2011年9月30日金曜日

「棚橋村」「NYからきた説法士」

     (左から佐藤則男、湯川れい子、真鍋圭子)
    
 28日(水)はどうしてもブログに書き残しておかなければならない出来事が二つあった。
 
 ●グーグルで「棚橋村の広場」を検索。なんと、頁が開いたではないか。棚橋村の管理人である、棚橋和夫さんは間もなく80歳。昨年心筋梗塞で倒れられ、年初は音信不通だったので、不死身の棚橋さんも、もしやと不安だった。その後も棚橋さんは冠動脈バイパス手術、胆嚢切除、大腸癌手術という大手術を行い、生死の間を彷徨ったという。
 現役時代、小生はレコードメーカー相手の営業、棚橋さんは録音部長だった。42年前の写真を見ながら、棚橋先輩のますますのご活躍を祈っている。
 ●ニューヨーク在住の佐藤則男さんが来日している。2時に有楽町のニュートキョーでお会いして6時まで語りあった。佐藤さんはジャーナリストだが、その情熱的な語り口は昔とちっとも変っていない。35年前、米国に出張した時、佐藤さんにアテンドしていただいた。ホテルに帰ると佐藤さんのマーケティング説法がはじまる。なかなか寝せてもらえない。これにはいささか辟易した。今回、佐藤さんは政治家や文化人と会い、35年前と同じように説法をしている。”日本をなんとか元気にするために”。ところで、話の途中で佐藤さんが電話をしはじめた。佐藤さんは相手と数分話した後、電話を私に差し向けた。受話器の向こうから、”上品な女性の声”が聞こえてきた。その方は今を時めく著名な日本画家だった。テレビでもその作品が紹介され、私もその素晴らしさに感嘆した記憶がある。

2011年9月26日月曜日

「高文会」「出雲大社・常陸教会」

   (出雲大社・常陸教会”仙雲亭”にて。中央、小生と高橋会長)
(東工大・百年記念館”フェライト記念会議室”の前で。左から浜崎宏、廣本潔、渋谷敏則、山来登、佐藤敬治)

 22日、「高文会」の定例会があった。
「高文会」とはTDKの創業者の一人である高尾三郎の文集を編集したメンバーの会である。年2回開催する。若手ということで小生が幹事を仰せつかっている。
 この日は懇親会の前に目黒区・大岡山にある東京工業大学の百年記念館を見学した。
 実はTDKは同大教授、加藤与五郎、武井武両博士が発明した磁性材料フェライトを工業化するために、昭和10年創立した会社である。TDKの旧社名は東京電気化学工業というが、この社名は東京工業大学・電気化学科に由来している。
 24日、笠間市にある出雲大社・常陸教会に行った。
この教会は義弟・高橋正宣が数十億を投資して造ったもので、来年造営20年目となる。今では東の笠間稲荷と並ぶ勢いである。
 当日は同教会が昨年開園した樹木葬霊園お休み処「仙雲亭」のお披露目が行われた。(3月完成したが、翌日東日本大震災の被害に遭い、今月のお披露目となった。)
 霊園頂上に建てられた「仙雲亭」は笠間の杜に囲まれ、そこでいただく抹茶の味は格別だった。
 霊園の売れ行きは順調とのことだったが、ペットと一緒に入りたいというお客様もいらっしゃるとのこと。急遽、別区画でペットの霊園も作ることになったとか・・・。
 造営20年記念を前にして、高橋会長の夢の怪気炎はとどまることなく、ひととき、不況の世情を忘れた

2011年9月22日木曜日

LPレコードと手紙


 先月末、西宮家の熱海の別荘でLPレコードを聴いて、アナログレコードの音の魅力を再認識した。
 CDは取扱いが簡単で、ほどほどに高音質である。
 LPレコードはとり扱いがやっかい、。良い音を引き出そうとすると、プレーヤやカートリッジの選択が大変で、泥沼となる。
 ということで、LPは30年ほど前にプレーヤも処分してしまった。レコードのほとんどは秋田の実家に送った。お蔵入りである。
 西宮家の体験が影響し、LPレコードをまた聴く気になった。電気店で最も低価格のプレーヤを購入。なんと9千円である。うまくいかなくとも後悔しない金額である。再生してみた。結構いける。濃くのあるアナログ独特の音はでないが、ランプの灯をみるような懐かしさがある。溝を針でなぞるのであるから、音は不安定。だが、演奏者の温もりを感じた。
 CD(プレーヤも含め)は道具だが、SP(プレーヤも含め)は楽器だと感じた。
 恩師、髙橋彰三郎先生からお手紙をいただいた。手書きの手紙である。
 文面だけでなく、その筆致からも、先生のお人柄や、歴史が感じることができる。
 それは上質なLPの音を聴くようである。
 教え子である私の手紙はワープロである。
 それは通信手段の域をでない・・・。
 

