昭和10年、斎藤37才の時でした。創立の目的は東京工業大学の加藤与五郎、武井武両博士の発明した磁性材料フェライトを工業化するためでした。
昭和21年、斎藤は社長の座を山﨑貞一にゆずり、昭和28年、衆議院選挙に立候補。政治家の道に進みます。日本を科学立国にするためでした。
私は平沢町から20キロほど離れた石沢村の出身です。中学生のころ、村にも斎藤の選挙カーがやってきました。祖父は横手出身の笹山茂太郎を支持。父は斎藤を支持しておりました。米価値上げに賛成の笹山に対し、斎藤は「農工一体」を主張し、米価値上げには冷静だったため、選挙戦では苦戦を強いられました。
昭和35年、私は高校を卒業すると、父の紹介でTDK平沢工場の入社試験を受けました。平沢工場の工場長は石沢村出身の小松正一でした。小松は斎藤の選挙母体として「横荘会」(おうしょうかい)という親睦団体を作りました。横は横手の横、荘は本荘の荘です。本荘→横手街道沿いの地盤づくりです。石沢は街道沿いにあり、斎藤も石沢を訪れ、農家の方々と交流をはかりました。(写真、左端が小松、後方中央が斎藤。昭和35年頃)
私の兄は斎藤の依頼で農村青年代表として応援演説を行いました。これが縁で山﨑社長の謦咳に接することにもなりました。兄は自分史に、尊敬する人物として山﨑貞一、小畑勇二郎(元・秋田県知事)の2人を挙げております。
往時から約50年、写真の方々はほとんどが亡くなられました。しかし、現在、石沢村から3キロにはTDKの積層チップコンデンサの大工場が聳えております。斎藤が目指した「農工一体」です。
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