したいと思い、報奨金でLPレコードを購入し、その解説書に社長のサインをいただこうと思った。TDKの役員室は「オープンドア」である。ドアはいつも開いており誰でも自由に入室できた。私は社長室を訪れ山﨑社長からサインをいただいた。(写真右上)当時、TDKは東京電気化学工業という名前だった。
山﨑社長は二代目。5千名(当時)の社員全員に毎年誕生カードを書いたというTDKのレジェンド(伝説)社長である。退任後、株を売却した巨額(額面50円の株価は8,940円になっていた)を「死んでからお金を持っていても仕方ありません。研究にお使い下さい」と、母校の東京工業大学に寄付した。
LPレコードはカラヤン指揮、オペラ「カヴァレリア・ルスティカーナ」。52年経った今でも私の愛聴盤であり、宝物である。
2018年6月3日日曜日
涙、爆笑、怒、妖艶「梅沢劇団・牛久公演」
いやー、アッという間の2時間半でした。
テレビをつけると、連日顔を出す梅沢富美男、そのスパースター梅沢が牛久に来る!梅沢は中学しか出てない。しかし、芝居だけではなく、俳句、生け花、料理なんでもござれ、その多彩な才能に驚嘆。1950年生まれだから今が旬!
第1部「人情時代劇」では、下町のオヤジを演ずる。バカ息子、年頃の娘、本当の娘の父親が登場。涙と笑いの掛け合いとなる。これぞ大衆演劇!
第2部は「梅沢富美男オンステージ」。タキシード姿で登場。
”東京から護送されて牛久へやってきました””女の子を殺して線路に転がす、どうなってんだ!この世の中”(拍手)”政治家はわからい輩ばかり、選挙の時は良く考えろ!所詮、ロクなのはいないけど”(爆笑)”悪質タックル、ウソついてるに決まっている。そうテレビでハッキリ言ったのはオレが一番!ウソは必ずバレる。(拍手)
では歌いましょう。「夢芝居」つづいて「白神恋歌」。”白神山地、母さん母さん会いたいなあ・・・”梅沢の母は青森出身。大音響の伴奏を突き抜けて梅沢の歌声は響きわたる。梅沢もうまいが、音響担当の腕にも感心する。
第3部「華の舞踊絵巻」。幕が上がると、美しい背景をバックに華麗な衣装をまとった花魁(おいらん)と下男が勢ぞろい。「待ってました!」と声がかかる。”下町の玉三郎”登場である。妖艶な踊りはさすがであるが、照明も見事。東京の新橋演舞場にいるような錯覚に襲われた。
そういえば梅沢富美男劇団、今年、明治座での1ケ月貸し切り公演が決まったという。旅回り一座の凱旋である。
ところで、牛久公演にかけつけた観客は60代~90代。冥土の土産になりました。
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