2011年9月18日日曜日

燦々、人間浴


●15日(木)御茶ノ水で西宮聡彦さんと会う。小生が高校時代に作詞した母校の50周年記念歌の蘇生演奏をお願いする。
●16日(金)地元(牛久)松本英語塾の飲み会に参加。(小生は語学はダメで飲み会だけ参加)現役時代の職種は、柊昌夫さん(商社)、中居福四郎さん(建設)、渡辺いつ子さん(香港で美容院)、中田貴己さん(公務員)と色々。90才を過ぎて日本に永住を決めたドナルド・キーンの思い出が共通の話題。さすが、レベルが高い。
●17日(土)出版社・社長にお招きいただきゴルフ。パートナーはジャズ・ライヴの社長、オーディオ機器メーカーの社長と、現役の経営者たち。恐縮してしまう。3人ともスコアは40代、小生のみ50代。ただし、最終ホール、170ヤードでワンオン、ワンパットでバーディ。この達成感は一生忘れないだろう。パートナー(ジャズ・ライヴ社長)はベンツに乗ってにこやかにゴルフ場を後にした。
●ここ数日、名著に感動し続けている。80才、伊藤テイ子さんの自分史に掲載された身も心も焼き尽くすようなご主人の恋の日誌。92才の西宮正泰さん(西宮聡彦さんの父上)の解説による「万葉集探訪」(文芸社)。和田石雲恵さんの「思い出の詩」。”小鏡に映して夏景色あくことしらずに鏡まわして”病床に臥していた和田さんはこの一ケ月後亡くなる。

2011年9月10日土曜日

80才。伊藤テイ子さんの自分史

 (右上はテイ子さん。「TDKタイムズ」の座談会で。当時編集担当だった小生が撮影・昭和40年頃)
 
 私は18才で秋田にあるTDK・平沢工場(にかほ市)に入社した。工場に伊藤テイ子さんという理知的な顔立ちの保健婦さんがいた。
 
 8日、ゴルフにでかけて帰宅すると、テーブルの上に分厚い茶封筒が乗っている。伊藤テイ子さんの自分史「山吹の花咲くみちから」である。396頁の大作である。伊藤さんは間もなく80才になるという。ご高齢にもかかわらず、よくぞ、自分史をまとめられたと、その熱意に敬意を表したい。
 
 その熱意を引き出したのは46才で早世した夫・八重治への愛情である。大作の半分以上は八重治の日記である。児童総代の秀才だった八重治の日記の表現は鮮やかである。八重治は結核を患っていたので、日記の内容のほとんどが闘病生活の苦悩だが、ふる里の山や草花に対する愛情にも溢れている。「鳥海山、今日はきれいだなあ。ふっくらとふくらんだ山脈は、いかなる處女の肉体でも、あんな輝かしく崇高なる美は発揮しえない」(27才、闘病生活中の日記より)。後年、八重治はふる里の自然や人情を歌いこんだ”にかほ音頭”の作詞もしている。
 著名な作家によって書かれた小説も面白いが、自分史には「真実」がある。できるだけ多くの方々に伊藤テイ子さんの自分史ガ読まれるよう期待する。戦中の出来事は歴史の証言としても価値がある。

2011年9月8日木曜日

終電までのミーティング


 4日は東京伊勢堂会(高校同窓会)で、東京の市ヶ谷へでかけたが、7日も東京へでかけた。銀座・ソニービルの前を通ったら「ひまわり」が咲いていたので写真に収めた。
 11時に歌舞伎町近くの喫茶店で現役の頃お世話になった野原博さん、太田昌純さんと会う。定年後放送音源のCD化を一緒に推進しているメンバーである。
 昼から場所を新宿に移し、現役のレコードメーカーの方々とお会いする。
 来日演奏家の秘蔵音源の情報交換をし、CD化に向けて推進しようということで大いに盛り上がる。4時からの打ち合わせは5時30分から食事会となり、新宿駅前で解散したのは10時30分だった。なんとか、常磐線の終電に乗り、帰宅したのは午前1時。
 70近くなって現役の方々と情報交換できるのはなんとも幸福なこである。
 午前5時30分には起きてゴルフに出発。
 好きなことをやる時は現役の頃のように元気である。